ヒグマの令嬢

水狗丸

オルセッタ

 むかし、蒼海眩きネアポリスに広大な領地を持つある貴族の屋敷には大層麗しく気立ての良いと評判の女主人と、厳格ながら妻想いな家長がいた。


 二人の間には母君とよく似た兄妹が生まれており、彼らもまた美しく博識であると周囲から褒め称えられており、家主夫妻の自慢の宝でもあった。


 兄のフロールスは未熟児という生まれながら、成長するにつれて庭に埋まっている樫の木のように育ち、性格も謙虚と自尊心を兼ね備えた高貴な男となった。


 妹のオルセッタもやはり母親そっくりな容貌で、しかし母君と異なり御転婆な乙女として小さな体でオリーブの庭を駆け回っていた。


 兄妹のうち、特に美しいオルセッタ。彼女は母君が彼女を身篭る前のこと。庭でオリーブの剪定をしていたとき、誤って未熟なオリーブの身を飲み込んでしまったことがあったのだが、その際に妖精より授かった子どもだという噂がある。


 兄妹の仲は非常に良く、まるで鴛鴦の様。家長夫妻だけでなく近所の庶民達からもそれはそれはとても、巣立ち前の雛鳥と同じくらい愛されていた。


 二人は早朝に奴隷や家来達と共に庭にあるローズマリーやラヴェンダー、タイムなどのハーブやオリーブ、葡萄といった植物の世話をした。


 同じ家庭教師の下で自由七科などの勉学に励み、同じ食卓でナポリの海鮮やチーズを使った高品質な料理を堪能した。屋敷の中に併設された大浴場でも一緒に体を清めたりしている。そのため近所の人々は愚か、家来・奴隷の間でも二人が別々に行動している日は殆ど目にすることができなかったほど。


 優しい家族、頼りになる家庭教師達や勤勉で働き者な家来や奴隷達、そして豊かな恵みを齎してくれる故郷に囲まれた兄妹は間違いなく幸福な毎日を過ごしていた。


 しかしある日のこと。

 兄妹が庭で植物の世話をしたり屋敷の中で勉強をしていた時。家の女主人は高木の剪定の際に用いる梯子から足を滑らせるという些細な不幸が原因で、今にもスクテュスの川を渡ろうとしているところにあった。


 アポロンより医療の術を学んだ侍医の看病も虚しく、愛する妻の惨めな姿に家長はらしくもなくおいおいと男泣きをし始めてしまった。奴隷や家来達もまた、女王蟻を失った働き蟻のように戸惑っている様子。


 豪奢な寝台に横たわる母の隣、すっかり老いて節くれた掌で妻の白魚の如き指を抱いている家長。彼は「何か儂にできぬことはないか」と海豚いるかの鳴き声で、この世でただ一人の伴侶に問うた。今際の際にある女主人は自分以上に惨めな面持ちとなっている家長に向け、薔薇色の唇を小さく動かし始め、弱々しく言葉を紡ぎ出す。


「私が此岸と彼岸を往復していましたところ、妖精よりお告げがございました。守らねば貴方は末代まで呪われることでしょうと」


 その言葉を聞いて家長は顔を益々青くしながら「それで、儂は何をすれば良いのだ」と尋ねる。最早その表情にあの厳かな家長の面影はなく、道端の乞食よりもぐちゃぐちゃになった顔としゃがれた声に変わり果ててしまい、見るも無残なものとなっていた。

 それでもそれでも、家長は震える指先で妻の手を支えることは止めなかった。海より深き伴侶からの愛を感じた女主人は青い吐息を吐きながら息も絶え絶えになって妖精からの伝言を口にした。


「この家の後継者には私と同じくらい美しい娘を与えてください。そうすれば貴方の身に呪いは降り掛からぬでしょう」


 そう言って女主人はとうとう息を引き取った。


 伴侶の死に、アンティノウスを失った神皇ハドリアヌスの如くおいおい泣き続けてしまった家長。遂に涙の海に溺れて身体中の水を目から流してしまい、彼まで間も無く妃と同じように、彼女を追って行ったかのようにスクテュス川の手前まで来てしまった。


 そして数日後にはやはり侍医の看病も虚しく、妻と同じところへと向かっていった。崖が崩れたような、怒涛の不運に侍医もなす術を持ち合わせていなかった。


 側で両親を見ていた兄妹は突然襲い掛かった不幸という悪魔に恨み言を吐き、しかし兄は母の最後の言葉を忘れることはなかった。


 父の後継者たるものに母と同じくらい美しい女性を娶らせなさいという遺言。それは確かに兄の心に焼き印の如く残った。兄は皇帝宮にて典医として仕えている伯父の手も借り、早速国中に御触れを出して相応しい女性を探そうと躍起になって行動を開始した。


 国中からは我こそはミネルウァやコレー、ウェヌスに劣らぬ美女であると断言して憚らぬ女達が才色兼備の擬人化である新たなる家長の元へ馬車を駆り立てた。


 その中には確かに器量良し、要望良しの娘達がごまんと居たのだ。一方であの麗しくも優しい母や彼女にそっくりな妹をずっと見ていた兄にとっては、どんな美女も欠点ばかりが目に付いてしまう。どれも下水道の海面か腐った家畜の肉にも等しいと、鼻が捥げそうな香水の香りに顔をしかめたのだ。


 ゲルマン人の金髪も妹の黒曜石の如き髪には叶わない。ガリア人の長い手足も選りすぐりの職人の手で拵えられた陶器の如き滑らかな肌には叶わない。フリギュア人の大きな瞳に宿る光さえも母や妹には到底及ばぬもの。


 結局兄はさっさと娘達を返してしまった。

 さてどうしたものかと、形の良い顎を右の親指と人差し指で挟んで思考に耽っていた。しかし側で自分を心配そうに見つめる妹の、琥珀のような、採れたての蜂蜜のような瞳を、裾や襟から伸びるいたいけな小枝のような手足を見て一つの案に辿り着いた。


「母と瓜二つの妹がそばにいるというのに、どうして肥溜めから生まれたような他所の醜女達から選ぼうなどということしたのだろうか。そんなものは蝋燭を得るために博打をするようなものではないか。私が彼女を娶れば高貴な血を維持することができる上に、妹をどこの馬とも知れぬ輩に嫁がせる心配もなくなるのに」


 真理に思い至った兄は早速オルセッタにそのことを伝えたが、途端に彼女は顔を真っ青にして、首を何度も何度も横に振って強い拒絶を露わにした。


「ああ、何ていうこと! あの優しく賢明な兄様がそんな破廉恥なことをおっしゃるなど! 父様と母様の死を眼前にして正気を失われたのでしたら嘆かわしい! 絶望で盲目となってしまったの? 兄様、私は貴方の実の妹なのですよ。二度とそのような天罰が下るような畜生にも劣るようなことを口にしないでくださいまし。でなくては私は貴方を二度と兄と呼ぶことはできないでしょう。辺境の野蛮人でも獣でも同じ胤と腹から生まれた存在に情欲を向け、あろうことか妻として娶ろうとするなど余程の淫乱でない限り思いつかぬことでしょう!」


 憤懣やるかたなしという様子で妹は己の肩を掴む兄の手を振り切ろうと、勢いよく身を捩る。しかし妖精の言葉を懸念する兄はそんな、嘆きのあまりに豹変した妹を前にしても一歩も引く様子はない。


「許せ、私の可愛い妹よ。妖精のお告げを無碍むげにすれば我々は末代まで呪われるというのにどうしてそんなに拒むのだ。私はお前の夫になるくらいの器量は持ち合わせているのだから何も心配することはない」


 オルセッタが知っている兄は菩提樹のように冷静で、彼女は穏やかで優しい。しかし今の彼は、さながら地獄からの使者のよう。


「お願いですから兄様、ホラ吹き妖精の言葉に耳を貸さないでください。あれはきっと妖精の皮を被った悪魔なのですから。それに、兄様にはもっと相応しい娘がきっといらっしゃいますとも」


 オルセッタは己の身を抱きしめながら蛇を前にしたネズミのような声で、必死に兄を説得する。いつもは熊のように逞しい心を持った彼女の声は、梅雨に濡れる新緑のように震えている。

 それでも兄は一歩も揺るがず、穏やかで、しかし獰猛な眼で無慈悲に妹を貫いている。


「可愛い可愛い僕の妹。君は頭のてっぺんから爪先までどんな女にも劣らぬほどに美しい。それに賢明な男ならばどうして君のようなできた妹を赤の他人のもとへ手放してしまうのか。妹よ、僕は熟考の末に君を娶ることを選んだんだ。これはお互いのためにも、家のためにもなる有効な処方箋なんだ」


 今まででは考えられなかったほど恐ろしい兄の視線。オルセッタは兄が恐ろしくなり、しかしそれでもと一歩引き下がって言った。


「……そこまで言うのでしたら少しばかり時間をください。私には心の準備が必要なのです。今日の月が沈み、また登った頃にまた声をかけてください。それまでは兄様とはとても口を聞けません」


 兄は妹の要求を呑み明日に妹の部屋へ訪れると告げると、妹はこんな状況にも関わらずきちんと一言お礼を言ってから去って行った。


 すぐに自分の部屋に向かった妹はその途中で早速家来達に今日一日は自分に決して話しかけないこと、食事は部屋の前に置いておくことを告げる。

 本当は一頻り泣きじゃくりたい気持ちでいっぱいだったが、すぐに洗練されたドレスを脱ぎ捨てる。

 そして部屋の端にしまっていた布切れで見窄らしい服を作り、纏められた髪を解いて厩に向かっていく。家来や奴隷達の目を盗んで赤毛が艶やかな自身の愛馬を出し、その逞しい背中に跨ると、都のローマまで一気に駆け出していった。


 もうそろそろあらゆる生命が眠りに就く頃だった上、幸運にも今晩は新月であった。誰も彼女の姿を見ることもなく妹はローマへと辿り着き、まるで場数を踏んだ、百戦錬磨の大泥棒のように夜警達の視線を掻い潜っていく。無事に目的地に到着した彼女は、外から皇帝宮の中にある伯父の部屋の窓を叩いた。


 こんな夜更けに叩き起こすとはどんな不届きものだと、伯父は餌を持ち去られた狐のような不機嫌な表情で窓の外を見る。

 すると見窄らしい娘が一人、しかしよく見ればそれがこの世で最も愛する姪であることにすぐに気付いた。

 

 駆け出した馬、地を蹴り上げた狼さながら、慌てて外へと駆け出した伯父は小さな小さな姪の身体を抱き締める。あんなに利口な子がこんな夜更けに来るとは、決して只事ではないだろう。伯父は早速用件を尋ねてくれた。

 姪は兄が伯父を通して御触れを出した後のこと——母が受けたと言う妖精の言葉に従って妹である自分を娶ろうとしたこと。そして一日だけ猶予を貰ったことを一通り、簡潔に説明をすれば彼はその内容に絶句し、再び姪を強く抱き締めた。


「何ということだ。あの賢明な男が天からの罰を受けるような愚かな真似をするとは。よく話してくれた可愛い姪よ、もう大丈夫だ。儂は良い魔術師を知っている。彼に頼めば良い打開策を提案してくれるだろう」


 二人の話し声を聞いた夜警達が一体誰だと駆け寄ってくると、伯父は姪の姿を隠しながら急患だと告げた。そのまま彼女を自分の部屋へと導いていくなり、伯父は一度部屋を出て行った。

 彼は間も無く、一人の老夫を伴って戻ってきた。彼の要望は些か奇怪で目元は頭巾で隠れ、唯一露出している口元以外から感情を伺うことはできそうにない。


「おやおや何と麗しい蜜蜂ちゃんか。一体どんな野良犬がこの蜂蜜色の乙女を涙の水溜りに落としたんだい?」


 頭巾の脇から赤毛を覗かせる老夫は、伯父から一切合切の事情を聞いた。

 事情を知った老父は「それはかわいそうに」と膝を折って、哀れな娘と視線を合わせる。すると彼は彼女の美しいヒトデの掌に、コロリと一粒のビー玉を転がした。


「いいかい蜜蜂ちゃん。伯父さんという通り君にはまだ救済の道が残されているからまだ絶望に嘆く必要はない。よく聞くんだよ。もしも君のお兄さんが身の程知らずの暴れ馬のくせに君に対して種馬のような態度をとったらこのビー玉を口にお含みなさい。さすれば君はそのビー玉を口に入れている間、世にも恐ろしいヒグマの姿になる。蛮勇な賊でも虚勢を張ることだけは一人前な穢らわしい虎でも恐れ慄き嵐に煽られた大木のように震え上がることでしょう。その隙に逃げなさい。その後はきっと運命の女神や妖精が貴女を行くべき場所へと導いてくれることでしょう。人間の姿に戻りたい時は単純にビー玉を口から出せば元通りになりますから」


 親切な魔術師と心優しい伯父に心底感謝した彼女は、二人に愛情たっぷりの抱擁を交わし、急いで来た道を戻っていった。


 約束通りに兄は一日で結婚式の準備を済ませ、次の日の晩には妹の部屋の戸を叩いた。さて妖精との約束を果たす時が、愛の儀式の時が来たと意気揚々と今宵に妻となる妹を迎えにいったのだ。

 しかしオルセッタは兄が入ってくるや否や例のビー玉を口に含み、忽ち魔術師が言っていた通りの恐ろしいヒグマに姿を変えた。

 突然眼前に現れた野獣に酷く狼狽した兄は、すっかり足を竦ませた。一方でオルセッタはそんな兄の様子に構うことなく、彼を押し退けて見た目以上に素早く、迫力ある、疾風怒濤の勢いで屋敷を抜け出していった。


 付近の森へと急いだ彼女は我武者羅に地面を走り、早朝の陽光が影を痛めつけている頃だ。ヒグマ姿のままの彼女はそこで暫くの間森に住む動物達と共に和気藹々と暮らしていた。

 森に住まうリスや鹿、雀や椋鳥むくどりといった小鳥達は新参者のヒグマに最初こそ警戒した。しかし森に住まう妖精たちが動物達に彼女は敵ではないことを伝え、更に持ち前の礼儀正しさと無邪気さによってすっかり彼らと馴染んでいた。


 ある日。一人の洗練された格好をした青年が森へとやってきた。

 清潔な青いチュニックとカイガラムシで染められた赤い外套を纏った青年は、いつも散歩にやってくる森の中で見覚えのないヒグマを目にしたことでとても生きた心地がしない気持ちに駆られた。恐怖のあまりに顔を青くし、背中を向けないよう距離を取ろうとする。


 しかし目の前のヒグマは青年に対してまるで敵対的な態度をとらず、それどころか彼の周りを回ったり隣で行儀良く座り込む。そしてごろごろとお腹を見せたり、猫のように身体を擦り付けたり、大変人懐っこい行動をとっている。これにより青年もすっかりこのヒグマに対する恐怖心がなくなってしまい、この大層愛らしいヒグマの顎を撫でることさえしていた。


「なんと人懐っこいヒグマだこと。まるで飼い犬みたいにお利口さん。よしよし、こんなに可愛いくまさんだから森の仲間達も心を許すわけだ」


 暫くの間大きな手でヒグマをあやしていた青年は、その愛嬌ある振る舞いに心を奪われ、ついにはヒグマを家に連れて帰ってしまった。

 そして家の家来達にこのヒグマをこの世で最も綺麗な花や宝玉のように大切にすることを命じた。そして広大なオリーブ園や林檎園が併設された庭にて、放し飼いにすることに決めたのである。


 オルセッタ自身も兄の手から逃れられるのならば、ヒグマの姿のままならばこの自然と緑に溢れた箱庭で過ごすのも吝かではない。それに家主である青年は格好や立ち振る舞いからして、男が卑しい身分の人間ではないことは明らか。決して悪いようにはされないだろうと考えていた。


 さて、青年が屋敷の中で事務作業に勤しみ、家来達は庭の手入れや屋敷の掃除を終えて出払ってしまっている時のことだ。ふと青年が気分転換にと窓の外を見ると、可愛いヒグマがいないことに気が付いた。

 その代わりに木の下には今まで出会ってきたどんな女達よりも、屋敷の庭に生えているどんな花よりも、貴族達が持つどんな宝石よりも美しい輝きを持った美しい少女が、手櫛で髪を整えている姿が目に焼き付いた。


 あまりの美貌に青年は吃驚仰天して仕事を放り出し、すぐに部屋を出て庭へと転び出た。しかし青年の気配を感じ取ったオルセッタは、すぐにスカートに乗せていたビー玉を口に含んだ。そしてヒグマの姿に戻るなり、急いで森へと逃げていってしまった。


 青年は仕事をすっぽかして長いこと庭や森中を探し回ったのだが、すっかりあの可愛いヒグマと絶世の美少女を見失ってしまった。

 その後は曇天のように、悲哀によって完膚無きまで心を千々に裂かれて意気消沈してしまった青年。彼はその日、兎に角仕事だけは済ませておいた。

 しかしその後日から、絶望と不安に苛まれる日々が続いた。日に日に体調は悪化し、家来達は慌てて、皇帝宮にいる医者を呼びに出かけて行った。


「ああ、あの熊ちゃんは一体どこに? もしも悪い猟師の掛かっていたら僕は悲しみのあまり心臓が潰れてしまいそうだ」


 家来たちがミントやジャスミンを煎じた茶を飲んでも、一向に体調は好転しない。それどころか歩くことさえも億劫になってしまい、恵体の青年は、忽ち哀れで惨めな病人へと成り果ててしまった。

 熊を見失ってから約五日後、家来達が医者を、実はあの少女の伯父である典医を屋敷まで連れてきてくれた。


 最後に会った日に見た顔とはまるで異なる青年の様子——これは如何なる難病か。顎を擦りながら早速診察をしたところ、医師は異常な心臓の動機と食欲不振は恋の病が原因であると見事に突き止めた。

 最近何があったのかと典医は青年に質問したところ、乙女がビー玉を口に含んだのちにヒグマの姿に変わったことを知った。そこで医師は、ヒグマの正体、そして青年の恋患いの原因が姪であることに気付いた。


 そこで早速家来達に例のヒグマを捕らえてここに連れ戻すように命じた。勿論典医自身も姪であれば自分にも寄ってくるだろうと考え、自ら捜索に参加した。

 家来達もまた、あの大変人懐っこく花のように可愛らしいヒグマを皆んなで可愛がっていた。その為あの子に何かあったら大変だと。自分たちもきっととても悲しい思いをするだろうと思い、積極的に、一生懸命に森や庭を探し回ってくれた。


 暫くは淀んだ水に浸っていた青年も、このままではいけないと重たい身体を起こす。怠い肉体を叱咤激励してベッドから飛び出し、馬に跨り、森という森を探し回っている時だ。青年の情熱に惹かれた一匹の妖精が、ヒグマの居場所を教えてくれた。お陰で、そう時間も経たないうちに彼女を見つけることができたのである。


 青年は家来達に妖精へのお礼としてハムとワイン、チーズを沢山詰めた袋に青年の字で書かれたお礼の手紙を括り付け、それを渡すように命じる。

 その後はすぐに振り返ってヒグマを抱き締め、屋敷に連れて帰り、自室へとヒグマを導いていった。


 典医はここでようやくヒグマの正体が姪であることを青年——オルセッタはここで初めて彼の名前がガイウスであることを知ったのが——に告げると彼は驚きに目を見開いた。そして彼女の身の上を聞けば、事の原因たる不遜な男への憤怒に力の入らない拳を握り締めた。


 ところで彼女は、伯父を前にしても恥ずかしがってヒグマの姿を解こうとはしない。そのことに二人は困っているところであった。


「どうして獣の毛皮でその美貌を隠してしまうんだい? 僕は明かりを手に君が纏う毛皮の外套へと入り込みたいくらいだ。僕は君のお兄さんのような畜生でも淫乱でもない、ずっとここで君を匿うこともできるからどうか僕にその顔を見せてほしい。これ以上僕の恋に燃える心を焦らさないでくれ、悲しみのあまりそろそろ灰になってしまいそうなんだ。だから、どうか」


 そうやって何度も説得を試みたが、いずれも彼女の心の氷を溶かすには至らない。青年は悲哀でできた大岩に、再び体調を崩してしまった。

 それを見兼ねた伯父も一度は説得したものの、一度少女の姿を見られてしまった姪は頑なに拒んで聞く耳を持たなかった。

 そこで一度伯父は青年の要求を聞いてみることにした。——勿論無理に姪に人の姿に戻るようには伝えないと釘を打った上であったが。


「ならば彼女に接吻をさせてください。人の姿に戻らずともそれだけで僕の心は幾分か楽になりますから」


 典医は少しも笑うことなく淡々とその要求を心に刻み、ヒグマの姿のままとなっているオルセッタにガイウスの言葉を一つも残さず伝えた。オルセッタはヒグマのままで良いのならば、とすぐに承諾してくれたため、伯父は感謝の接吻を彼女の額に与えた。


 オルセッタは大きな身体のままガイウスに歩み寄り、寝台を壊さぬよう顔だけを差し出す。そのまま彼は柳のように弱々しくなった掌で彼女の顔を包み、その茶色い右頬に薄い唇を当てた。

 恋を知らぬオルセッタはそれだけでも顔が熱くなってしまうのが分かった。ガイウスは今度は左頬に、そして湿った鼻に、そして下顎に次々と、容赦無く甘い接吻を与えていく。


 やがて満足した彼はゆっくりと寝台から降りたが、弱っていた身体を怠けていた両足が支えるには些か頼りなかった。


 心配した典医は一歩足を踏み込んだところで、オルセッタがガイウスの身体を支えてあげた。自嘲混じりの笑みを浮かべたガイウスは親切な彼女にお礼を言い、典医に彼女と共に外に出かけたいと告げた。

 典医は無茶はしないことを条件にそれを認めると、今度こそしっかりと立ったガイウスはオルセッタと共に森へと出かけていった。


 付近の小川までやってきたガイウスは、先ほどのお礼として彼女の身体を清めさせてくれないかと頼んだ。

 ヒグマの姿になってからはずっと水に触れていなかったオルセッタは、手足だけならばと快諾。器用に足だけを水に浸けるとガイウスは衣服を脱いで、素早く、丁寧に畳んでから地面に置いた。


 その一連の所作を見たオルセッタはいよいよ彼が只人でないことを確信した。


 ガイウスは優しく彼女の手足を洗っている間、己の身の上を語ってくれた。


 曰く、彼は双子の弟ほど弁論術や対人能力に恵まれていなかった故に、実の両親や養父から疎まれていた。そして今は不仲な親の元を離れ、この屋敷で家来や奴隷達とひっそりと暮らしている。典医は所謂育て親で、大変世話になっている相手なので、オルセッタが彼の姪であることを知ったときは大変驚いたという。


「オルセッタ。君のことはいつまでも匿ってあげたい。——だからもう一度キスをさせて欲しい」


 彼の優しさと誠実にすっかり絆されていたオルセッタは、小さく頷いた。


 大層嬉しそうに笑ったガイウスは再び彼女の頬を両手で包み、今度は大きな口元に接吻をした。

 驚いたオルセッタは身体を後ろに下げようとしたが、顎を右手で掴まる。そしてそのまま親指で口を強引に開かれたことで、ポロリと魔法のビー玉が落ちてしまった。


 するとガイウスの目の前には、あの時見た蜂蜜色の瞳を持った少女が現れた。

 彼女は服が濡れるのも気に留めずに、慌てて転がったビー玉を拾おうとした。しかしガッチリと青年の腕に拘束されてしまっていたため、少しも体が動かせなかった。


「ようやく捕まえたよ蜜蜂さん。あんなに追わせてくれたんだ、もう逃げようだなんて考えないでおくれ」


 ガイウスの青い視線に射抜かれ、オルセッタは顔を赤くして肩を竦めた。


「全く、貴方の強情さには敵いませんね。追いかけっこは貴方の勝ちです」


 そう告げるオルセッタの表情は満更でもない様子だった。


 二人が屋敷に戻った後、伯父はやっと元の姿に戻ってくれた姪を後ろから抱き締めた。


「もうこんなにも手を煩わせるようなことはしないでくれ」

「ごめんなさい」


 伯父の言葉に、オルセッタは困ったような表情で謝った。

 そして改めて伯父は事の発端から事態を纏めたところで、利口で貞淑な姪をガイウスに嫁がせることを決めた。


 というのもガイウスは帝国の皇兄であり、先ほど口にしていた双子の弟というのは現皇帝のことであった。

 伯父曰く例え相手が勘当された皇兄でも、皇族の一人であることには変わりない。その権力の前にはたかが一地域の家長でしかないオルセッタの兄も手を引かざる得ないだろうと。そして妖精のお告げに関してはあの魔術師がなんとでもしてくれようと伝え、オルセッタを安心させてくれた。


 数日後の宵。皇兄ガイウスの屋敷にて二人だけの結婚式が執り行われ、式にはオルセッタの兄も招待された。


 最初こそ血眼になって妹を探して回った兄も、時間という薬を処方されたお陰か、自分が如何に愚かな行動をして、自分を深く慕っていてくれたはずの妹に酷い傷を負わせてしまったかを自覚した。彼は今、伯父の横に座って手で顔を覆い、静かに泣きながら妹と皇兄の結婚を祝っている。


 控えめながらも眩しく輝かしい結婚式を経て、強くて利口で、賢く貞淑な少女。彼女は新たなる門出の後も、末永く幸福に暮らしたのである。

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ヒグマの令嬢 水狗丸 @JuliusCinnabar

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