振り返るなよ! 絶対振り返るなよ!

下垣

振り返るなよ! 絶対振り返るなよ!

 俺には悩みがあった。通学路の細い一本道。学校に行くために必要な道だ。この道を通らなければ俺は高校に辿り着けない。


 この道は寂れていて、夜間のこの時間帯は誰も通らない。俺は定時制の高校生だ。昼間は働いていて、夕方以降に学校に通っている。そういった特殊な環境にあるため、同じ通学路で通う友人もいない。


 行きの道は正直、まだ人もいることも多くて少し心強い。だけど、帰りの夜間になると事情は変わってくる。夜にこの道を通ると出るのだ。所謂、幽霊やお化けのたぐいのやつが。


 最初は幻聴や幻覚の作用かと思った。昼も働き、夜も勉強の毎日を送ることで疲れているんだと。そのせいで、聞こえてはいけないものが聞こえてしまうと自分に言い聞かせてきた。しかし、声は段々と大きく鮮明になっていく。


 俺は今日も夜間のいつもの一本道を通る。正直言って憂鬱だ。声はいつも俺の背後から聞こえてくる。なにかが俺の背後にぴったりとくっついている。そういう気配を感じ取ると声が聞こえてくる。当然振り返る勇気なんてない。俺はびびりなのだ。


「……なよ……るなよ……」


 また声が聞こえてきた。声は低くてザー……ザー……とノイズ混じりの音だ。音質の悪いイヤホンで聞く音楽のようなブツっブツっととぎれとぎれに声が聞こえてくる。


 最初は「……よ……よ」としか聞こえてこなかった声だが、俺がこの道を通る度に聞こえてくる音数が増えて来る。


「……かえるなよ……かえるなよ」


 かえるな。帰るな? 家に帰るなと言っているのか? なんなんだ……?


 俺は足早に小道を走り去った。小道を抜けたところで気配は消えて、声は聞こえなくなった。今日は生還した。大丈夫だ。この幽霊はきっと悪い霊じゃない。もし悪い霊だったら、俺は今頃殺されているだろう。俺は生きている。だから大丈夫だ。俺は自分自身にそう言い聞かせた。


 貧乏な俺には全日制の高校に通う余裕がない。だから、今のこの定時制の高校を卒業しなければ、働くアテもないし最低限高校は卒業しなければならない。この小道が怖いから高校に行くのを辞めますと言えるわけがないのだ。


 俺は翌日も学校に行き、帰りに例の道を通った。日もすっかりと暮れて、変な虫の鳴き声が聞こえる。最近肌寒くなってきている季節だ。この寒気がするような涼しい雰囲気がより一層俺の恐怖心をかきたてた。


 俺は細い小道を歩く。緊張で足が震えてきた。こういうのは大抵幽霊がなにを言っているのかわかった時点でロクな目に遭わないことはわかっている。そろそろ幽霊の発言の全貌が明らかになるだろう。そういう予感がひしひしと伝わってくる。


 ピタ……ピタ……後ろになにかが張り付いている感覚がする。首筋に犬の吐息をかけられているような、そんなぞわぞわとした感覚が伝わってくる。


「……りかえるなよ……りかえるなよ」


 声が聞こえてくる。昨日よりも鮮明な声だ。昨日よりも声が高くなっている。そんな感じがする。ノイズもほとんど聞こえておらず、不快感は不思議となかった。


 声は何度も何度も俺の耳の中でこだましている。そして、段々と音がクリアになっていき、俺はついにこの声がなにを言っているのか理解した。


「振り返るなよ! 絶対振り返るなよ!」


 不気味な声から一転、女性の声が聞こえてきた。しかも、割と俺好みの可愛らしい声だ。少女というには大人で、大人の女性というには少し幼い。そんな大人になりかけの少女のような感じの声。どことなく大人しさと儚さを持っているような声。正にドストライク。


 俺は気になった。この声の持ち主は一体どんな容姿をしているのだろうか。声も美人ならきっと容姿も美人に違いない。最近の声優は可愛い子が多いし、声が可愛い子は基本的に美人だ!


 俺は息をごくりと飲んだ。そして、首をゆっくりと動かそうとする。


「バカ! 振り返るなって言ってるだろ! やめろ! 振り返るんじゃあない! 絶対振り返るなよ!」


 カリギュラ効果。禁止されるとかえってやりたくなる効果のことだ。先輩芸人が押すなよと言ってるのに押してしまう。それと似た作用が俺の中で働いた。


 振り返りたい。今すぐ振り返りたい。振り返ってこの美少女ボイスの顔が見たい。


「振り返るなって言われると振り返りたくなるなあ」


 俺は意地悪くそう言った。


「だめ! 振り返らないで。やだ。やめてよぉ」


 俺に媚びるような懇願するような声。若干泣きが入っている感じがたまらなく加虐心をくすぐられる。


「なんで振り返ったらダメなの?」


「え!? あ、あの……その、私……この顔をあなたに見せるのが恥ずかしいっていうか」


 幽霊のくせに照れているのか。随分と可愛らしいな。


「じゃあなんで俺に付き纏っているの?」


「ひぃ! あ、あの……その。私、あなたのことが……言わせないでよバカ!」


 俺の背後にいる幽霊は俺の背中をぽかぽかと殴り始めた。照れ隠しからくる行動がなんとも愛おしい。俺はこの幽霊に好意を抱き始めてしまった。


「とにかく、私はこれからも、この小道を通るときはあなたの背後を付き纏うから、絶対に振り返らないでよ!」


「それってフリ?」


「フリじゃないわよ! 振り返ったら祟ってやるんだから! だから、振り返るなよ! 絶対振り返るなよ!」


 それもう振り返れって言っているようなものである。ダメだ。そう言われると俺の芸人魂に火がついてしまう。俺はなんにも悪びれることなく振り返った。


 すると俺の背後にいたのは、髪の長い女だった。女は前髪で目を隠していて表情がよく見えない。


「なんで振り返ったの……」


 女は俺を責めるようにそう言った。そして、髪をかき上げて目を見せた。


 目には目玉がなかった。目が抉れていてとてもグロテスクで、俺はその姿を見た時、思わず叫んでしまった。


「ひ、ひい!」


 俺は尻もちをついた。だめだ。足が竦んで動けない。腰が抜けて立ち上がることすらできない。俺は振り返ったことを後悔した。やはり、この女は幽霊だ。俺は警告を守るべきだった。女が折角振り返るなと警告してくれているんだから、それに素直に従うべきだった。


「よくも私の顔を見てくれたわね……許さない」


「じ、自分から髪をかきあげて見せたんだろ」


 俺は抗議した。髪を前髪で隠したままでいてくれたなら、俺はこの顔を見ずに済んだのだ。


「だめだね。許さない」


 女は無情にそう言い放ち、俺の顔に向かって手を伸ばしてきた。女は両手で俺の頬を撫でまわす。女の手は氷のように冷たかった。女の手に撫でられる度に、俺は背筋に鳥肌がたつ感覚を覚えた。やばい。この女は本当にやばい。


 俺は金縛り状態にあったかのように動けなかった。「逃げろ! 逃げるんだ!」と脳が何度も何度も何度も命令しているのに、体が言うことを聞いてくれない。


 女の手がゆっくりと上に向かってくる。そして、俺の眼球付近に手を持ってくるとそこでピタっと止まった。


「オマエノ 目ヲ ヨコセ!」


 それだけ言うと女は俺の目に指を突っ込もうとしてきた。「逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!」俺が頭の中で連呼すると、ようやく俺の金縛りがふと解けて、俺は動けるようになった。俺は急いで立ち上がり、全力疾走した。


「待ってぇー!」


 女はそんな情けない声を出している。足音が聞こえることから追いかけてきているのだろう。しかし、悲しいことに女の足は遅かった。足音と女のすすり泣く声が段々と小さくなってくる。俺が女と差をつけている証拠だった。


 俺は無我夢中で走った。仕事と学校で疲れた体に鞭を打って、とにかく死に物狂いで走った。かつてこんなに息を切らして走ったことがあっただろうか。俺の体は限界を超えていた。


 気づいたら例の小道を抜けていた。俺が振り返るともう女の姿はそこにはなかった。


 助かった。俺はそう思い、小道に背を向けて帰路につこうとして振り返った。その時だった。


「追いついた」


 俺の目の前には口角をあげて笑う目のない女がいた。

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