第2話

お夢は前を行く先達に、「あの人は私の知っている人です。どうにかあの火を消す事は出来ませんか?」と言った。

すると男は気の毒そうに、「ここは生前の悪業が暴かれてその罪を受ける所なんです。罪を犯したその時は誰にも知られずにまんまと悪事を隠し

おおせてもここではそれを見逃しはしません。あの火にまかれて苦しんでいる人はきっと生前、どこぞにつけ火をするか人を火で死なせた人でしょう。

それであのような罰を受けている人です。」そう言った。

お夢

はそれを聞いた途端ハッと思い当たる事があった。

あれは峰吉の仕業だったんだ!

両親が夏の藪入りの日の夜中、火事で焼け死んだのは

あれは、お灯明の不始末なんかじゃなかったのだ!

きっとあの峰吉が火をつけたんだ!

あの後、一度も峰吉とは顔を合わせる事は無かったが、峰吉はどこかの大きな酒屋の入り婿について順調にいっていると聞いた。

その話を番頭の茂吉がお夢に話しながら、妙に意味ありげな様子で、峰吉もとんとん拍子で調子に乗っていればいつか必ず帳尻を合わせなければならない

日が来る。そうでなきゃ浮かばれない。と、ポツリと言っていたっけ。

その時お夢は、あんなに可愛がっていた峰吉の出世を茂吉は嬉しくないのだろうかと不振に思った事を覚えている。

だが、今、思い返せばあの時、きっと茂吉は気が付いていたのだ。

あんなに火に対して慎重だったお父っつあん、おっ母さんがいくら藪入りで使用人がいなくて気が緩んだとはいえ、火の不始末をする程、二人揃って深酒を

する筈はないのだ。

番頭の茂吉だって峰吉の仕業だと疑っていても、、すっかり燃えてしまった店を前にして何の証拠もなしに、峰吉が犯人だとは口に出せなかったのだろう。

それにそんな話が公になれば

何故?どうして?と世間は考えて噂し合うだろう。

そして火ををつけたのはお夢さんの婿になれなかったからだそうだヨと、

そういう話になれば一人生き残った私が苦しむ事になる

茂吉はそれを一番恐れたのだろう。

茂吉はそういう人だった。

お夢は今、はじめて気が付いた真実に怒りの炎がムラムラと燃え上がってくるような気持ちで峰吉を見つめた。

目の前では峰吉が火だるまになって、もだえ苦しんでいる。

それを見つめるお夢の顔色に気が付いたのだろう。

先達の男が、「何か思いあたる事があるんですネ。」と言った。

「それでもあの人を恨んだり攻撃する事はおよしなさい。貴女が罰を下さなくても閻魔様は髪の毛一筋の悪事も見逃さずにこうして罰して下さるんです。

ここで罰を受けている人達は自分のした悪行を心の底から後悔し、悔い改める為に苦しんでいるのでしょう。

ああして長い事、苦しんで苦しんで苦しみぬいて自らすっかり悔い改めて心がすっかりきれいになった時、はじめて仏の道に戻れるのです。

その為には今はあのようにもがき苦しまねばなりません。

あの人達はそれだけの事をしたのですから。」と言った。


さあ行きましょう。

お夢の心をその場から引き剥がすようにして先達は前の方へ歩みを進めた。

お夢もその後を追った。

歩きながらも峰吉に対する怒りはすぐに消えた訳ではないが

ああ、ここはあの世なのだ。

もうこの世ではないのだ。

この世での悪業はここのあの世で閻魔様か仏様が全部罰して下さるのだ。

何もかもずっとずっと昔に終わった事なんだからと

お夢は自分の心をなだめながら歩き続けた。

やがて暫らく歩いているうちに辺りを見渡す気持ちの余裕が出て来た。

先達の男は相変わらず幼子をおぶって悠々と前を歩いている。

それにしてもこの人に会えたのも不思議な事だと思いついてお夢は、

「そのお子は貴女様のお子ですか?「」と聞いた。

先達はそう言葉をかけられると振り返って愉快そうに笑った。


「この子は舟に乗る迄は見ず知らずの他人でした。今も名前さえ知りません。舟の中に大人達に混じって一人ポツンと、

こんな幼子がいては気になるじゃありませんか。だが他の人達は自分の事だけで精一杯で、この子にまで考えが及ばない

のか誰もこの子に見向きもしません。

渡し場のお地蔵様は何も言いませんが

私は地蔵さんにこの子を頼まれたような気がして、こうして一緒に歩いて来ました。」そう言った笑った。

そう言った後、私も人並みに所帯を持っていたら

こういう子供や孫もあったのでしょうが、とうとう一人で死ぬことになったようです

と笑いながら言った。

お夢はその人の顔をじっと見た。

年の頃は最初は五十を過ぎているように思ったが、笑ってはにかんでいる顔はもっとずっと若く見える。

まだ知り合ったばかりなのに

ずっと以前から知り合いだったような懐かしい気さえする。

この人と以前会った事があるのだろうか?

お夢は思い返してみるが知り合いにの中にはこの人はいなかったと思う。


それにしてもこの人とあの世で御一緒出来たのは心強いし幸運だったと思いながら

お夢は足取りも軽く歩き続けた。

道はどこまでもどこまでも続いているようだった。

途中、湧き水が流れ出ているらしくそこに人が群がっていた。

誰もかれもがその水を飲もうと必死だが、その中の何人かは腹がふくれる程飲んでもまだ喉の渇きが

収まらないらしく、周りの人を押しのけて飲んでいる。

いくら飲んでも、飲めば飲む程喉は焼けつく程乾くらしくその必死な形相は気の毒な程だった。

先達と女の子とお夢はその有様を横目に見ながら通り過ぎた。

するとまた、何か甘そうな果実が実っている木々が見えて来た。

ざくろに似た赤い実がたわわに実っている。それをもいでは食べている人が何人もいた。

よく見るとそれも落ち着いて食べているのではなく、次から次とまるで急かされるように無茶食いを

しているのだ。

お夢はその様子を見てこれは危険な果実だと思った。

お腹が空いていますか?

と”先達”が聞いた。

いいえとお夢が答えると、特別お腹が空いたり喉が渇いているのでなければ争って飲んだり食べたりする事も

ないでしょう。

そう言って落ち着いた様子で前を歩いて行く。肩車の幼い女の子も何も言わずただおとなしく”先達”の肩に

乗っている。

やがて道の脇に小さな池が見えて来た。

その池は遠目にはかなり美しく見えた。

近づくにつれてその池はギラギラ七色に光っている。まるで魚のうろこのように光輝いている。

遠目にはあんなに素晴らしく美しく見えたが

近づくにつれて何か妙に生ぐさい臭いがして薄気味悪く感じる。

だが”先達”の前を歩いていた一人の女がフラフラッとその池に近づいて行った。

そして池の前でボーッと池を眺めていたかと思うと

いきなりまるでその池に誘い込まれるようにその池に飛び込んだ。

すると女がその池に身を入れた途端、それまで穏やかだった七色に光る水面が大きく揺れて身をひるがえすと

おびただしい白い蛇の群れがその女の頭と言わず顔と言わず手にも体にも一斉に覆いかぶさった。その女に

襲いかかり張りつきあるいは巻きつくと

女が悲鳴をあげる間もなくその体を覆いつくして池の中に引きずり込んで行ってしまった。

その後水面が暫らく揺れていたかと思うとまた、何事もなかったかのように油を引いたような穏やかな水面に

戻りまた、あの七色の虹のような美しさをギラギラと輝かせながらみせているのだった。

それはあっという間の出来事だった。

先達の男もお夢も呆気にとられて見ていた。

この妖しい生ぐさい池。

一目でこれは危うい所だと解るのに、何故あの女の人は自分からそこに誘われるように入って行ったのか?

何て事だろう

これが”蛇地獄”というものだろうか?

数あるおぞましい場面を見て来たが、なんともいえない胸具合の悪くなる光景を見てしまったと思い、いやーな

気持ちで歩いていると先達が、

私の子供の頃、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると言われました。また、目玉を抜き取られるとも聞きました。

それが恐ろしくて出来るだけ悪い事をしないようにと心がけて来ましたが、長い年月を生きていれば

自分ではそうとは気付かずにいくらかは人を傷付ける事もあったろうと思います。

人はまるっきり些細な事もなしに清らかなまんまで年をとる事など出来ませんからネ。

生きているだけで知らず知らずに人を傷つけたり悲しませたりする事はあったでしょう。例えば何気に言った

一言がもしや相手の心を鋭い刃物で刺すように傷付けた事だってあったかも知れません。

自分では意識して傷付けようとしなかったとそてもネ。そういう事に対してもやはり何がしかの罰は受けねばならない

としたらこの先、それを覚悟して道を行った方がいいと私は今、考えていた所です。

この肩の子はまだ二つ三つ。この子こそはまだ知恵もつかず、従って清らかなままですから人を傷つけるどおりは

ありませんがネ。

そう言いながら、前方に見えるくらい森の中の小道に先達は入って行った。

うす気味悪い暗い森の中だった。

お夢も後ろをついて行った。

この先達の後ろをついて行けば例え何があろうと何の心配もないような気がした。

じめじめとしたその道を歩いて行くと、首筋に何かヒンヤリするものがポトッと落ちて来た。

手甲の間にもまるで目指すようにポタポタ落ちて中に入って行く。

それは小指の爪程の小さい茶色いものだったが、みるみるうちに赤く大きく膨らんで大きくなって行く。

その気持ち悪さ、これはお夢の体の血を吸って膨らんでいくのが解る。

キャーッと声を出すと、先達が大急ぎでお夢の首筋に張り付いたものや、手甲の間に張り付いたものを

もぎり取ってくれた。

ヒルです。これが私達の罰なのでしょう。少し我慢して下さい。

そういう先達の頬や首にも膨れ上がった気持ち悪いヒルが張り付いているが、不思議な事に肩車されている幼い女の子の

体にはどこにもヒルは張り付いていなかった。


先達とお夢はその暗いじめじめした道を大急ぎで走って駆け抜けた。

これが私たちの犯した罪の報いなのでしょう。

明るい所に抜け出てから自分の首や頬に張り付いたヒルをもぎ取りながら”先達”が言った。

人間として長い間生きて来たのですから知らず知らず誰かを傷付けたという事でしょう。

そう言って笑った。

お夢もきっと自分もそうなのだと思った。

自分ではいつも悪い事はすまいと人の嫌がる事もしないように人を傷付けないように気をつけて生きて来たが、現にあの

峰吉は私や両親に恨みを抱いてあのように付け火ををして店を焼き、私の両親を殺してしまった。

あれも私に落ち度は全くなかったのだろうか。何か他に仕様があったのではないだろうか。

やはり私にも罪はあったのではないだろうか。この張り付いたヒルを見ながらそう考えない訳にはいかなかった。

あの次々と落ちて来て張り付くヒルを必死でもぎ取りながら走った森の中、

私の存在そのものによって傷付いた人達、いつ?どこで?誰に?解らないけれど本当にごめんなさい。

考えれば考える程、生きて行くのが辛く思えるけれどもう死んであの世という所に来てしまったものだものネ。

今更、悔やんでみても仕方がないのかも知れないが仏様はその悔い改める事を求めているのかも知れない。

もしも、もしもまた、人として生まれ変われるなら今度こそは周りの人の心持ちを一生懸命考えて生きよう。

お夢はそんな事を思った。

ようやく森を抜けると明るいのどかな場所に出た。先達とお夢はホーッと一息ついた。

だがそこからは今度は道が三方向に伸びている。


さて、これからは一本道ではなくて三方向に分かれていますナ。

貴女はどうなさる?と先達が聞いた。

お夢はどこまでも続いて見える三つの道を見渡した。

どの道もゆるやかに登り坂になっているので先を行く人々の影が遠くまで見える。

先達が振り返って笑顔でお夢を見守っている。

あの、私は解りませんので貴方様の行く道をついて参ろうと思います。

お夢がそう答えると、先達は一瞬嬉しそうに笑った。

そして、どうなるか解りませんがそれでもよろしいのですか?とおかしそうに笑いながら言った。

ええ、いろんな地獄を見て来たのですもの。心構えは出来ております。

そう言うと、うーんと少し考えてから、それでは右の道を行ってみましょうか?と言った。

その右手の道には一人の人の影も見えない。


どうせなら誰もいない道を行ってみましょう。面白そうにそう言うと”先達”は歩き出した。

真中の道には遠くの方まで人が連なるように見えた。

左手の方も随分人影が見える。

お夢一人だったらきっと真中や左手の道を選んだだろう。

だが、先達は人影の一人も見えない右の道を行こうとしている。

誰もいない道は少し心細いとお夢は思ったが、この人が先達してくれるのなら恐いもの無しだと、お夢はいつの間にか

安心している所があった。

誰も選ぼうとしない道は怪しく少し心配したが、実際足を踏み入れて歩いてみると穏やかで歩きやすい道だった。

恐ろしい鬼共が出て来る事もなく、気味悪い獣が潜んでいる訳でもなく、毒虫がザワザワ寄って来る事もなかった。

舟から降りたばかりの時に見たあのきれいな花畑が道の両脇に続いているばかりだった。

やがてまた、あの、かわらなでしこの花を見つけた。

お夢がその花に近づいて行って、花を両手でそっと包んで匂いをかいでいるのを、先達は少し離れたところから見ていた。

お夢はそれに気が付くと急に恥ずかしくなった。

考えてみれば私はもうすぐ七十の年老いたお婆さんだ、心はいつまでも年をとらないというが舟から降りて歩き始めてからは

いつの間にかすっかりあの若い頃の気分になっていたが。若い娘のようになでしこの花を愛しんで匂いを嗅いだりして、

あの人から見ればきっとかなり滑稽に見えただろう。

そう思うと急に恥ずかしくなった。


なでしこの花は昔のように瑞々しく、あの奥床しい香りをお夢に届けて、一瞬にしてまたあの頃を思い出させてくれる。

お夢は花から名残り惜しそうに離れると、

おかしいでしょう?

こんなお婆さんが…。

私この花が一番好きなんです。

この花には思い出があるものですから、そう言い訳をしながら”先達”の所迄戻った。


先達はそういうお夢を笑いもせずに

貴女はお婆さんではありませんヨ

それに私もそのかわらなでしこの花が一番好きなのですと言った。

貴方もこの花が?と聞くと、

ええ、忘れられない花です。

先達は昔を思い出すように前を歩きながら話した。

お夢はその話に耳を傾けながら後ろを歩いて行った。


私には少年の頃から憧れている人がいました。

その人は町内でもきれいで有名な人で、誰からも注目される人でした。

頭が良くて美しい、誰もが認める評判の人だったんです。

私はいつもその人を遠くから見ていたものです。

私は薬種問屋の次男坊で、店を継ぐのは長男ですから。

いずれ自分はどこか他の店に婿に入るか、またのれん分けをしてもらい自分の店を持つか

しなければなりません。

親は私の事を考えて遠くの知り合いの同業の店に私を修行に出す事を決めていました。

小さい頃から自分の立場は解っていましたので、他人の店に修行に出てそこでみっちり勉強

して仕事を覚える事は覚悟はしていたのですが、

それでも私は家を離れるのが辛いというか、心残りというか、離れがたい理由がありました。

それは、自分が遠くから憧れ慕う人の姿を、これからは遠くからでも見る事が出来なくなる。

その事一つだけでした。

相手の人は私の事等、全く知らなかったと思います。ましてや、そういう思いで見ている私の

事等まるっきり気が付いていなかったでしょう。

私が十三の年でしたから。

そして、私が思い慕っていた人は三歳も年上の十六歳で明日にもお相手が決まって婿を迎える

年頃でした。それは、それは目も覚めるような美しさでした。

こんな子供の私がどんなに想っていても、ての届かない遠い人だったんです。

せめて自分の年が五歳も六歳も上だったならどんな事をしても勉強してあの人の目にとまれたかも

知れないのにと。

あの頃は痛切にそう思ったものです。

忘れもしません。

もうすぐ遠い土地の薬種問屋に修行に出なければならなくなったある日の事です。

その日は霧雨が降っていました。

私は友達の一人の所に、近々遠くに発つからと別れを言いに行っての帰りでした。

霧が深く、周りの山々も森もすっぽり霧に覆われてこの霧が今にも本格的な雨粒になりそうな、

あたりがしっとり濡れていた日でした。あの日はそういう天気が尚更、感傷的にさせるのか、

また、遠くに修行に出る心細さよりも遠くからでもあの人の姿を見る事がもう出来なくなるのだと思うと

妙に物悲しくて泣きたくなるような日でした。

友人に別れを告げてすっかり深い霧に濡れそぼって走って帰ってくると、道端にしゃがんでいる影がありました。

その影はやがて立ち上がるとこちらに向かって歩いて来ます。

あの人はしゃがんで何をしていたのだろう?そう思いながら私は小走りでその人とすれ違おうとしました。

その人は若い女の人でした。

相手もやはり濡れそぼっていました。

すれ違いざま、何気にその人と目が合いました。

その人は何と!

その人こそが私が寝ても覚めても思い慕うあの人だったんです。

こんなに間近に、しかも誰もいないこんな霧の中であの人に会えるなんて!

私は驚いてしまいました。

あの人も驚いたように私を見ていました。

雨に濡れたあの顔、あの美しい目、あの時のあの一瞬の事は今も昨日の事のように覚えています。

あの後、何度思い返した事か…。

きっと神様か、仏様が哀れな年若い私に同情して旅立つ前にあの人に会わせてくれたのだと思いました。

でもそこで立ち止まる事は出来ませんでした。

ましてや、言葉をかわす事なんて出来る訳はありません、ただすれ違っただけです。

すれ違って少し行った所、あの人が佇んでいたあたりの草むらに一輪だけ薄桃色の可憐なかわらなでしこの花が

咲いていました。

今、すれ違ったばかりのあの人そのもののように霧の粒に濡れて美しく咲いていました。

あの人はこの花を見ていたのだなと思いました。

あの人はこの花が好きなのだと知りました。

そう気付くと私もこの花が大好きになりました。

この花とあの人の事は一生涯忘れまい、そう心に決めました。

私は霧の中を妙に切なくて、悲しくて、雨なのか涙なのか解らない程、顔をグショグショに濡らして走って帰りました。

家に帰り着くなり風邪をひいたみたいだと家の者達に言って、布団に入って泣きました。

最後の最後にあんなに想い慕っていたあの人と間近に目と目が合った嬉しさと、これを限りに自分の想いを断ち切らねば

ならないと。自分自身に言い聞かせねばならない悲しさが嗚咽のように喉元にせりあがって来て私は思いっきり泣きました。

さようなら、さようなら。

私はあの人とあの一輪のなでしこの花にそう言って泣きました。

次の日は一日ボーッとして過ごしました。そして、そのまた次の日には店の番頭と一緒に朝早く、思いの残るその土地を

後にしました。


先達は一度も顔を見せずに先を歩きながらそこまで話すと後は黙ったままだった。

二人は何も言わずに黙々と歩き続けた。

お夢は驚いた。本当に驚いてしまった。お夢と全く同じ思い出を持つこの人がもしかしてあの人だと言うのだろうか?

にわかには信じられないがこの人は嘘をつくような人ではない。でもまさかネ。

お夢は自分が人様からどう見られているか等と深く考えた事がなかった。

自分が人より特別醜いとか、何かが劣っていると悩んだ事もないが、特別人より美しいとか頭が良いとも思わなかった。

祖父母が生きていた頃は、それは可愛いがられ褒められたがそれはどこの家でもある事で、祖父母が亡くなってからは

親は特別お夢を自慢したり褒める事もなかった。習い事をしたいと言えばどんな事でも師匠を見つけて習いに行かせたし、

一人娘故に着る物も他人から見て見劣りする物を着せる事はなかった。

しかし、それもいつか婿養子を迎える為に少しでも見栄えをよくする為だろうぐらいに考えていた。

幼なじみの友達も皆、どこかの大店の娘が多く、自分だけが特別扱いされた事もなく他の娘達より自分が特別勝っていると

考えた事もなかった。

お夢は元々、人と張り合ったり、他人を意識して行動するような娘ではなかった。

自分が良しとする事をし、いけないと思う事は誰が何と言おうと他人が大勢その道を行こうとしていても自分が良しとしない

方向にはビクとも動かない所があった。そしてその後それで後悔するような事は一度として無かったと思う。

その事を言ったのだろうか。

遠い昔、大叔父が、お夢には信念というものがあるナー。

お前は並の女のように人の目を気にしてフラフラする所がない。

お夢にはお夢だけにしかない確かな目があるのかも知れないナ。

そういう所は感心するヨ

そう言われた事があった。

今、この年になって思う。

あの娘の頃の私ははためにはどう映っていたのだろうか?

まさか若い男達から憧れられる程の娘だったろうか?そんな事があろう筈がない。前をいく”先達”が話している事は恐らく

見ず知らずの他人の話だろう。

確かに峰吉が自分に寄せる思いには気が付いていた。

だが自分の婿として到底考えられぬ人間だと思ったから、なまじ誤解を招くような優しい素振りはしなかったのだ。

他にもいくつもの縁談があったが面と向かって会ってから断りを入れるのは相手に対して失礼だと思い、そっと遠くからその人を

確認して、会う前に断って貰った。

その方が相手の人を深く傷つけないで済むと思ったからだ。

私は私なりに考えてした事だったが、何がいけなかったのだろうか。

考えが次から次へととりとめのない方にまで流れて行った後、それにしてもこの”先達”のような人物から思いを寄せられた娘は

何と幸せ者だろう。

たまたま、かわらなでしこの花に関わる同じ思い出を持つこの人がまさか、昔の私を知っている

筈がない。


お夢は今まで特別誰かに執着を持つ事を避けて来た。誰かを好きになる事は後々辛い事になる。あの霧雨の中ただ一度すれ違った

だけのあの目が忘れられずにとうとうこの年まで一人で来てしまったなんて、それはあの時のあの人に執着したせいだろう。

あれ以来、それ程好きになる人に巡り会う事もなかった。

何度か思いを寄せられそうになっても、自分が好きになれそうもない相手には極力近寄らないようにし無関心を装って生きて来た。

だが今、死んであの世に足を踏み入れて”先達”を務めてくれるこの男の人が話すいちいちの事がお夢の心の中に違和感なく入って

来る。

格別に自分を偉く見せようと肩ひじ張った物言いでもなく、また、物知りを自慢しようとするのでもないが、さり気ない自然な話し

口が、この人の人としての奥行きを感じさせる。

その”先達”が前を歩きながら話した思い出話がお夢の大切な思い出とあまりに似通う所があって、お夢は急にこの”先達”に興味が

湧いて来た。

こんな気持ちは今までない事だった。

「あのー、貴方様のお名前も何も解らぬのにあの世の道を同じに進む道連れと、勝手に思い込ましていただいてお聞きしてよろしいで

しょうか?」

お夢は思いきって聞いてみた。


「何でしょう。何なりと聞いて下さい。」

先達は前を向いたまま素直に言った。


「貴方のお話を聞いておりますと、貴方様のようなお方に遠くからでも思いを寄せられるそのお方は何とお幸せなお方かと少し、羨ま

しくなりました。もうあの世に来てしまって冥土のみやげというのもおかしな話ですが、その幸せなお方のお名前は何とおっしゃいます

か?どこの何というお方でしょう?」

お夢がそう聞くと、”先達”は急に立ち止まり振り向くと、嬉しそうに笑った。それはとっても優しそうな笑顔だった。

その笑顔のままお夢をしげしげ見て可笑しそうな顔をしている。お夢はお婆さんの顔をそうしげしげと見ないで欲しいと思いながら、

やはり聞かなければ良かったと心の中で悔やんだ。

”先達”は尚もお夢を見つめながら、

「やはり何も御存知なかったんですネ」と言ってから、「私が若い頃からずっと思い続けていたその方の名前は、榎本町にあったろうそく

問屋のお夢さんという方です。」

そうはっきり言って笑っている。

えーっ!お夢は驚いてしまった。

お夢の家は榎本町のろうそく屋だったのだ。

「そうです。」

「貴女ですヨ。あの日あの霧雨の中で、貴女は一人の少年に道ですれ違いませんでしたか?あれが私です。」と”先達”は言って眩しそう

にお夢を見た。


お夢はあまりにも信じられない事に何も言えなかった。


でもあの時すれ違ったのは背の高い若い男だった。

あの時のお夢が心の中で忘れる事が出来ずにいつも探し求めていたその人が今、目の前にいるこの人だと言うのだろうか。

お夢は茫然として何も言えなかった。


すると先達はまた前を向いて歩きながら、思い出すように話し始めた。

「あの後、私は遠くの土地で十年修行して戻って来ました。そしてすぐに貴女の事が気になりました。だが火事に遭い、ご両親を亡くされて

その跡地に建てた家は人に任せてどこかに行かれて今はいないと知りました。

私はがっかりしてまた、今度は更に遠くの長崎まで勉強に出ました。それから何年向こうにいたでしょう。その間、幾度か世話をしてくれる

人がいて嫁を貰おうかと考えた事もありますが、何故か思い切る事が出来ずにとうとう独り身を通して四十を過ぎた頃、兄に呼ばれて帰って

来ました。

そして長年勉強したことを元に今の療養所を開きました。

その時に再び貴女を見かけたのですヨ。貴女は以前と少しも変わらぬ美しさで甘味処を開いて繁盛していましたね。私の事を覚えておいでに

はなりませんか?」

そう言って振り返った”先達”の顔はいつの間にか年老いて髭をたくわえ、丸眼鏡をかけた覚えのある老人になっていた。

ええっ?

そうだ、このお顔はよくお夢の店に来てくれるお医者様の寿庵先生だ!と初めて気が付いた。


「寿庵先生?寿庵先生があの時お会いした方ですか?」

お夢がオズオズと聞くと、

「そうです。」

寿庵はニコニコ笑いながらも少し悲しそうな顔をした。

「私の方ではいつも貴女の事を見ていましたヨ。」

お夢は急に胸の中がホッコリ温かくなって来た。

生きている時に味わう事の出来なかった胸の温まる幸せだった。

「寿庵先生、驚きました。よくお話して下さいました。とっても嬉しゅうございます。私も実はあの時の事が忘れられずに、せめて一度だけ

でもお会いしたいといつも思っていたのです。生きているうちにそうと解ったならどんなにか幸せだったでしょう。

でも今、ここで解って本当に嬉しゅうございます。私は幸せです。私の淋しい人生も少しは彩りのあるものになりました。終わり良ければ全て

良しといいますものネ。きっと仏様が私を憐れんで貴方様を先達のようにおつかわしになったのでしょう。」

お夢がそう言うと寿庵は何も言わなかった。ただ眩しそうに優しそうに目を少し瞬いてから、また前を向いて歩き始めた。

二人はその後お互いに何も言わずに黙って歩いた。それぞれ胸には蘇ってくる思いがあった。

どういう訳か、本当に偶然か冥土の旅路で一緒になれたのは何かのお導きにするものではないかとお夢は思ったりした。

二人はお互いあの若い日の後、どういう日々を送り、どう生きて来たのか知りたい事は山ほどあったが、それをいちいち口に出せば、今まで

秘かに大切にして来たものが崩れてしまいそうな気もしていたのかも知れない。


お夢は自分が来た道筋を思い返していた。

二十歳を目の前にして、火事で店ごと両親を亡くして以来、しばらくは大叔父の隠居した別邸に世話になっていた。手伝いのおかつ婆もまるで

自分の本当の娘か孫のようにお夢を大事にしてくれたが、その頃のお夢は大叔父やおかつ婆、番頭の茂吉の優しさに感謝する心のゆとりもなく

ふさぎ込んでいた。

何もかも失くしてしまった。

両親も家もろうそく問屋の商売もすっからかんに消えてしまった。

今までのお夢の生活が足元から根こそぎ無くなってしまったのだ。これからどう生きて行こう。

自分ではわがまま者ではないつもりでいたが、父も母も死んでしまった今何もかもが悔やまれた。自分が何と親不孝な娘だったかと後悔の毎日

だった。

例え好きになれぬ相手でも両親があんなに一生懸命に勧めてくれた中の一人と添ってみるべきだった。そう考えて自分を責める毎日だった。

世間のあまたいる娘達の誰もが本当に好きな相手と一緒になれている訳ではないだろう。いろんな事情で泣く泣く嫁いで辛抱しながら添い遂げて

お婆さんになった人も数多くいる筈だ。それができずにいつも断っては両親をがっかりさせて来た。そういう私はやはりわがままだったのでは

ないか。繰り返し繰り返し親達の顔を思い浮かべては泣き、後悔した。後悔先に立たずとは言葉通り。どんなに泣いてももう両親は帰っては

来ない。お夢は気の病になったように何日も何日も大叔父の家の自分の部屋から出ない日々が流れて行った。

時々、大叔父や番頭の茂吉が様子を見ながらお夢の耳に、金繰りの方は大丈夫だからとか使用人の皆には何がしかのお金をやって働き口も見つけ

てやった等の話をしたようだったが何もかも上の空で、耳のあたりを風のように通り過ぎただけだった。

確か、残ったお金で小さな家を建てていいか等と相談をされたような気もする。お夢は全て大叔父と茂吉で相談して決めて下さい。と言ったような

気がする。

暫くすると、茂吉が訪ねて来て、大叔父も一緒に家を見に行きましょうと言う事になった。

お夢はそう聞いても少しも心が動かなかったが二人について見に行った。以前の店も大きな店ではなかったが、更にそれの半分程のこじんまりした

二階建ての家がそこに建っている。

一階は何か商売が出来るように、そして二階はお夢が住めるようにといろいろ工夫されて。木の香りも新しい可愛い家がきちんと出来上がっていた。

お夢はその家を見た途端また、亡くなった両親の顔が浮かんで来て新たな悲しみが込み上げて来た。

泣いてはいけない、泣いてはいけない。泣くのはもう一生分泣いた。これからは泣かずにしっかりとしなければならない。

大叔父と茂吉が私の為に一生懸命走り回ってここまでしてくれたものだもの。前の店の後始末やら使用人の先行きの事まで考えてきちんとそれぞれが

身の立つようにしてやり、更に残ったお金でお夢が困らないようにこんな新しい家まで建ててくれたのだ。その間、私は何をしていただろうか。

何もしないで部屋に閉じ籠って泣いてばかりいたのだ。

しかし、いつまでもはぐれた子供のようにグズグズしてばかりはいられない。一生甘ったれてはいられない。自分で自分をしっかりさせる他ないのだ。

お夢はそう思うと形ばかりにも茂吉と大叔父に向かって深く頭を下げてお礼を言った。

「本当にいろいろありがとうございました。ここまでするのはさぞ大変だったでしょう。感謝しております。ですが茂吉、今私はこの家に住む気持ち

にはどうしてもなれません。いつかは必ず帰って来てお前が建ててくれたこの家に住みますが、今はどうしてもそう出来ません。私がかえって来る

その時まで、茂吉お前がここに住んでこの家を守っていてはくれないだろうか、是非お願いします。」

とお夢は頭を下げた。

茂吉は「お嬢さんがその気になるまで私がこの家の留守番をしていましょう。」

そう言ってくれた。

それからお夢は大叔父の別邸に帰ると大叔父に相談した。

「わがままかも知れませんが、私は暫らくここを離れて見知らぬ土地で暮らしたいと思います。自分の事を知る者が誰もいない離れた土地で奉公でも

して自分自身で食べて行きたいと考えています。大叔父様、どこかそういう場所をお世話して下さい。」

お夢がそう願うと大叔父は柔和な顔を悲しそうにして、「お前が私の近くからいなくなると淋しくなるナー。」と言った。

「今まではお夢が一番私の可愛い孫のようになっていたのに本当に淋しくなるナー。」

そう言いながらあれこれ思いめぐらせているようだった。

そして、「お夢お前は一本筋が通っている所があるし、何をさせても申し分ない所がある。この私が時々驚くほど、物を見る目は確かだ。そういう所は

他の誰にも真似のできない所だ。」

「お前がそのお前の得意を生かして働けるような場所を考えておくから少し時間をおくれ。」

そう言ってくれた。

それからどれくらい経ったろうか。大叔父はお夢を呼んだ。

心当たりの所と連絡を取り合って相手の方の了解を得たが、お前の気持ちはどうかと聞かれた。それは、大叔父が若い頃家を出て暫らく勉強していた

土地があり、お夢がいる所からかなり離れた城のある大きな町だった。大叔父と同じく書道、骨董を営む大きな店の主人からの紹介だという事だった。

その仕事というのは、書の大家の家での諸々の雑事だと言う。下女は何人もいるので家の事ではなくて書の先生の脇にいてお手伝いをする仕事だとい

うのだ。

男の弟子は二人いるので汚れ仕事はしなくていいが、見る目の確かな人間が欲しいと言っているとの事。

お夢は幼い頃から子供には珍しく、書や絵画が好きでしかも大叔父の所にある難しい書や渋い画を好んで見ている子供だった。娘らしくなってもオシャ

レや遊びには興味を示さず大叔父の所に行ってはそれらの物を飽きずに眺めて楽しんでいるところがある珍しい娘だった。

大叔父はそれを好もしく思って、それらの作品について講釈してくれ、お夢も自ら手習いの一つとして長年書を習っていた事も、この度の話につながっ

たのかも知れない。

お夢が「私はただ見て楽しんでいただけですが、そのような私に務まりましょうか?」と言った。

「なに、お前に務まらなければ他の誰にも務まりはせぬヨ。もしも、お前が嫌だと思ったらすぐに帰ってくればいい。」

大叔父は妙に自信たっぷりでそう言ってくれた。

お夢は他人の家に奉公に出てそこで頑張っている娘達が多勢いる事は知っている。その人達に出来る事なら自分に出来ない筈はないと思った。とにかく

大叔父が私の為にみつけてくれた仕事なのだ。

頑張ってみよう!そう思った。

そのようにしてお夢は大叔父の店の者一人についてもらって、遠い土地の大きな街に出て行った。

何日もかかるその街に、馬に乗せられたり、カゴを使ったりしてようやく辿り着いた。

こんなに人の世話になっては簡単に音を上げて帰る訳にはいかない。

お夢は道々、自分に言い聞かせ覚悟を決めて行った。

大きなその街はお夢がいた街と比べてもそんなに恐れる事のない、むしろこれから本当に新しい生活が始まるのだと思うと気の引き締まる思いがした。

ここでなら何とかやっていける。誰も知る者のない所で本当に自分らしくやって行ける。そういう気がした。





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