迷子達のサンクチュアリ

もりひさ

迷子達のサンクチュアリ


 夜の廃公園を管理するアルバイトは思った以上に退屈な仕事だった。

 まず第一にこのアルバイトをする日、昼間は一日中眠っていなければならない。それこそ最初は私自身、子供の減少と地域一帯の過疎化で誰も遊ばなくなってから何年も経つ、ミステリアスな夜の公園に対する好奇心があった。

 けれどこのアルバイトを実際に始めてみると、遊具どころか、廃公園らしい澄んだ空気にすら触れられないプレハブの管理室の中に閉じ込められて、そこから出てこないようにと言われてしまったのだ。

 だから、廃公園のその聖域に触れられず、いつものように管理室の扉の前までやってきた時、私はその場所に付着していた違和感にすぐに気付いた。

 プレハブで作られた鼠色の扉の足元に手紙が落ちている。最初は何かの手違いでここに来てしまった雇用主宛の手紙だろうと考えていたが、そう考えるにはその手紙はあまりにも古く、人様に渡すとはとても思えない脆弱さがあった。

 『管理者殿へ。つい先日この公園に落し物をしたようです。つきましては落し物をアフリカゾウの滑り台に置きましたのでお取りください』

 手紙の文字はあまりにも歪に曲がり、一部は折れ、欠けて、跳ねるべき場所は、跳ねず、止めるべき場所は文字の書きつくままに、自由な線を描いて整いを失っていた。

 周りに誰もいなくなり一人夜に取り残されてしまった公園にまだ遊びに来る子供がいるのだろうか。私はそう考えながらこの夜の廃公園に触れるまたとない口実を得たと思い、外に出た。

 今朝から降り続いた雨は止んでいたが、肌にはなんとなしに湿り気が残る。今、改めてガラス越しではない公園を見ると、本当に一般的な児童公園ほどの大きさしかないはずなのに、どんな広さを持った自然公園よりも大きく感じられた。公園の外周に生えている木々が、公園とその外の領域を隠して、木々の影の奥に無限に遊具が続いているような気がする。

 私がこの公園に落としたのは小鳥の保護団体施設でもらったストラップだった。メジロと裏面に書かれたこのストラップの鳥は保護団体に実際に保護されている鳥を忠実に模したもので無料品らしい安い材質ながらも、その鳥だけが持つ特徴を忠実に再現している。私がもらったメジロの場合は首の下に伸びる黄色が他のメジロよりも明るく、逆に頭から背にかけて被っている緑は深く、二つの色が丁度出会う腹の部分には互いの色を仲裁するように白が分け入っていた。失くしていたのに気付かなかったのは、このストラップが私のバッグの底で長らく眠っていたからだ。

 アフリカゾウの滑り台の階段は軋んだ音を立てて私をストラップの元へ導いてくれた。帰りは丁度鼻筋を撫でるように滑って帰ろうと思ったが、私が背に乗っているこのアフリカゾウの滑り台は木製の滑走部分が古くなっていて、私が滑ろうとした瞬間にこのゾウの全てが崩れ落ちていってしまうような気がした。それで私はやむなく元来た通りに階段から地面に降りて管理室に戻った。

 次の日の夜は一晩中雨が降り続いた。私は管理室の中で本を読むこともできずに呆然とガラス窓の外を見ていた。私は雨や車の音、足音に至るまでそこに存在している音があると集中できなくなる。夜に沈もうとする私の身体を轢いていくのだ。

 手持ち無沙汰になった私は手紙に返事を書いた。別に声を大にして言うような内容ではない。ただ、ありがとうとそれきり。あとはそれ以上でもそれ以下でもない言葉を繋げた。

 昨日、手紙があった場所に雨除けのプラスチック箱を被せて置いた返事は一日経って、すぐに来た。

 『忘れ物が見つかったようで何よりです。この公園の忘れ物は放っておくと勝手に動き出して、故郷に帰ってしまうことがありますから。早めに見つけることにこしたことはありません』

 やはり不器用で不揃いな字面だった。特に誤字はないものの、漢字も平仮名も歪んで、読む人を選ぶような難読文字だ。そう思いながらなんとなく紙を裏返すと追記と書かれていて『私の文字は読みにくいでしょう。失礼ながら、文字の形付きを正そうとしても、文字の方が読み手を選んで形を変えてしまうのです。足を伸ばしたい文字は好きに伸ばし、小さくありたい文字は小さくなってしまうのです。ですから、もしあなたがお読みになれない字がありましたら、文字達をどうか怒らないでやってください』と付け加えられていた。

 私は最後の追記までを読み終えて、もう一度読めない字がないかを確認した。心の中で、声を出しながら、ガラス窓に反射して雫が落ちる手紙を読み直す。しかし読めない字は一つもなかった。私はこの文字達に全会一致で選ばれていたようだ。そう考えると少し嬉しくなってコンビニで買ったルーズリーフに丁寧に文字を書き出す。宛先は勿論この手紙の送り主だった。

 何日かバイト期間を延長してこの手紙の奥の彼か彼女かもわからない誰かと手紙を交わした結果、分かったことがいくつかあった。

 まず、手紙は必ず一日置きに必ず帰ってくる。私が夜に手紙を書くと次の日に管理室に入るときには必ずあの最初に手紙が置かれていた場所と同じ所に手紙が届いている。濃い肌色の古紙だ。

 そして次は手紙の送り主について。どうやら送り主は毎夜ひっそりと親の目を掻い潜ってこの公園に来ているらしい。遊ぶ上ではいくつか決まり事があった。例えば“必ず全ての遊具で一回は遊ぶ”ことだったり“自分の影が動いて見えるような空色になったら帰る”という約束もある。

 私は一度送り主に、これからも遊ぶならば、この公園の運営主に言って遊具を修理してもらおうと無責任な提案した。

 しかし、返事には『この子達にかける力加減は全て覚えているので、お気遣いの点は問題ありません。それに私一人のために何十人もかけて公園を変えてしまおうだなんて、なんだか欲の深いことのような気がするのです』と書かれていて、私が提案した廃公園の改善計画はあっけなく頓挫した。

 もう一つ、特徴的なのは言葉使いだ。時々送り主は突拍子もなく、子供ではおおよそ思いもつかなくて、私も知らないような言葉を投げかけてくる。

 例えば『公園の奥に時計塔があるでしょう。あそこには遠い異国の地で、王子とあってはならない恋をしてしまった名家の御令嬢様が、閉じ込められているのです。ですから、朝方に鳴る鐘の音に耳を澄ますと御令嬢様がらうたげに啜り泣いている声が聞こえてくるのですよ』という手紙の一文。

 その手紙を貰い、返事を書いてからバイトを終えて、家の寝床に着いた時私の頭の中に“らうたげ”という言葉が浮かび続けていた。仕方なく睡眠時間を削って記憶の中で靄になって霞んでいる“らうたげ”の意味を調べると辞書では出てこず、結局その言葉が現れたのは古典の単語辞典だった。

 “らうたげ”とは昔はいくつかに分類されていた“可愛い”とか“愛おしい”という言葉の中の一つで、その横に書かれている注釈には『“うつくし”よりも感情的で、“いとほし”のように動物や弱者への哀れみではなく、人から人への対等な気持ちを伝えるときに用いられる』と書かれている。

 つまり送り主はその時計塔の中の姫に敬意を払って“らうたし”と言っていたのだ。私は送り主の手紙に隠れていた小さな配慮を明らかにしたような気持ちになって、そのことを手紙に書いた。

 後日手紙の話題はどうやら私が見つけた“らうたし”の話へと移ったようだった。

 『その通りです。“らうらし”という言葉は遠い大昔に消えてしまった言葉なのです。けれど私は偶然この公園で、絶滅していたはずの“らうたし”を発見して、ずっと保護していました。鳥獣や植物では中々そうはいきませんが、言葉は絶滅しても、私の身体の奥底で引き取ってあげれば何度でも生き返ってくれます。本当は絶滅してしまった言葉は、他にも沢山あるのです。けれど最近は私自身だけでは保護しきれなくなっているというのが現状なのです』

 どうやら送り主は夜の廃公園に沈んでくる言葉を拾い集めているようだった。でも、言葉だけじゃないと私は既に知っていた。送り主は忘れ去られた暗闇の底で、故郷を失ったあらゆるものを保護している。今までの手紙にもその姿を表すことが何度かあった。私達では触れることすらできない、捨てられた遊具達の生い立ち、その遊具達に隠れて住む彼らの物語、そして私の鞄の隅で絶滅しかけていたメジロのストラップ。

 手紙の送り主はきっと、はっきりと言葉にしないだけで廃公園に置き去りにされた全てを拾い集める小さな保護員なのだ。私はたった一度でもいいから、その子が人々から見向きもされなくなったもの達を保護する姿を見たくなった。

 その日の夜、私はアフリカゾウのストラップを引き取ったあの時のようにバイトの決まりを破り、あの子がやってくるのを待った。すぐ側にはアフリカゾウの滑り台がある。もたれかかろうとするとアフリカゾウは急所でない場所を銃で撃たれたかのように苦しみ、呻き声を上げた。慌てて、私は身体を離す。触れることにすら細心の力加減が必要なのだ。

 管理室から漏れてくる光が手に持っているメジロに反射してチラチラと光った。足音を立てず、息を潜めて、あの子の足音を聞くために耳の鼓膜を水に作り替える。夜凪の空気の中に耳を澄ませていく。朝方に時計塔の鐘の音に紛れて響く、御令嬢のらうたげな泣き声を探す時もこんな風にするのだろう。

 どこかで犬が遠吠えをして、不意に鼓膜に張り詰めた水に雫が垂れた。

 プレハブとは反対の方向から来るその雫は子供らしく、歩くリズムなど一切気にしていないかのようにこの公園に入ってきた。

 暗闇に響く音が息を潜める私とその子の存在を近付ける。やがて、遊具の一つに手をかけ、ゆっくりとまるで彼らを労わるかのように遊ぶ。形の歪んだブランコに乗って夜空を飛び、沈んだ言葉達を相手にしてシーソーをする音が聞こえてくる。

 全ての遊具が無事その子の元で遊び終わり、ちらりとその姿が管理室の光の方向を見た。

 私が目にしたのは子供なんかじゃなかった。

 そこにいたのは子供のような薄いシャツを着た女の人だった。管理室の光に当てられて、顔に寄せ集まった深い皺が見える。恐らく、さして若くはないのだろう。けれど暗闇に包まれて、遊具と遊ぶその音はまさに子供で、あどけなさも遊具の傷を労わる優しさも、持ち合わせていた。

 ちらりと彼女の掠れた胸の辺りの肌にぶら下がっていたペンダントが、先程の彼女の顔と同じように、管理室のスポットライトを浴びた。その中には子供のような写真がうっすらと見える。顔の詳しい部分まではわからなかったが、一瞬見えた目元のパーツは彼女とそっくりだった。それどころか服の色や形すら同じのように見える。

 まるでペンダントの中の子が彼女に乗り移っているかのようだった。いや、彼女がその子自身になって、今もこの公園で絶滅しかけている彼らを保護しているのかもしれない。

 公園の中央で沈んでくる言葉を、朝方になって自分の影がやってくるまで待つかのように、立ち尽くす彼女の気配に私は歩み寄る。

 「手伝いましょうか。見えはしないですけれど、少しくらいなら助けになれると思います」

 その声に気付いたのか、暗闇の奥から「ありがとうございます」と機械人形の子供のような、少し不器用に作られた声が帰ってくる。

 まだ私にも、ペンダントの中の子供と彼女にも影なんてほとんど生まれていないのに、明け方の空色がすぐそこまで近付いてきているような気がした。

 

 

 

 

 



 

 

 

 

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