絶対に買わないで!

沢田和早

想いが通じる五分前

 そろそろ彼が来る時刻だ。そう考えただけで全身が火照ほてるように熱くなる。

 もちろん本当に熱を帯びているわけではない。ここでは厳重に温度管理が行われている。どんなに外気温が高くてもあたしの体温は常に五℃。クールビューティーと呼ばれるにふさわしい冷たさでしょう。


「今日、ついにあたしの順番が回って来る。ああ、どんなにこの日を待ち焦がれたことか」


 彼と初めて会ったのはここに配属された日。一目で「この人はあたしの運命の人に違いない」そう感じた。

 それは彼も同じだったはず。だってあたしの姿を認めた途端、こうつぶやいたのだから。


「あれ、今日から新しいのが入ったんだ。ウマソー」


 そして迷うことなくあたしの種類を選択した。そう、選ばれたのはあたし自身ではなくあたしの種類。少し悔しかった。でもそれは仕方がない。順番なのだから。

 ガチャンという金属音をたてて取り出し口に落ちたあたしの種類を彼がつかむ。タブを開けて唇を寄せる。キスしようとしているのだ。


「やめて。せめてストローを使って」


 あたしの頭は嫉妬でおかしくなりそうだった。あたし以外の相手とキスする彼の姿なんて見たくない。でもそれも仕方のないこと。お金を払っている以上、彼にはキスする権利がある。


「ごくごく、くは~、強炭酸が効くぅ。しかもジンジャーエキスは従来の五倍か。『渇いた細胞に愛のムチ、クールビューティー』キャッチコピーに恥じぬ刺激だな」


 飲み干した空き缶を見つめる彼。天にも昇りそうな恍惚の表情を見ているとあたしまで嬉しくなる。姿だけでなく中身まで気に入ってくれたみたいね。当然よ。あたしのとりこにならない男なんているはずがないのだから。


「それにしてもあたしの他はみんな木偶でくの坊ね。彼とキスする前に歓喜の炭酸シャワーも浴びせてあげないなんて」


 この自動販売機に配属された缶の本数は一種類当たり十数本。あたしの種類はちょうど十五本。だけど意識を持っている缶はあたしだけみたい。

 人間には雑音にしか聞こえない缶の言葉も缶同士なら理解し合える。だからあたしはここに来た時からずっと話し続けている。それなのに答えてくれる缶はひとつもない。独り言さえ聞こえてこない。みんな意識を持っていないのだ。それはきっとあたしが特別な存在だから。


「どうしてあたしだけ意識を持っているのか。どうして特別な存在なのか。今まで不思議で仕方がなかった。でも今、その理由がようやくわかった。彼とキスして想いを通じるため、そのためにあたしは意識を持たされたのだ」


 彼の顔が懐かしい。初対面ではないような気がする。

 缶になる前のあたしは何だったのだろう。もしかして彼と同じように普通の高校へ通う普通の女子高生だったのではないだろうか。毎日彼の姿を見て彼の声を聞いてそれだけで満足していたのではないだろうか。そしてある日、突発的な出来事が発生したことにより、缶としての存在を与えられたのではないだろうか。


「わからない、思い出せない。でもあたしが彼を想っていることだけは何としても伝えたい。そのためにできるのは……」


 キス。そう、それは言葉の通じないあたしの唯一の手段。

 あたしの冷え切った唇に彼の熱い唇が触れた時、あたしの想いはきっと通じる。それが切っ掛けとなって元の女子高生に戻れるかもしれない。

 まるで夢物語みたいな妄想だけどキスは本来の姿を取り戻すおとぎ話の定番イベント。あり得ない話ではないはず。


「それにしても運が悪かったわね」


 あたしはため息をついた。あたしの配属は十五番目、一番最後なのだ。彼が十四本飲んでようやくあたしの番が回って来る。しかもそれが彼である保証はない。別の誰かがあたしを買ったとしたら想いを伝えるチャンスは永遠にやって来ない。


「ううん、弱気になってはダメ。最初の一本を飲んだのは彼だった。最後の一本だって彼に決まっている。それを信じて待つしかないわ」


『渇いた細胞に愛のムチ、クールビューティー』を飲み干した彼は空き缶をゴミ箱に捨てて歩いていく。監視カメラに映る彼の後姿がどんどん小さく遠くなっていく。監視範囲外に出てしまってもあたしは見つめ続けていた。


 その日からあたしはヤキモキしながら彼を待った。一週間後、ほぼ同じ時刻に彼はやって来た。どうやら日曜の早朝にこの辺りを散歩する習慣らしい。次の週も同じ時刻にやって来た。その次の週も来てくれた。


「そして今週も来てくれた」


 監視カメラが彼の姿を捉えるとあたしの体はたちまち火照り出す。ゆっくりとこちらに向かって歩く彼。自動販売機の前で立ち止まり何を飲もうか考える彼。でもそれはあくまで考えるフリ。あたしの種類を買うのは最初から決まっていること。ポケットからスマホを取り出しリーダーにタッチ。取り出し口に落ちた缶を拾い上げタブを開けて飲み口に唇をつける。


「ここだけは見たくない」


 あたしじゃない缶とのキスなんて本来なら絶対に許さない。他の缶には意識がないからギリギリ我慢してあげているだけ。

 あたしは顔をそむけて時計を確認する。監視カメラに彼が映し出されてからここまでが五分。飲み終わるまで一分。そして立ち去る彼の姿が監視カメラから完全に消えるまでに二分。わずか八分間のデート。それでもあたしは幸せだった。毎週来てくれる彼の姿を見られるだけで嬉しかった。


「あとは他の人があたしの種類を買わないように願うだけね」


 あたしは彼以外の誰かが自動販売機の前に立つたびに呪いの言葉を放った。


「クールビューティーを買うな。絶対に買うな。もし買ったりしたら常識外れの厄災がおまえとおまえの親類縁者に降りかかるであろう」


 もちろん人間には言葉ではなく雑音にしか聞こえない。ただの気休めであることはわかっている。それでもやらないよりはマシだ。


「よし、今日も買われなかった」


 呪いの言葉が聞こえているはずがないのに不思議とあたしの種類は買われなかった。きっと神の御加護に違いない。天もあたしを応援してくれているのだ。

 日を追うごとにあたしの期待は高まっていった。そしてついに彼と出会ってから十五回目の日曜日がやって来た。あたしの運命の日だ。


「来た!」


 いつものように監視カメラに彼の姿が映る。それはあたしの想いが通じる五分前。あと五分だ。五分後、あたしと彼は熱いキスを交わし、その時あたしの想いは伝わるのだ。彼がこちらに歩いて来る。一歩一歩、あたしに近づいて来る。大丈夫、絶対にうまくいくはずよ。


「えっ?」


 ドキリとした。一台の車が監視カメラに映ったのだ。自動販売機の前に駐車するとドアが開いて男が降りて来る。


「ああ、あいつか」


 あたしは胸をなでおろした。あたしをここに配属した男だ。今日みたいに時々車でやって来ては前面パネルを開いて飲料を補充していく。ここへ来るのはあくまでも仕事。彼ならあたしを購入したりはしないはず……


「うそ!」


 何が起きたのかわからなかった。突然世界が回転を始めた。違う、回っているのはあたし。体が落ちていく。外気に触れる。誰かにつかまれる。あの男だ。どういうこと。どうしてこの男があたしを買うの。


「やっぱり最後の一本か。不思議とここだけは売れているんだな」


 男の指がタブをつかむ。まさかあたしにキスするつもり? やめて。彼のためにずっと守ってきた純潔を汚さないで。


「あっ、補充ですか。ご苦労さまです」


 彼の声が聞こえる。いやああ。こんなあたしを見られたくない。見ないで。目を閉じて。あっちへ行って。


「ごくごく」


 男は無理やりあたしにキスすると中身を飲み干した。

 ああ、なんてことなの。これで全てがおしまいだ。他の男とキスしたあたしに彼を愛する資格はない。彼だって簡単に唇を許したあたしに愛想を尽かしたはず。これであたしの想いは永遠に彼には届かない。最高の五分間になるはずだったのに最低の五分間になってしまった。


「あれ、クールビューティー売り切れですか」

「ああ、すまない。補充の前に最後の一本を飲んでしまった」

「そうですか。なら新しいのもらえますか。冷えてなくてもいいですから」

「残念だけどこの飲料は生産終了してしまったよ。あまりにも売れ行きが悪いんでね。正直なところ、他の自動販売機では一本も売れていないんだ。補充も一カ月前からストップしているしね。今日からは別の銘柄が入ることになっているんで記念に飲んでおこうと思ったわけさ」

「変だなあ。こんなにおいしいのに」


 寂しそうな彼の顔。最後に見る彼がこんな姿だなんて天はどこまであたしに意地悪するの。これで永遠にお別れね。あたしはゴミ箱に捨てられ、リサイクル業者に引き取られ、別の製品に生まれ変わるのね。


「さようなら。これからは新しい銘柄の飲料を愛してあげて」


 あたしは彼に別れの挨拶をした。もちろんその声が彼に届くはずもなかった。全てが悲しかった。虚しかった。あたしの心も体もからっぽだった。あたしは何もかも諦めた。その時、信じられない言葉が聞こえた。


「じゃあ、記念にその空き缶をいただけませんか」


 * * *


 そうしてあたしは今、彼の部屋にいる。空き缶になったあたしの口に差し込まれているのは一輪の花。飲料としてのあたしの役目は終わり、今は花瓶として生きている。

 もちろん幸せよ。毎日彼と会えるのだもの。花瓶になったあたしと彼がキスする可能性はほとんどない。でもいつか必ずあたしの想いは届くはず、そう信じて今日も口に差し込まれた花に水を与え続けている。

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