蝶族篇 Ⅰ

何もかもが美しいこの王国の中で、丘を少し上った先にある練兵場はいささか異質な存在かもしれない。見るに堪えないほど粗末な訳ではなく、むしろむき出しの地面はいつも平らに整備されて雑草一つ生えていないほど几帳面に手入れされていたが、その造りは至って簡素で、無骨な印象だった。特に宮殿近くの芸術品のような円形闘技場と比べるとそれだけ此処が実用性に特化されているということが目に見える。蝶族の若い娘たちが修練に好んで用いるこの場所は、いつも冬の朝のような張り詰めた気配に充ちていた。

「は―――あっ!!」

鋭い叫び声と共に、派手に空気を切り裂く音が辺りに響く。

「あら、コラノちゃんだめよお」

くすくすと小さな笑いを含んで間延びした声がそれに応える。息一つ切らさないその声の主は、いとも容易くその一撃をあしらった。

コラノちゃん、と甘ったるく呼び掛けた彼女は続けて繰り出された相手の剣をあっさり払うと、次の瞬間には相手を地面に倒し、喉元に自らの剣の切っ先を突き付けていた。

「剣を振るう時でも優雅に、ね」

叩き伏せられた方――まだ幼さの残る顔つきに、女ではなく子供らしい華奢さを備えた体格の少女は顔を引き攣らせ、そしてぎゅっと眉間に皺を寄せた。それを見下ろす娘はふっと笑みを深める。娘は華やかな顔立ちの美女だったが、幼い少女と目元が何処か似ていた。険しい表情のまま少女が何か言いたげに口を開いたその瞬間、ぽた、と地面に水が落ちた。

「あ」

二人同時に声が上がる。先程から雲行きは怪しかったが、とうとう飽和しきった雨粒がぱらぱらと降って来たらしい。

途端に風船の縛り口を外したように急速に空気が緩み、派手な娘が甘ったるい声で「やーん」と言った。

「あたし今日髪に香油つけてるのに濡れちゃったら台無しじゃない! コラノちゃん、雨宿りしよう!」

「え、あ、ちょっと!」

気の利いた屋根などない素朴な練兵場には、二人のほかは木の影しかない。手を繋いで(一方は勝手に掴まれて)ぱたぱたと大きな木の下まで走ると、二人はふうと息を吐いた。

さっきまで熱気に包まれていた練兵場が柔らかい雨に冷やされていく。

木の下で髪をいじる女と、地面に吸い込まれていく雨粒に意志の強そうな視線を投げかける少女。これが蝶族の姉妹、サライとコラノの二人である。



「やっぱりサライは強い」

拗ねたような呟きに、サライ――甘ったるい声で間延びした喋り方をする、華やかで美しい容貌の姉はぷっと噴き出した。

「な、なに」

「だってえ、コラノちゃん唇とんがってるんだもん。拗ねてるんだあ」

コラノはかっと顔を赤くして、

「拗ねてなんかない!」

「拗ねてるよお、その顔ちっちゃい時とおんなじ!んもう、今日も私の妹が可愛いなあ」

コラノはサライが頭に伸ばしてきた手を振り払い、痛々しげに顔を歪めた。

「私、こんなので蝶族学校の先生になれるのかな…。そもそも蝶族としても未熟すぎる」

「あらー、そんな悩んでたの? だあいじょうぶだから」

ぽんと妹の頭に手を乗せると、ゆっくり髪を掻き混ぜて

「私と比べちゃだめ。コラノちゃんは強いよ」

「…サライに言われるとむかつく」

コラノは顎近くで適当に切り揃えた髪をいつもぼさぼさのままにしていたが、艶やかな髪の姉にぐしゃぐしゃと好き放題乱されるのは我慢ならなかったらしい。サライの手を振り払うとぎこちなく自分で髪を整えたが、それを笑われてまた唇を突き出すのだった。



雨上がり独特の匂いが立ち込める頃、もう少し練習しようと提案したコラノを抑えて姉妹は街の中心部へ向かった。「お母さんとリネおばさんに買い物を頼まれてるでしょお」買い物くらいすぐ終わる、と不満げなコラノに少し微笑むと、サライは「たまには息抜きすることも練習のうち」と言ってその手を引いた。

練兵場の周りを囲むような森を抜けて丘を下ると、少しずつ建物が増えてくる。クリーム色の病院の前を通り過ぎ、家が立ち並ぶ市場に向かう道へ出る頃には頭上はすっかり晴れ渡っていた。

「買う物ってなんだっけ」

「えっとねえ、小麦粉、乾燥薔薇、化粧用ローズオイルだって」

市場の入り口はいつものように賑やかだった。まず乾燥薔薇とオイルを買いに市場に入ってすぐに在る薬局に入ると、早速店主で蝶族のモイラが出迎えてくれる。

「あら、美人姉妹じゃないの!」

二人の姿を認めるやいなやの一言にコラノは苦笑したが、サライは満面の笑みで

「お久しぶりですう、モイラさん」

「相変わらず綺麗ねえあんた。肌なんかずっとつるつるじゃないの! コラノちゃんも元は可愛いんだからもっとおめかしすればいいのに」

あはは、と乾いた笑いを浮かべるコラノはこのあけすけな物言いの中年女が少し苦手だった。モイラは悪気の無い、蝶族としての腕前も高い、世渡り上手な女性だったから余計に。

「うふふ、コラノちゃんはこのままで凄く可愛いからいいんですよ! 今日はねえ、お母さん達のお遣いに来ました」

「あらそう? あんた達のお母さんならちょくちょく会うけどあの人もずっときれいよねえ…」

そのままお喋りが始まりそうな気配にコラノは尻込みしたが、サライは気持ちよさそうに世間話をしながらさっさと買い物を済ませ、「ではまたお願いしまあす」と愛らしく挨拶をして二人は思ったより早く店を出ていた。

ちりんちりん、という涼やかなドアベルの音を背に、コラノはまじまじと姉を見上げた。

「あとは小麦粉だけね。あ、あたし部屋に置く新しいアロマオイル欲しいなあ、雑貨屋さんも寄っていい?」

「え、ああ、うん」

「ん?」

サライはぼんやりした様子のコラノに気付いてきょとんとした表情を向けた。

「どうしたのお?」

「サライはやっぱり色々要領がいいなって思って…」

しみじみとした、何処か感嘆したような言い方だった。

「何それ。ほら、寄り道するんだし早く行こお」



小麦粉を買い、雑貨屋で乙女らしい時間を過ごし終わった頃には辺りに茜色の空気が漂い始めていたが、姉妹はすっかり満足した猫のように伸びやかな気持ちだった。

「サライ、これ、ありがとう…」

コラノは小麦粉と一緒にふわふわした手触りのクッションをぎゅっと抱きしめてはにかんだ。雑貨屋でその手触りの良さに心を奪われていたのを見て、サライが買ってやったのだ。

「どおいたしまして! コラノちゃんって普段あんまり物欲しがらないからもっと買ってあげたいくらいだなあ。あたしもいい匂いのアロマに出会えてよかった~」

コラノは照れたように「これ、気持ちいいしかわいい」と呟いた。コラノの心を掴んだのは、王国やその周辺で衣料品の原料となる毛の狩れる動物を模したクッションだった。目を表している黒いビーズがなんとも愛くるしい。

「今日の夕ご飯なんだろう」

「早く帰って支度手伝わなきゃねえ」

サライは隣を歩くコラノの嬉しそうな顔を見ながらにっこり笑った。この妹が早く武術を上達させたくて、毎日必死に練習していることをよく知っている。たまに生意気なことも言うけれど、自分のことを尊敬していて、何処か理想として憧れていることも。応援したいと思う一方で、少女時代の楽しみも喜びも全て蔑ろにしてがむしゃらになりがちな妹のことを少し案じていた。そんなに生き急がなくて良い。思いつめた表情ばかりしなくても大丈夫。何があろうと、あなたには私がついているんだから。

昨日の夜から遊びに来ているリネおばさんは、姉妹の母の姉だ。姉妹の母もおばさんも蝶族の女で、では同じ蝶族だから同族意識で群れているのかといえばそうではない。おばさんには三人の娘がいて、真ん中のシルだけは仮面族だが家族みんなとても仲が良い。リネおばさんと姉妹の母は小さい頃からずっと仲が良く、娘を持つ今も近所に住んで何かと助け合って生きている。

「コラノちゃん」

隣を歩く妹をふと呼びかけると、にこにこした表情のまま「何」とぶっきらぼうな答えが返ってきてサライはふふふと笑う。

「なんでもなあい。あ、家に帰ったら瓶にアロマ詰め替えるの手伝ってよ」

「ええ! そんなめんどくさ…あ、わかった…」

「ちょっとお、別にそのクッションの見返りじゃないから! いいじゃない、手伝ってよお」

夕暮れの空の下、姉妹の影は寄り添うようにどこまでも伸びた。


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花の都に散りぬるを 飴野セロエ @Bonbons

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