6. 夜明けの夜明け

 ピンポーン。


 僕はずぶ濡れで玄関前に立っていた。水滴がポタポタと滴り、僕の足元に水溜まりを作っていく。この水溜まりの範囲が、僕が生きているスペースなのかと思ったら、狭すぎて悲しくなった。


 ガチャ。


 鍵の開く音。ドアが開かれる。


「……何」


 その声色には迷惑と不機嫌が剥き出しになっている。


「……」


 僕は何も言えずに、ただ突っ立っていることしかできない。


「……そこにいられても困るから、とりあえず入れば」


 本当に仕方がなく、と言った感じで秋川が僕にそう告げた。


 秋川がそう言ってくれるまで、僕はここに立っているつもりだったから、僕の勝利だ。


「ちょっと待ってて」


 そう言って部屋の奥に秋川は引っ込んだ。


 この薄いドア一枚を隔てただけなのに、どうしてこんなに温もりを感じるのだろう。とても、温かい。それだけで、僕は泣きそうになった。


 僕は捨て猫。人の愛情に飢えている捨て猫。ずぶ濡れで、凍え、夜に怯えるだけの捨て猫。


 秋川が戻ってきて、無言でタオルを寄越した。確かにこれだけ濡れていたら、部屋に上がることはできないよな。


 先輩と決別してから今日まで、自暴自棄の限りを尽くした。でも何をやっても、気持ちは晴れない。先輩の言葉も頭から離れて行かない。もうどうすることもできなくなって、足の向くまま雨の中を歩き出した。


 それで辿り着いたのが、秋川のアパートだったんだ。


「なんなの。あたし、忙しいんだけど」


 おずおずとリビングへ向かうと、秋川がトゲトゲしさを増した声で問うた。


 リビングを見渡して驚いた。家具がない。あの青みがかったグレーのソファも、元気に葉を伸ばしていた観葉植物も、どこにも見当たらない。


 代わりに数個の段ボールが置かれているのみだ。


「引っ越し?」


 僕の問いには答えず、顔も上げずに手を動かしている秋川。


 その表情が、動きが、ただただ格好よく見えた。


 僕は秋川の元にやってきたものの、自分でもどうしていいか分からず、その場に座り込んだ。フローリングの冷気が、身体を芯から冷やしていく。


 酒を呑んで通行人にケンカを吹っ掛けた。ゲロもたくさん吐いた。一日中煙たいパチンコ屋に引きこもった。バイト先の店長とケンカした。母親に暴言を吐いた。スマホのアドレスを全部消した。何日も風呂に入らなかった。髪も髭も伸び放題伸ばしてみた。爪を切らなかった。ずっと眠り続けた。


 でも、歌詞を書き溜めたノートを燃やせなかった。買い集めたCDを壊せなかった。先輩から譲ってもらったギターを捨てられなかった。


「そんなに音楽、好きなの?」


 唐突に秋川が呟いた。顔は相変わらず段ボールを向いている。


「ねぇ、そんなに音楽って、あなたにとって大切なものだったの?」


 大切、だったんだろうか。


「あなたは目先のことに踊らされて、主体性がなくて、強いものに巻かれて生きているだけの人間だと思っていたわ」


 辛辣な言葉を秋川が紡いでいく。


「刈谷って安全圏を失ったから、泣き喚いてるだけでしょ。ただの迷子。ただのお子様よ」


 吐き捨てるように、僕に言う秋川。


「あなたが、自分が何をしたいとか、どうしたいとか、そういうの、ないの?」


「秋川に何が分かるんだよ」


 言葉の乱暴さとは裏腹に、声は力なく、ひどく弱々しかった。視線を秋川に向ける気にもならない。目の前にはどこまでもずっと続いていくかのような、明るい茶色の床が広がるだけだ。


 僕は立ち上がれもせず、ただぐったりと根っこが生えたように腰を下ろしているだけだった。


 ふいに視界に、真っ白くて細い足が二本現れた。その爪先には真っ赤なマニキュアが塗られている。血の色だ、と思った。


 すっとかがんで、秋川が顔を覗かせる。顎のあたりで切りそろえられたショートカットの黒髪がふわりと揺れる。前に会った時は、長かった気がするが記憶があやふやだ。


 淡い紫色のゆったりとしたワンピースから手が伸びる。フローリングとは違った冷たさを持つ手が、僕の右頬に添えられて、キスをされた。


 柔らかく、しっとりと湿った唇に、僕は飲み込まれてしまいそうだった。


「明日、ここを出るの。もう二度と、あなたと会うことはないわ」


 僕の身体と脳みそが分裂してしまったみたいだ。


 誘われるままに、秋川の身体を何度も貪った。暗闇の中で微かに光る秋川の身体は麻薬のように僕を支配しようとする。段々と熱を帯びていくお互いの肉体を探り合う。艶めかしく濡れて、誰にも見せない獣が顔を覗かせる。揺れる瞳も、背中に刺さる鈍い痛みも、押し殺しきれずに漏れ出る声も、この世界を独占しているのは、今、僕だけだ。


 身体は従順に快楽へと付き従うのに、その動きや仕草を冷静に見ている僕がいた。何度も繰り返される反復運動、柔らかで獰猛なキスの雨、本当なら何もかも手放してしまうぐらいの強烈な快感も、カメラに収めるように僕の目と脳はシャッターを切り続けていた。


 何度目か分からない恍惚の果て、秋川は意識を手放し眠りについた。全身の筋肉が悲鳴を上げている。疲れの渦の中に一人取り残された僕も眠ってしまいたかった。それなのに、八ミリフィルムの映像のように音のない画が、雑に切り替わり続け、眠ることができない。


「どうして、僕なんだ」


 秋川の寝顔にそう問いかけるが、当然答えはない。秋川の隣で朝を迎えるのも、なんだか違う気がして僕はベッドを抜け出し、身支度を整えて部屋を出た。


 外はいつの間にか白み始め、昨夜の雨が嘘のように鮮やかな空を映し出していた。鬱屈した自暴自棄は昨日の夜に置いて来たらしい。これだけ肉体が疲れているのに、清々しい気持ちでいるのが不思議だった。


 景色が朝になっていく様を眺めていると、唐突に学生時代のことが脳裏に浮かんできた。


 誰かの曲をなぞるだけのライブですら、その空間を独り占めしていたこと。僕たちに向けられる視線の数々。初めてオリジナル曲を作った時の羨望の眼差し。先輩と語り合った夢の大きさ。何も知らずに、何も怖がらずに、ただ真っすぐに音楽が好きだった。


 そういう時だけが、僕が僕でいられたような気がする。それ以外の時間は、先輩や雄二や誰かの人生を、僕は生きようとしていた。


 誰かになりたかったわけじゃない。僕が僕でいることが怖かったんだ。


 分裂した僕を繋ぎ止める音楽から、僕は離れることができない。離れてしまったら、僕は世界と繋がる術を失ってしまうから。みんな、そうだと思っていたのに違っていたことが受け入れられなかっただけ。ただ、それだけのことだった。


「海外でも行くか」


 僕はまだ何者でもない。だから何者にでもなれる。


 僕を知らない誰かと出会い、仲良くなったりケンカしたり、恋なんかもするかもしれない。今までとは違う価値観や違う生き方をこの身で体験してみたい。


 先輩に言ったら「楽しそうだな」と笑ってくれるだろうか。きっと雄二に言ったら「俺らいい歳だぜ」とか、また言われるんだろう。


 これまでの人生で自分を生きてこなかった分、僕は僕を精一杯生きてみよう。その傍らには、僕と誰かを繋いでくれた音楽を持って。


 朝に満ちた景色が目の前に広がっている。この疲れも、理解も、怖さも抱きしめて、僕は僕の人生を生きて行く。


 美しさも、醜さも、愛しさに変えて生きていくため、僕はパスポートを取りに歩き出した。

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深夜から夜明けへ あるむ @kakutounorenkinjutushiR

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