花屋

もり ひろ

花屋

 僕は、そのような美しい方にお会いしたのは生まれて初めてでした。

 彼は買いたての胡瓜の苗に微笑みかけておりました。男であるのに女のような、整った顔立ちで色が白く、細いのに細部にはたくましさがあり、いつかに美術館で見た造形物のようです。

 僕は花屋に勤めています。オオナアの下村さんという女性と、僕だけの、小さなお店で、お客さんが少ないこともあって、下村さんと僕で一日中喋って過ごすこともあり、そうしているうちに常連客もいつの間にか会話に参加していることもありますが、何も買わない客に下村さんがゴオヤの種を持たせて、帰らせるのです。

 この辺りは老婆と老爺ばかりの地域で、売れる花と言えば仏壇や墓に供えるようなものが多く、カアネエシヨンやバラを仕入れても、買う人は稀です。店内は、下村さんの趣味で仕入れた外来の珍しい草木と、売れずに好き勝手に伸びる野菜の苗が目立っています。 下村さんに「ほら」と言われるまで、僕は彼に見惚れてしまい、「ほら」と言われても何のことだかわからずにいれば、下村さんの片手にはサアヴィスカアドが乗せられていたので、そこにスタンプを押して彼に手渡しました。

 その夜、彼のことを思うとパトスが沸き上がり、下半身から感情がむらむらと燃えるように疼いて、居てもたっても居られないほど落ち着かず、感情を押し込めて眠ってしまうこともできず、夜な夜な自分勝手な自慰に耽りました。

 明くる日も、彼は僕らの店に訪れました。

「野菜の種をください」

 彼の声は透き通っていて、それなのに芯があり、誰に似ているかなどと形容し難く、その声さえも僕を虜にして耳から、頭から離れなくなりました。

 それでも僕は、店員としての振舞いをします。僕の中の感情を押し殺さねばならないのです。

「種はこちらの棚にあります」

「ありがとう」

 彼の謝辞にはこころがこもっています。透き通った声にほのかな温かみがあります。それはそれは、菜の花の時期に吹く春風のようでありました。ちょうど今、僕の頬を撫でている風は、まさしくその春風です。

「おすすめは」

 はっとします。彼が僕の助けを必要としているのです。

 普段なら、常連客が同じように聞いて来ても、すかさず答えることができましょう。しかし、彼から発せられた問いとなるそうはいかず、彼の期待に応えられるようなものを選ばねばならないという気持ち、さらに言えば、僕が試されているような強迫的な心理状況になり、こころの中は酷く掻き乱れました。

「おすすめは、ですね」

 上から下まで棚を見回します。それでも、どう目を凝らしても、何も読み取ることができず、選ぶことなどできず、視線だけが棚を舐め、最後の最後にようやく目に留まったゴオヤを指さしました。

「ゴオヤなら、簡単にできます」

「そう、それなら、それをもらっていくよ」

 彼はそう言うと、会計台まで歩いて行きます。尻のポケツトから長財布を取り出す後ろ姿が様になっていて、そのすらりと伸びた背丈と四肢、皺の一つないホワイトシヤツとスラツクスも目に焼き付けながら、僕はゴオヤの種を持って会計へ向かいます。

「これを」

 僕は彼から渡されたカアドにスタンプを押印します。二十ある欄のうち、二つ目が埋まりました。

 明くる日もまた明くる日も、そのまた明くる日も、彼は毎日やってきて野菜の苗や種を買っていきました。小松菜、青梗菜、賀茂茄子、万願寺唐辛子、人参、壬生菜、鹿ケ谷南瓜。一つ、また一つとスタンプは埋まっていき、十九のスタンプが溜まりました。

 帰り際、珍しく彼がアネモネの花に興味を示しました。彼はしゃがみ込んで花弁に顔を寄せ、その色白な横顔を見ているとどうしたって、息苦しくて、胸だけが自分の身体ではないように動くのです。今すぐにでも僕の胸が彼のもとへ飛んで行くような、危機さえも感じられるほどに。

「良かったら、その花も一緒にいかがですか」

「私は美しいものが好きです」


 そう言うあなたの方が、何よりも美しい。


 僕は自然と口から発してしまった言葉を取り戻すこともできず、彼から向けられた視線に居心地が悪くなって、今すぐにも、この場で死んでしまいたいような気持になりました。

「花はその一瞬の美しさのために生きる。私はその花が散り、枯れていく姿を見ていることができない。美しさを失っただけならまだしも、醜くなった彼女らを見ていくことは、私には耐えられない。だから野菜を買う。花が枯れて醜くなったあとに、再び美しく実らせた彼女らを、私はこの手で摘み取ってやって、美しいうちに食べるのだ」

 そうして、彼は、「私も美しくありたい」と呟きました。

 彼は立ち上がりました。あの目が僕の両の目を捉えます。

 僕は意を決して告げました。

「男であっては、駄目ですか。僕が男では、駄目ですか」

「きみのこころは美しい。美しくありなさい」

 それだけ言って、彼は去りました。


 あれから彼は一度もお店には訪れません。カアドの最後の一マスを永遠に埋めることなく。今頃、彼の植えた野菜たちが収穫時期を迎えていることでしょう。

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花屋 もり ひろ @mori_hero

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