4. 秋川の部屋
頭が痛い。胃もムカムカする。喉が渇いた。ここはどこだ。
青みがかったグレーのソファに僕は寝ていた。手触りの良いふかふかの毛布がかけられ、その下はなぜか全裸だ。
一体どうして僕は全裸なのだろう。記憶を必死で手繰り寄せるが、居酒屋前でぶっ倒れたところまでしか覚えていない。色とりどりのゲロまで鮮明に思い出しそうになって、慌てて記憶をかき消した。
誰の家だ。
一メートルくらいの観葉植物が窓際に置かれ、それ以外には目を引くものがない。モノトーンに少しだけ色を足したような家具で整えられ、男の家か、女の家か判断がつかない。
「あら、起きたの」
澄んだアルトトーンの声が頭の後ろから聞こえてきた。
振り返ろうと頭を振ると、うぅっと情けない声が僕の口から漏れた。
「昨日ひどかったのよ。あなたは覚えていないでしょうけど」
ネグリジェとでも言うのか、ひらひらしたよく分からない白いワンピースのようなものを着ている女が、僕を見下ろしている。
「えっと……」
誰だろう。見覚えがない。それに昨日のこととはなんだ。さっぱり分からない。
「秋川よ。昨日の同窓会、私も居たんだけど」
秋川……。だめだ、記憶がない。これは酒のせいじゃなく、「秋川」という同級生がいたことが思い出せないのだ。つまり僕はほとんど見ず知らずの、行きずりの女の家で一晩明かしたことになる。しかも、僕は全裸だ。これは言い逃れができないが、本当に覚えていない。
「ああ、安心して。あなたが勝手に服を脱いだだけで、何もしてないわよ。汚物まみれで汚かったから、洗濯したの。もうすぐ乾くから、それまで毛布にくるまってればいいわ」
そう言うと、視界から秋川は消えた。
状況を整理しよう。僕は同窓会へ行った。居酒屋へ行って、懐かしの面々と酒を酌み交わした。そこで、雄二と口論になった。ビールを煽って、颯爽と店をあとにしようとしてゲロった。
うんうん、で、そのあとは……。
諦めて、スマホを手に取る。LINEの通知が何通も来ていた。その大半が雄二からだった。
『お前、秋川のところに転がり込んだんだって!? うらやましいぜ!』
『お前のことだから秋川のこと忘れてるだろう。特別に教えてやる』
『学生の時は教室の端っこの方で本読んでるような地味な奴だったけど、大人になってから色々噂が回ってきた奴だ』
『老舗会社の社長の愛人だとか、ベンチャー企業の社長が集まるパーティーで男漁ってるとか、外人の男とヤリまくってるとか、そんな噂』
『昔の顔は覚えてないが、現に今はイイ身体してるし、顔も申し分ない。正直、お前の代わりに俺が秋川の家に泊まりたかったぐらいだぜ』
『男と女が一つ屋根の下で一夜を明かしてなんにもないってことはないだろ? だから、感想聞かせてくれよな!』
なんのあてにもならない言葉がつらつらと、よくもまぁこんなに出るもんだ。
雄二は悪い奴じゃないが、こういうところが昔から鬱陶しかった。
「瀬良くんでしょ」
気がつくと、秋川が隣に立っていて大きめのマグカップを僕に差し出していた。
ふんわりとみそ汁の匂いが香ってくる。
「あ、ありがとう」
毛布を身体に巻き直し、マグカップを受け取った。秋川の赤いマグからはコーヒーの匂いがしていた。
「あたしのこと、よく思ってないのに都合よく使うのよね。昔から、そう」
カラッとした笑顔でコーヒーをすする秋川は、窓から漏れる光に揺れてとても儚げだった。
「なんで、泊めてくれたの」
「そのまま置いとくわけにはいかないじゃない。あたしの家がたまたま近かったから。それに、迷惑料をみんなからもらったしね」
「運ぶの大変じゃなかった?」
「タクシーの運転手にお金握らせて運んでもらったわ」
「迷惑料、消えちゃったじゃん」
「そうね、でもどうせあぶく銭よ」
おそるおそるみそ汁に口をつける。安っぽくて水っぽいインスタントな味がした。
「言いたい奴には、いくらでも言わせておけばいいのよ」
ふいに秋川が、真顔で僕に言った。
「そうだね」
「本当に分かってる? 言いたい奴に言わせておけばいい、そこには自分が本気になるって意味も入っているのよ。作詞していたあなたには、釈迦に説法でしょうけど」
「僕が音楽やってるの、知ってたの?」
「文化祭でライブをやってたじゃない。見に行ったわよ。それにあれだけ大きな声で言い合ってれば、まだ続けてることくらい分かるわ」
「そっか」
「……覚悟がないなら、やっていたって意味ないわよ」
そう言って射抜くかのように鋭い目つきで、僕を見据えた。
「覚悟がないなら、綺麗さっぱり辞めちゃいなさいね」
蛇に睨まれたカエルのように、ひどく落ち着かない。昨日の雄二と言い、目の前の秋川と言い、どうしてそんなに簡単に言うのだろう。
急に心細くなって、毛布を身体に巻き直した。この場に僕が存在していることが、ひどく場違いに思えてならない。
ピーッ、ピーッ。
ふいに電子音が僕の頭の後ろの方で鳴った。
「乾燥が終わったみたいね」
「洗濯してくれて、ありがとう」
「どういたしまして。それじゃ、着替えて帰ってね。私はやることがあるから」
そう言うと秋川は僕には一瞥もくれず、部屋を出て行ってしまった。
あの頃はみんなドングリの背比べで、同じ目線に立っていたというのに。今では、みんな別の島に立って、自分が獲得した正義の中で生きている。まるで世界の真実であるかのように揺るがない自信のもとで、それを他人へ行使する。
自分の中には何も息づいていない気がした。昨日のゲロと一緒に体外へ出してしまったんだろうか。
ぬるくなったみそ汁を飲みながら、僕は身体の中を撫でていく風の音を聞いた気がした。
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