夏の魔物
澤田慎梧
夏の魔物
蒸し暑い中にも、時折涼しげな風が混じる真夏の夜。地元の神社の境内は、夏祭りで賑わっていた。
参道の石畳の両側には様々な屋台が並び、多くの人々が行きかっている。大人、子供、老人、女の子、男の子……赤ちゃんを連れたお母さんもいる。
――何気ない、日本中どこにでもある有り触れた光景だけど、私たち地元民にとっては、実に十年ぶりの夏祭りだった。
十年前、同じ境内で行われた夏祭りの時に、大きな事故があった。
とある屋台で火の不始末があり、近くにあったカセットコンロ用のガスボンベの束に引火、爆発した。その爆発によって屋台は瞬く間に燃え上がった。
火はそのまま周囲の屋台にも燃え広がり、夏祭りの会場は一瞬にして地獄と化した。
幸いにして、予め用意されていた消火設備によって、火事は十数分後には消し止められた。
けれども、多くの祭り客が火傷を負い、あるいは煙を吸って病院へと搬送された。そして運の悪いことに、一人の少女が逃げ惑う人々に突き飛ばされ、倒れ、何度も何度も何度も踏まれ、命を落としていた。
その少女は、私の姉だった。
『ねぇねぇおねえちゃん! わたあめ! わたあめあるかな?』
『あはは、涼子は綿あめが好きだねぇ。もちろん、あるよ? さあさあ、綿あめは逃げないから、そんなに走らないの! 転ぶわよ~』
当時まだ六歳だった私は、五つ上の姉である温子に手を引かれて、夏祭り会場へとやって来ていた。
私はピンク色を基調とした花模様の浴衣を、姉は濃い水色の中を色取り取りの金魚たちが泳いでいる、お気に入りの浴衣を身に付けてご機嫌だった。
数分後には、地獄に巻き込まれるとも知らずに。
『わたあめ、おいしーね! おねえちゃん!』
『そうだね~。でも、これだけじゃお腹はふくれないかな? 私、焼きそば買ってくるから、ちょっと待ってて? あ、鈴木のおばさん! 少しの間、妹のことをお願いします』
休憩所のテントの中で念願の綿あめを堪能していた私は、たまたま居合わせたご近所さん「鈴木のおばさん」に預けられ、姉は焼きそばを買いにいそいそと駆けていった。
どこかのスピーカーから当時流行っていた演歌が流れていたのを、よく覚えている。
――「ボンッ!」という爆発音が辺りに響いたのは、ちょうどその時のことだ。
『た、大変! 火事だ! 火事だよ!! ああ、凄い勢いだ! ここも危ないかもしれない……涼子ちゃん、おばちゃんと一緒に逃げましょう?』
『で、でもおねえちゃんが……』
『温子ちゃんなら、きっと大丈夫だよ! ほら、急いで!』
おばさんの予想通り、火は瞬く間に広がり、私達がいた休憩所のテントも焼けた。
私達はそのまま境内の外へと逃げ延び、青年団の人たちが消火作業にあたるのを、ただただ呆然と眺めていた。
遠くからは消防車と救急車のサイレンの音が、幾重にも重なって響いてきていたのを、よく覚えている。
結局、姉は戻ってこなかった。
次に姉と対面したのは、病院の霊安室。奇麗だった顔は包帯でグルグル巻きにされていて、それが本当に姉なのかどうかも分からない、そんな状態だった。
お父さんとお母さんは泣いていた。今も、この季節になると泣いている。
――そして今、私はまた夏祭りの会場へとやって来ていた。
あの頃に着ていたのとよく似た、花模様の浴衣を身に付けて。今度はたった一人で。
死傷者を出した結果、長いこと開催自粛を続けていた夏祭りは、十年の節目を迎えたこの年、ようやく再開にこぎつけていた。
長年に渡り再開に反対していたうちの両親が、心の整理を付けたいと再開を了承したのが大きかったらしい。
(みんな、浮かれてるわね……)
十年前の惨事など無かったかのように、祭りは賑やかに行われていた。
私はそれを、どこか白けた眼差しで眺めながら、当て所もなく境内を彷徨う。キョロキョロと落ち着きなく、視線さえも彷徨わせながら。
――我ながら馬鹿らしい話だが、私はまだ心のどこかに「お姉ちゃんは焼きそばを買いに行って、まだ戻っていないだけなのだ」という気持ちが残っているらしい。
どこかに姉がいるのではないかと、自然と視線が彷徨ってしまうのだ。
(私って、本当にバカ)
子供たちのはしゃぐ声、焼けるソースの匂い、スピーカーから流れる祭囃子。
そのどれもがどこか遠い場所の出来事のようで、私は泣いてしまいそうになった。
こんなことなら、誰か友達にでも付いてきてもらえばよかったと、今更になって後悔して、思わず石畳の上で立ち止まり、空を仰ぐ。
手にした巾着袋が、やけに重い。
――と。
「お姉さん、大丈夫ですか? どこか、具合でも悪いんですか?」
まだ幼さの残る女の子の声が、下から聞こえて来た。
しまった、そんなに目立っていただろうか? と、慌てて「大丈夫」と答えようと声のした方へ顔を向け――絶句した。
「わっ、お姉さん顔が真っ青ですよ? 本当に大丈夫ですか? 誰か呼びましょうか?」
そこに立っていたのは、十一歳くらいの女の子。
長い黒髪をポニーテールにして、その身を包むのは、濃い水色の生地に色取り取りの金魚をあしらった浴衣で。
何より。何よりその顔は――。
「お姉……ちゃん?」
「お姉ちゃん? お姉さんのお姉ちゃんを呼べばいいんですか? あの、そこの休憩所で頼めば場内放送をかけてくれますから、お姉さんのお姉ちゃんを呼び出してくれるよう、頼んでみましょうか? ああ、それよりもまずは休憩所で休んで――」
あたふたと、冷静なようでいてその実とても慌てているその姿は、やはり姉の温子にしか見えなかった。
そっくりなんてものじゃない。どう見ても本人だ。
これは一体、どういうことなのだろうか? 私は夢でも見ているのだろうか?
……そう言えば、先ほどから周囲の様子が少しおかしいような気がする。立ち並ぶ屋台が、なんだかぼやけて見える。
どこかのスピーカーから流れていた祭囃子はもう聞こえず、代わりに時代遅れの演歌が流れている。
「あ、いけない! 私、焼きそばを買いに行く途中だったんだ! ごめんなさい、お姉さん。先にそこの休憩所に行って、休んでいてください。私も妹を待たせてるので、すぐに行きますから――」
そう言って、姉としか思えない女の子が駆け出そうとする。
――いけない。この子をこのまま行かせては、いけない。
反射的に、その肩を掴んで引き留める。そのあまりにも華奢過ぎる肩を。
「えっ、何ですかお姉さん? 私、急いでるんですけど……」
「……妹さんを、待たせているのよね? だったら、早く戻ってあげて。妹さん、きっと心細いと思うわ。焼きそばは、私が買ってきてあげるから」
「でも、見ず知らずの人にお願いするわけには……」
「いいからいいから、心配してくれたお礼だと思って」
女の子――いや、姉はそれでも少し不審そうにしていたが、「じゃあ、すみません。お願いします」とお辞儀すると、休憩所の方へと駆けて行った。
これでいい。これで、少なくとも姉と私がはぐれたまま火事が起こることは無くなった。
『――ちゃん!』
きっとこれで、私達の運命は大きく変わるはず――。
『――子ちゃん!』
一体全体、どうして私が過去の世界へやって来れたのか、その理由は全く分からないけど、これで姉を救えたはずだ――。
「涼子ちゃん!」
――私を呼ぶ声に、意識を引き戻される。
声のした方へ振り向けば、そこには鈴木のおばさんがいた。お祭りなのに喪服みたいに真っ黒な服を着ている。
「涼子ちゃん、あなた……そこで何をしているの?」
「何って、私は……」
「時間を超えて、今しがた姉を救ってきた」等と言うわけにもいかない。さて、どうしたものかと考えて、ふと違和感を覚えた。
おかしい、周囲がやけに薄暗い。参道は立ち並ぶ屋台の明かりに照らされて、昼間のように明るいはずなのに。
――そこでようやく気付く。私がいるのは参道ではない。神社の本殿の裏手にある暗がりだった。
私は、神社の壁に向き合うように立っていた。木目がくっきり見える程の、至近距離に。
「あれ? 私、どうしてこんな所に……?」
「涼子ちゃん! いいから手に持ってるそれを仕舞って、ゆっくりとおばさんの方に来て! ……お願いだから」
おばさんが何やら悲愴な声で、必死に私を手招いている。一体何だというんだろう?
「手に持っているそれ」と言うが、私は巾着袋しか持っていない――。
「えっ?」
自分の右手に握られているものを見て、思わずそんな間の抜けた声が出た。
そこにあるのは巾着袋などではなく、暗闇で鈍く光る銀色のオイルライターだった。
――これは何?
「早まった真似をしちゃ駄目だよ、涼子ちゃん!」
おばさんの声がやけに遠く聞こえる。
見れば、私の足元にはライターオイルの缶が転がっていた。しかも、複数。
目の前にある神社の壁は何かの液体でべったりと濡れていて、そう言えば私の浴衣も何だかしっとりしていてオイル臭い。
――ああ、そうか。
私はお祭りを見に来たんじゃない。お祭りを燃やしてしまう為に来たんだった。
なんで今まで忘れてたんだろう?
「こんなことしたって、迎え火にもなりゃしないよ! ほら、早く、早くおうちへ帰りましょう? 涼子ちゃん!」
じりじりと、おばさんが近付いてくる気配がある。
ああ、駄目だよおばさん。私はしっかりと火を点けないといけないのに。そんなに近付いたらおばさんも燃えてしまう。
ライターのヤスリをギュっと押さえたこの親指を、ほんのちょっとスライドさせれば、それはもう奇麗な炎の花が咲くのに――。
「涼子ちゃんっ!」
私が火を点ける気配を感じ取ったのか、おばさんが一気に駆け出し、ぶつかるように私の体を抱きしめた。
反射的に親指がヤスリから離れる。
「……涼子ちゃん、そりゃ、悔しいよね? 辛いよね? 温子ちゃんを踏み殺した連中は、まだどこかでのうのうと生きてるんだもの。でもね、こんなことしたって、なんにもならないんだよ? 温子ちゃんや、涼子ちゃんや、ご両親のように痛い思いや悲しい思いをする人が、増えるだけだよぉ……」
嗚咽を漏らしながら、おばさんが背後から私の体を抱きしめる。
――そうだ。姉を殺した連中は誰一人として特定されず、今ものうのうと生きているはずなのだ。
もちろん、祭りの責任者たちはそれ相応の罰を受けた。けれども、姉は直接彼らに殺されたわけじゃない。
我先にと逃げ出して、小学生の女の子を突き飛ばして、助けもせずに踏みつけて、踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて殺した連中がいるのだ。沢山、沢山!
「……おばさん、私ね? さっき、とても幸せな幻を見たの。私が過去に戻って、お姉ちゃんが悲惨な目に遭わないように、運命を変えたのよ。『妹が不安がってるから休憩所にすぐ戻って』って言ったら、お姉ちゃん、ちゃんと引き返してくれたわ」
「涼子ちゃん……?」
「でも、それは全部幻なのよね。私の罪悪感が見せた、ただの幻。実際のお姉ちゃんは、誰も助けてくれなくて、たくさんたくさんたくさん踏まれて、苦しんで死んだわ」
警察の話では、姉は即死ではなかったらしい。
生きたまま、足を、手を、腰を、胸を踏み砕かれて、頭蓋骨にもヒビが入って、それでもしばらくは生きていたらしい。
誰一人として、姉を顧みなかった。誰も姉を助けなかった。
許せるだろうか? いや、許せない。絶対に許せない。
何よりも――誰よりも、一人生き延びてしまった自分が許せない!
「おばさん、離れて……ください。私は、誰より私自身を許せない。だから終わりにするの。全部燃やして、一緒に燃やして、終わりにする」
「お願いよ涼子ちゃん、思いとどまって! アンタが死んだら、お父さんとお母さんはどうなるんだい? それに、この会場には、あの事故の後に生まれた子供達だって、沢山来てるんだよ! お願いだから、止めておくれよぉ」
なおも縋り付くおばさんを振りほどこうと暴れてみるも、でっぷりと太ったおばさんの体は重く、離れてくれない。
ああ、こんなことをしていては、オイルが乾いてしまう。火事を起こすのに十分な火種にならない。
ならば、いっそのことおばさんを道連れにして――。
「――分かったよ。涼子ちゃんが自分を燃やしたいというのなら、おばさんも一緒に燃やしてちょうだい。私も……疲れてしまったわ」
「っ……」
その言葉に、はたと我に返る。
ああ、そうだ。おばさんも、ずっと辛い思いをしてきたのだ。姉を探さず、すぐに私だけを連れて逃げたことを、ずっと後悔して来た。
両親と私に「ごめんなさい」と土下座した、おばさんの姿がよみがえる。頭を地面にこすりつけたものだから、額から血が出てしまって、私が泣きついて「もういいから!」と止めるまで、地面にへばりつくように謝り続けた、その姿が。
――おばさんは、何も悪くないのに。
「……分かったわ、おばさん」
私はそれだけつぶやくと、腰に回されたおばさんの手に自分の左手を重ねた。
そして右手の親指はライターに――。
――シュッ
――ボッ
親指を素早くスライドさせライターのヤスリを回転させると火花が散り、芯から大きな炎が立ち昇った。
その火で線香をあぶり、手早く点火する。
「はい、こっちはおばさんの分」
「ありがとう、涼子ちゃん」
お祭りの日から数日後、私とおばさんは連れ立って姉の墓参りに来ていた。
もちろん、命日にも来ていたけれども、なんとなく気持ちの整理を付けたかったのだ。
太陽が容赦なく照り付ける中、おばさんと二人で線香をあげて、静かに黙祷する。
「――涼子ちゃん」
「なんですか?」
墓前で拝んだ姿勢のまま、おばさんが私に語りかける。
「そのライター、捨ててなかったのね」
「……あはは、何となく、ですけど」
線香に火を点けるのに使ったのは、あの日、私が自分もろとも神社を燃やしてしまおうとしたときに使っていたライターだ。
「今はもう、あんなことをする気はありません。安心してください」
「……何か辛いことがあったら、おばさんに相談してね?」
「は~い」
――あの日の私は本当にどうかしていた。
姉の無残な死を目撃して以来、精神に変調をきたし医者にかかっていた私だったが、あんなにこじらせてしまったのは初めてだった。
姉の死に対する気持ちを整理する為に、きちっと浴衣を着て出かけた……までは覚えているが、その後の記憶がどうにも曖昧だ。
巾着の中に残されていたレシートから、どうやら私はわざわざ遠回りをして近所のホームセンターに寄り、ライターとオイルを購入してから神社へ向かったらしいのだが、全く覚えていない。
まるで何かに憑りつかれていたかのようだ。
もしや、亡き姉が怨霊となって私に憑依し、凶行に走らせようとしたのでは……? 等と考えてしまったこともあるが、姉はそんなことを願わないだろうと、すぐに頭からかき消した。
結局、私の焼身自殺及び放火は未遂に終わった。
お祭りは滞りなく終わり、街は日常を取り戻している。私の日常は、飲む薬の種類と量が変わって、少しだけ変化していたけれども。
「おばさん」
「ん? なんだい」
今度は私からおばさんに声をかける。
横目で見るおばさんの顔は、実年齢よりも老けて見える。
私の母よりも少し若いはずなのに、もうおばあさんのようだった。ずっと気苦労が絶えなかったせいだろう。
「あのね、おばさん……ありがとう」
「私は何もしてないわよ。踏みとどまったのは、涼子ちゃん自身」
「あ、そうじゃなくて、ですね。……十年前のあの時、私を連れて逃げてくれて、ありがとうございました。お陰で、私はこうしてお姉ちゃんのお墓参りに来ることが出来ています。――本当に、ありがとう」
「――っ」
その時、おばさんが静かにこぼした涙は、この世で一番尊いものに見えた。
(了)
夏の魔物 澤田慎梧 @sumigoro
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