明日履くパンツがない

朝倉神社

第1話

 突然降りだした雨に、俺は慌てて走り出した。

 天気予報は毎朝見ている。だからこそ、何のためらいもなく洗濯物を外に干して仕事に出たのだ。家まであと500m。いつもなら家の中に干していたけども、今日は梅雨の中の珍しい晴れ間が出るということで思わず外に干してしまった。

 たまにはカラッと乾いた服を着たいという余りにも普通の欲求にこたえるために。


「くそ」


 だんだん雨脚が強くなってきた。

 家はアパートの二階で、ベランダはそんなに広くはない。風さえ無ければ大して降りこむことはないのだが、さっきから風も少しずつ出てきた気がする。胸中に渦巻く不安を抱え、カンカンカンとアパートの外階段を一段飛ばしで駆け上がる。カギを開けて、靴を脱ぎ散らかしてドタドタドタっと1DKをすり抜ける。

 窓を開けてスリッパを履いて降りこむ雨から守る様に洗濯物を取り込んだ。洗濯ものに手が触れた瞬間に感じるのは湿った布の感触。


「あぁぁ」


 濡れている。

 駅から必死に走ってきたけれど俺の努力など神は認めてくれなかった。Tシャツが濡れているのはいい。靴下もしょうがない。でも、パンツだけは助かってほしかった。


 何てことをしてしまったのだと、俺は肩を落として床に手を置いた。


 俺はパンツを4枚持っている。

 一枚は今履いていて、残りの三枚を洗っていた。

 つまり風呂に入ったあとの替えのパンツがないのだ。


 たかがパンツだ。

 人によっては、別に今はいている奴をそのまま履けばいいというかもしれない。

 だが、それはできない。



 俺は明日、デートに行く。

 


 彼女とのデートは5回目で、そろそろ次のステップに進みたいと思っている。そんな時に二日目のパンツを履いていていいのか。もちろん、シャワーを浴びるし身体は完ぺきな状態に仕上げるつもりだ。だけど、二日目のパンツはダメだろ。


 いや待て、今はまだ夜の八時。

 もう一度洗濯機を回せばいいじゃないか。

 9時には干せる。

 明日はドライブデートの予定だが、市場で朝食を食べるから出発は早い。5時には家を出るつもりだ。間に合うか、今は梅雨真っ盛り。あいにく俺の貧乏アパートには冷房なんてものはない。『くびふり君2号』(扇風機)が一台あるだけだ。

 万が一湿ったままだったらどうする。

 普段ならそのまま履く。

 履いているうちに乾くのは経験からわかっている。でも、生乾きのパンツを履けば、それは二日目のパンツを超える悪臭を放つのではないだろうか。


「くそっ! どうすりゃいいんだ」


 考えているうちにも刻一刻と時間は過ぎていく。 

 思い悩む俺をよそに、スマホが振動して着信を知らせる。スマホを開けば、彼女からのメッセージが届いている。


”おっつー。明日楽しみだね。でも朝苦手だから早めに寝ようかなzzz”


 やはりパンツはいる。俺は彼女に返事をしつつ、どうしたものかと頭を抱えた。テレビをつければ、政治家の女性問題やら環境問題のニュースが流れていたけれど、そんなことはどうでもよくて、一番の問題は明日のパンツがないことだと声を大にして言いたい。

 俺だって昔からパンツを4枚しか持ってなかったわけではないのだ。7枚あった時期もある。でも、徐々に擦り切れたりして処分しているうちに今ある4枚に落ち着いた。

 そろそろ買い足そうかなとは思っていた。

 でも、彼女ができた今、新しいパンツを買うよりもおしゃれなジャケットに手が伸びる。4枚でも三日に一度の洗濯でローテは回せるし、下着なんて後で十分だと思った俺が悪い。

 明日、かぶっていくつもりの帽子だって先週買ったばかりだ。

 なんでパンツを買わなかった。

 帽子の前にパンツだろ。

 帽子なくても何も困ることないじゃないか、でもパンツは死活問題だ。

 そんな現実逃避をしたところでパンツが降って湧くはずもない。だが、パンツは降ってわかなかったが起死回生の一手は降りてきた。


「コインランドリーあるじゃん!」


 そう言えば駅前にコインランドリーが最近オープンしていた。今日もダッシュで目の前を通ってきたのに、ここまで気づかないとは情けない。とはいえ、気が付いてしまえばあとは簡単だ。俺はスーパーの袋に濡れてしまった洗濯物を詰め込んで部屋を飛び出した。


 最近、コインランドリーが流行っているらしい。

 それもおしゃれ空間としてのコインランドリーが。カフェのようなところもあり、俺がこれから行くところは漫画喫茶の様になっている。お店の外観も木目調のモダンな作りで、とてもコインランドリーとは思えない。

 自動ドアを潜り抜け、明るい店内に入っていくと夜の九時という時間にもかかわらず結構な人がソファで漫画を読んだり、リラックスムードで腰かけていた。

 コインランドリーは何というか、湿気や熱気がこもっているイメージだったがそういうこともなくグラングラングランというドラムの回る音もかなり小さめで、ジャズのような落ち着いた音楽が店内に流れていた。


「おいおい、マジかよ」


 独り言が漏れてしまったのは、店内にある10台の洗濯機がすべて稼働中だったからだ。いくら何でもここにいるお客が全員がたったいま来たばかりということはないだろうからすぐに開くだろう。適当なソファに腰かけて、洗濯機が開くのを待った。

 スマホを見ながら、明日のデートをシミュレートする。彼女を拾って最初に向かうのは、魚市場に併設されているカレー屋だ。

 朝からカレーかよ? って最初は思ったのだけど、そのお店はかなり有名らしい。もちろん、朝の気分次第によっては普通に海鮮丼や寿司という手もある。それから、車で1時間くらい走ったところにあるちょっと不思議なアートミュージアムに行く予定だ。どうしても梅雨の時期、きれいな景色を見に行くというわけにはいかないのは残念だけど、これはこれでありだろう。それから、昼飯は……と考えているうちに、誰かが席を立った気配を感じた。

 洗濯機に向かった中年男性が、乾いた洗濯物を手にして外に出ていく。


 気が付けば、一時間近く経っていたらしい。夜10時前、俺は空いたドラムに洗濯物を入れてスイッチを押す。残り時間が表示される。乾燥まで含めると2時間近くかかるらしい。

 まあ、そんなものかと俺は漫画コーナーから適当な本を数冊とると、自販機で本格的なドリップコーヒーを購入してソファに戻った。


「ふぅ…」


 勝った。

 勝負は決したのだ。

 ただ待っているだけで、きれいに洗濯されたパンツが俺の手元に戻ってくる。これで明日履くパンツに困ることはない。シリアスな漫画を手にしながら俺はニヤニヤが止まらない。

 

”ピーッピーッピーッ”


 店内に響き渡る不協和音。

 思わず周囲を見合わす俺は、ほかの客たちと目を合わせつつ赤いランプの点滅しているマシーンに目が留まる。


「冗談だろ!!」


 俺が明日への希望と投入した機械が悲鳴を上げていた。慌ててマシーンの前に向かった俺は、残り時間を表示しているデジタルモニターに”AL032”の文字を見つける。考えるまでもなくアラームコードなのだろう。

 いつの間にか、アラーム音は収まり”AL032”の文字だけが無情に点滅を繰り返している。俺が洗濯機の扉を開こうとしても、硬くロックされた扉はビクともしない。


「くそっ!」


 悪態をつく俺の横に立った30代くらいのOL風の女性がすっと指さした先を見れば、問題発生時の電話番号がそこに書いてあった。「ありがとうございます」と小さくお礼を言った俺はすぐさまスマホでコールセンターに電話をする。


「お電話ありがとうございます。※※※でございます。どうなさいましたか」

「洗濯の途中で、アラームで止まったみたいなんですけど」

「ご迷惑をおかけしまして大変申し訳ございません。こちらから遠隔で復旧させたいと思いますので、お客様がご来店の店舗と、マシーンの番号を教えていただけないでしょうか。マシーン番号は本体の右上の四桁の数字でございます」


 オペレーターの言う通りに答えると、そのまま待たされることになった。流石は最先端のコインランドリーだなと感心する。サービスマンが来るまで待てとか言われることを覚悟していただけに、ちょっと肩透かしを食らった気分だ。


「もしもし、お客様、お待たせして申し訳ありません。大変恐縮なのですが、こちらから遠隔でのリセットがうまくいかないようですので、お客様の方でリセットをしていただきたいのですがよろしいでしょうか」


 感心したのもつかの間、 結局ダメじゃねえかと、オペレータの言うとおりにボタンを押したりいろいろしてみるが、どうやってもアラームが解除できず結局サービスマンを派遣するという。

 すでに10時は回っていて、サービスマンが来るのは1時間以内。そこから2時間洗濯機を回せば夜中の1時。朝4時半に起きるとして、寝れるのは三時間か。

 ああ、くそったれ。

 だけどまだ最悪ではない。

 ソファに座って悶々としながらサービスマンを待つ。いっそのこと、デートを昼からにするか。そうすればどこかでパンツを買う時間は作れる。いや、だめだ。

 さっき、洗濯機が回り始めたころ、彼女から「おやすみ」メールが届いていた。早起きに備えてベッドに入ったのだろう。そうなると起こすのは忍びない。

 ああ、畜生。


「お待たせして申し訳ありません」


 前台埋まっていた洗濯機も半分ほどが静かになったころ、そんな言葉とともにサービスマンがやってきた。正直イライラしていたけども、もめる時間も惜しいので、さっさと作業に入ってもらう。ドライバーやらなにやら取り出して、作業を始めるとものの5分で扉は開いた。

 流石に同じ機械は信用できないので、別のマシーンに服を入れて洗濯をスタートさせる。もちろん、料金は返金されているがだからといって失った時間と信用は戻らない。

 まあ、さすがに連続して止まることはないだろうとソファに戻った。


 それから2時間弱。

 どうにか1時前には俺のもとにホカホカになったパンツが戻ってきた。何の変哲もないただのパンツだがどうにも愛おしくてたまらない。

 持ってきたときと同じスーパーの袋に突っ込んでコインランドリーを後にする。

 外に出ると雨がすっかりやんでいた。

 これなら洗濯物がふたたび濡れる心配はないと、うきうきした気分で帰路につく。暗い夜道を傘を振り回しながら歩いていると、ハイビームの車が結構な勢いで走ってくる。

 たまにいるマナーの悪い運転手から安全を見て壁の方に寄るけども、スピードのある車は危ないだけじゃない。雨の日には水たまりがあるのだ。俺の真横を通った時、グレーの乗用車が激しく水しぶきを上げた。とっさに背中を見せたが背丈ほども上がった水しぶきをよけれるはずもなく俺の全身を汚い泥水が染め上げる。


 シャツ、ズボン、おそらくパンツまでぐっしょりと濡れてしまったことに気が付いた俺は、すぐに洗濯したばかりのパンツを確認した。


「……」


 絶句した。

 なぜ俺は袋を閉じなかった!! いや、背後に隠すだけもよかったのだ。それだけでこの結末は回避できたんじゃないのか? 俺は……俺はバカなのか。

 せっかく洗ったパンツも、そして履いているパンツも失った俺は、その場に膝から崩れ落ちた。


 いや、まだ三時間ある。

 もう一度、コインランドリーに行けばいいのだ。

 たったそれだけのこと。服はすべてずぶ濡れだけど、家に戻る時間も惜しい俺はそのままコインランドリーに引き返した。

 だが、お店の扉は無情にも閉じられていた。中は煌々と光を放っているのに、ぬれねずみの俺を拒絶するように扉はうんともすんとも言わなかった。

 よく見れば、無人のコインランドリーのくせに1時で閉店となっていた。洗濯中の客が外に出られるように中からは開くけど、外からは開かないらしい。


 扉の前の注意書きを見た瞬間、俺の心はぽっきりと折れていた。

 予報にない雨に降られ、コインランドリーではマシーントラブル。そして最後の水はねからの閉店。これはもう諦めろということなのか。明日のデートに行くなと神が言っているのだろうか。

 気力をなくした俺は、薄汚い格好のまま近くのコンビニに逃げ込んだ。余りの様子に店員に嫌な顔をされながらも、俺はトイレコーナーに行って顔に掛かった泥水をきれいに拭った。鏡に映る死んだ魚のような目をした男。

 こんな顔では彼女に振られちまうかもな。

 ふふっと苦笑した俺は、こうなったらフリースタイル(ノーパン)で行くしかないかとか考えながら、トイレから出て雑誌コーナーと日用品コーナーの間を通り抜ける。

 その時、俺の目の前に救いの女神が降りてきた。


「はは、はははっは」


 思わず乾いた笑いが漏れてくる。

 洗濯で悩む必要などなかったのだ。

 コインランドリーで過ごした3時間は何だったんだ。


 

 パンツはここにある。


 金のブリーフでも、銀のトランクスでもない。

 黒の普通のボクサータイプのトランクスがここにある。


 俺は明日コンビニパンツでデートに向かう。

 


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