此岸の子

佐渡 寛臣

此岸の子


 落葉松の小道なのだという。

 家の裏手には山道へと続く道がある。祖父はよく学校の帰り道に、この落葉松の小道を通って、遊びに行っていたそうだ。その山道を目でなぞり、香苗は錆付いた門に手をかけた。

 赤錆がワンピースに触れないように、気をつけて錠を上げ、ぎしぎしと嫌な音に眉を顰める。錆の臭いが、鼻につく。

 玄関まで行く途中、右手に庭が見える。もっと雑多に乱れているものかと想像していたが、雑草もほとんど生えておらず、綺麗なものだった。

 預かっていた鍵で扉を開くと、中は、独特のこもった匂いがした。畳の匂いだと気付いたのは靴を脱いだときだった。

 日の高い真夏の明るさに比べて、中は締め切っているために暗い。目がなれない所為だろう、余計に暗く感じる。祖父は、毎日、こんな暗い家で一人で暮らしていたのだろうか。

 香苗はそう考えると、陰鬱な気持ちになる。母が、一緒に暮らそうといったとき、頑としてここに残ったと聞くが、自分で望んだことにせよ、ここで一人で暮らして一人で死んでしまうのはあまりにも寂しいように香苗には思えた。香苗は手を握りこんで首を振る。

 奥へ進み、重い雨戸を強引に開けた。途中何度もつかえて、いらいらとしたが、軋む悲鳴を聞きながら、何とか外の光で暗闇を退けた。

 外の空気が入り、幾分か陰鬱な気持ちが晴れる。やはり香苗は明るいところの方が好きだ。縁側からは、先ほどの山道へ続く道が見える。落葉松の小道を丁度、老婆が歩いて行くのが見える。

 廊下にハンカチを引いて、そこに腰を下ろす。何をしに、来たのだろうと、漠然と目的を見失って、香苗はため息をついた。

 香苗は、逃げてきたのだ。大学生の頃、ふと思い立って一人暮らしを始めた。両親にコントロールされている人生に価値はあるのかと、疑問に思ったのがきっかけだった。

 反対はされたが、家から電車で一本で行ける、それでも極力遠い場所を選んで引っ越した。大学生活は、そのおかげで自由であったし、楽しくもあった。

 自分を生きている感覚が自分を支配していた。コントロールされない自分は自由だと感じていた。それがとても幸せな状態だと思った。

 しかし、今の恋人が通うようになった頃になって、途端にそれがガラガラと崩れた。

 生活に、他人がいるということのストレスが、どうにも耐えがたいものになった。自分の空間に、彼が、他人が、物を置いていくことは酷くペースを乱された。その頃を思い出して、香苗は手を握りこんで首を振る。

 半年も持たずに別れた。また自分のペースに戻ると信じていた香苗を待っていたのは、何故か、途方もない孤独感であった。

 それが、いなくなったために生じた孤独感であったなら、何を気にすることもなかった。

 雑草一つ生えていない庭を眺めながら、香苗はため息をついた。

 ここで、一人で暮らした祖父は、何を考えて生きたのだろうか。

 一人で暮らすようになったとき、祖父は自分と同じ感覚になったのだろうか。


 “――自分は誰とも家族になれない”


 くすり、と笑う。そんなわけはない。香苗自身の存在が、祖父が一人ではなかった証なのだから。

 それでも、晩年、一人で暮らし続けた祖父の、何かを感じ取れるのではないだろうかと、考えて、この家にやってきた。

 しかし、何も見つからなかった。ここには何もない、があるだけだ。当たり前の結果に香苗は自嘲の笑みを浮かべる。あのまま、他人に乱された自分の場所にいるのが辛すぎて、逃げ出してきたが、結局、祖父の場所をただ悪戯に乱しただけか、そう思うと一層、引きつった笑みが、香苗の顔に浮かんだ。

 風のざわめきがする。落葉松の小道からだろうか。ぼんやりと熱い日差しの中、遠くを眺める。バッグから徐にペットボトルを取り出して、水分を摂る。少しぬるくなり始めた炭酸飲料が喉を巡る。

 息を吐いた、そのときだった。


「せいしろう?」


 声を、かけられた。どこから、と頭に浮かぶより先に、誰が、と問う。

 鍵のかかった家、閉まった雨戸、こもった畳の匂い。

 香苗の背後、振り返ることの出来ない、記憶の中の先ほどの暗闇の向こうから、声が聞こえる。


「かえってきたの? せいしろう」


 ――子どもの、声である。そう理解は出来る。潤ったはずの喉が急速に渇き、香苗は生唾を飲んだ。

 畳を踏む、音が聞こえた。ゆっくりと、少しずつ。軋む、音。

 太陽はほんの少し傾いていた。それでもまだ昼間の明るさである。じっとりとした暑さに、汗が垂れる。


「――せいしろう、じゃない? とても、似ているのに?」


 ぎし、と廊下を踏む音に代わり、香苗の心臓が軋むように跳ねた。

 振り返るなどと考えることも出来なかった。だって、どうして、誰もいない家のはずなのに。

 死んだ、祖父の名を呼ぶの。

 そうして、すぐ背後で足音が止まり、耳元を息が吹きかけられた。


「――あなた、だれ?」


 視界の隅に、黒髪の女の子がいた。畳の、匂いが強い。香苗は震えて声も出せず、硬直する。立ち上がって逃げ出したい、そう思っても身体は動かすことが出来ない。


「ねぇ、あなた、だれ?」


 ぽん、と肩に手を乗せられて、香苗はぞくりと背筋に電撃が走るような感覚があった。


「しろさわ、かなえ?」


 名前を呼ばれて、ぞっとした。思わず、そう、思わず香苗は、振り返る。まずい、と思うより先に少女と目が合った。おかっぱ頭の、着物姿の少女。丸くて円らな瞳が真っ直ぐと香苗を見つめていた。

 ぺたん、と少女は香苗の傍に座った。ひ、と香苗は小さな悲鳴を上げる。少女は不思議そうに小首を傾げて、そうして怯える香苗を眺めた。

 そうして、少女は香苗の想像を絶する、拍子抜けな笑顔を零した。

 立ち上がることが出来たのは、そのときだった。きょとんとする少女から飛び跳ねるように離れて、しかし足をとられて庭先に転ぶ。慌てて振り返ると、着物姿の少女は口元に手を当てて、廊下に立ち上がる。

 今度は香苗がきょとんとした。慌てた様子の少女が、驚いた表情で、心配そうに香苗を見下ろす。おろおろとする姿に、先ほどの恐怖が抜けていく。頭に残ったのはあの拍子抜けな笑顔だけだった。

 香苗は立ち上がって、軽く土を払って、少女を見つめた。

 恐る恐る、呟くように声をかけた。大丈夫と伝えると、少女はほっと胸を撫で下ろした様子で、ぺたりと廊下に座り込み、


「せいしろうの孫に怪我なんてさせちゃったら、私、せいしろうに折檻されちゃうわ」


 そう、くすりと笑った。

 悪いもの、ではないらしい。雰囲気から、物の怪の類だろうと察しはつく。


「せいしろう、帰ってきたかと思ったのに」


 縁側で、隣に座る少女は千恵子といった。生前の名かと訊ねると、これは祖父、清四郎がつけた名だという。


「名前負け、しているのよ。せいしろうは私を座敷わらしのように思っていてね」


 違うのだろうか。外見を見れば、誰だってそう思うだろう。千年の恵みを与える子、といったところか、座敷わらしであるならば、納得の名だ。

 香苗がそういうと、千恵子は困ったような笑みを浮かべる。似たようなものかもしれないけれど、随分と違うのよ、という。


「せいしろうが子どもの頃はね、確かにそんな役目もあったのよ。今はまるでそんな力はないの。あれば、せいしろうがここで一人きりになるはずなんて、ないものね」


 それは、どうなのだろう。

 香苗は自身の疑問と重なり合って、表情を曇らせる。祖父が、もし、もしも祖父が、香苗と同じように孤独を願い、それが成就されての孤独死であるならば、それは祖父にとっての幸せだったのではないだろうか。

 孤独にしかなれない、人間なのだとしたら。

 黙りこくる香苗に、千恵子は不思議そうに顔を覗きこむ。


「せいしろうと、やっぱり似てる」


 本が、好きだったのだという。一人で本を読んで、そうしてたまに、今の香苗と同じように考え込んでは、眉を顰めていた。そんな表情がよく、似ているのだという。

 祖父の、しわくちゃの顰め面は、確かに香苗にも記憶にあった。


「――どうして、ここへ?」


 言われて、香苗は下唇を噛む。誰にも相談出来ずに、自分で見つけるために、ここへ来たのに、その理由を口にするのは憚られた。


「せっかくお孫さんが会いにきたのに、せいしろう、どうして帰ってこないのかしら」


 千恵子の言葉に、香苗はずきり、と胸が痛んだ。この少女はまだ知らないのだ。祖父が亡くなったことも、もしかしたら死の概念すら、分からずにいるのかもしれない。

 そう思うと、そのことを知らせるべきなのか、香苗は分からず、ただ黙り込むしかなかった。

 話を逸らそう。香苗はそう思った。しかし、祖父のことをあまり覚えていない香苗は、逸らすべき話題を見つけられず、先ほどの千恵子の質問に答える形をとるしか出来なかった。

 自分探し、という言葉で誤魔化す滑稽な自分にはやはり自嘲の笑みが図らずとも零れる。


「それは随分と、見当違いね」


 と千恵子はばっさりと香苗を切り捨てた。香苗は手を握りこんで、唾を飲む。


「――せいしろうは、家族思いの良い子だったわ。長男に生まれて、まだ幼い小さな子どもの世話をして、そうあの落葉松の小道を弟たちを連れて散歩していたわ。小さな手を、小さな手が握ってね、私も一緒にあそこを歩いてみたかったもの」


 思い出すように目を細める。視線の先を追うと、想像の中で、子どもの頃の祖父が、歩いて行くのが見えたような気がした。


「勉強熱心で、いつも本を読んでいた。学校の先生になるんだって、私に夢を話してくれたわ。そうして村で立派な教師になって。それでも戦争があって、せいしろうは兵隊さんになってもう帰らないかもしれないって言われたときは、私もたくさん泣いたっけ」


 千恵子の遠い目の向こうにあるものが香苗にはわからなかった。幼い姿をしていてもずっと長く、祖父を見つめてきたこの目には、祖父の歴史が刻まれているのかと思うと、そのあまりの大きさに、香苗は眩暈を覚えそうになる。


「――空襲のとき、外に出られない私は箪笥の中に隠れて震えていたわ。家族はどこか……そう、防空壕って言ったかしら、そこに隠れているって聞いたわね。あの落葉松の小道の先、少し下ったところにね、あったのよ」


 指を差す先、沈む日差しの方角。香苗は高校の授業でならった当時の写真を頭に浮かべた。


「箪笥の陰に隠れて、ずっとその方角を見つめていたの。ずっとずっと。しんたと、やえこと、きみえと、かんじと、れんたろうと、みんながいる方角をね」


 千恵子の、目元が潤む。零れそうな涙が、目尻に溜まり、太陽の光を反射して僅かに煌くのが見えた。


「――ひこうきが、白いお腹を見せて、ぱらぱらって。それでみんなは帰らなくなってしまったの。それからしばらくして、せいしろうだけが、帰ってきたの」


 せいしろうだけが、と千恵子は一度、繰り返した。


「ねぇ、かなえ?」


 千恵子が香苗の顔を覗きこんでいった。


「――せいしろうは、もうかえってはこないのね」


 馬鹿だ、と香苗は自分を恥じた。分からないはずがないのだ。死の概念を、知らないはずがないのだ。千恵子は途方もない時間を一人でいたのだから。

 頷くと、千恵子はそうか、と想像とは逆に安堵の表情を浮かべた。どうしてか、香苗はそのことに触れることが出来なかった。千恵子にとって、祖父は大切な家族であったのだろう。そして祖父にとって千恵子もまた、大切な家族であった。

 故に、祖父はこの地に留まり続け、死後も遺言書にこの土地と家を売却することを禁じた。

 そんな祖父の死に安堵の笑みを浮かべる理由が香苗にはわからない。


「せいしろうは、ひとりぼっちは嫌なのよ。ひとりぼっちになってしまったから、私をひとりぼっちには出来なかった。家族を愛することに、せいしろうは、こんな私にまで一生を使ってくれたのだから」


 だから、香苗が祖父に求めたことはまるで見当違いなのだ。香苗は下唇を噛んで、手を握りこむ。そうだ、結局、香苗だけが誰とも一緒にはいられないのだ。それでもその孤独を愛せない香苗は、どうすれば、許されるのだろうか。

 考えれば考えるほど、思考は暗闇の奥へと沈み込んでいく。太陽はいつしか沈み始め、赤い夕焼けへと変わっていた。

 夜が、来るのだ。香苗は自身の心に投影して、それはもう耐えられない極暗に落ち込むような気がして、それは酷く恐ろしく思えた。

 そっと、手に触れる感触があった。


「――せいしろうに、そっくりね」


 千恵子が笑う。香苗は首を振って目を伏せる。祖父とは、違う。香苗は誰とももう、一緒にはいられない。誰かが傍にいることの煩わしさに耐えられない。家族でさえも遠ざけて一人になることを選んだのだから。


「手を、握りこむ癖。我慢して、頑張ろうとしてるせいしろうとそっくり」


 ハッと、手を見る。握りこんだ手が震えている。千恵子は震えるその手をそっと握って包み込むようにして頬を乗せた。


「――赤ちゃんはね、手を握りこんで産まれてくるの」


 千恵子の言葉は温かく優しい。ふと、母の顔が頭に浮かんだ。


「子どもは、親を選んで生まれてくるの。この二人の子どもになりたいって、そう願って、そして幸せを握りこんで、産まれてくるのよ」


 香苗の握った手がゆっくりと開かれる。夕日の光が、掌を照らし、柔らかな赤色に包まれた。

 風が凪いだ。影が遠ざかるように風と共に、霧散する。


「私は、産まれることが出来なかったの。神様は、水子の私を拾い上げ、そうして此岸へ降ろしてくださったの。私の握りこんだ、幸せ全部を渡して回るようにって」


 千恵子は香苗の目の前で掌を開けた。光の粒が、一瞬、散ったように見えて、香苗は瞬きを繰り返す。


「――かなえはまだ、その掌を開く場所を見つけられずいたのね。だからきっとせいしろうが連れてきてくれたのね」


 香苗は、震える手で口元を覆う。祖父の笑顔が頭を過ぎる。そうだ、あの人はとても優しい笑顔を見せる人だった。

 千恵子は立ち上がり、香苗の手を引く。つられて立ち上がると、小さな千恵子は、香苗の胸元に抱きついた。


「せいしろう、私はずっと寂しくないわ。この子も、きっと寂しくないわ。あなたのいないこの場所は、やっぱりあなたの居場所なのだから。だからもう心配しなくても大丈夫。大丈夫よね?」


 ねぇ、かなえ?

 そう、千恵子は笑顔を見せた。背中に回った掌の温かさに包まれて、香苗は目を閉じた。頬を涙が伝った。

 目を開けると、辺りは夜の帳が下りていた。だけど、祖父の自慢の庭は明るい月が照らしていた。満天の星空の下、香苗は一人、ぽつんと廊下に立っていた。

 バッグを拾い、香苗は踵を返し門を出る。

 月の浮かぶ方角へ、香苗は一人歩く。落葉松の小道を歩きながら、握りこんだ手を、開いてじっと見つめる。光の粒は見えないけれど、心はどうして温かい。

 両親の待つ家に帰ろう。そうしてたくさん話をしよう。きっと今度は大丈夫。

 祖父の家を振り返る。ふと、畳の匂いがした気がして、香苗は心配性ね、と呟いてくすりと笑った。

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此岸の子 佐渡 寛臣 @wanco168

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