朗読会
後に高町が『どうしてあの時のあの空気で詩を読ませようと思ったの』と尋ねてみれば、三和はこう答えたのだという。『嫌な言葉を聞かされてきたのであれば、その分優しい言葉を知ればいいかなと思った。私ならできると思った』。
カラオケボックスの時間がターニングポイントだった。脈絡のない、その時にならなければ何が起こるか分からない時間が、一つの方向に動き始めた。
まさしく、高町に言葉を浴びせるための時間だった。魔物に対して無傷で撃退したときも、多少なりとも怪我を負った時も変わらなかった。向かう先はカラオケボックスがほとんどだった。
しかし、歌を歌ったことはなかった。
カラオケボックスにて対面で座る高町と三和。飲み物の注文を高町がする間に、三和はタブレットを操作する。無論カラオケボックスの端末ではない。高町が席についたところで、三和のタブレットが差し出されるのである。
「今日はこれ」
三和が高町のために選択する言葉は、どうも桜間中庸という人物が残した文らしい。彼女の選んだ、空想の世界に紡がれる言葉たちは穏やかな顔をしていた。ひどい言葉のかけらはどこにもなくて、穏やかな時間が流れるばかりだった。
「
お空を流れる白い皮
ミルクの色の遠い川
あれは鷺でしょう 白い鳥
ほっかりほわりと渡ります
笹の葉に吹く風の音
さらさら流れる音のよう
鷺のお使い 二つ星
ほっかりほわりと渡ります
」
短い詩を読み終わると高町の代わりに主張を始めるのはカラオケボックスの液晶テレビだった。けれども高町には全く見も聞こえてもいなかった。幾度となく朗読を繰り返させられたためか、言葉が持つ余韻を感じるようになってきていた。言葉がもつ雰囲気に立ち向かう勇気が出てきたと言うか。攻撃の道具としか思えなかった言葉がかの詩によって別のものへと変化しつつあった。
カラオケボックスの中に空調とは異なる風が吹いた。次の瞬間、天井に鷺と流れ星が舞っていた。
「天の川がきれいに瞬いている様子が白くて牛乳のようだったり、しらさぎのようだったりに思えたのかな。それと織姫と彦星の間に風が吹いた感じ? 天の川を見ているから夏のことなのかな。昔の詩だから、きっと日が沈めば今よりももっと涼しかったのだろうね」
「ほっかりほわり、っていう言い回しが心地いい感じ。柔らかくて、何だろう、洗いたて干したてのタオルを触っているような」
「言葉遣いが柔らかくて童話のようだよね。無意識に人を優しい気持ちにしてくれるから私はこの人の文章が好きだし、だからこそ魔物を倒す力にもなる」
「でもこんな詩、って言ったら悪い言い方だけれど、この言葉で魔物が倒せるのはっぱり不思議」
「優しいからこそ魔物には毒になるんだよ。洋祐に向けられた心無い言葉が洋祐の毒となったように。ねえ、辛い毎日だったかも知れないけれど、心の支えになるような言葉ってなかったの?」
朗読会はことのほか効果的だった。出会った頃は一言二言しかやり取りできなかったのが見間違えるように言葉を扱えるようになっていた。もともと言葉の引き出しが少なかった高町。彼の周りの環境が吸収できない言葉に溢れていたのである。
環境。
ある程度の言葉に触れさせた次は環境の話題だった。詩を読んで朗読して感想を口にすることはできても、身の回りの環境を話すのはまるでできなかった。そもそも高町にはそういった文化がなかった。周りから見れば物静かだったのだろうけれども、違うのだ。ひどい言葉にまみれた彼は言葉することを悪と無意識の内に捉えてしまったのである。
だからその日の出来事を話させようとしても何も語れなかった。初めて語らせようとした時に起きたのは、朗読の後の一時間以上の沈黙。語る力が育っていなかった。
「義母の言葉だと思う。母の妹だけれど、親が死んだ後に引き取って女手一人で育ててくれて。『美里の子だから強く生きられる』って。美里は母親の名前。何だか分からないけれど、今でも時々ふっと頭の中に浮かんでは漂う」
「何度も思い出すってことは、それだけ大事に思っているってことの証だよ」
「でも変なんだ。いつ言われたか覚えていない。そもそも本当に言われたのかも怪しい。俺の想像なのかも」
「まさか。大切な言葉なのに想像の産物だってのはあんまりじゃ」
それがどうだろう、多少の間こそあれど、高町は言葉を続けられるようになっていた。ごく短い、足らない言葉ではなかった。ちゃんとした言葉。表現。
高町の言葉が年相応に追いつきつつあった。
「ほら、洋祐が頑張って話してくれたじゃない。自分がいじめられていたって話。その頃に言われたのではなくて? あの時だって言っていたじゃない。思い出したくなくて本気で忘れたいと思っていたら本当に忘れつつあってそれが逆に苦しいって」
「それとこれとが同じとは思いたくない。あれは忌まわしいものだけれど、この言葉はそうじゃない」
「私からすればそれは、なんて言ったらいいのかな、どちらであっても素敵だと思うよ。想像だとしたらもっといい」
「どうしてさ」
「だって、想像だとしたら自分の思いでその言葉を生み出したってことでしょう。私が魔物に対して言葉を与えるように、洋祐は自分自身に言葉を与えたの。洋祐はもう言葉の魔法が使えていたってこと。しかも、人の言葉じゃなくて自分の言葉。私にはない才能だよ」
不思議と三和の言葉、特に褒める言葉は高町の心に優しくしみ込んでゆく。しかし、投げかけられた言葉にどういった表情をすればよいのか困惑してしまうのは、まだ人として遅れているせいかもしれなかった。普通の人はこの場でどうするのだろう。謙遜する? 肯定する? 高町の引き出しはまだ足りなかった。
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