カラーノイズ

藤井杠

蛹《さなぎ》の中身はいつだってグロテスク

 


 すぅ、と音を立てて、筆は世界を淡い色に染めていく。君の頬は紅潮して、目が合えば愛らしい笑顔で。僕は、彼女を思うままに彩っていく。


 昔から、絵を描くのが好きだった。特に人。

手の先から髪、表情、身体のラインに至るまで、他のものでは決して表すことのできない何かが、見えるような気がして。そればかりいつも描いていた。

おかげで背景や構図の方は苦手になってしまったけれど、僕は君が描ければそれで、それだけで満足だった。


 真っ白なキャンバスの中で、君は踊る。淡い肌色を慎ましく広げて、栗色の髪を舞い散らせながら、僕がつくった物語の中で。いつも、いつまでも僕と一緒に。変わらない笑顔を浮かべたまま。


 けれど、今はどうだろうか。どうして、白い世界で踊る君は平凡に見えてしまうのだろう。

 高校に入ってから、君の笑顔をうまく見れなくなってきた。それは、日を追う毎にますます顕著になってくる。いつまでも夢を見ていたい。筆を動かしているときが一番心地良い時間。

だけど、これはいつかは覚めてしまうものだから、あと、もう少しだけ。


 ぴしりっ、軽快なメロディが止まる。あの人の言葉が頭の中で溢れてくる。嫌だ、嫌だよ。

「これは夢なんだ。」

「これだけじゃあ生きていけないでしょ?」

「好きなことだけやっててもねぇ」


あぁ、だけど。

僕は、これがないと生きていけないんだ。


呼吸のしかたを忘れて、息が詰まる。

満足できないあいつが出てきてから、君の存在が、僕の世界が壊れそうになる。二人きりなら、誰にも何も言われることはなかったのに。頭の中で言葉が飛ぶ。聞きたくない、分かっているから。


 筆を進める手が止まる。いつものように踊る君はキャンバスの中でずっと綺麗なままだけれど、僕はあれから、あれから動けないままで。


「どうやって描けばいいんだろう」


 高校から、美術部に入った。色の使い方、線の引き方、物の見方を知っていく。これは、君をより、美しくするための筈なのに。君の淡くて美しい笑顔は、


どろり。

あいつの濃厚な果実に呑まれてしまった。

視界が広がった代わりに、君の美しさは霞んでしまう。

油絵具あぶらえのぐの芳醇な香りが果実と混じりあい、強烈な匂いを空間に広げる。

いくら濃い色を使おうとしても、色白な君には似合わないだろうから、僕はまだ、彩れない。君が、僕の世界が醜くなるのを恐れて。


 筆先を重くしながらまた描く。あいつだけには負けたくない。もっと、もっと綺麗なキミを。君の周りを彩る手は、おぼつかない。透明水彩の色が滲むように笑顔は、ゆがんでいく。もっと、もっと君は綺麗に、なれるのに。


頭の中の声が、耳障りなノイズに変わる。

鉛のような気だるさが、手に足に溜まっていく。


 そりゃあ勿論、君をずっと描いていけたら、僕は幸せだけれど、君のその華奢きゃしゃな体とはかない羽根では、僕のこんな力じゃあ君は、あの空へとは羽ばたけないだろう。


 …うん。君を失うくらいなら、僕はこの道を選ぶことにするよ。諦めはついた、筈なのにまだ酔っていたい、君の美しさに。僕の力に。

 大丈夫、もう少しだから。あとちょっとだけ夢を見させて。間違えていたのなら、描き直せばいい。紙は、代わりはいくらだってある。君は何度だって、綺麗に美しいままで。

 僕はまだ、目覚めない。この夢が有限であることにも気づかずに。

 あなたの声は、聞こえない。


 やってはみたんだ。あなたに認めてもらうために。君の姿を他の人に見せたところで、誰も見てはくれなかったけれど。

誰も評価してくれないのなら、いっそのこと君は、僕の中でだけ生きていれば良いのかもしれない。そう思ってしまうと、楽になった。

けれど、

 閉じ込めた途端、淡い君は消えていく。描くことをやめた僕にはもう君の姿は見えなくなっていて、このまま描けないまま僕はただ、何もせずに、眠るだけ。


 気づけば、僕の世界は随分小さく、脆くなっている。今更、あの空へは向かう勇気も出せなくて、後ろで輝いているだろうこの羽を傷つけ、くすませたくはないから。僕は今日も、あの空に、眩しい太陽に見惚れてる。


影は随分と、大きく、見えないよ。



 ペンは走る。紙の上を、ただ盲目に。無機質な音を紙の上で鳴らし、黒い一つの色を広げていく。

あの日の君を瞼の裏に置きながら、今日も僕は変わっていく。時計の中でぐるぐると。













…どれだけの時間が回ったんだろう。

長かったような、けれど、あっという間だったような。

 筆は折れて、もう、君は僕の前には居ないのに、気づくとその姿だけは、綺麗なままで僕の頭の中を飛び回っていた。君のその姿を思うままに描くことができれば、どれ程良かっただろう。

長い間眠っていた僕は、横たわってもう腐りかけていたと思っていたのに。まだ、この腕は君を求めていた。


ペンは力なくこの手から離れ、どこかへ転がっていく。その置き場所は、思い出すまでもなかった。


僕はまた、筆を握っていた。

いや、手に取っただけ、まだ十分に振るうことさえもできない。それでも、いつか見た君を、僕の前に写し出すために。

僕がいつか消えても、君のその姿だけは、残るように。


何度、逃げ出しそうになっただろう。

何度、楽になることを選んだだろう。


それでも、僕はこの道を選んだ。

君の居ない、この世界を。

頭を抱えながら、涙を流しながら。進んでいくものなんだと、そう思っていた。

口から垂れていたのは、これまで飲み込んできた気持ち悪い思い。


どぼどほどほっ


と濃く濁った液体が、口から溢れ、胸先足元へと溢れていく。この怠惰に身を任せていられたら、目を閉じたままでいたら、どれ程楽だろう。夢の中だけで、君の陽炎かげろうを追うことが出来たら。




「くそくらえ!!!」

夢の中から手を引く影が、心の奥の光に照らされる。黒い小さな姿が、白の輪郭線を作る。

ふざけるな!

どうして!心が腐っていくのにも気づかずに、死んでいけると思ったか!


君のようにはなれないかもしれない。

空を飛ぶでもなく、地べたを這いつくばっているかもしれない。


それでも僕は、生きている。進んでいるから。


ぶんっ

白い世界の前に立って、筆を振り下ろす。


君を、描く。思うままに。

大きな翼を、恥ずかしげもなく広げていく。

くすぶる心を映すように、君の頬は燃えて、真っ直ぐな瞳が上を向く。

白い肌は初めての日の光に当たり、色づいていく。


君は、僕という狭い世界から、飛び立とうとしていた。

そして、君が進む道を、僕はこの腕で広げていく。

君が少しでも、長く飛べるように。

僕が、もう少し先へ歩いていけるように。





その道の途中で、彼女の姿があなたの目に留まることがあれば、


それだけで僕は万々歳です。

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カラーノイズ 藤井杠 @KouFujii

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