完結
それはお夢が昔大叔父の所で見た有難い掛け軸に描かれている観音様のあのような美しいお姿の方だった。
ひれやたれを軽やかになびかせて、その足元や肩のあたりには幼い愛らしいお子達がフワフワと舞うように何人もまとわりついている。
二人はその不思議さと美しさに思わず見とれていると、声にもならぬ声で、そのお子をようここまで連れて来てくれました。お礼を言います。お二人には何かしてあげましょう。
そう言いながら竹次郎の背中から、フワリと子供を抱き上げた。
今迄竹次郎の背中にいた女の子はまるで母親の胸に抱かれたように安心しきっている。
そのお方は驚いて見つめている二人に向かって、何か現世に未練はありませんか?長い時を与える事は出来ませんが、七日間の猶予を与えましょう。その間に心残りのないようにして下さい。それでは、この先の崖から下界へ飛び降りて下さい。と言った。
二人は言われた崖へ近づいて行ってそこから下を見下ろした。そこは厚い雲に覆われて定かではないが、その雲の下には現世があるのだろう。竹次郎とお夢は言葉には出さずとも心は一つだった。
二人は手と手をしっかりと握ると思い切って下の雲をめがけて飛び込んだ。
ああ、鳥が飛ぶとはこういう事だろうかと思った。下から吹き上げる風に煽られるように、気持ちの良い少し肌寒さを一瞬感じたが、その途端何も解らなくなってしまった。
やがてお夢は家のいつもの布団の中で目を覚ました。
最初は長い変な夢を見たと思った。だが、それはどこまでもはっきりとした不思議な夢だった。
確かに一度目、目覚めた時、体は少しも動かなかった。このまま死ぬのかと思い、それならそれで仕方がないと思った記憶がある。
もしも、あの時本当に死んだとしたら?
私は一度、あの世という所に行って帰って来た事になる。
本当にあの世とはああいう所なのだろうか。それとも私が自分で思い描いていたものが夢に現れたのだろうか。
だけれども寿庵先生の事はどうなる・・寿庵先生が竹次郎さん等と私は聞いた事がない。ましては遠い昔に一目すれ違っただけのあの人が寿庵先生等と考えた事もなかった。
あれはもしや本当の事だろうか。
あれが本当なら私に残された寿命は七日という事になる。
それにあれが本当なら私は生きているうちにあの人に会って確かめねばならない。
竹次郎と言ったあの人にもう一度会いたい!寿庵先生に会って確かめてみたい。お夢の心は切ない程だった。
お夢は急いで起き上がると、身支度を整えた。
まず一番のお気に入りの着物を着た。髪も入念に櫛を入れキリリと結い上げ、いつもしている翡翠の玉かんざしを刺した。
鏡をのぞくと気のせいか、そこには若くなったようなお夢の顔があった。
白髪が全部消えた訳ではない。顔もまるっきり若い頃に戻った訳ではないが、どこか活き活きとした若い頃の面差しに戻ったように感じるのは気のせいだろうか?
目が違うのだろうか?鏡の中の目が娘の頃のようにキラキラして見える。
とにかくあの夢のお蔭だ。
しばし鏡の中の自分に見入ってから、
こうしちゃいられない。そう思い返すとお夢は、大切な物を入れている箪笥の所迄行き、引き出しを次から次へと開けて中を改めた。
大丈夫、以前から自分にいつかは訪れる最後の日の為に片付けておいたが、それをもう一度確かめたのである。
大丈夫、これをそのままおたいにやろう。
昨日迄は立ち上がるのも、歩くのでも重くだるかった最近の体とはまるで別物のように、今は若い娘のようにキビキビと体が思い通りに動くのはやはり不思議だった。
何と気持ちがいいのだろう。
そう思いながらも、若いおたいが朝出てきたら言っておいてやらねばならない事をあれこれ頭の中で整理した。
すると間もなく下で、「おはようございます!」というおたいの張りのある明るい声がした。
この声を聴くと、どんなに曇り空でも、雨の日でも、さわやかな気持ちになれるのだから。
この声はおたいの持つ一番の魅力だろう。
やがて階段を上る足音がして、生き生きとしたおたいの顔が現れた。
「お夢さん、おはようございます。今日も一日宜しくお願いします!」
年老いたお夢に対しても、まるで自分より二つ三つ年上の姉さんに言うような雰囲気でおたいは挨拶をした。
お夢は改めてその活き活きとした顔を見た。
何て愛らしい娘なんだろう。そう思いながら、小さいちゃぶ台の傍らに座らせてお夢は切り出した。
「おたい、以前に何度か話した事でくどいと思うだろうが、私はもういつ死んでもおかしくない年だ。私に万が一の事があったらあとの事よろしく頼むヨ。この店も店の中の物も全部お前の物になるように右衛門さんに頼んであるからネ。
その時は右衛門さんが全部取り計らってくれる事になっているから心配いらないが、お前は本当にこの店を続けて行く気持ちなのかい?」と言うと、
「はい!」おたいは迷いもせずに真面目な顔で返事をした。
「おようさんも、おゆうさんもお前と気の合った友達だが、あの二人もいつ嫁に行ってもおかしくない年頃だ。急に手伝えなくなる事も考えておいた方がいいヨ。出来れば子供が手のかからなくなった丈夫で気持ちのいい人がいると安心
なんだがネ。知り合いの中からそういう人を考えておく事だネ。それと、おたい、私はこうして生涯独り身を通してしまったが、商売が忙しい、忙しいにかまけてお前もが私のようになるかと思うと、それが心配なんだヨ。
お前、誰か好きな人はいないのかい?気になる人はいないのかい?」そう聞くと、おたいは頬をポッと染めた。
「もしも気になる人がいるのなら、私の目の黒いうちに話だけでも決めて仮祝言だけでもしたいものだネ。お前一人っきりでは少しも先に進めないだろうからネ。いいや、私には解るんだヨ。若い頃はそういうものサ。
傍らにいる年寄りがヤイノヤイノおせっかいをしなけりゃ、自分ではどうする事も出来ないからネ。ところで気になっているお人は誰だい?」
おたいはモジモジしてうつ向いたまま、なかなか口に出さない。
「じゃ、ここに書いてごらん。」とちゃぶ台を指さすとちゃぶ台の上に人差し指で”しょうきち”と書いた。
「昭吉?あのうどん屋の昭吉かい?」
おたいはますます顔を赤くしたまま何も言わない。昭吉というのは三軒先のうどん屋の次男坊でこの店にいつも甘い物を食べに来る若者だった。
特別気働きのするはしっこい若者ではないが、いつも笑顔を絶やさない正直で嘘のない人間だ。
お夢はおたいを見直した。顔の良し悪しや、格好の良し悪しではなくて、性格の良し悪し、人柄の良し悪しを良く見ていたと感心した。
「ああ、昭吉なら小さい頃から知っているが、あれは心根のいい子だヨ。」と言うと、おたいは嬉しそうにした。お夢の目からみても確かに悪くはない。
「お前本当に昭吉でいいんだネ?」と念を押すと、おたいは恥ずかしそうに黙って下を向いている所を見ると、それでいいという返事だろう。
そこのうどん屋の亭主もおかみさんもお夢とは知れた仲だ。長男坊は昨年嫁を貰ったばかりだが、長男坊もその嫁も皆、悪い人間じゃない。その中でも一番気持ちの優しいのは昭吉だろう。
「それじゃ、私は早速行って来るヨ。」そう言うと、あれヨあれヨという間に、お夢は仏壇の前に行き一瞬手を合わせてから、先日知り合いからお土産に貰った供え物の菓子箱を下げると、その美味しそうな菓子箱を風呂敷に手早く包んだ。
そして、「行って来るからネ、いいだろう?」とおたいに言うと、包みをかかえて外に出た。
おたいは止めはしなかったが、あまりの手早さに胸に手を当てて不安そうに送り出した。
すぐ近くなので気軽な調子で店の戸を開けると、「ごめん下さい!おはようさんです。」と声を掛けた。
すると昭吉の母親のおかみさんが奥から顔を出した。
「あらっ?お夢さん。朝も早うからどこかにお出かけですか?」と機嫌良く笑顔で出て来た。
丸っこい顔立ちの昭吉はこの母親似なのだs。いつもニコニコ顔で相手を和ませてくれる。
「いえね、知り合いがお土産に買って来てくれた甘いお菓子なんですが、貰い物で失礼とは思ったんですが、おすそ分けにと思って…。」と言って風呂敷を解いて箱を差し出した。
すると、「あーら、すみません。まあまあ珍しいお菓子だ事。頂戴していいんですか?」
「どうぞどうぞ、うちは甘味処ですから、食べていただけると嬉しいぐらいなんです。」とお夢が言うと、おかみさんは、
「うちはうどん屋ですから家族揃って甘い物に目がないんですヨ。」
そう言いながらお茶を出してくれた。
お夢は出されたお茶を一口、美味しそうに飲んでから、「ところで急にこんな話をして許して下さいヨ。次男の昭吉さんの事ですけれど、誰か好きな人とか決まった人はおられんでしょうか?」
「ええっ?うちの昭吉ですか?あの子はあの通りいつまでものんびりしていて、まだまだそんな先の事なんか考えちゃいませんヨ。暇が出来るとお夢さんの所に甘い物を食べに行くのが唯一の楽しみみたいですもん。」という返事が返って来た。
その言葉を聞くとお夢はここぞとばかりに、
「あのー、おかみさん。私とおかみさんの中ですから単刀直入に聞きますけれど、うちのおたいの事どう思います?」そう言うと、おかみさんは目をパチクリさせている。
「つまり昭吉さんをうちのおたいの婿にと私が勝手にそう望んでいる訳なんですが。」そう言うと、
「ええーっ?うちの昭吉がおたくのおたいちゃんの婿にー?」と驚いている。
「いえネ、急に思い立った事じゃないんですヨ。私は先から昭吉さんの事は可愛い、いい子だと思っていたんですヨ。小さい頃から性格もよく知っていますし、裏表のない人だと解ってますし。おかみさんの方に顔も似て。もちろん、旦那さんも
言い方ですけどネ。最近じゃ、ああ、いい若者になったナーと、ホレボレして見ていたんですヨ。うちのおたいの事、おかみさんどう思います?まあ、私の遠縁の娘なんですけどあの子も裏表のない正直な心根の優しい娘ですヨ。
自分の産んだ子でないから遠慮せずに、はっきり自慢出来るんですが本当にいい娘ですヨ。私ももう年ですから、いろいろ考えましてネ。万一の事があったら、私の持っている物は全部あの家も店も何もかもおたいにやるつもりでおります。それ程、
私はあの子の気立ての良さに惚れ込んでいるんです。
そこでその大事なおたいに昭吉さんのような気持ちのいい人が婿に来てくれたらどんなにいいだろうと、前々から思っていたんですヨ。おかみさんどうでしょうか?この私がそうお願いしていると、旦那様や昭吉さんに話してお返事いただけませんか?
私一人っきりで先走りするようですが。何せ老い先短い年寄りのわがままだと思って聞いてもらえませんか?
今出掛けにおたいに、私は昭吉さんをお前の婿にと願っているんだが。お前の気持ちはどうかと聞きますと、頬をポッと赤らめていました。
はっきりとは言いませんが、おたいはその気持ちのようです。どうかおかみさん、私は自分の目の黒いうちに大事なおたいに良い婿を決めたい一心で朝早くからこうして押しかけて来てしまいました。突然の事でびっくりなさったと思いますが、どうか
良いお返事をお願いします。」
そう言って深々と頭を下げた。
おかみさんは普段のニコニコ顔から、すっとんきょうな顔になり、
あわわ、あわわと言いながら、奥に駆けて行ってしまった。
間もなくまだ寝ぼけまなこの亭主と、寝ている所を叩き起こされたとはっきり解る昭吉を連れて戻って来た。
二人はかみさんから濡れ手拭いを渡されて、顔を拭いた。
まずおかみさんが、「お夢さんがネ、おたいちゃんの婿に昭吉を欲しいと言ってみえたんだヨ。」といきなりズバリ簡単に言い放った。
その途端、旦那も昭吉本人もビックリ仰天、いきなり目が覚めたような顔をした。
二人共何も言わず呆然としている。
お夢が、「旦那さん、うちのおたいを見た事ありますか?」と言うと、
「ああ、めんこい娘だナ。」と旦那は言った。
「昭吉さん、貴方、時々うちに食べに来て、おたいの事どう思います?」そう聞くと、昭吉は既に顔を赤くして下を向いている。
「昭吉さん、私はお前さんの事を見込んで、おたいの婿にはお前さんをおいて他ないと思い込んでしまったんですけど、おたいの事嫌いですか?」と言うと、昭吉は慌てたように首を横に振った。
「それでは、おたいの事好きですか?」と聞くと、昭吉は赤くなりながら首をはっきりと縦に振った。
「もう一度確認しますけど、昭吉さん、私はあの店をおたいに全部やろうと思っています。おたいも引き継いであの店をやって行くつもりのようです。昭吉さん、うちに来てあの店を一緒に引き継ぐ気持ちはありますか?」そうお夢が聞くと昭吉は赤い顔の
まま、お夢の目をしっかり見て「はい!」と力強く答えた。
お夢はホッとしながらも、旦那さんとおかみさんに向かって、「昭吉さんはこう言ってくれましたが、いかかでしょう。お許し願いますでしょうか?」と深々とお願いをした。
両親は異存ないと言った。
話はあっという間に早朝のまだ人々が動き出すか出さないかのうちに決まってしまった。
「でもこれは内々の事で、犬や猫の子を貰うのとは訳が違います。改まったお願いは何かと相談に乗ってくれる右衛門さんを通してお願いに上がります。その時に祝言の日取りや詳しい事も決めて貰おうと思いますが。その時は全て、こちらの昭吉さんの
都合に全部合わせますから、何卒宜しくお願いします。」と話をしてお夢は帰って来た。
これで一安心だ。お夢は心の底から安心した。
おたいも昭吉の実家がすぐ近くなら、何があってもあの両親が傍らについてくれるから、例え子供が産まれても随分、心強いだろう。
そう思い、これで大事な事が一つ片付いた。
後はこの事も全て右衛門さんに頼もうと思った。
次は竹次郎さんに会う番だ。
本当にあの寿庵先生が竹次郎さんなのだろうか、そう思いながらも下駄の音も軽やかに店に帰って来た。
おたいに早く知らせて喜ばせてやろう、店の戸を開けると何とあの竹次郎こと寿庵先生が店の入り口の椅子に腰かけて待っていた。
「竹次郎さん!」
「お夢さん!」
二人は長年離れていた若い恋人同士のように声を掛け合った。
「あれは本当の事だったんですね。」
「夢じゃなかったんですね。」
二人は同時にそう言い合った。
その様子をおたいが目をパチクリさせていている。
お夢は寿庵にちょっと待って貰うとおたいの所に行って、「うどん屋の昭吉さんはおたいの所に婿に来てくれる事を承知してくれたヨ。」と話した。
するとおたいはパッと顔を輝かした後、嬉しさに涙ぐんだ。
お夢も嬉しかった。人の縁は異なもの味なものだネ。でも案外この二人はお似合いのいい夫婦になるだろう。祝言をあげる頃には私はいないが、後は右衛門さんに全てお願いしよう、と思った。
お夢は店の事でおたいに二言三言何か言いつけていると、おゆうとおようの二人の友達がいつものようにお夢の甘味処に手伝いに来た。
「おはようさん。」
「おはようさん。」
二人共、気立てのいい可愛い娘達だ。
あの見た夢が本当なら七日間の後には自分はもういない。今から全て自分でやらせよう。
お夢は「おたい、今日する事はもう解っているネ。今日は私なしでやってごらん。大丈夫、お前なら出来るヨ。これからはお前がこの店のおかみだヨ。おへそにグッと力を入れて頑張ってごらん。」と言った後、「そんなに気張らなくても、いつものようで
いいんだヨ。」と笑った。
「それじゃ、私は頼む事があるから右衛門さんの所に行って来る。その後回るところがあるから、今日はおたい、お前に全部まかせたヨ。おゆうさん、おようさん頼みますヨ。」そう言うとお夢は、
寿庵先生と二人肩を並べて楽しそうに出て行った。
おたい、おゆう、おようの三人の娘達はいつもとどこか違う若く華やいだ年老いた二人を驚いたように見送っていた。
お夢は嬉しかった。まだ生きているうちに自分はこうして竹次郎と並んで歩いている、そう思うと心が躍った。
四代目右衛門という人は五十少し前の落ち着いた人物だ。代々この町内で何かと人々から頼りにされる顔役だった
お夢は先代の三代目右衛門という人が特に甘い物が好きで、店の常連だったので、気さくな人だった事もあって些細な事でも相談に乗って貰う間柄だった。
先代が隠退して仕事を今の右衛門に譲ってからも父親同様に気持ちの良い付き合いをして何かと相談に乗って貰っていたのだ。
今の右衛門も若い頃から頭が良く気が回り、何を頼んでも卆なく事を運んでくれると評判の人だった。
妻女も気持ちの良い人で、お夢は寿庵と一緒に右衛門を訪ねて行った。
意外な二人が一緒なので妻女も右衛門本人も、これまたどうした訳かとおもしろそうに二人を見ながら腰を下ろした。
「いえね、今日はうちのおたいの婿取りの件でお願いに上がった訳なんですが、丁度、そこで寿庵先生と一緒になったものですから。今日はお天気が良いからお花見でもしたいネという事になって、それで一緒に来ていただいたんです。」
お夢はそう言いながら、自分でも顔が赤くなるのが解った。
お夢よりかなり年若い右衛門夫婦がそれをほのぼのと眺めながら、「お夢さんと寿庵先生はこうして二人一緒に並んでおられると本当にお似合いなのですナー。」と言って笑った。
「まあ、大人をからかうもんじゃじゃいですヨ。」お夢はそう言いながらも嬉しかった。寿庵も穏やかに笑っている
一通りおたいと相手のうどん屋の昭吉の事を話し、この先の事は右衛門さんに全てお任せしますのでどうか宜しくお願い出来ませんでしょうかと頼むと、右衛門夫婦は快く引き受けてくれた。
その用事が済んでしまうと、もう後は思い残す事はない。
お夢と寿庵こと竹次郎は外に出ると、お互い顔を見合わせてニッコリ笑った。
「あの夢は本当だったんですネ。」お夢がそう言うと寿庵も頷いて、
「私も目が覚めた時は夢かも思ったんですが、あまりにも記憶がどこまでもはっきりしているものだから、もしも本当ならと考え直して朝早くから確かめに走って来たのです。」そう言って笑った。
その笑顔はどこまでも懐かしく、どこまでも恋しかったあの時のあの人の目だった。
とうとう会えたのだ。
とうとう、この世で会う事が出来たのだ。
お夢が胸いっぱいの気持ちでいると寿庵が、
「さて、これからどうしますかナ?本当に良い時期だ。まだ桜も終わっていないでしょう。本当に花見にでも行きましょうか?」と言った。
二人はそう決めると、今度は揃ってのんびり歩き出した。
ゆっくりカランコロン、カランコロンと下駄の音を響かせる石畳の先にやはり桜はまだ咲いて残っていた。
お夢と寿庵が来るのを耐えて待っていたかのように、ハラリハラリと花びらが散り始めている。
「もう桜も終わりですナー。」寿庵が感慨深げに言った。
「そうですネ。でも私この花の散る時も、何とも言えず いいナーと思うんですヨ。」とお夢も答えた。
そういう二人の周りにまた祝福するように、桜はハラリハラリと落ちて来た。
二人はまるで何十年も連れ添った仲の良い夫婦のように気取りもなく、緊張もなく、周りの桜を愛でながらゆっくりと、
カランコロン、カランコロンと下駄の音を響かせながら歩いて行った。
本当に気持ちの良いどこまでもすがすがしい日だ。
この世で生きているうちに会えたのだ。
そういう想いが二人の胸をしみじみとさせていた。
口にあれこれ出さずとも、すぐ隣りに想う人がいて、安心した気持ちでこの桜を愛でる喜び。
時々隣りを見ると、優しいまなざしが答えてくれる。お夢は幸せだった。
とうとう生きているうちにこんな幸せが味わえたのだ。
「”散る桜、残る桜も散る桜”」といいますナー。人は皆、誰もが咲いて舞って散って行くのですナ。」寿庵がしみじみと言った。
お夢も「本当に、人も花も同じですネ。生まれて、泣いて笑って、やがてみんな死んで行く。桜や他の花々と同じですネ。」そう言うと、
「本当に、全くそうです。」と寿庵が言った。
二人は何とはなしの会話をしながら、満開だった桜がハラハラと散る中をいつまでも、いつまでもそぞろ歩いた。
明くる日、二人は、池や山水で有名な庭園を見に行った。
こんなに長く生きて来ながら二人共、毎日の忙しさに紛れて、こんなにしみじみと美しい景色を味わう事がなかった。
二人はこの世の見納めを味わうように、静かに二人だけのその世界を味わっていた。
そのまた明くる日は、二人で初めて人混みの中、町中に出掛け、歌舞伎やお芝居を見に行った。見て楽しんで弁当を食べた。
以前も友達や知り合いと何度か来た事はあるけれど、寿庵と並んで芝居を楽しみ、幕の内弁当を味わうのは格別の味がした。
寿庵は少しもお夢を緊張させたり、気疲れさせる人ではなかった。
いつも穏やかで心持ちの良い安心感を与えてくれる。まるで守り人のようにお夢を守っていてくれる。
お夢も格別飾る事もなしに、心から自然に振舞う事が出来た。
ああ、これが私が長年欲しがっていたものなのだ。
お夢は時々、寿庵の横顔を見ながらそう思った。
終わり良ければ全て良しというのはは本当だ。
このように二人揃って行きたいところに行き、見たい物を見て歩いた。
ゆっくりとしみじみと生きている幸せをかみしめた。おたいの方は店も縁談も順調に行っているようだった。
これでもう何も心配はない。
このように二人は、時を惜しむように二人一緒に連れ立って歩いた。そうしながらも、限られた時間は砂が流れて行くように少なくなって行った。
残りあと一日となった前の日の夕方、お夢は寿庵と別れる時、
「明日で最後ですが、どこへ行きましょう。」と聞いた。
寿庵は、「私はどこでも貴女が行きたい所にお供しますヨ。」と言った。
「もう後片付けは済んだのですか?」とお夢が聞くと、
「ええ。私を手伝ってくれている者に全て任せましたから。」と言って穏やかに笑った。
お夢が、「私の方もみんなおたいに任せてますので安心です。」と言うと、
「そうですか。今度こそこの娑婆ともお別れなんですナー。そう思って眺めると、この世も何とも楽しく、複雑だが味のある世の中に見られますナー。誰もが一人一人一生懸命に生きているのが今こそ解ります。
私はどういう訳か今、天上から下を眺める御仏の心が解るような気がするのですヨ。我々が、泣いたり笑ったり、争ったり、罵り合ったり、後悔したり喜んで飛び跳ねたかと思うと急にがっくりしたり。
誰もがそれぞれそれなりに、一生懸命生きている。どんなに愚かな人間でも、そんな一人一人が今は愛おしく思えてならないのですヨ。御仏はこんな目で、娑婆にうごめく私達弱い人共を眺めておられるような気がするのですヨ。」
寿庵はしみじみとそう言った。
「本当にそうですね。」とお夢も答えた。
一度はあの世へ行き、七日間の猶予をいただいて帰って来て、またこの世に別れを告げて行かなければならない身になった今、周りの全ての物、すべての人達が愛おしく見えるのは自分も同じだった。
お夢の覚悟は決まっていた。
寿庵に向かって、「思いがけなく七日間の貴重な命をいただいて、しかも貴方様と過ごす事が出来て本当に幸せでした。あと一日でまた、あの黄泉の国に帰らねばなりません。また、あの同じ道を辿るのか、今度はまるで
違った世界が広がっているのか。はたまた、貴方様とどこまでご一緒出来るのか解りません。
この間のあの冥土の旅路は御仏様が憐れんで特別に下さったものかも知れません。この感謝の気持ちを忘れずに最後の一日は、後悔のないよう、私と竹次郎さんが出会ったあの場所に行ってみとうございます。」
そう言うと寿庵は、「私もそう思っていました。やはり私達は同じことを考えているのですね。」と言って、嬉しそうに笑った。
二人は約束して別れた。
家に帰って、細々とした最後の始末をしてお夢は、おたいに向けて手紙を書いた。
おたいへ
最近年をとったせいか、自分の体にフッと自信が持てないような気がする事があります。
もしかしたら、あまり時間がないのかも知れない、そう思ったりします。
私ももう少しで七十ですものネ。随分長く生きました。
その、もしもの時の為に今、筆をとっています。
おたい、私はお前のお蔭で本当に幸せでした。
おたいから見たら、私は独り身の淋しいお婆さんに思えるかも知れませんが、そうではないんですヨ。
若い頃には遠い土地迄行って、普通の女の人が経験した事のない貴重な経験をする事が出来たし、
最近は思いがけず、遠い昔に約束した人に会う事が出来ました。今は満足した幸せの中にいます。
少しも淋しい人生ではなかったんですヨ。
私にもしもの事があっても悲しまないで下さい。
それからおたい、幸せというものは自分の気持ちが決めるものです。人から見えるものじゃありません。
おたいはおたいの中に幸せの種をいっぱいに持っています。それを大切にするんですヨ。
そしてネ、自分の周りにある幸せを見逃さずに見つけて、それをしみじみと味わいなさい。
味わえば味わう程、その味がジワジワ出て来るものなんですヨ。
お前がいつも幸せで、そしてやがて、お婆さんになるその日までいつまでも幸せでいる事を願っています。
お夢
そう書いた手紙を、箪笥の一番上の引き出しに入れておいた。
次の日、早朝に起きて身支度を整えた。
戸を開けて外に出ると、思いがけず外は深い霧が立ち込めていた。
深い霧は人によっては忌み嫌われるが、お夢にとってはあの遠い昔の若かった頃が蘇って来るような、そんな気がする切ないものだ。
あの時以来、こんな日は何度もなかったが、
霧が深い日は、お夢はいつもあの場所に飛んで戻りたいような気持になったものだ。
もうこんなに長く生きて、手も足も顔も、すっかりお婆さんになってしまったけれど、この胸の中の一番奥の柔らかい部分が、この霧によってすぐにも目を覚まして、
あの時の事を鮮やかに思い出させてくれるのだった。
お夢は簡単な旅支度ををして家を出た。
戸を閉めて数歩歩いて、振り返って店を眺めると、霧の中に浮かぶ店はまるで人のように、そこに佇んでお夢を見送ってくれているように見えた。
あの茂吉やおかつや、今迄お夢を助けてくれた人達、客として来てくれた人達。懐かしい顔達が次から次と思い出された。ありがとうございました。
いよいよ本当にこの世を去る時が来たようだ。本当に本当にありがとう。
また、この世に来る事が出来るだろうか?
それは解らない。もしも再びこの世に赤子として生まれ落ちたとしても、もう前世の事等覚えてはいないだろう。
お夢は霧の中に浮かぶ店に向かって、深く頭を下げて別れを告げた。
それから思いを振り切るように、ボンヤリとしか見えない街筋を歩いて行った。
歩きながら、あの場所に行くのだ。あの場所に行けばあの人が待っていてくれる。
霧雨に濡れて、あの可憐な薄桃色のかわらなでしこも、きっときっと私を待っていてくれる。
お夢は胸いっぱいのあの娘の頃に戻って、小走りにあの細い野道のある方へ走って行った。
いつの間にか、自分が年老いた身ではなくて、本当にあの頃に戻ったような気がした。
体も軽く、走っても少しも疲れない。
霧に濡れた道端の草も生き生きと鮮やかな緑をしている。
やがてどこからか、確かにあの覚えのある香りが漂って来た。
すると、行く手の道脇の緑の中にポツンと一輪、薄桃色に見えるのは間違いなくあの時のあの花だ!
あの時のあの花が。
お夢がきっとここに来る事を信じて咲いていてくれたのだ!
ああ、あの時のまんまだ。
お夢は駆け寄って行った。
やっぱり霧に濡れた花びらは、あの時のあの花だった。
そっと両手で包んで香りを嗅いだ。
ああ、この香り。あの時のあの花だネ。
確かにあの時のお前だネ。
花と再会していると人の気配がして、
遠くの霧の中から影がこちらに向かって来る。
そして、その人は近くに来ると、驚いたようにお夢を見た。
正しくあの時のあの目だ。
「竹次郎さん?」お夢は声を掛けた。
あの時のまんまの若い竹次郎が、息をつめてお夢を見ていた。
お夢は嬉しくて、嬉しくて、十六のお夢になって駆けて行った。
そして二人はそのまま、深い霧の中に消えて行った。
霧は朝陽が昇ると共に消えてしまったが、お夢の姿はどこかに消えたままだった。
そのうちに、実は寿庵先生の姿も見えないという話が入って来た。
結局、町内の人々は、二人はまだまだ達者だったから揃って、八十八か所巡りにでも出たのだろうと話し合った。
いくら待っても仕方がないので、おたいと昭吉の祝言は予定通り無事にとり行われた。
そして今日も人々は、何事もなくせわしなく生きて行く。
お夢がいなくなってから、お夢に頼まれたおたいと昭吉の祝言を無事とり行って、お夢の店をおたいの物に無事譲り渡しを取り計らった右衛門が一安心して眠った夜、夢を見た。
それは、若くもない、さりとて年寄りでもないお夢と寿庵が、白いお遍路さんの成りをして楽しそうに旅をしている姿だった。
なんだ、やっぱりお参りの旅に出たんですネと声を掛けると、こちらに気付いて二人揃って頭を下げた。だが、そのまま
何も言わず、また歩いて行ってしまった。
その後にはどこからか唄が聞こえて来た。
わらべ歌のような、御詠歌のような節回しだった。
聞いた事のない歌だと思って耳をすますと、繰り返し唄っているのはこういう歌だった。
三千世界を苦しみ抜いて
それでもなりたや人の子に
五条河原に晒した首に
蝗が頭に飛んで来て
聞いてみたげな未世の事
愛想尽かしの最後にこりて
魚にもなろうと思ったけれど
やはり なりたや人の子に
今度こそはと身を改めまして
悔いなき一生 送りたや
右衛門という人はは頭がいい人なので、その夢から覚めても、歌の文句を覚えていた。
そしてあちこちの寺や、年寄りに聞いてみたがおわり知らない歌だと言う。
結局、解らずじまいだったが、あの二人はきっともう冥土にいるのだろう。
そしてまた、人の子としてこの世に生まれて来るのだろうと思った。
もしかしたら、おたいの子供として生まれて来るかも知れない。そう思ったりした。
山ん婆の昔話/霧に濡れてる野辺の花 やまの かなた @genno-tei70
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。山ん婆の昔話/霧に濡れてる野辺の花の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます