第3話

お夢は大叔父の友人だという、やはり同じ商売を営む与兵衛という人に迎えられて大層なもてなしを受けた。

聞けば大叔父の長兵衛とは共に一緒に学び競い合った仲だという。長兵衛からの手紙の中でお夢の全ての事情を知っているらしく、長兵衛がいかに

お夢の事を可愛く思いこの度の火事の事で哀れに思っているかを十分承知しているようだった。

与兵衛はすぐに、暮らす所と働く所を見に連れて行ってくれた。寝泊まりして暮らす所は働く所にほど良い近さの静かな所にあった。

御主人を亡くされてから下女と二人で静かに暮らしているという上品な婦人は、若い娘が来る事を心待ちにしていたという事だった。名前はマサ女と

いった。

年の頃はお夢の母親と同じくらいだろうか。だが物言いと身のこなしは上品で、どこかおっとりした人だった。

お夢はマサ女の人となりを見てホッとしてすぐに気に入った。

与兵衛は次に、明日からでも働きに出る書家の元へ連れて行った。

道々、与兵衛が話す事には、この街にとどまらず大変有名な書家だという事だった。その屋敷はさすがに立派な作りの堂々とした門構えの所でさすが

のお夢も緊張しながら後ろをついて行った。広い屋敷には母屋と仕事場の二つの建物があり、その二つは長い中廊下で繋がっており、先生以外は家族

の者達でも決して仕事場に立ち入らず、また逆に弟子や仕事関係の者達は母屋には入らないように厳しく分かれていると与兵衛は話しながら連れて行った。

お夢と与兵衛は当然、仕事をする屋敷の方に通された。

二人の若い弟子の案内や仕草があまりにも無口で折り目正しく無駄のない事から、この家の主がいかに気難しい人かが気になった。

やがて書家というその人が現れた。お夢が想像していたよりずっと若く、全体にはほっそりとして神経質の学者のような雰囲気の人だった。

その人は「遠くから見えられて大変だったでしょう。」と言った。

顔の表情は変わらないが声音は優しかった。

「いいえ、l私のような者が出来る仕事か、そればかりが心配でした。」お夢は正直に答えた。

書家の雅号は”泉水”と言った。泉水はお夢の正直な言葉を聞くと初めて目にかすかな笑みを浮かべて、


「私も正直に言いましょう。貴女の目が私の力になってくれるかどうかはこの後、少し試させていただいて宜しいかナ。少し酷だが、それによって

判断したいと思います。」と言った。

お夢は試験のような事をすると聞いて、急に胸がドキドキした。

何をさせるのだろう?

書を書けというのだろうか?

横に座っている与兵衛を見ると落ち着き払っている。これは当然の事なのだ。本人の能力も解らずに雇う訳がない。

やがて二人の弟子が、泉水が今朝書いたばかりだという書を慎重に運んできた。縦書きの書を二枚運んで来ると、広い部屋半分を占領している黒い毛氈の上に並べて置いて出て行った。

泉水はお夢をこっちに来るように招くとその書を見せた。


これがこの方の書なのかと驚いた。

ほっそりとした体からは想像もつかない荒々しく力強い筆さばきの書が目の前に迫力を持って並んでいた。

どちらもそっくりで甲乙つけがたい素晴らしい出来だ。だが、よく見るとわずかに違う。お夢はじっと見た。

見ているうちにいつの間にか違いが明らかに見えて来た。

泉水が「貴方が自分の為に選ぶとしたらどちらにしますか?」と聞いた。

お夢はもう迷わなかった。右手の書を示した。「私はこちらの方が好きです。」

すると泉水は満足したように頷き、弟子を呼んで左手の書を破棄するように命じた。お夢は内心驚いたが顔には出さなかった。

次にまた、横書きの書が用意された。それもまた、いずれも素晴らしい書だった。

どちらかを選べば、どちらかが破棄される。そう思うと油汗が滲むほど、責任を感じて緊張したが、お夢はじっと見て迷いもなく好きな方を選んだ。

泉水はまた、満足したように選ばれなかった書を弟子に破棄させた。

三番目には、ちょっと見にはさっぱり訳のわからないような稚拙に見える一文字の書だった。

初めて筆を持った幼児が書いたような文字に見える。真四角な紙にまるっきり違う形で違う位置に書いてある。その字は「上」に違いなかった。

片方はやや中央に、もう片方は極端に左寄りに書かれてあった。

お夢はそれらをチラリと見た瞬間から左寄りの字が気に入ったが、これは慎重に選ばねばならないと思ってじっと見た。

やはり中央に書かれた”上”より何故か左端に寄った”上”のその字が気に入って「やはり、こちらの方が好きです。」と申し上げた。

泉水も自分でそれが気に入っていたのだろう。目に笑みを浮かべるとまた、弟子に命じて中央にかかれた方を破棄するように命じた。

お夢の背後で同じように見ていた与兵衛が「さすがですナー、やはりあなたの目は確かです。泉水先生、いかがです?合格でしょうか?」と念を押した。


泉水は満足した様子で「ええ、明日から来ていただきます。墨の用意や後片付けは二人の弟子がします。貴女にはこのように私の書いたものの中から

良いと思うものを選ぶのと、表具屋がきますので表具屋の相談に乗る事等が主な仕事です。おいおい慣れて来た場合は他の事もして貰いましょう。

また、空いた時間は好きなように書の勉強をしていいです。明日からまた、昼飯前に来て下さい。」

そう言うとさっさと次の間に行ってしまった。

これが試験であり、お夢はその試験に無事合格したようだった。

帰り道、お夢が与兵衛に「あれで良かったんでしょうか?」と聞くと、与兵衛は「先生は満足しておられましたヨ。貴女が書を見る目をじっと見ておら

れて一方を選ぶと大層感心した目をしておられた。特に最後の一文字の時は、貴方は見てすぐに決められたのではないですか?」

「はい、すぐに左寄りのあの文字がいいナーと思いました。でも慎重に何度も何度も見て、やっぱりあの文字の方がいいと思ったのです。」とお夢は

正直に話した。

与兵衛は「泉水先生はお若いが特別な方です。貴女の物を見る目、その目の動きをしっかり見ていたのですヨ。瞬時に判断出来る能力を試したのだと

思います。私はその泉水先生の目を見ていて、先生はお夢さんのその見る力に感心した事をしっかり確認しました。」と言って笑ってから、

「長年、このような仕事をしている私共でさえあのように並べられた見事な二つの書を前にして、どちらかを選べと言われたら大層迷うものです。

同じ人が力を込めて書いたものですからナ。それはどちらも捨てがたい。それで迷うのです。だが貴女はそれが判断出来る。実に見事なものです。

これは誰にも簡単に真似ができない特別な感覚です。私も一安心しました。早速手紙を書いて長兵衛に知らせてやりましょう。」と言った。

このようにしてお夢の新しい暮らしが始まった。

お夢は以前のような華やかな柄の着物は作らずに地味な色あいの着物を何故か作り、その上に、仕事場では必ず羽織る、作業着の藍の上っぱりを作って

それを着て仕事をする事にした。

泉水は思いの外、多忙のようだった。あちこちに招かれる事が多く、また、どこかの学舎で書の話や指導もする事もあるようだったが、何よりも珍しい

古い書があると聞けば何をさておいてもそれを見せて貰いに出かける事だった。また、あちこちから依頼されたものを書き上げるのに幾度も書いて見て、

納得する迄は一人、部屋に籠って書き続ける様子だった。その時は部屋には弟子さえ入れず、まるで戦うように書くのだと弟子が言っていた。

そのようにして力を尽くして書き上げたものの中から二点だけ残してお夢に選ばせるのである。

お夢の責任は重大であった。ただの好き嫌いで選べるようなものではない。そう気付くと心がどんどん重くなって行く。あれこれいらぬ雑念が湧く。

どんどん追いつめられような重苦しさを感じて来る。だが、それでは駄目だ。迷ったら最後、決められなくなる。

お夢は自分の直感を信じる事にした。そういう毎日が過ぎて行った。

ある日、難問の書を選ぶ事になった。字数も多く、二枚の書は全く違う趣のものだった。


「春ののどかな日

 空は晴れ渡り 道端には花が咲いている

 蝶も楽しげに舞う中を

 一人の美しい乙女が何の想いを胸に秘めて

 いるのか そぞろ歩いている

 何と夢のような風景だろう」


そんな内容の漢詩(文字)だった。


一方は美しく完成された目も覚めるような欠点のない楷書で書かれていた。読みやすく内容もすぐに解る。またもう一方は、全体的に細い線が躍るように

クネクネとしてまるで読みづらいが、全体に淡く何となく春ののどかさや、乙女の夢見るような風情が伝わって来る。


お夢は瞬時に後ろの方が気に入った。

この書の中に入って行って自分も共にその景色の中をそぞろ歩きたいような気がした。

お夢がその事を言うと、泉水はニッコリ笑って楷書の方を破棄させようとした。

お夢は慌てて、「先生、破棄するのはおやめ下さい。このような美しい字を見たのは初めてです。どうか私の書のお手本に私にくださいませんか。

大切にしてこの字をお手本に精進したいと思います。」

そう必死にお願いすると、泉水は、

「こういう事はしないのだが特別にお夢にやろう。」そう言ってその書をくださった。

それ程その規則正しい正当な文字は美しかった。

このように泉水が書いた書が出来上がると、その時を見計らったように表具師が訪ねて来る。お夢は表具師と共にその書にふさわしい景色を見本の布地の

中から選ぶのに立ち会った。


月日は流れて行った。

少しも気の抜けないような重大なお役目と思い、一日一日が緊張のうちに過ぎて行ったが、何とも言えぬ充実感のある仕事でもあった。

何よりも素晴らしい書を毎日、まだ墨の香りも新しいうちにこの目にする事が出来るのだ。

お夢はこの仕事こそが自分に与えられた天職だと思い、大叔父にも与兵衛にも秘かに感謝したりした。

こうしてお夢の毎日は順調に過ぎて行った。泉水の母屋での生活は伺い知る事は出来ないが、妻女と幼い子が二人、下女二人がいる様子だった。

その誰一人として廊下の先のこの仕事場に姿を見せる事はなかったし、広い屋敷のこととて子供の泣き声や笑い声も聞こえた事もなかった。

仕事場はいつも静まり返り、泉水が純粋に仕事に集中出来るように厳しく仕切られてあるようだった。そういう毎日の中にも二人の弟子の人となりや人間性がも解ってきたが、お夢は馴れ合いになる事を恐れて決して私語や無駄話をせず、自分に課せられた仕事を済ますと、例えそれがまだ陽の高い早い時刻であってもサッサと自分の住む家に帰る事にしてあった。そして、お夢の帰りを待ちかねている政女との他愛ないおしゃべりを楽しみ、お菓子お茶を楽しんだ。

政女とのこの人時は仕事で張りつめていた気持ちを、まるで温い湯につかるように柔らかくほぐしてくれる貴重なものだった。

政女とは来たすぐから打ち解ける事が出来た。まるで遠く離れていた優しい叔母に会ったようなそんな気持ちにさせてくれるのは政女の持つ徳なのだろうか。

政女とは時には一緒に買い物に出かけたり、花見に出かけたりもした。気持ちがすっかり打ち解けて来ると、政女はお夢がまだ嫁に行かない事を気にかけて、

時々その話を出し、知り合いに良い人がいるからと言ってくれたが、この街に来てもそういう気持ちにはどうしてもなれなかった。

そして時々フッとお夢の背中を押すようにあの霧雨の日に咲いていたかわらなでしこの一輪の花と、驚いたように自分を見つめた若者の目が脳裏によみがえってある場所がたまらなく恋しくなったりした。

だがもうあの時には帰れない。そう思うと泣きたい程の悲しみがお夢を包むのだった。

政女が、「いつまでも若くないのですヨ。子供が産める今のうちに身を固めなければ後々、後悔しますヨ。」と、まるで実の親のように心配するのでお夢はきっぱりと、「いつかは家に帰らねばなりませんし、今は到底そのような気持ちにはなれないのです。」と丁寧にはっきりと断った。

それ以来、政女もうるさく言わなくなった。

そしてすっかり諦めたのか、それからはまるで年の離れた友達のように接してくれた。

そういう日々がいつの間にか五年ほど続いたろうか。大叔父や茂吉の事も気になりながら、書を見る目を養い自分も暇をみつけては書く毎日が続いていた。

やがて家に帰ってその道で手習いの教室等を開けるかも知れない。そう思って励んでいたのだった。

あるひ、いつものように昼近く仕事場に向かうと屋敷の前の入り口で、お夢よりは少し年上のような美しい女性とすれ違った。

お夢は軽く会釈をして通り過ぎた。門を屋敷の中に入る時、何気に視線を感じて振り返ると、その女性はお夢をじっと見ていた。

どなただろう?

その時はそう思っただけだった。

その女性とは暫らく後にも門の近くでまたすれ違った。

相手は確かにお夢をじっと見ている。その時、ハッと気が付いた。そして、あの人が泉水の妻女なのだという事が誰に聞かずともお夢には解った。

その視線が何か妙な雰囲気を漂わせているのに気付くと、お夢は今までのようにすっきりとした気持ちで仕事場に行けなくなった。もちろん、泉水には何の想いもなかった。書は素晴らしく見る度に感動するが、泉水本人を男として見る事も弟子達を男として見る事もなかった。

だがあれ以来、どこか胸の中にイガイガした棘が刺さったような気分が拭えずにいたのだった。

お夢はなるべく仕事に集中し雑念を振り払ってよい書を見、選ぶ事に集中した。今ではその他に忙しい師の為に、あちこちに挨拶状や見舞状の代筆を任せられていたので、それらを手早く済ますと、どんなに陽が高くともサッサと帰って来るのが常だったが、三度目また、その女性と門の外ですれ違った。

その時にはその女の人が泉水の妻女だと気が付いていたので、お夢はその女性に会釈をするとじぶんから近づいて行って挨拶をした。

「もしや先生の奥様でいらっしゃいますか?私はお夢と申す者でここで働かせていただいております。先日は奥様とは知らず失礼を致しました。これからも、どうぞよろしくお願いします。」そう挨拶すると、その女性はあからさまに不快な表情を見せた。そして一言も言わずどこかに行ってしまった。

お夢はその時、瞬時に心を決めた。ここにはもういられない。もう、ここにはいたくない。この仕事が自分に合っているから、この仕事が好きだからとこの先、しがみ

ついている場所ではない。

そう心を決めると、いつにもましてその日の仕事をテキパキとこなし、サッサと帰る事にし仕事場を後にした。そして政女の家に帰らずに与兵衛の店に行った。

与兵衛は運良く店にいて使用人にあれこれと仕事の指示をしている所だった。お夢の顔を見ると嬉しそうに上にあげて茶を出してくれた。

「先日、何かの帰りに泉水先生がここに寄られて、あの方には珍しく貴女の事を大層褒めておられました。紹介した私も面目がたち鼻が高いです。」と言った。

お夢はそう言って喜んでいる与兵衛を前にすると急に申し訳がなくて悲しい気持ちになった。

すると「どうかなさいましたか?何かありましたか?」と畳みかけて聞いて来た。

今や与兵衛にもお夢の気性は十分に解っている事だった。

年若い娘ながら一本芯が通っていて頭が良く、しかも書を見る目も確かなら責任感のある事、男にも負けない人間であるという事はとうに知れている事だった。

そのお夢が突然訪ねて来たのだ。これは何かあったに違いない。

とっさにそう思って聞いたのだ。そう聞かれるとお夢は、無理にも笑顔を作り快活な口調で、「いいえ、何もありません。仕事の方もいつもと変わりありません。

お弟子さん達も良い方達ですし、先生の作品を見る度にいつも本当に素晴らしく感動しております。けれど、大変わがままだと思われる事を承知で申し上げます。

私、書だけでなく絵も勉強したいと先からずっと思っておりました。泉水先生の所で働かせていただいて、あまりにも楽しくてもういつの間にかこんなに経ってしまいました。

このままですとずっとずっと居ついてしまいそうです。この辺で以前から夢だった絵の道を勉強してみたい。そう気が付くと矢も楯もたまらずそうしなければならない気持ちに

なってしまいました。」そう言うと、

「それはいつから考えていた事ですか?」与兵衛は疑り深そうにお夢の顔を見た。

お夢は「本当に話すのも恥ずかしいのですが、今日突然にそういう気持ちになってしまったのです。自分でも急な事でわがままを言っている事は百も承知しております。まだ、先生

にもだれにも話してはおりません。旦那様から先生にお詫びをして話していただけませんか?」

そうお願いしてお夢は逃げるように帰って来た。

突然の事で与兵衛も弱ったのだろう。与兵衛はその後すぐに泉水の元に行って話をしたのだろう。

翌朝、与兵衛がお夢の所にに来て、泉水にお夢の気持ちを話したと言ってから、「突然の事で先生はきっとお怒りになるだろうと思ったが、先生は事情を聞くと、そうですか。

お夢がそういう気持ちになったのであれば引き留める事は無理でしょう。今書いているものを何点か最後に見て貰ってそれで最後にしましょう。そう言ってくれましたよ。文句一つ

言いませんでした。さすがですナー。書も立派なら人格も立派な方です。私は一緒に行きませんが、最後の仕事だと思ってしっかり先生の作品を見て来てください。」

そう言って帰って行った。

お夢が昼少し前に緊張して仕事場に行くと、広い部屋いっぱいにいろいろな書を広げて泉水一人だけがいた。

お夢が恐る恐る、「先生、申し訳ありません。急にわがままを申してすみません。」と謝ると、お夢の方は見ずに広げた書に目をやったまま、

「いいや、大体の見当はついています。嫌な思いをさせたのはこちらの方です。人の心は書のようにいかないものです。」と言ってから、振り向いて、

「だが今までお梅が数々選んでくれた物を見て、私にも自信が持てた。それが本当の所です。自分ではこっちがいいと思いながらもう一方を惜しむ気持ちがありました。だが、お夢が

瞬時に選ぶのがどれも自分の目と同じ、どこまでも一緒だったので嬉しかった。最後にお夢に選んでもらって確認したいと思って広げてみましたヨ。」

そう言って今迄見た事のないような温かい笑みを見せた。


これは最後の大事な役目だ。

そう思ってお夢は真剣な目で次々と二点の中から選んで行った。

選ばれなかった方を泉水は惜しげもなく破棄して行った。こうして先生の書を見るのも最後かと思うと、寂しさと後悔の気持ちもあったが、真剣なその時間はみるみる間に終わりに近づいて

最後に残ったのが一点きりの作品だった。

少し不思議に思ったがそこにはえも言われぬ流れるような筆使いで、


「霧に濡れてる野辺の花」

と見事に書かれて泉水の印が押してあった。うっとりするような美しい作品だった。くしくも遠い昔のあの時を思い出させる書だと思い、お夢がその書に見とれていると、

「これはお夢の為に書いたものです。お持ちなさい。」

泉水はそう言うとクルリと背を向けて次の間に入って行ってしまった。

お夢はその時初めて、驚きの中でこの師に対する尊敬とは別の何かを感じそうになって、慌ててそれを打ち消した。

書が第一級ならこの人は人格も第一級なのかも知れない。それにしても私の為に書いてくれたこの書は私の心の中を知っているかのようだ。

何故だろう?

霧が好きな事をいつ、どこで知ったのだろう。偶然かも知れないがその事が心に残った。

お夢はその美しい書を有難くいただいて泉水の屋敷を後にした。

一言


それからまた暫くして、与兵衛の紹介で日本画の絵師の所に雑用の手伝いをしながら絵を学ぶ事になった。

与兵衛に連れられて行ったそこは、泉水の立派な屋敷とはまるで違って古い長屋のような作りの家を二つ三つ分ぶち抜いて広げたような雑然とした所だった。家の中もちらかり放題だ。

その中で年老いた絵師がくたびれた成りで絵を書いていた。

与兵衛は慣れているらしく、「先生、お話したお夢を連れてまいりました。何でも仕事を申しつけて下さい。」と言ったが老絵師は聞こえているのかいないのか、ロクにこっちを見も返事も

しない。ただ紙に向かって夢中で描いている。

与兵衛が「それじゃーね。」と言ってあっさり帰ってしまった後、お夢は足の踏み場もない程散らかっている物の中から、差し障りのないようなものを片付け始めた。

そして、流し場の周りを掃除した後、湯を沸かし、茶葉を見つけて茶を入れて、そっと出した。

老絵師は絵に夢中でありながらもその茶に手を伸ばして、うまそうに茶を飲んでから、一言、「いろんな奴が来るがそいつらには茶はいらんヨ」と言った。

やがて確かにそこには次から次へといろんな人が入って来た。その男達は訪いも入れずに当たり前のようにズカズカ上がって来てはなんだかんだ話してそこで待っている、そしてうるさそうに

老絵師が指差す方にある絵を喜んで大切そうにいただいていく、そんな人が殆どだった。この絵師は家の中も身なりも少しも構わない、最初食事はどうしているのだろうと思ったら、近所に住む

おかみさん達が何人かで食事の面倒を見てやっているようだった。


今迄はほこり一つなく清潔に掃除され静まり返った中で粛然と仕事をしてきたをお夢にとってはあまりの違いに驚くばかりだった。しかし無口で夢中に作品に取り組む姿はやはりどこか似ていると

思った。

それにしてもこんなに人の出入りの多いザワザワとした中で集中して絵が描けるのか大丈夫なのかと心配したが、本人は少しも気にせず、もくもく絵を描いている。そして暫く描いた後傍らにある、

とっくりの酒をグビグビと飲んで万年敷きっぱなしの汚い布団にゴロリと寝転ぶといつの間にか眠っているのだった。

そういう時に たまたま来た客は老絵師が眠っているのを見ると簡単に諦めて帰って行った。

また、そういう時、食べ物を運んできたおかみさんも、「あら、先生、眠っているね。あんた新しいお弟子さん?」と言ってお夢をジロジロと見てニヤリと笑うと帰って行った。

お夢は老絵師を起こさないようにしながらあちこち片付けたり散らかっている絵筆を洗って整えておいたりした 。

夕方になって帰ろうにも絵師はぐっすり眠っている。どうしようかと困っているとまた、あのおかみさんが顔を出して、「お前さん、時間になったら帰っていいんだよ。先生はいつ起きるか知れやしない。明日の朝まで このまま眠ってしまうかも知れないから、 お帰り。」と言ってくれて、汁物や食事を置いて自分も帰っていった 。

翌朝、気になりながら絵師の家に行くと、やはりまだ眠っていた。

だが、昨日の夕方おかみさんが置いて行った 食事はきちんと平らげてあるので一度は目を覚ましたのだろう。

お夢が食べた後の器の洗い物をしようとすると、

「いいんだ、いいんだ。そのままにしておいて。」と後ろから声がして振り向く老絵師が、「儂はその分も小遣いをやってるからナ。」と言ってニヤリと笑った。


そこでは、お夢の選ぶ目はいっさい必要とされなかった。

それだけに散らかったものを片付けたり、汚れている所の拭き掃除をしたり、絵の具や筆をきちんと用意したり、体は忙しかったが気楽に出来る事は久々に気持ちが良く嬉しかった。

その合間には絵師の描く様子を見たりした。

絵師は後ろの方でお夢が見ていても一向に気にならないようだった。

家の中がサッパリと片付いて来ると、入って来る人達も妙に落ち着かぬようにキョロキョロしたりした。

食事を運んで来るおかみさん達も、「随分きれいになったネー、先生!まるで若い嫁さんを貰ったみたいじゃないか。」とはやし立てた。

すると、老絵師は「馬鹿もん!早く帰って飯でも作れ!」と追い立てた。

その様子がおかしくて、おかみさん連中とお夢は目を合わせて吹き出した。家の中は片付いたけれど、絵師の身なりがあまりにも見苦しいのでお夢は放っておけず、自分の懐から三反、反物を買って着物を縫ってやった。

実はお夢は以前家にいた頃、お針の教室にも通い、そこでも人に負けた事はなかった。裏の付かない単衣の着物なら二、三日で縫い上げて半ば強引に着替えさせた。

絵師は最初、糊のきいた新しい着物になじめないようだったが、来る客やおかみさん達からさんざん褒められるものだから、やがて素直に着るようなった。

肌着も晒を買って来て何枚も新しいものを作って、古いみすぼらしい物は処分した。そして、仕事の頃合いを見て風呂にも行くようにさせた。

もう、薄汚い老人ではなかった。いつの間にか、お夢は老絵師の世話をして身綺麗にしてやるのが楽しくなっていた。

亡くなった父や祖父にしてやれない分、この絵師にしてやれるのが何だか孝行をしているような気持だったのだ。

絵師の雅号は”点晴”と言った。

点晴はある日、初めてお夢に向かって話らしい話をした。

「そこに金があるから、それは全部お前にやる。」そう言って重そうな金包みを指さした。

お夢は、「私、そんなつもりでしたのではありません。」そう言うと、

「いいから、お前が持っていて必要なものはその中から使え。」と言ってから、「金はこれからもいくらでも入って来る。心配するな。とにかくそれはお前にやる。」

そう言うとまた、絵を描き始めた。

お夢は逆らわず素直にいただいて帰った。

やがてお夢は少し余裕が出て来ると、点晴の描くのを身を入れて見るようになった。点晴の描く物は決まっておらず、その日のその時の気分次第で描きたいものを描くのだ。それを見ていると何だか自分にも描けそうな気がして来る。

お夢も自分でも描きたい物を描いたりした。

ある日、描きかけの風景画をうっかりそのままにして他の用事をした後見ると、いつお夢の描きかけの絵を見たのか、明らかに”点晴”の筆と解る力強い筆使いで数ヶ所、チョンチョンサーッという風に筆が入れられてあった。

最初は呆気にとられたが、その加えられた筆によってお夢の描いた絵が急に活き活きとして見えるのは不思議だった。

入れ替わり立ち代わり来ては作品を持っていく人は点晴の絵を買いに来る人達だったのだ。

点晴は老人ながら筆が早くて、気分が乗ると一日のうちに十点近くもババーッと描き上げる事があった。その時の絵はダルマの絵だった。

太い書の筆を何本かと濃淡の違う墨をお夢に何種類か用意させて、一気にそれこそ書きなぐるように何枚も描き上げた。

目玉のギョロリとした迫力のあるダルマは、どれも生きているようにこちらを睨んでいる。何枚も描き散らかしているうちにもまた、何人かの男達が入って来て、そのダルマの絵を見るなり取り合いになりそうになった。

すると”点晴”が、「ホラ、あみだで決めろ!」と言って汚れた小袋をその男達にポンと投げてやった。

男達は静かになってその袋の中に入っている物であみだクジを引いて、当った順から散らかっているダルマの絵を選んで、それでも誰もが満足した顔で帰って行った。

点晴の作品で出来上がった物を破棄するという事は一度もなかった。

来る人の誰もが簡単に描いたように見える物でも宝物のように有難く買って行く。

お夢はすっかり驚いてしまった。


ある日、点晴にしては珍しく全体にぼかしたような淡い色合いの景色を描いた。

点晴がお夢に向かって、「前は泉水の所にいたんだって?この絵に何か筆で書いてみないかネ。」と言ってニヤリと笑った。その絵は見方にによっては、どのようにでもとれるようなおぼろな景色だった。

お夢はそれをじっと見ているうちに、毛筆に黒の絵の具と胡粉を混ぜたやや濃いめの灰色の絵の具をたっぷり含ませると、絵の余白に”この世は悲しい事ばかり”と書いた。

文章はともかく、その灰色の字はお夢の目にもその背景の絵にぴったりと合って美しく見えた。

点晴は驚いたように、絵に描いた文字とお夢を交互に見ながら、

「驚いたネー、なかなかいい。これはなかなかいい。」と言った。

その時また、ドヤドヤと二、三人の男達が訪いも入れずに入って来た。そして点晴が持っている絵に群がると、

「先生、先生には珍しい絵ですネ。それにこの文字がいい。これは最高です。」と一人が言うと、私がいただきます。いいや私だと三人が取り合いになった。その様子をお夢は驚いて見ていた。

すると点晴が、「それは高いぞ!いつもの値では売らん。五倍だ。それで良けりゃ、じゃんけんで持って行け!」と言った。

三人の男達は五倍の値と聞いても真剣にじゃんけんをして、買った者が喜び勇んでその絵を持って行った。

すると後の二人が、「先生、私達にもああいう絵を描いて下さいヨ。」と言った。

「あれはしょっちゅう描けるもんじゃない。ああいう絵は気分がそういう気分になった時でないと描けないんじゃ。今日は帰れ!帰れ!」と言って追い出してしまった。

誰もいなくなると老絵師は「驚いたのー。お夢、お前はなかなか才能があるヨ。」と言ってニヤリと笑った。

そんな調子の所だったので、お夢も伸び伸び楽しく過ごした。点晴は乱雑に描いているようで出来上がった物は風景画も、魚や動物の絵もどれも素晴らしかった。

こんな老いた一見ヨボヨボに見える老人の手から生み出されるとは信じられない勢いと力があった。

与兵衛は点晴の絵がいつかは高値がつく事になるだろうと、そういう絵師だという事を見抜いていたのだろう。点晴は結構見入りも良いらしく、その後もお夢に思い切った給金を度々はずんでくれた。

点晴は好きな絵が描けて酒が呑めればそれ以上欲のないような人だった。

お夢は仕事場は以前よりも遠くはなったが、相変わらず政女の所から点晴の所に通い続けていたが、通うのは少しも苦にはならなかった。

ここなら気も楽でズーッと働いていける。しかも絵の勉強も出来ると思うとお夢は楽しかった。

すっかり慣れて、時には家の中をすっきりと大掃除してやり、時には無理矢理、点晴を銭湯に追い出して布団を干したりしているうちに点晴も有名な絵師にふさわしくこざっぱりして来た。その頃にはお夢の言う事を

娘に言われるように素直に聞いて何も文句を言わず、相変わらず夢中で好きな絵を描き続けていた。

お夢はあまりの居心地の良さにいつの間にかそこに足掛け八年いただろうか。

しかし残念ながら、点晴はあまりにも年老いていた。気ままなこの世の生活にも終わりの日が来たのだろう。いつものようにお夢が行くと、点晴はぽっくりと亡くなってしまっていた。

描きかけの絵の前で亡くなっていた。好きな絵を夢中で書いている途中にあの世に行くなんて、大往生だと出入りの人達は口々に言い合った。

その時お夢が描きかけの美人画にはきちんと点晴の筆が、チョンチョンサーッと入れられてあった。

それを見た途端お夢は、ポロポロ涙があふれ出て止まらなかった。

点晴はいつの間にかお夢にとって風変わりな祖父のような存在になっていたのだった。

それから暫くは、あの変人の老絵師を思い出しては泣き、思い出しては泣いた後、心が決まった。

今こそ、自分が生まれたあの町、あの家に戻ろうと思った。二十歳の時家を出て以来、あれやこれやと十五年たち、お夢はいつの間にか三十五歳の年増女になってしまっていた。

だが、それも無駄ではなかったと思う。お夢はいつの間にか両親に死なれて落ち込んでいた若い頃の娘ではなくなっていた。

若さは消えたかもしれないが、いろんな人と出会い、いろんな事を学び身につけた自信だろうか。細い体の中にもゆったりとしたゆるぎのないものが落ち着きとして体の中に収まっているような気がした。

今なら家に戻れる。今ならクヨクヨせずにあの家に帰って笑って生きて行ける、そういう気になった。

お夢はそう思い立つと家に帰る事にした。十五年働いて子供も持たず酒呑みの亭主もなしに自分も贅沢をする事なく、貯めたお金は与兵衛が全て預かってくれていた。

帰る事にしたと伝えると、政女はあからさまに淋しがった。



お世話になった与兵衛や政女達に惜しまれながら別れを告げると、今度こそお夢は生まれた懐かしい土地に帰って来た。懐かしい街並みを目に感無量だった。

とうとうこんな年になってしまったけれど、あっという間だったような気がする。この土地を離れて体験した事はどれも自分の財産のような気がして悔いはなかった。残念ながら、大叔父の長兵衛は亡くなって二年程経っていたが、

大叔父の所にいたおかつ婆がまだまだ元気で茂吉もすっかりお爺さんになっていたが、元気で二人が力を合わせてお夢の帰りを待っていてくれたのが何よりも嬉しかった。

しかも一階には甘味処の店を出して、おかつの作るそのしるこがなかなかの人気でそこそこ客が入っているというのは驚きだった。

二人はまるで実の娘が帰ってきたように涙を流して喜んでお夢を迎えた。お夢は本当に自分の帰るべき場所に帰って来たのだとしみじみ思った。

ここを出る時は到底住めそうにないと思ったけれど、その家も、茂吉と更にはおかつが住んで温めていてくれたお陰で本当に懐かしいお夢を待つ巣になってくれていた。

お夢は二階に自分の為にとってあった部屋で思いっきり手足を伸ばして眠った。

今迄だって政女の家で十分伸び伸び暮らしていたと思い込んでいたが、ここはその比ではなかった。やっぱり本当の我が家だった。

帰ったら何をしようか。

どうして食べて行こうか。

書道の手習いを始めようか。

それとも貧しくても絵を描いて生きて行こうか等々、帰る道々考えていた事だったが、それは全部、破棄した。きれいさっぱり破棄した。

お夢はおかつの始めたこのしる粉屋を続ける事にした。

恐らく、おかつと茂吉はいつか帰って来るお夢の為に考えに考えてこの甘味処を始めてくれたのだろう。

お夢の先々の事を考えていてくれたのだろう、そう思うと嬉しくて有難くて手足を伸ばして眠りながらも涙があふれて仕方がなかった。

お夢はぐっすり眠って疲れを取ると、次の日からおかつを手伝ってしる粉屋の店に立ち始めた。

そして自分がこれまで貯めたお金で店に手を入れてちょいといい雰囲気の店に直した。

そうすると更に客も増えて来た。三人が食べて行くには十分の店になった。あれ以来三人は実の親子のように寄り添って暮らして来た。

温かくてどこか懐かしくて甘いこの暮らし。それはまるでおしるこのような生活だと思った。お夢はしみじみとそう思った。

おかつも茂吉も二人共ひとり者だったので、お夢は最後まで自分の親だと思い大切にしながらあの世に送り出した。

茂吉はお夢が帰ると、その二年後には安心したように呆気なく逝った。おかつはその後もお夢を手伝って随分働いてくれた。

だが、お夢が四十五になった年に、年には勝てずに亡くなってしまった。

最後に床に伏って自分も長くないと悟ったのだろう。

「お夢様のお蔭でいい人生でしたヨ。」おかつはそう言ってくれて満足したような顔で逝った。

二人共十分長生きしたといえる年だったが、お夢は急に自分の体の周りがスースーして寒く、心細い気持ちになった。

これは自分が嫁にも行かず一人でいるせいだが、それは初めから覚悟の上じゃないか、お夢さん。今更後悔するのかい?冗談じゃない。私の今迄の人生は小指の先程も無駄じゃなかった。ちっとも後悔していないヨ。

ここで気落ちしてしょげてなんかいるものかネ。この店を楽しみに通って来てくれる人たちの為にも頑張るんだ。

お夢は自分を叱咤激励して立ち上がった。

あれからこうしてお夢はこの甘味処を続けて来たのだった。手伝ってくれる人はそれぞれの事情で何人か変わったが、皆いい人達だったし、何よりもここの店を心の拠り所にして来てくれる若い娘達や、暮らしの

息抜きに来てくれるかみさん達、それよりもおかしいのは女の人達に圧倒されながらも、ひっそりとこっそりと、という

風に通ってくれる甘いもの好きの男の人が意外に多いという事だった。その中でもよく見かける常連が何人かいる事は有難かった。

更にその中でもほぼ毎日のように通ってくれる人がいて、その中にお医者様の寿庵先生もいる事だった。お医者様がお客様なら心強いとお夢は思ったものだった。

寿庵先生は背は高いが反り返って威張っている風ではなく、いつも店に入って来る時は心なしか身を縮めている風だったので、お夢の目には年取って見えた。

半白の髭をたくわえて丸メガネをかけて静かな人だった。穏やかな笑顔で店に入って来ると、「いつものをお願いします。」と一言言って、いつもの奥まった席に座り出された”餅二枚”入ったおしるこを美味しそうに

食べると、ガヤガヤ賑やかな店をいつもひっそりと帰って行く。そんな本当に良いお客様だった。

他によく来る客は近くのうどん屋の次男坊、威勢のいいとびの若ダンナ、もう一人、漬物屋のダンナ。

こうして思い出すと、大の男達が女達に圧倒されながらも肩身の狭い思いをして少し恥ずかしそうにしながらも、お夢の店に頻繁に顔を出してくれるのは本当に有難く、頼もしく思ったものだった。

お夢は朝早く起きて、仕込みから始まり夕方迄、賑やかに声を張り上げてクルクルと忙しく働いた。

だから夜は寝床に入るとバタンキューとすぐに深い眠りに入る毎日だった。

そしてフッと気がつくといつの間にか七十を前にしていたという訳だ。

全く気が付かなかった訳ではないが気が付かないフリをしてこの年迄来てしまった。

それが何とこの冥土に来て落ち着いた心強い”先達”に会い話を聞くうちに、その人があの日会った若者でその人があの寿庵先生だというではないか。まるで作り話のようだが本当にそうらしい。夢のような話だ。

お夢はそれを知ってまるで若い娘のように胸がドキドキしていた。それにしてもこの人があの年老いて髭をたくわえた優しい寿庵先生とはとても信じられない。

しかもあの寿庵先生が遠い昔、霧の中で出会って目と目が合った、あの背の高い若者だったとは尚更信じられない。

嬉しいけれど、なんだか少し寂しい気持ちになった。

私もこんなにお婆さんになったんだもの。寿庵先生だって年を取るのは当たり前だ。だけど、二人共、若いあの頃に会って話をしてお互いの気持ちが解っていたら、どんなに良かっただろう。

そう考えてお夢は歩いた。

暫く暫く無言で歩いた後、お夢は、あの時の若者だった頃の名前を知らない事に気が付いた。

お夢は勇気を出して、”先達”に話しかけた。

「あのー、まだ本当のお名前を伺っていませんでした。」

すると先達は振り返って嬉しそうに笑うと、「あの頃の名前は”竹次郎”というのです。」と言った。

そう答えた一瞬、にわかに若い顔になったような気がした。

あ、あの時のあの人だ!

間違いなくあの時のあの人の目だ。ようやく、ようやく会えた!

あんなに探し求めていたあの時のあの目に出会えた!

そう思うと胸がいっぱいになった。

お夢は胸がいっぱいになって何も言えなかった。

だけど二人はまた黙ったまま歩き続けた。

お夢の想いもそうだが、前を歩くその人も同じだったのかもしれない。お夢は少しも疲れを感じなかった。

暫くして竹次郎が、「大丈夫ですか?疲れませんか?」と聞いた。

お夢は胸がほっこり温かくなったまま、「いいえ、ちっとも。私は大丈夫ですけど。竹次郎さんこそお子さんを背負って歩かれて大変でしょう?」

そうお夢が労うと竹次郎は振り返って、いつの間にか若くなった顔を見せて、

「不思議な事なのですが少しも重く感じないんですヨ。この子を背におぶった時は当たり前の子供の重みを感じました。しかし小さな子供一人ぐらい何の事はないと思って歩き始めました。やがてすぐに、あの道端で貴女を

見かけた時は背中の子供は随分気にならない程、軽かったと思います。これも全てお夢さんにお会いしたせいだ。実は私はそう思いました。」

照れくさそうに笑って話す顔はもう若々しくて、お夢は眩しそうに竹次郎の顔を見て話を聞いた。本当に夢のようだと思った。

竹次郎は更に、「普通、歩くにつれて段々重く感じるのが道理なのに、今では少しも重みを感じないのですヨ。まるで真綿入りの軽い袖無しを着ている程も重く感じないのですヨ。」

そう言って背中の子供の顔を見ようとした。

お夢が、「ぐっすり眠っていますヨ。まるで安心したように気持ち良さそうに眠っています。本当に愛らしい良いお子ですネ。どんな事情でこの冥土に紛れ込んで来たのか知れませんが、親御さんはどんなにか悲しまれたでしょうネ。

出来る事ならもう一度親御様の所に戻して差し上げたいものです。」

お夢は竹次郎の背中でスヤスヤ眠る幼児を愛おしそうに見てそう言った。

竹次郎も頷いて、「全くです。本当にそう思います。しかし今は、せめて私達でこの子を無事、送り届けましょう。」と言ってから、

「私も貴女も一生独り身を通してこんな愛らしい子供に恵まれませんでしたが、しかしこの冥土でこうして三人で歩いていたら、子供連れの若い夫婦者に見えるかも知れませネ。」と笑いながら言った。

「まあ、私はこんなお婆さんですヨ。」とお夢が言うと、竹次郎が、

「貴女はまだ気が付いていないのかも知れませんが、あの世というこの冥土では変わった事が起きるのでしょう。お夢さんは今ではとても若返っていますヨ。そうだナー、私の目には二十歳ぐらいに見えます。」と言った。

「ええっ?そうなんですか?道理で体が若い時のようにシャキシャキと動くと思いました。」

「ところで私は何歳くらいに見えますか?」と竹次郎が聞くのでお夢は竹次郎の顔をしみじみと見た。

竹次郎はきまり悪そうにはにかんでいる。

初めは四・五十歳程の”先達”と思い込んでたお夢の目に、こうして改めて見ると、竹次郎もいつの間にか二十歳前後の若者になっているのだった。

「貴方様も大層若く見えます。」お夢がそう言うと竹次郎は嬉しそうに笑いながら、

「そうですか、そうですか。」と何度も頷いた。

そして、「人は死ぬ事を大層恐れます。私はそういう人を仕事柄随分見て来ましたが、実際、自分がこうして来て見ると、まっとうに生きて来た人間にとって死ぬという事は存外楽しい事かも知れませんネ。まあ、途中苦しんであえいでいる人達も

随分見かけましたが、私達はこんなに楽しい旅をしています。思いがけなく褒美を貰ったようで、私はさっきから嬉しさをかみしめていたところです。こんな事を言ったらお夢さんに軽蔑されるだろうと今迄言うのをためらっていた所です。」

そう言って笑った。

この人はどこまでも自然で気取りが無く正直で善良な人なのだとお夢は思った。せめて生きていた頃に、それも年若い頃に巡り会ってこの人の気持ちに気付いていたら、どんなにか私の人生は変わっただろうとまた、思ってしまう。

だけど人生とはそういうものなのだろう。思い通りに行かないのが人生なのだ。人の運命はどうする事も出来ないと言うけれど、とうとう独り身のまま年老いてこの冥土に来てしまったけれど、それでもせめてここ、あの世に来てその人と一緒に旅が出来た

というだけでも幸せだと感謝しよう。

お夢は自分で自分を納得させながら、前を行く竹次郎の後ろをついて歩いて行った。

やがて、緩やかな上り坂が少し急になって来た。だが、それも全く苦にならなずにどんどん登って行った。

前の方にもまた、振り返って今来た後ろの方にも自分達の他に人の姿は一人も見えなかった。

更に登って行くと、ようやく頂上のあたる所に白い大きな御殿のような建物が見えて来た。その建物を見上げると建物の後ろは大きな入道雲がモクモクと覆っている。

まるで夏の景色のようなそこはどんな所なのだろう。御殿の周りは初夏の豊かな庭のようにやはり色とりどりの美しい花々に満ちている。

これが極楽と言う所かも知れない。とうとう行きつく所迄来たようだ。

この先、どうなるのか。自分たちの姿や魂がこのままの形あるまま、あるいは記憶のあるままでいられるのか。しかも二人が一緒にいられるかどうかも解らない。現世のように気の合った者同士が二人一緒にいられるという保障は何もない。

もしかしたら形もなくなり魂だけになって、あの入道雲の一部になってしまうのかも知れない。

最後の場所に着いてしまったと思うと、少し淋しいような弱気になってしまった。ようやく巡り逢ったというのに別れの時を思うと辛くなって来た。

ああ、でも本当に楽しかった。ほんの短い間だったけれど楽しかった。

最後の最後、幸せを感じる事が出来たのだもの。これで満足しなければ罪が当たる。お夢はそう思って先を行く竹次郎の後姿を見た。

すると、まるでお夢のその心持ちが解るように竹次郎は振り返って優しい笑顔を向けた。

それから、お夢を心から愛おしむように、少し悲し気なあの懐かしい目でじっと見た。この人もきっと私と同じ事を思ったのだろう。


すると御殿の前に一人の光輝くお方が現れた。

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