5. 先輩の決断
「急に呼び出して悪かったな」
悪びれもせず、先輩が僕に言う。
「最近仕事が忙しくてさ、なかなか連絡取れなかったけど、お前はどうよ」
擦り切れた普段着ばかりの客層。必要最低限のつまみと、かさ増しされたような水っぽい酒。開店してから今日まで、掃除なんて一度もしたことがないんじゃないかというぐらい汚い店に、僕は連れて来られた。
「珍しいっすね、先輩が奢ってくれるなんて」
「おう、なんでも好きなもん頼めよ! ……ただな、キムチだけは辞めとけ。あれはまじで腹壊す」
重大な秘密を話すかのような面持ちで、ひそひそと耳打ちされた。でも先輩のそれは、国家機密の情報を伝達するようなスリルではなく、教師の髪がカツラか否かを知ってしまった時の期待感のような様子が滲んでいた。
「俺さぁ、結婚すんのよ」
爆速で届いたまだ凍ったままの枝豆をかじりながら、先輩は照れ臭そうに告げた。
「え、そうなんすか」
「恵美がな、子供、できちまって」
おいおい、子供は勝手にできねえよ。アンタが失敗したからだろ、と相当言いたかったが、ぐっと堪えて、ビールを口に運んだ。
「そんで、嫁と子供と三人になる訳じゃん? 今までは自分だけだったから、どうしてでも生きてこれたけど、守るものができちまうと、な」
これまたどこで覚えて来たのか、ドラマじみたクサい台詞を吐きやがる。
僕はしゃべらない分、ビールがどんどん腹に溜まっていく。
「そうすか」
「妊婦って金かかんのな。それに産まれてくる子供の洋服とかさ、色々買わなきゃいけないし、毎月しんどくて」
「そんなんで飲みに来ていいんすか」
僕なりの優しさと嫌味をたっぷり込めて言った。
「でも、お前に言ってなかったし、あれっきり会ってなかったろ。だから、言わなきゃなぁとは思ってたんだ」
「別にいいのに」
すうっと頭のナニカが冷めていく気がした。
「来週くらいには男か女か、分かるらしいんだ。恵美の腹だって日に日にデカくなるし、ああ俺、親父になるんだなって思って、仕事から逃げたいけどなんとかやってるよ」
そう嬉しそうに言う先輩は、僕の知っている先輩じゃなかった。
「お前も誰か見つけて、家庭でも持てよ。そんで、自分たちの子供に音楽教えて、バンド組ませようぜ」
「意味、分かんないっす」
これは怒りなのか、悲しみなのか、失望なのか。僕には全く分からなかったけど、「嫌だ」ということはハッキリ分かった。
「先輩が、音楽で食っていくって言って、僕、先輩の書く曲好きですし、だからこうして一緒にやって来たんじゃないですか。それをなんですか。子供ができた? 毎月の支払いが大変? そんな安定した平凡な生活を、先輩は欲しかったんですか? もっとデカい夢、叶えるんじゃなかったのかよ!」
感情が高ぶって、ついつい大きな声が出てしまった。辺りが静かになってることに気づいて、急に居心地が悪くなる。
「すみませ……」
「いや」
先輩が静かに、だがハッキリと僕の言葉を遮った。
いつもなら、同じくらいの熱量で僕に暴言を吐きまくるシーンなのに、先輩はじっと俯いている。
「正直さ、俺、怖かったんだよね」
「は……?」
この人は何を言い出すんだろう。
「俺たちだって、もういい歳だろ? ヒットチャートに入ってくる音楽は、みんな年下が作ってる。コードだって、歌い方だって、歌詞だって、俺では到底思いつきそうもないものばっかりが、この世に溢れてる」
何を、何を言っているんだ。
「だけど、それを認めちまったら、今までの俺たちの、俺の苦労や時間がなかったことになっちまいそうで怖くて、だから、馬鹿にしたり、下に見たり、大きな口叩いてこき下ろしてた。俺はお前の書く歌詞が好きだ。だが、俺がもう俺に耐えられそうにないんだ。恵美に子供が出来たって聞いた時、正直、俺はホッとした」
「何、言ってんすか」
「もう音楽から逃げていいんだって、こっちの普通の世界に戻ってきていい理由があるんだって、恵美が教えてくれたんだ」
「そんなの、聞きたくないっす」
「お前なら分かるだろう?」
泣きそうなニヤつき顔で先輩が僕を見ていた。
「夢じゃ、腹は膨れない。財布だって、心だって満たせやしない。お前だって、薄々気付いてるだろ? どこで線を引くか、それをずっと考えたり、悩んだりしてるんじゃないのか?」
ポケットから千円札を二枚取り出し、机に叩きつけた。
「もう、連絡しないでください」
「なぁ、お前もそうだろう?」
背後で、先輩がそう叫んでいるのが聞こえた。
分かるもんか。分かってたまるか。夢に、音楽に、自分たちの可能性に目を輝かせていた先輩はもう死んだんだ。
一番なりたくないと言っていた大人に染まっちまった。
どうしてみんな、そんなに器用なんだ。学生ノリ、社会人意識、大人らしさ、結婚、家庭。どうしてそう自分を割り切って生きていけるんだ。
僕には分からない。分かりたくもない。
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