61.おさけ(ぜんはん)
すぅ‥‥すぅ‥‥
と、規則正しい寝息が部屋に響いている。
今、俺の部屋で‥‥俺のベッドの上で眠っているのは何を隠そう、いや隠すつもりもないが‥‥美麗だ。
こっちに顔を向けて眠りながらも、ほんのりと上気した美麗の頬を指で撫でるとくすぐったそうな顔をする。
開いている時は少しパンダにも似た、今は閉じられている美麗の可愛らしい垂れ目にかかる前髪をそっと耳にかけるように動かすと、美麗が身を捩った。
「‥‥ん‥ぅ‥‥ぇへへ」
幸せそうな寝顔で笑う美麗は、一体どんな夢を見ているのだろうか。
‥‥‥ちなみにこれは、ドラマやアニメ、小説とかによくあるような『ああ、美麗なら今、俺の隣で寝ているよ』といった展開では決して無い。
俺は美麗の横で寝ているわけでもないし、服も脱いでいないし、鳥もチュンチュン鳴いていない。
窓に目を向けると、景色は少し赤みが差してきていて、もうそろそろ日が暮れる頃だろう。
夏休みも終盤に差し掛かり、あと数日もすれば鈴虫の音色と共に夕暮れに秋の風情が混じり始めるのかもしれない。
視線を美麗へと戻す。
危なかった‥‥‥本当に危なかったんだ。
重圧な防壁で何重にも保護してある俺の理性さんの守りが、残すところ薄皮一枚‥‥
あとほんの少しで理性が消し飛ぶところだった。
部屋にあるテーブルの上にはいくつかの包みを開いた食べかけのチョコレートと、溶けかけた氷が浮いているアイスコーヒー。そして、勉強道具一式。
『‥今から響君の家に行ってもいい?』
きっかけは、今日の昼過ぎにかかってきた美麗からの電話。この一言から始まった。
美麗は午前中から宇佐美と、昨日家族旅行から帰ってきた白百合を交えて一緒に遊んでいたはずだが、喫茶店で昼を一緒に食べて解散となったらしい。
そこで、白百合はベルギーに行っていたらしく、ロイヤルショコラという王室御用達の珍しいチョコレートをお土産に貰ったので、それを一緒に食べないかとの事だった。
午前中は部屋で小説を読んでいて、家で昼食を食べ終えてから午後は散歩がてら図書館でも行って勉強しようかと考えていたところでの誘いだったので、すぐにOKした。
そもそも、俺の中に美麗より優先度が高い事柄など存在しない。美麗からの誘いは『はい』or『YES』の2択だ。
ついでに勉強もしようという事で、一度美麗は家へと帰って勉強道具一式を持ってうちに来る運びとなった。
一度帰るなら俺が美麗の家に行っても良かったのだが、近くで道路工事をやっていて結構音が大きいので勉強するにはあまり適さないらしい。
当然、駅まで美麗を迎えに行った。
美麗は『‥外暑いし、悪いからいいよ』と遠慮していたが、雲一つない快晴で気温が35℃とか関係ない。俺が迎えに行きたかったのだ。
悪いと言うなら部屋でそわそわと美麗を待っている方がよっぽど体に悪い。
そもそも———
「‥お待たせ」
改札から出て、俺と目が合うと嬉しそうにはにかみながら小走りでこっちに来ては、そう言って目の前でふんわりと笑う美麗を自ら見逃す手はない。そんなの悪手もいいところだ。
あぁ‥‥今日も美麗は最高に可愛いなぁ。
今日の服装は麦わら帽子にハイウエストの白いノースリーブワンピース。普段あまりお目にかかれない脇のあたりに目を持っていかれる。
‥‥いや‥‥別に俺は、脇フェチとかそういう訳では無いのだが‥‥しかし、視線が外せない。ひょっとしたら俺は変態なのだろうか。
実は脇フェチだったとしても、俺が見たいのは美麗のだけなので許してほしい。
「‥迎えに来てくれてありがとう」
「こちらこそありがとう」
「?」
「あっ、いやっ、何でもない」
流石に、脇見せ最高です!何て言ったら、ノースリーブをあまり着てくれなくなるかもしれない。
強引に視線を逸らすと、首には俺がプレゼントしたネックレスがつけられていた。やっぱりよく似合っている。
それにしても麦わら帽子は初めて見たな。
「その麦わら帽子、見た事無いけど新しく買ったのか?」
「‥うん、静香ちゃんと買ったお揃い」
指で両端の帽子のつばを摘んで「‥どうかな?」と美麗が長くて綺麗な髪を揺らしながら上目で楽しげに笑う。
「っ!」
どうって?いや、もうその仕草の時点で可愛すぎて息が止まりそうというか、ついでに息の根まで止まりそうなんだが‥‥
ハートの形をした矢が心臓をもろに抉ってくる。
良かった。致命傷で済んだ。
帽子を被ってきたのなら、今日は日差しが強いから念のために母さんから折りたたみの日傘を借りてきたが、出番は無さそうか。
「よく似合ってる。可愛いぞ」
「‥帽子が可愛いからね」
「可愛い帽子を被ってる美麗が可愛いんだよ」
実際に、背景描写に背に生える天使の羽と無数に咲き誇る向日葵が見えてくるくらいだ。
記憶が無かった間、美麗に寂しい思いをさせてしまったし色々な所に連れて行きたいのだが、受験勉強で夏休みはあまり遠出出来ていない。来年の夏は向日葵畑なんかに行くのもありかもしれない。後で調べてみよう。
そんな事を考えつつ、美麗に向けて手を出すと、「‥ありがとう。嬉しい」と帽子のつばを下げて俯きつつ、繋いだ手をにぎにぎと機嫌よさそうに握る美麗は、何というか言葉以上に可愛かった。
家に着いて、美麗と母さんが話をしている間にキッチンへと向かい、濃いめに淹れたコーヒーに氷を落としてアイスコーヒーを作る。
家へと歩いている時に、チョコレートなら飲み物は紅茶じゃなくてコーヒーにしようと話をしていたので、無意識に出していた美麗用の紅茶缶を棚へと戻した。
「あっ‥ごめんね。お手伝いできなくて」
トレイにコーヒーの入ったグラスを置いたところでキッチンに顔を出した美麗が申し訳なさそうな顔をする。
「いいよ。朝に会ってたとはいえ、母さんも寂しがってたから」
そう、俺は、弁当を美麗が作ってくれていた事には気付けたが、どうやって渡していたかまで気が回っていなかった。
三年の1学期、美麗は毎朝うちに来て母さんに弁当を渡してくれていたらしい。
だからこそ、俺は記憶が無かった間も美麗の美味しい弁当を毎日食べられたわけだ。
その話を初めて美麗から聞いた時、俺は泣いた。
普通に泣いた。
美麗とデート中、街中での何気ない会話の最中での事だったのだが、急に立ち止まって涙を流し壊れたように『ごめんな』と『ありがとう』を繰り返す俺に、美麗は『‥大丈夫だよ。美味しく食べてくれたのなら私も嬉しい』と頭を撫でてくれて‥‥
俺は、危うく新しい扉を開きかけた。
顔を上げるのがもう少し遅ければ『ママぁ』と縋っていたかもしれない。
‥‥新しい扉はさておき、記憶が無かった間も陰で支え続けてくれた美麗へ何百回、何千回ありがとうと言っても伝えきれないと思う、そんな行き場を失って暴れ回る感謝の気持ちを一体どうすればいいのか。
色々と悩んだが、どうやっても伝えきれそうになかった。というわけで、その思いの一端として美麗の言う事を何でも1000個きくと提案してみたら、美麗は少し悩んだ後に
『‥もう、私のために無茶な事しないでね』
と言った。
俺の身一つで美麗を守れるのなら、俺は何度でも無茶をするし、多分意識しなくても条件反射で体が勝手に動く。
かと言って、美麗に心配をかけるわけにもいかない。美麗を二度と悲しませたくなんてない。
というわけで、美麗を助ける場面があった時でも何とかなるように最近筋トレを始めてみた。
これなら無茶に入らない筈だろう。
‥‥何か、夢の中で美麗と一緒に筋トレをした事があるような変な既視感があったが、それは気にしない事にした。
ちなみに、残り999個のお願いはまだ保留だ。
『‥年に一回くらい使うかも』と言っていたが‥
すまん、美麗。いくら身体を鍛えても、流石に後999年は生きられないと思う。
出来れば生きている内に使い切ってほしい。
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