曖昧でしあわせな世界

片瀬智子

第1話


『人間は、他者との違いを受け入れることの出来ない生き物なんだ。受け入れられないものは排除しようとする。それが自然界のおきてだから』



 初めてしょうくんにそうさとされた時、思わず涙が出た。

 なぜなら私、みんなに嫌われてるから。

 小学生の頃からずっといじめられてるから。

 みんなと違う自分が、仲間外排除れの対象なんだと理解した瞬間だった。



 昔から私は鈍い。生活能力における感覚センスが乏しい。人をイライラさせる名人。

 判断力はもちろんのこと、ひどい方向音痴で、スポーツやダンスに関しては恐怖すら覚える。


 子供はそれらを敏感に感じ取って、自分より劣った人間を見くびる。

 まるで生き残りを図る野生動物の本能のように、残酷なくらい違いに優劣をつけたがった。

 私はみんなと同じになりたいのに、そう願ってるのに、いつまで経ってもクラスのお荷物で孤立した存在なのだ。







 私は、このあたりでは有名な特殊クラスのある高校に通っている。

 いわゆる芸能コースというもので、同級生には国民的アイドルや歌手、人気YouTuber、俳優、声優、ゲームクリエーターまでいる。

 みんな自尊心が強くて、どんなにおとなしく見えても大体エゴイスト。


 尖ってる、変わってると言われることすらステイタスのこの場所では、自己表現や自分アピールが出来ない人間は劣勢れっせいの部類に入った。

 そんな豪華版のクラスに、地味な容姿、消極的なまなざし、場違いな私がそっと佇む。

 なぜこのクラスにいるのだろうと、今日も意味不明に佇んでいた。



 ここだけの話、私は芸能一家に生まれてしまった。

 だがそれを公表してないし、知ってる人間は私の素朴さに首をかしげるばかりだ。オーラなど遠い前世にまるごと忘れてきた。


 父は著名な作家、兼舞台俳優。

 厳格で威厳いげんのある渋い和装スタイルで知られているが、愛猫の前ではただの下僕げぼく

 母は若い頃、ちょっとの間だけ女優を志していた。父との結婚ですぐに芸能界を引退したのが未だ消化不良の様子。

 まあ今でも綺麗には変わりないが、目立ちたがり屋な性格が玉にきずで。いや、私にとっては結構なきずだ。

 

 ワガママな母親の希望で私はこの学校にいるのだから。

 目立つのが苦手な私への迷惑も顧みず、母は自らの欲求を貫き突っ走った。

 小さな頃から様々な習い事に通った成果も出てないのに、父の芸能事務所に所属させられ女優か歌手になるよう言われている。

 美人でもなければ、リズム感も皆無なのになれるか。



 

 ──だけど、人生はとっても不思議なものだった。

   運命というストーリーはミステリー。




 実は一ヶ月前から、私には全女子生徒がうらやむ彼氏がいるのだ。

 私のことが大好きで全身全霊で愛してくれて、夢やスターや少女漫画の王子様を具現化したようなパーフェクトな恋人が。


 

 高校二年生、人気アイドルグループの絶対的エース・松永将まつながしょうと同じクラスになれたのはきっと神様からのギフトだと思う。

 彼の存在感はとにかく飛び抜けていた。

 控えめに言って、地球上の誰よりも。

 よくトップアイドルは頭が悪いとなれないなんていうが、彼もかなり頭がいい。

 いわゆるお勉強だけじゃなく……人生において達観たっかんしている。



 将との恋の予感は、放課後の音楽教室だった。

 私はいつものようにみんなから掃除を押し付けられ、掃除道具を手に一人、アップライトピアノのある教室へ入って行った。


 現在、曜日ごとに三名の音楽教師が入れ替わりでこの教室を使用している。

 一ヶ月後にある学内芸能コンテストに向けて、音楽教師たちが独自の歌詞創作にいそしんでいたからだ。

 

 先生らが無人になる休憩時間に失敬して、私は急いで床に掃除機をかけ、ピアノに付いた指紋を拭き取りすべてを定位置へ戻す。それらを十五分ほどで終わられなければならない。

 存在感のない黒子くろこに徹しなければ。先生たちを苛立たせるわけにはいかなかった。

 


 我が校の伝統でもある芸能コンテストは、毎年恒例のお祭りみたいなものだ。

 各芸能クラスの女子がダンスと歌唱で、日ごろの成果を披露する。


 その日は大手芸能プロダクションやTV局、映画会社などの関係者も招待され、一日中教師や生徒がピリピリする。

 去年優勝したメンバーは、ガールズグループとして現在活躍していた。

 今年も目にとまる子がいれば、知名度関係なく華々しいオファーが確約されたも同然だ。


 しかもそのクラスの担任や、歌唱の課題曲に選ばれた音楽教師までもが名誉の対象となるのだ。

 誰もが本気になるのも仕方なかった。

 で、そんな中、私は黒子の仕事をすべく……ピアノ教室へと足を踏み入れた。



 ──まさか、そこに運命の人がいるなんて思わずに。



 視線がぶつかった私たちは戸惑った。

 いや、私だけ完全に取り乱した。だってここには正真正銘ふたりきり。

 マスク姿の彼は、いつもテレビで観てるキラキラした将とは違う穏やかな空気感を醸し出していて。

河名かわな……遥香はるかさん?」

 彼は私の名前を覚えてくれていたのだ!

 ああ、なんという、光・栄。


 そこでどんな話をしたのか、全容はもう覚えていない。

 その日の記憶がほぼない。ふわふわと分厚い入道雲の上を跳ねて、我が家まで辿り着いたことしか。

 ピアノを奏でる彼と私の人生の急展開が眩しくて、あの日は現実と空想の狭間で一時いっときの幸福感を味わった。



 そう言えば、彼にピアノが弾けるかどうか問われた。

「私は……」

 もごもごと口ごもりながら下を向く。ピアノはすごく苦手だ。


「私、習い始めてすぐに……挫折しちゃったんです。先生の教え方にひとりだけついて行けなくて。だから松永くんが弾いてる姿見てるだけですごいなぁって。私なんて、両手で速く演奏したら焦るの。ピアノの先生に、左手が違う!なんていつも叱られてたから。そうすると、頭の中が真っ白になってしまう」


 無意識に自分の手をギュッと握った。彼が、私の幼さの残る手に視線を移し言う。

「僕はね……両利クロスドミナンスきなんだよ。子供の時に左利きを矯正した名残なごり。でも、ピアノに利き手が有利なんてないけどね。課題曲なんかつまらないから本気では弾かないし」


 つまらない?!ですって。

 さすがトップアイドルは言うことが違う。

 去年のピアノ演奏でも出演者の誰よりも目立っていたし、業界関係者からも喝采を浴びていた。


「ダンスか歌には出るの?」

 将が聞く。きまずい。

「ううん。私は選ばれないです。上手な人たちがいっぱいいるから……」

 本当は私がみんなに嫌われてるから。

 みんなは今頃集まってるのに、私は教室の掃除にまわされて練習すら参加させてもらえない。

 でもレッスンについていけないことは自分でもよくわかっていた。


「立候補すればいいじゃん。一緒に出ようよ」

 は? いやいや。私にそんな大それた野望はないです。ひっそりとこの高校生活を終わらせることが出来ればそれでいい。

「立候補なんてそんなこと出来ないよ……私、目立ちたくないの。あ、ほら、出るくいは打たれるって言うでしょ」

「ふーん」

 将が言葉に含みを持たせる。そして、私の目を見つめると……はっきり言った。

「河名さん、僕と付き合おうか」



 付き合う……へ? 

 え、えーーーー!!!

 何なの、急に!? それって、私からかわれてる?

「あっ、あの」



「河名さんのこと、ずっと前から興味があったんだ。嘘じゃない。僕と付き合ってることがバレたら否が応でも目立つだろうし、出る杭になるけど……よかったら、付き合ってみない? どうかな」


 どうって……どうかなって、これなんなの夢?! 痛っ。

 一体どうなってんのよ、絶対からかわれてるだけだよね。

「松永くん……そんな。いや、う、うれしいですけど。でも冗談だよね。だって信じられないよ、私なんて。それに目立つのは本当に無理!」

 百万歩譲って本気の告白だったとしても、これ以上女子に嫌われたらもう登校出来なくなる。



「目立つのがそんなに困るの? 出る杭は打たれる、か。そうだ……いくら目立っても、杭が打たれない方法を教えてあげるよ」



 将は慣れた手つきで鍵盤をクロスでサッと拭く。ピアノのふたを下ろすと、私に向かい腕を組んだ。

 コロナ禍のマスク装着において、ここまでかっこいい人っている?

 いけない、ついつい見とれてしまう。

 まずいよ。将の雰囲気に飲まれて、なんとなく立候補するような空気に突入していってるー。




『目立とうが何をしようが、明らかに誰よりも抜きん出ればいい。そうすれば、誰も上から杭を打つなんて出来ないよ』




 将は自信満々な様子で私の目を見ながら言った。だけど。

 いや、それ万人ばんにんに当てはまる名言じゃないですからね。

 ドジな自分に置き換えると、派手な失敗をして悪目立ちするとしか思えない。


「あー、すみません。ちょっと、今日はもう帰りますので。その……私のこと、気にかけてくれて、ありがとうございました」

 私は帰ろうとする。彼の顔を見ないようにして。

 だがその時、将が口を開いた。




「河名さん。右手の甲……水性ボールペンはダメだよ。せっかくのホクロが



 冷水を浴びせられたかのように私は立ち止まった。

 身の危険を感じた動物がとる態度で、警戒しながら彼を睨みつける。

「どうして」



「そんな怖い顔も出来るんだ、河名さん。再発見だな」

 将の微笑みがムカつく。なんで、今まで誰にもバレたことないのに。


「どうして……」


「どうして気づいたかって? 君の秘密に。じゃあ、正解すれば僕と付き合ってくれる?」


 さらにムカつく。将の余裕の表情を見つめたまま、私は何も言わなかった。

 彼がどう出るか待つんだ。何のつもりで私と付き合いたいのか。

 私の弱みにつけ込みたいの? 

 それとも小学校の友人らのように、バカにしてからかいたいの?

 将が私の返事を待ちきれなくなり言った。



「ずっと前から気づいてたよ。……ずっと君のこと見てた。初めはただの興味から。そして今では最大の関心を持って、河名さんのことを意識してる。それだけじゃ付き合いたい理由にならないか?」



 まさか、ほんとに私と付き合いたいの。

 すでに頭の中はグルグル、キュンキュンとあらゆることが高画質で小躍りしまくっている。思考回路が一巡して何とか落ち着くまで待つ。

「まだ、なんで気づいたのか、聞いてない」

 私は片言でそれだけ言った。



「ああ、それは以前、僕も同じだったからだよ。ほぼ治ったけどね。でも河名さんはまだそれに振り回されてる。……左右さゆうもう、だよね。しかも重度の。そうだろ?」



 確かに将は気づいていた。

 そのとおり、私は左右盲。左右失調や左右失認とも呼ばれる症状。

 英語では、left-right confusion。

 左右がに判断できない。

 右、左の認識が脳内で曖昧な状態。


 私は思う。

 右と左というのはただの空間だ。落ち着いて確認すれば迷うことはない。ゆっくり確かめればちゃんと分かる。

 ただし、大体の場面で左右の判別は早急だった。

 だからいつも急いで右の人差し指で『あ』を書いてみる。だが、書きにくかったら右手を左手と思ってしまうのだ。悲しいことに。

 空間把握の欠如。常識を疑う凡ミス。

 にしても……誰が左右なんて名前をつけたのか、似たような漢字で。英語もまたしかり。

 

 


 原因も解明されておらず、病気や障害には認定されていない。

 別に不幸じゃないよ、不便なだけ。

 しかし左右がすぐに分からないだけで、日常生活においていろんなことが困難になった。

 ダンス・スポーツやピアノなど、教え方によってはてきめんに混乱するのだ。

 例えば振り付けで、先生が背を向けての指導ならどうもないのに、こちらを向かれると一気にわからなくなる。


 右から左! 左向いて右! 向かって左!

 突然の指令に反応が遅れる。間違う。脳が停止する。

 上下は簡単なのに左右になると戸惑い、途端にややこしい異世界に引きずり込まれる。

 視覚検査は緊張の連続だし、旗上げゲームなど公開処刑にすぎない。


 私にとって左右は昔の人間が勝手に作った言葉で、人類共通・宇宙の法則ではないと自分をかばってきた。

 だけど道を聞かれても間違った方向を言ってしまうし(道聞かれ顔なのに!)、今後は車の運転にも支障が出てくるだろう。


 右手首に輪ゴムや髪ゴムを付けたり(長袖の時期は意味ない)、左手に時計をしたり(金属アレルギーのため出来なくなった)、今日のように右手の甲にホクロを書いて左右の目印にしたりもした。

 でも子供の頃からあらゆる場面で顔を出してきて、私を生きづらくした地味な障害なのだ。


 

 私は機械的にうなずく。

 みじめな告白。

「……そうよ。私のはたぶん治らない。利き手の矯正で始まった訳じゃないし。生まれつき重症だから」



 沈黙が広がった。

 ふいに将の顔がスローモーションで近づいてくる。

 そして、固まる私の左右どっちかの耳元で優しく言った。



「遥香のこと、ほっとけないよ──」




 


 

 学内芸能コンテスト、当日。

 素晴らしい秋日和。


 出来ることなら、今日だけ暴風雨に見舞われたかった。

 私はひとり、黒いパンツスーツでとぼとぼと校内の小ホールへ向かう。制服じゃないのは同じ衣装で揃えようと決まったからだ。

 たぶん他の女子は、待ち合わせて一緒に行動してるよね。

 あの日、クラスは騒然となった。

 なんと歌唱部門に、私の立候補が通ってしまったから。


 だって地味でドジで何の取り柄もない私が、『芸能コース・若手の登竜門』と呼ばれるコンテストに参加する。

 しかもクラス制というのが、プレッシャーを大きくした。私がミスると、参加女子全員に迷惑が掛かるからだ。

 やばい、途中参加は私だけ。練習不足で緊張がハンパない。

 でもピアノ演奏は秘密の恋人・将くんだ。今日一日、将のためだけに頑張ろう。

 そう思い深呼吸すると、私は小ホールの扉を開いた。



 歌唱で使う小ホールは、バスケのコートを若干大きくしたくらいの広さがある。天井に近いいくつかの窓は、換気のために開かれていた。

 今回はコロナ対応で、透明なパーティションが中央に設置されている。

 舞台の角にはグランドピアノがあり、将が指ならししてるのが見えた。


 大きなアクリル板を挟んで、片面が舞台、もう片面が客席。

 客席にはマスクをしたスーツ姿の芸能関係者や教師、各クラス出番待ちの参加者たち。

 ソーシャルディスタンスで人数制限されてる分、ネット配信という新しい企画も導入され注目度は去年より上がっていた。



 

「ちょっと、ウソでしょ。河名の衣装、真っ黒じゃん!!」

 ハッとして、私は振り返った。

 そこにいたのは、同じクラスの歌唱部門参加者。私の仲間のはず……だった。


「信じられない! あんたバカなの、ねぇ? 今日はみんな、衣装で統一しようって連絡したよね!!」

 突然、怒鳴られる。

 総勢七名、白いワンピース姿のまるで妖精に。お人形みたいに可愛い女の子たちに。



 私ひとりだけ黒いスーツだった。

 黒いスワン。

 排除された醜いアヒルの子だ。

 はめめられたかもしれないという思いが脳裏をよぎる。

 きっと、足を引っ張る私をコンテストに参加させないために。


「先生! 河名さんが衣装間違ってるんですけど! これじゃあ、かっこ悪くて集中できません。河名さんのこと、不参加にして下さい!」

 リーダー格の子が続けてわめいた。

 慌てて駆けつけた先生が、私の顔色を伺う。時間がない、どうするか。申し訳ないがひとり棄権でいいか……と。


「はい」

 消え入りそうな返事をした。頬が熱い。

 泣かなかったのが、逃げ出さなかったのが唯一私に出来たことだった。


「じゃあ、客席で座って見てなさい。舞台側の参加者はノーマスクだから関係者以外、無断で入れないようになってる」

 それだけ言うと、先生は変更を伝えるため各所へ走って行った。

 将が心配の表情でずっとこちらを見ていた。




「──お待たせ致しました。それではダンスに引き続き、歌唱部門のコンテストに移りたいと思います」


 


 コンテスト前に教頭先生からのお知らせがあるという。

 しかし、その内容に参加者たちが騒然となった。

 


 今年の課題曲は審査の結果、三名の音楽教師の中から先程、二年一組・長久保先生が作詞した『明け方の星たち』に決定した。


 歌唱参加者は、候補三曲(曲は同じで歌詞が違う)を二週間前から練習する。

 当日でないと課題曲が決まらないため、通常、本番も歌詞カードを見ながらの歌唱が許されていた。


 だが、今回はネット配信もあり、歌詞カードなしでパフォーマンスを行うのはどうかと長久保先生から提案があったのだ。

 私たちは寝耳に水だった。



「やばいよ。歌詞覚えてるけど、もし間違ったらって思うと堂々と歌えないって。やっぱ焦る」


「私なんて、パニクってすでに三曲ごっちゃになってるよ!」


「なんで急にこんな爆弾落とすの。長久保が自分のクラスを勝たせたいだけだよね、マジで!」



 長久保先生のクラスの参加者たちは、すました顔つきで舞台へと向かっていく。

 きっと、先生がこのことを言い出すのを事前に知っていたのだ。

 優勝のためなら、理不尽なことでもいとわない。芸能界の闇を見た気がする。




(歌唱)




 二年一組。

 さすが、優等生のような正確さ。文句のつけようがない。

 精悍せいかんで教科書どおり、完璧な歌い手たち。

 高評価の見本みたいだと思った。




(休憩)




 次は二年二組、私たちの番だ。

 みんなのこわばる表情が見えた。

 七名しかいないのに、口パクなんてありえない。

 間違えてうろたえれば、そのままネットで流される。残酷に拡散される。

 失敗した時点で恥をかくのは、この時代のお約束だ。ネットの餌食えじき

 とことん性悪の国民的美少女が震えていた。





「遥香ーーー!」

 その時突然、将が私の名を呼んだ。



 なぜ? なぜ、憧れの将くんが河名の名前を呼ぶの? 

 しかも下の名前で?! 

 女子の心の声が聞こえた気がする。その場にいる全員が当惑の表情で私を見た。


 その時だ。

 トップアイドルの将から、堂々と特別扱いされる快感が雷のように身体中を走った。

 思わずペンで書いたホクロのある右手をギュッと握る。心臓の音がドラムのように響いた。




 神様。

 私は自分を信じてもいいですか。

 将は、私よりも私のことを信じてくれている。

 背中を押してくれる。


『そんなところでふさぎ込んでないで、高みにおいで』と。

 優しく恋人に伴奏するように、彼は課題曲の前奏を弾き始めた。




 意を決する。

 やるしかなかった。


「先生っ! 油性ペンありますか、一番太いのっ!」

 私はにわかに立ち上がり、後ろにいる担任に聞いた。

「お、おう」

 驚いて道具箱の中から赤の極太ペンを差し出す先生。私は小声で言った。

へ行かなければいいって、さっき言いましたよね」




「将くん!! ピアノ、もっと鳴らしてーー」




 私は叫んだ。

 覚悟を決めた。

 将くんだけは私の味方。不思議とどんな視線も気にならなくなった。

 今や我慢も、誰の助けもいらない。


 見ててね。

 どうなるか分からないけど……でも私。

 これから、この手で世界をひっくり返すから。




 目を閉じ、記憶の分野・海馬かいばと呼ばれる領域に全神経を集中する。

 左脳は数字や文字、言語の知識をつかさどる。論理的、科学的思考。

 右脳はイメージの記憶。五感や感情に関係する。直感的、芸術性。



 左右の神経よ。

 どうかどうか、交わって情景になれ。私の瞼の奥で鮮明に──。

 


 舞台で固まる、七名の不安げな女の子たちに向かって私は叫んだ。

「みんな、こっち見て!! 大丈夫だから精一杯歌って!」



 今、私の記憶の海に画像として浮かんでいるのは、毎日掃除で入った音楽教室だった。

 ピアノは演奏だけでなく、使用した後までその人柄が表れる。



 黄色いクロスで丁寧に指紋やホコリを拭き取る、痩せた女性教師。


 お菓子のクズを鍵盤にこぼす、若い男性教師。


 脂っぽい指紋が特徴の、野心家な男性教師・長久保。



 長久保先生は、漆黒の美しいピアノにベタベタと指紋をまき散らしていた。

 掃除中見たのだ、指紋だらけのピアノに散らばっていた楽譜を。

 そこにあった、音符の下に綴られた歌詞を。


 脳内の歪んだピントが近づく。

 重なるように交わって意味をなす。

 左右の脳に刻まれたデータが鋭いスピードで神経回路を行き来し、熱を帯び蘇っていった。左脳文字右脳イメージの記憶が馴染み転写したのだ。

 譜面に付いた珈琲のシミ、消しゴムの跡、ページ数まで、鮮やかに……写真のようにはっきりと。



 私は、小ホールの客席側中央に躍り出た。

 そして赤い油性ペンを握って、長久保先生の創作した歌詞をものすごいスピードで巨大なアクリル板に書き殴った。


 そこにいた全員が目を見開き、思わず声を漏らす。

 一体何のマネ?!

 何が始まったんだ!


 課題曲はつまらないなんて言っていた将が、途端に我が物顔で嬉しそうに曲をアレンジし始めた。




 そうだよ。

 私はまるで黒いタキシードを着た偉大な指揮者だ。

 髪を乱し演奏者を導くように、透明なアクリル板に歌詞を描き写す。

 型に上手くはまらない不器用な運命が、私の力となる。逆に自由だと気づく瞬間。



 歌い手たちと向かい合い、大きく身体を動かし、脳内に溢れた譜面の歌詞を一心不乱に書いた。

 誰にも真似出来ない速さ。

 よどみなく、明らかに完璧なで──。



 私には左右という言葉の概念が理解出来なかった。

 そもそも左右の境界を持たない、曖昧な世界の住人だ。

 文字も見方を変えればそれは単なる記号で、メッセージは人に伝えることが大事なはず。




 きっと迷ってもいい。

 この世界には不正解の先にも正解がある。

 壁の向こうに必ずいくつも希望の扉がある。

 左右を喪失しても、いつだって笑顔の方向が正しいと思えばいいだけ。


 人の目も気にせず、私は常識にとらわれない思考を駆使した。

 鏡文字が得意と言われたレオナルド・ダ・ヴィンチも、もしかしたら左右盲だったのかもしれない……なんて勝手に思いながら。




 さあ、歌おう。

 みんなが頑張って練習したのを知ってるから。

 だから、精一杯歌って。

 チャンスを逃さないで。 

 私が夢に一歩近づけてあげる。

 

 

 白い歌い手たちは、澄み切った青空のように晴れた笑顔になった。

 自然と身体が動き出す。

 さっきから客席の歓声が、私たちのパフォーマンスを後押ししてるのに気がついた。

 冷めた大人たちの興奮がどんどん伝わってくる。

 得意げな将くんが響かせる、弾む高音のパッセージがさらに舞台を盛り上げた。



 ほら見て。

 窓から眩しい陽光、音符がキラキラと踊ってる。

 しあわせの象徴みたいにあったかいね。

 私もつられて笑う。

 ここにいる誰もが顔を見合わせ楽しそうだった。


 歌声や歓声とともに音楽が宇宙のことわりのように幸福で、世界が大きなリズムに包まれているのを感じた。


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曖昧でしあわせな世界 片瀬智子 @merci-tiara

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