62.おさけ(こうはん)



「買い物ついでに優子とお茶してから帰るから、ちょっと遅くなるわねー」


そう言って母さんは夕飯の買い物へと出掛けて行った。

記憶を無くす前から美麗とたまにお茶したりするのは知っていたが、いつの間にやら優子さんとも仲良くなっていたらしい。

母さんコミュ力すごいわ。



玄関で美麗と2人で母さんを見送った後にそのまま部屋へと向かって、テーブルの上にコーヒーの乗ったトレイを置いて勉強道具も並べてゆく。


美麗もバッグから勉強道具と綺麗な箱を取り出した。これがチョコレートだろう。


箱がそこそこの大きさなのは元々美麗と俺の2人へ、というお土産だったらしい。

美麗と俺を一括りにするとか夫婦扱いかよ。ありがとう白百合。お前の右手を見るとまだ震えがくるがな。


箱を開いてチョコレートをテーブルに置くと、美麗も教科書や参考書を並べてゆく。


「‥分からない所があったら聞いてね」


「ああ、いつもありがとうな」


美麗は教え方がめちゃくちゃ上手いし、俺自身が美麗から教わったところは絶対に忘れないから素直に教わった方が効率は遥かにいいのだが、美麗自身の勉強もある。

おんぶに抱っこではいられない。


まずは数学から手をつけるか。


くるっとペンを1回転させてから参考書を開き、問題を解きにかかった。




15分くらい経ったあたりでコーヒーへと手を伸ばして、そういえばまだチョコレートを食べていなかったなと、一つ手に取って包装を剥がして口の中に放り込んだ。


噛むと、割れたチョコレートの中から洋酒が喉へと流れ込んでくる。

ロイヤルショコラというのはチョコレートの中に酒が入っているらしい。


美味いけど、結構アルコールがきついな。


喉に焼けるような熱さが残る。

以前に父さんが蒸留酒は舌で感じる味というよりは香りと喉越しを楽しむものだと言っていたが、酒単体で楽しむのは俺には幾分早そうだ。


慣れてくれば楽しめるのかもしれないが、そもそも俺はまだ未成年だしな。


喉に残る熱をコーヒーで流し込み、参考書から顔を上げて美麗に声をかけた。


「これ、美味いけど結構アルコールが‥‥え?」


テーブルを挟んだ対面を見ると、美麗はポロポロと涙を流していた。

美麗の前のテーブルにはチョコレートの包装が5つ。頬と目の周りが赤い。


いや‥‥まさか‥‥酔ってるのか?


父さんは酒を飲んでも様子が変わらないが、母さんは酔うとバカ笑いしながら無意味に背中をバシバシ叩いてきたりする。


美麗は泣き上戸‥‥なのだろうか。


「私‥‥‥ずっと寂しかった」


小さな声が耳に届いた。


美麗は酔っ払っているのかもしれない。

だけど、そう言って俯き涙を流す美麗を見ていると、胸が張り裂けるように痛い。


美麗の傍にいって、頭を撫でた。



「うん‥‥ごめんな」



どれくらい、そうしていただろうか。暫く撫でていると美麗がふにゃっとした笑顔になって、にへへと笑いながら顔を上げた。


「ひびきくん、だっこ」


「え?」


返事を待たずに美麗はギュウと俺の背に手を回して抱きしめると、すりすりと俺の胸に頬擦りをする。


「な!?なっ?」


声にならない声が出た。アルコールのせいか、美麗の体温がいつもよりも高く感じる。


‥‥美麗の首筋から香る、シャンプーとかとは違う、どこか普段とは少し違う香りにどういうわけか頭がくらくらする。


密着している箇所から、薄着の美麗の柔らかさがダイレクトに脳へと伝わってきた。


ヤバい。

これはヤバい。

主に俺の理性を守る防壁がヤバい。


そんな俺の気も知らずに、俺の胸から顔を離した美麗は蕩けるような笑顔で俺を見上げて———






「ちゅーして」






『理性防壁、第一防壁並びに第二防壁、一瞬で消し飛びましたっ!!』



俺の頭の中のコントロールセンターにいるオペレーターが《エマージェンシー、エマージェンシー》と機械音声が鳴り響く中、悲鳴のように叫び、慌ただしく修復指示を出してゆく。


美麗の垂れた目が、いつも以上にトロンとしていてちょっと信じられないくらい可愛い。


凄まじい勢いでビルドアップして侵攻を進める煩悩を∞の軌道を描くデンプシーで気合でコーナーへと押し込む。


「み、美麗、一旦落ち着こう!な?今、水持ってくるから」


そう言って立ち上がろうとすると、美麗は「やー!」と言いつつ、両方の手で俺の頬を挟んで、濃厚なキスをした。



それはもう‥‥‥濃厚な。



「——んっ——っは———んん——ぷはぁ、ひびきくん、しゅきー」



キスが終わると、美麗は蕩けた顔をそのままに、またぐりぐりと俺の胸に頭をつけて頬擦りをする。



何だこれ何だこれ何だこれ何だこれ。


俺にッ‥‥俺に、どうしろって言うんだッ!


可愛すぎて俺の理性を守る防壁は猛烈な勢いでゴリゴリと削られていく。

格ゲーで例えるなら全画面999HITの超必殺技をガードし続けているような状態だ。


体力バーは凄い勢いで削られているのに、防御しかできない。後ろに倒したレバーを少しでも別方向に動かせば瞬時に俺の理性は蒸発するだろう。


「ひびきくんは?わたしのことすき?」


顔を上げて俺を見上げる美麗の潤みつつも熱をもつ瞳に、吸い込まれそうだ。


「あ、ああ。もちろん大好きだぞ」


「へへー、ひびきくん、だーいすき」


「わぷっ」


俺の返事に満足気に微笑んだ美麗は、膝立ちになって俺の頭を包み込むように抱きしめた。




———真っ暗な視界。蠱惑的な花のような香り。魅惑的な柔らかな感触。その時、俺の頭に浮かんだのは‥‥黒髭危機一髪という遊んだ事もない玩具だった。


もう防御壁を失い、ほとんど剥き出しと言っていい理性が樽に押し込まれ、ナイフを刺す箇所は残すところ後一つ。



俺はもう‥‥駄目かもしれない。



走馬灯のように、昔の記憶が蘇る。

そういう事に関しては、高校を卒業してからしようと美麗と話した時の記憶。



‥‥もう、ゴールしてもいいよな?


俺、頑張ったよな?


もう‥‥ゴールしても‥‥



理性の入った樽に

ゆっくりとナイフが差し込まれ———





すぅ‥‥すぅ‥‥



「えっ!?美麗?」


動き出していた手が止まる。

美麗は‥‥‥俺の頭を抱えたまま、眠っていた。


この時の俺の顔は、1933年に首相となったどこぞの独裁者であっても思わず「大丈夫?」と優しい言葉をかけたくなる程に悲壮感に満ちていた事だろう。


『どこの』とは言わないが、美麗の柔らかな感触と甘い香りに血涙でも流れそうな程の名残惜しさを感じながら、なけなしの意志の力を総動員して美麗の腕をゆっくりと解き、俺のベッドへ寝かせた。






と、まあ、こういうわけだ。


はぁ‥‥これで良かったような‥‥残念なような‥


俺だって男だ。下心だって当然ある。

そして、この下心は雑誌や映像で鎮静化できるものではない。何故なら、俺は美麗の事が好き過ぎて、最早美麗でしか反応しなくなってしまった。


それはそれでいいのだが‥‥これには弊害がある。それは、罪悪感を感じながらも、俺の妄想の中で、美麗は‥‥‥



眠っている美麗のふっくらとした唇から、さっきまで俺の頭を包み込んでいた柔らかなところへと視線が吸い寄せられ、ゴクリと生唾を飲み込む。


ゆっくりと、その神域とも呼べる双丘へ触れようと伸びた右手を———


左手で抑え付けた。




やめろっ!鎮まれ、俺の右手っ!!




‥‥なるほど、これが噂に聞く厨二病というやつか。




目を瞑り、深呼吸を繰り返し、散り散りとなった冷静さを掻き集める。


「すぅぅ‥‥‥ふぅぅぅ‥‥」


最後に大きめの深呼吸をして、美麗に薄い掛け布団をかけた。


「ヤバかった‥‥」


テーブルの前へと座り直して、カラカラになっていた喉をコーヒーで潤しつつ、目に止まったこの前美麗から貰ったノートを開く。


これは、ここ暫く一緒に勉強をして俺が苦手なポイントを美麗が纏めてくれたものだ。


所々に小さくデフォルメされたパンダが描かれていて『ここに注目』という吹き出しと共に丁寧に問題の解説が書かれている。

パラパラとページをめくってゆく。


「ははっ」


『ここは私も少し苦手』という吹き出しでションボリとしたパンダの絵に思わず笑みがこぼれた。


正直このノート、参考書より遥かに分かりやすい。その分、めちゃくちゃ手が込んでいる。

『作るの大変だっただろ?』

と、聞くと

『‥ううん、私も復習になったから』

と首を横に振って優しい笑顔で言う美麗には、愛しさと感謝しかない。


とりあえず、夏休み明けのテスト順位は美麗の隣に並ぼう。

何事においても、美麗の隣は俺でありたい。


酔っていたとはいえ、泣かせてしまうくらいに寂しい思いをさせてしまったんだ。


あの涙の意味は、俺が思うよりも多分ずっと重い。


今でも泣いてしまうくらいなのだ。当時はどれだけ泣かせてしまったというのだろうか。


「ごめんな‥‥美麗」


もう離れない。寂しい思いなんてさせない。俺はずっと美麗の傍にいる。


そう思いながら美麗の穏やかな寝顔を見ていると、自然と頬が緩んだ。


「いや、‥‥俺がずっと美麗の傍にいたい、だな」



俺には、将来なりたい職業なんてない。


だけど、美麗と結婚しても金で困る事が無いように安定して尚且つ給料が良い仕事がいい。

長期出張があるような仕事は嫌だ。

残業が多い仕事も遠慮したいところだ。

いっそのこと、在宅で出来る仕事とかいいかもしれない。


そんな、未来への選択肢を広げる為にも、

まずは———



俺は、あまり大きな音が鳴らないように気を付けながら、自分の頬を両手で挟むようにペチンと叩いた。


「よしっ、勉強するか」



努力なら死ぬ程してやる。

だから、美麗に寂しい思いさせるんじゃねーぞ、未来の俺。






ちなみに、2時間後に目覚めた美麗は10秒ほど虚空を見つめた後に、俺と目が合うと急速に顔を赤くしてガバッと掛け布団を頭から被った。


どうやら酔ってる間の記憶が少なからずあるらしい。


掛け布団の隙間からほんの少し顔を覗かせた美麗が


「‥もう、私、お酒飲まない」


と言っていたが、成人して2人きりになった時はちょっと飲んでほしいと思ったのだった。



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クラス1のブスと言われる女の子に恋をした 楽樹木 @kakujyuki

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