珈琲は月の下で

けんこや

珈琲は月の下で

 こうこうと月光の照りつける中学校のグラウンドを、少年はひたむきに走っていた。


 三方を山で囲まれた校庭は、誰に見られることもない。


 校舎にも人の気配はない。


 誰にも知られず、気づかれることもなく、まるで世界から切り取られたような夜のグラウンドを、少年はたった一人、走りつづけている。





 少年がこの中学校に転校してきて、もうひと月以上が経過している。


 しかし少年はいつまでたっても、この新しい環境になじめずにいた。


 それはクラスの生徒たちや教師との間で交わされる耳慣れない方言のせいでもなく、自転車通学時にかぶるヘルメットの違和感のせいでもなく、ブレザーだった制服が、首まで圧迫しそうなツメエリに変わったせいでもなかった。


 もちろん新しい環境の中で、周囲から冷たい仕打ちを受けたわけでもない。


 クラスのみんなは、中学2年の秋というこの絶妙なタイミングで転校してきた少年のことを、むしろ暖かく歓迎してくれたと言ってもよかった。


 そのうちの何人かは、横浜から転校してきたという少年に強い関心を示し、テレビや雑誌で見られるようなスポットのことをあれこれ聞きながら、積極的に交流を深めようとしてきた。


 だけど少年はそうして差し伸べてくれた手に対し、素直にその手を握り返すことがどうしてもできずにいた。


 つい一歩あとずさり、一言も口を聞かないまま、冷静にその手を突き離してしまう。


 そして口をついて出る答えはいつも「別に…。」の一言。


 そうした態度は皆をしらけさせた。


 そうした態度が重なった結果、少年は周囲から『都会育ちでプライドの高い奴』という非常に面倒な印象をもたれてしまっていた。



 本当はそんなつもりじゃなかった。


 新しい環境になじまなきゃいけない、この土地で、この学校の、この生徒として生活をしていかなければいけない。だから少年は少しでも早くみんなと打ち解けていきたかった。


 でもどんなに頭の中で分かっていても、心の奥のずっと深いところで、かたくなに心を閉ざしつづけている自分がいて、周囲の人との間に高い壁を築いてしまうのだった。





 この数か月の間に少年に起こった出来事は、あまりにも衝撃的だった。


 両親の離婚。弟を連れて家を出て行ったお母さん。お父さんの郷里への突然の引っ越し。友人達との別れ。区画整備された整然とした街並みから、一転、見渡す限り田畑に囲まれた地での、祖父母との生活。


 それまで少年が漠然と予想していた、生まれ育った生活環境で中学を卒業し、高校を卒業し、大学を出て、就職し…といった人生のストーリーがめまぐるしく変化してゆく。


 そしてその変化は、少年にとっては本来のあるべき方向から大きく脱線し、横道にそれてゆくようにしか思えてならないのだった。


 でもだからといって、騒いだところでどうにもならないことぐらいの分別は少年にも備わっていて、すべての成り行きに対して少年は無言でうなずき続けてゆくしかなかった。



『世の中には自分の力だけではどうにもならないことがある。』



 それを嫌という程、心に叩き込まれたような数ヶ月だった。


 だけどその『どうにもならないこと』に対して、時には心の底から抗いたくなる瞬間がある。


 その積もり積もった思いが心の許容量を超えてあふれだしたとき、少年は寝静まった家を出て、どこへともなく自転車を走らせたのだった。





 ただ、そうはいっても山間の小さな町である。


 街灯も少なく、夜中に安全に走行できる道など、そうあるわけではない。


 気が付けば少年は、いつも通りの通学路をたんたんと走りづつけてた。


 結局学校へと辿り着くと、少年は日常の範囲を突き破ることができない無力感に、ガックリと肩を落とした。


 そのまま校門にタッチをして帰ろうとしたが、ふと、ここまでやってきた勢いに駆り立てられるかのように、少年は校門を飛び越え、学校の敷地内を散策しはじめたのだった。



 夜の闇に包まれた学校は別世界のようだった。


 黒く沈んだような校舎を回りこみ、校庭に出ると、少年はほおっと目の前の光景に見とれて立ちすくんだ。


 満月が眩しいほどに輝く夜だった。


 その下で、グラウンドは水色の光を全面に反射させ、幻想的な世界を出現させていた。


 少年は魅入られるように土の上に踏み出し、ゆっくりとトラックを走り初めた。





 月の光が、グラウンドに少年の影をくっきりと映し出していた。


 月を背にしているときは少年はその影を追いかけるように走り、月を正面にしているときは、その月を見上げながら走った。


 初秋の涼やかな風が、少年のほほをなでていった。


 誰もいない夜の世界、自分だけの世界、土を踏み鳴らす自分だけの足音。


 少年は走りながら、心に積もり積もったわだかまりが後方に吹きさらわれてゆくような感触を味わっていた。


 そのまま走り続けていれば、全てを拭い去ることができるのかもしれない。


 そんな風に思い始めていた矢先、突然、少年の足がパタッと止まった。



 グラウンドの隅に、人影が立っているのが見えたのだった。





 少年は始め、その人影が幽霊なのではないかと思い、心臓が飛び出しそうなほどの恐怖を覚えた。


 しかしよくみると、それはいつも花壇の手入れをしている用務員のおじさんだった。


 顔にやけどの跡がある大柄の人物で、寡黙で表情がなく、他の生徒と話をしているのを見たことがない。その風貌から陰で「フランケンシュタイン」だとか言われているのも聞いたことがある。


 用務員のおじさんはグラウンドの片隅で、じっと少年のことを見つめていた。


 少年は用務員と目をあわせたまま、金縛りにあったように身動きが取れずにいた。


 心霊現象かと思った瞬間的な恐怖は通り過ぎていたが、代わって校庭に忍び込んで走り回っていたことに対して、どう咎められるのだろうかという現実的な怖さで心がいっぱいになっていた。


 逃げ出したいという思い、同時に湧き上がってくる、謝らなきゃという素直な心境…。


 そんな交錯の中でたたずんでしていると、用務員のおじさんが大きく声を張り上げた。


「転校生かぁー。」


 少年は、ふいをうたれたように立ちすくんだ。


 声はさらに続いた。


「石原くんっ言うたっけなぁー。」


 少年は驚いて目をみはった。


 予想外だった。


 まさかこの学校の用務員に、自分の存在が、名前を含めてまできちんと認知されているとは思ってもみなかったのだった。


「ようけ走っとるのォ―。」


 少年はそこでようやく我に返り、大きな声で謝った。


「す、すいません!勝手に入り込んで!」


「ええよ、思う存分走ったらええ。」


 用務員のおじさんはそれだけ言うと、校舎の方に戻っていった。


 その姿が校舎の影に消えて見えなくなると、校舎の一階の隅の窓にぽんっと明かりがともった。


 そこが用務員の宿直室であるらしかった。


 と、するとあの人はずっとここで暮らしているのだろうか。


 そんなことを思いながら、少年は再び走り出した。





『思う存分走ったらええ』


 その一言に免罪符を得たような気になって、少年の足取りは羽をつけたように軽やかだった。


 2周、3周と気持ちよく走り抜けると、少年はグラウンドの真ん中に歩み進めながら、大きく深呼吸をした。


 火照った体から、汗が蒸気のように吹き出していた。


 濡れた少年の体を、風が心地よく通りすぎていった。


 と、再び校舎の方から用務員のおじさんの声が響いてきた。


「これ、ここに置いとくけえのぉー。」


 見ると、おじさんが朝礼台の上に何かを置いて、また校舎の影へと去っていった。





 朝礼台に近寄ってみると、一本の缶コーヒーが置かれていた。


 …これ、飲んでいいってことなのかな。


 缶を手に取ると、ひやりと冷たかった。


 ほほにぴたりと吸い付けて、目を閉じた。


 冷えた缶は少年を静かに癒してくれるかのようで、何とも言えず心地よかった。



 朝礼台に腰を掛けて、プルトップを引く。


 パシュッ!と内気圧が抜ける音が、辺りに小気味よく響き渡った。


 一口飲み込むと、クリアなブラックだった。


 砂糖もミルクも入っていないその味は少年が普段飲み慣れたものではなかったが、透き通った苦みは上気した少年の体のすみずみまで行き渡ってゆくようだった。


 ほおっと一息つくと、少年はグラウンドをゆっくりと見渡した。


 月の光に浮かび上がる水色の世界は、少年の心を優しく染め上げた。



 …今からでも遅くはない、明日は教室のみんなに自分から声をかけてみようか。



 少年は胸の内にそうつぶやくと、コーヒーの残りを一気に飲み干した。


 初めてこの土地の、この学校の、この生徒でよかったと思えたような気がしていた。




『珈琲は月の下で』おわり

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