スープを飲もう
白里りこ
スープを飲もう
このクラスの女の子には、怪我人や不登校の子が多い。今年の春から始まったばかりのクラスなのに、既に女子の二十人中二人が不登校、五人が怪我人だ。
不登校の子の事情は窺い知れないが、怪我をした生徒の中には、手や足が動かせなくなる子もいた。原因は決まって、帰り道に事故に遭ったというものだった。
その割には、中学校の周りに警察が来ているのを見たことがない。
怪我をした子はみんな、とある女の子を怖がっているように見えた。その子は痩せっぽちだったけれど至って健康体で、いつも一人でにこにこしていた。「あはは」と虚空に向かって笑い出すこともあり、言うなれば完全なる阿呆だった。先生に授業で当てられたりしたら、「ぶよぶよ」「スプーン」などとちんぷんかんぷんな返答をするので、頭がおかしいのだと思われていた。
その子は女の子たちに対して、「給食をちょうだい」と命じることが多かった。そして何故だか怪我をした子たちは、侍従のようにその通りにする。言われるがままに給食を分け与えて、決して文句を言わないのだった。
ある日、あたしはその子にロックオンされた。そうと分かったのは、帰りのホームルームが始まってからだった。
前の方の席に座っているくせに、首を百八十度回転させてあからさまにこちらをじっと見てくる。瞬きを一度もしない。
「……ねえ」
あたしは隣の席に座っている、怪我の後遺症で左手の動かない女の子に話しかけた。
「アレ、何」
彼女は力無く首を振った。それからぽつりと、「逃げた方がいい」と言った。「あの子、どこまでもついてくるから」
「どういうこと?」
彼女は黙って動かなくなった左手を握りしめていた。そこには目立った外傷は無い。あたしは首を傾げた。
ホームルームが終わったので、あたしはすばやく席を立ち、とっとと学校を後にした。とにかくまっすぐ家へと向かう他なさそうだ。
信号待ちをしている間、例のおかしな女の子のことを考えていた。よくもあんなに首が曲がるものだ。梟の妖怪みたいだった。どうしてあたしを見ていたのだろう。一体何の用が……。
「ねえ」
背後で声がしたので、あたしは飛び上がった。
振り返ると、あの子が幽霊のように音もなく立っていた。
「一緒に帰ろう?」
その子は言った。
ぞわっとした。背筋に鳥肌が立った。
迂闊に返事をしたらまずいことになる気がした。
その時、信号が青になった。あたしは反射的に身を翻し、走り出した。
あたしは小学校のころからリレーの選手になるくらいには足が早い。坂道を駆け上り、もう撒いただろうと思ってチラリと振り返る。すると、あの子がしぶとく追い縋っているのが見えた。それも、必死の形相で。
「ねえ」
あの子はどこか幼さの残る声を張った。
「どうして逃げるの」
あたしはぐるりと前を向き、力を振り絞って逃げた。あの子は追う。ぐんぐん近づいてくる。あたしは、息が上がり、汗が滴るまで走った。喉の奥から血の味がしたが、それでもめげずに走った。……走ったのに。
急に体に衝撃が走った。靴紐を踏みつけて転んだのだと、後から理解できた時には、もう遅かった。
「ねえ、どうして逃げるの」
あの子はあたしの顔の前に屈み込んで尋ねた。紺色のプリーツスカートが地についている。魚のようにギョロリとした目玉があたしを捉えている。
「ねえ、どうして逃げるの」
「……」
「ねえ、どうして逃げ……」
あたしは立ち上がりざま、その子の頬に渾身の力で平手を食らわせた。バチーンと小気味良い音がした。だがその途端、右手首をその子に掴まれた。
「……るの。ねえ、どうして逃げるの」
そいつは目を離さない。あたしは、急に目眩がして、再び地面に膝をついた。
「おまえが……嫌いだから」
呟くように吐き出していた。そう、以前からこいつのことが嫌いだった。そして今日、もっと嫌いになった。
「触らないでよ」
あたしがそう言うと、そいつは握る力をいっそう強くした。
「あのね、一緒に帰ろう?」
「……嫌だ」
「どうして」
「嫌いだって言ったでしょ!」
あたしは叫んで手を振り払おうとしたが、そいつは恐ろしい力で手首を掴んでいる。万力で挟んだかのようにびくともしない。
「嫌いってどういうこと? ねえ、お喋りしよう。わたしはね、おかあさんのスープが嫌い。ミートボールが入っていておいしくないの。ミートボールって何でできているか知っている? おかあさんが挽いて潰した女の子。ねえ、お喋りしよう」
「……!?」
「何か言ってよ。ほら、『あ』って。ねえ、『あ』って言って。簡単でしょう? 言ってごらんよ」
「……い、嫌だ」
「あはは! あははは!」
けたたましく笑ったそいつは、堰を切ったように、あたしに言葉の洪水を浴びせかけた。
「わたしのおかあさんはねえ、動物の屍肉をミンチにしてこねて丸めて食べるのなんて気持ちが悪いと言うの。だから生きてまだ動いているような人間をこねてお鍋に入れるのよ。わたしのおかあさんはねえ、言うことを聞かない女の子をそういう風にしてしまうのよ。だからわたしはおかあさんのスープが嫌いなの。飲まないの。でもね、おかあさんの言うことを聞かないとおまえの内臓をミンチにしますよって、おかあさんは言うのよ。それでね、わたしね、胃が半分くらいしか無いんだよ。だからねえ、よけいにスープが食べられないんだ。困っちゃうでしょう。ねえ、お喋りしよう。ほら、『あ』って言ってみてごらん?」
あたしは恐ろしさのあまり、変な声を絞り出した。その子はカッと目を見開いて、また笑った。
「あは! あははは! あははははは! 『あ』って言った! 『あ』って言えたね! えらいえらい。ねえ、わたしのおうちへいらっしゃいよ。ねえ、一緒に帰ろう? わたしの分のスープを飲んでくれる女の子が必要なの。言うことを聞く子がいいんだよ。あなたみたいにね。ちゃんと言う通りにスープを飲む子でなくっちゃいけませんよって、おかあさんは言うのよ。言うのよ! あはは! スープを飲まないわたしはいらない子みたい! ねえ、いらない子はどうなると思う? あのねえ、おかあさんはねえ、いらない子をこんなふうに」
バチンと音がして、そいつが手首から手を離す。手があるはずだったところにはもう、感覚は無かった。見た目は変わらないのに、それはもう、ゴムか何かでできたぶよんぶよんの人形に過ぎない。あたしはギャーッと叫んだが、そいつは構わずに続ける。
「……するのよ。ねえ、一緒に帰ろう? ああ、でも、右手が具材になっちゃった。あはは、これじゃあスープスプーンを持てないね。スープを飲めない子はいらない子になっちゃうよ。あははは! どうする? 左手でスプーンを持つ? あのね、わたしはね、肝臓も半分しかないんだよ。半分はぶよんぶよんなの。残りの半分も無くなってしまったらさすがに困るよねえ? だから代わりにあなたの右手をもらうの」
そいつは空中で何かを大切に包み込み、鞄に仕舞う動作をした。
「……あ、もちろんわたしは食べないけどね。わたしは、おかあさんのスープが嫌いなんだもの。だからあなたがわたしの分を食べてくれるんだね! あはは! ありがとう! あなたはわたしが嫌いなのね? 大丈夫、今晩はわたしの肝臓じゃなくてあなたの手のミンチが出るから。安心して。あなたの嫌いなものは食べなくて済むよ。ねえ、一緒に帰ろう」
あたしは尻餅をついたまま後ずさった。手のぶよぶよが面白いくらいにぶるぶる震えていた。
「断る……」
「ええ? あなた、わたしとお喋りするの?」
「違う。手……手を返して」
「えっ?」
「手、返してよ」
そいつは不思議そうな顔をした。
「そしたら、スープの具材はどうすればいいの?」
「知らないよ」
「もしかして、スープ、いらないの? 食べてくれないの?」
「うん」
「……なあんだ……」
そいつは残念がって俯いた。再び顔を上げた時、その表情は般若そっくりだった。
「あなたは言うことを聞くと思っていたのに。『あ』って言ったのに。言うことを聞かない子はいらない子。いらない子がどうなるか知っている? 肉は新鮮なうちにミンチになって、代わりにぶよぶよがもらえるんだよ。ねえ、せっかく一緒に帰ろうって言ったのに。ぶよぶよとは一緒に帰れないよ」
あたしは慌てて立ち上がろうとしたが、足がぶにょんと有り得ない方向に曲がって、あえなくすっ転んでしまった。
「わたしはスープを食べないのに、こんなに具材はいらないのに、右手だけで良かったのに、あなたが言うことを聞かないから悪いんだよ」
ゼリー状のものが腹の底から這い上ってくる感覚がした。胃を、肺を、喉を、顔を、ぶよぶよが侵食していく。
「おかあさん、こんなに一人で食べ切れるかなあ」
あたしの意識は、ぶよぶよに埋もれて、真っ暗になっていった。
ここはどこ?
肉体はどこ?
「おかあさん、これが今日のスープの具材。こんなにたくさんあるよ」
どこからかあいつの声がする。次の瞬間、暗闇の中に銀色の光が現れた。
包丁だ。
包丁があたしに向かって振り下ろされる。何度も何度も。痛みは感じない。ただ、自分の肉体がぐちゃぐちゃに潰れていくのが分かるだけ。
ああ、あたしはミートボールになってスープに沈むんだ。何でこんな目に。何で。
包丁があたしの頭蓋骨を割って脳味噌をズタズタにした。あたしはおかしくなって、「あはははは」と笑った。意識は混濁し、あたしは真の暗闇の世界へと堕ちていった。
おわり
スープを飲もう 白里りこ @Tomaten
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