超インフレ!催眠バトル!

春海水亭

50円は5円の十倍強い

才悟さいごよォ、催眠術覚えただなんて大した大言壮語うそくなぁ?えぇ?」

高校生活も半年が過ぎれば、

自分が所属する集団というものもある程度決まってきて、

1-Bの教室は部族が別れるみたいに、それぞれの集団ごとに固まっている。

交わることのない各々の会話は、仲間内では一瞬の青春に、

それ以外では他の会話と混じって雑多な音として処理される。

モテない男子集団である心我才悟こころがさいご達の会話も、そうである。

仲間内以外でわざわざ聞き耳を立てるような者もいない。

催眠術を覚えたという才悟の告白を音ではなく声として受け止めたのは、

彼らのグループの人間だけである。

それを疑ったのもクラスの中では抜粕ぬかす 合択ごうたくを含め、

僅かな人間達だけであった。


真実中ガチ真実マジだ」

日の当たる窓際の席、太陽は彼らを照らすが、人生までは照らしてはくれない。

だが、それがどうしたと言うように才悟は不敵に笑い、言うべきことを言った。

彼は人差し指に白い糸をくるくると絡めていて、先端に5円玉を結び付けている。

ファッションセンスの崩壊したアクセサリのようにしか見えないが、

その人差し指をびし、と合択に突きつけると、

刀の切っ先を向けるかのような威圧感があった。

太陽の光を浴びた5円玉が鈍い金色の光を放つ。

僅かに緩んだ糸の余りが右に左に5円を揺らす。

合択の視線が5円を追って、右に左に揺れ、そして才悟の顔を見た。


「とてもじゃねぇが、信じられねぇな……」

被催眠童貞卒業やってみればわかるさ」

巻き付いた糸を解き、才悟は親指と人差し指でちょいと糸を摘んだ。

衝撃を受けた、5円玉が振り子のように僅かに揺れている。

だが、それだけで何かがどうにかなるというわけでもない。


「よし、じゃあ……この5円玉をよく見てくれ」

「おう」

「アナタはだんだん眠くなる……アナタはだんだん眠くなる……」

「あのなぁ……昭和すげーむかしが終わってから何年経過ったと思ってるんだよ、

こんなんで俺が……ねる……わきゃ……」

だが、合択の言葉とは裏腹に、5円玉を追う合択の瞳は夢色に蕩けていた。

急に重力の存在を思い出したかのように、瞼は重く沈み込んでいく。

抗おうとする理性も霞がかっていて、自分の体を他者に明け渡したようである。


パン、と乾いた音が鳴り響いた。

猫騙しをするかのように、合択の顔の前で才悟が柏手かしわでを打ったのである。

母親の声よりも、目覚まし時計の音よりも、

それはおそらく世界で最も彼にとって有効に働いた覚醒を促す音であっただろう。


「すごー……」

才悟と合択のやり取りを眺めていた同集団の二人が思わず拍手はくしゅを送る。

本当マジ存在ったろ、催眠術は」

「いや、すげぇわ……本気マジ驚愕ビビった。

 俺、昨日の夜は宿業しゅくだいもやらずに安眠ぐっすりしてたんだぜ?

 怒涛の12時間睡眠ぐっすりすやすやで、眠くなるはずがねーのにな」

「勿論……」

僅かに唇の先を吊り上げて、才悟が笑う。

「眠らせる以外のことも出来るぜ」

「すごー……」

「じゃあ、例示アレだァ……女子に掛けたとしたら」

恋愛力学第二法則ラブラブエントロピーを完全に無視出来る。

 俺みたいな奴でも女の子と付き合えるってわけだ」


そう言って、才悟はちらりと、クラスの前の席に位置する金髪の女子を見た。

染めているわけではない、生まれつきの色である。

肌は白く、薄い。

指でつん、と触れれば、紙を破るように、穴を開けてしまいそうである。

しかし、不健康の色は無い。

幻影のような美しさゆえの儚さを帯びているのだ。

睫毛は長く、濃い。

その睫毛に守られた金色の瞳は、蠱惑的にきらめいている。


高嶺の花というものを、辞書ではなく体験として知りたいのならば、

これ以上とない教材であった。

リエン・マジャーベツクシサという。異国の血が入っている。


「俺は催眠術を使って……リエンとつきあいてぇ、

 本気マジ交際同棲結婚出産死別つきあいてぇ」

「おぉ……」

普段ならば一笑に付すような言葉である。

だが、本気の響きに誰一人として笑うことは出来なかった。


才悟は凡庸な男である。

容姿も勉学も運動も、何一つとして突出するような部分はなかった。

だが、合択達は知っている。才悟が習得した催眠術を。

月とスッポンという言葉がある。

リエンは月で、才悟はスッポンなのだろう。

だが、才悟は催眠術という翼を得た。


なれば、飛べるかもしれない。

太陽の熱に焼かれたイカロスをも超え、

見上げる存在ではなく、

足をつける存在としてスッポンは月に至ることが出来るのかもしれない。


「放課後、リエンが一人になるタイミングを狙って……掛けるぜ、催眠術」

催眠術は本人の意思とは無関係に人を操る魔技である。

倫理的に許されるはずがない、

いや、なによりそれで勝ち取った愛など本人が一番虚しく思うのかもしれない。

しかし、合択達に彼を止めることは出来なかった。


才悟が浮かべたのは死の覚悟すらも思わせる凄絶な表情である。

如何なる修行の果てに、彼が催眠術を習得したのか、

如何なる絶望が故に、催眠術という魔技に辿り着いたのか。


彼らはもう、その表情を見ただけで何も言うことが出来ずに、

見送ることしか出来なかったのである。


さて、放課後である。

才悟は強姦魔の心持ちであった。実際そうだろう。

違いがあるとするならば、肉体を無理矢理に屈服させるというのではない、

精神を無理矢理に屈服させるということだ。

あるいはそれは、人間にとってははるかに残酷なことかもしれない。


だが、望む全てを手に入れることが出来るとして、

法の裁きもなく、苛むものは自分の良心だけであるとして、

何故、催眠術の行使を止めることが出来ようか。


日が沈んだ。

夕焼けが空の青を道連れにするかのように赤々と燃やし尽くし、

一欠片の朝や昼の残滓も残さぬ夜となった。


才悟はリエンの家の近くの電柱でこっそりと隠れていて、

じつと、ひたすらにじつとリエンの帰宅を待っていた。


リエンの家で豪邸であった。

学校ほどの大きさの家が、冗談みたいに一つの家族のものとして利用されていた。

だから、わざわざ調べるまでもなく才悟は彼女の家を知っていた。


「……ああ」

自分が隠れているのを忘れて、才悟は思わず声を出した。

部活帰りのリエンである。

その美しさに薄っすらと光を放っているようにすら思える。

あらゆるものを消す夜の闇ですら、彼女の美を隠すことを躊躇したのだ。


催眠術行使くぞ!」

ぱっ、と電柱の影から才悟は飛び出し、

彼女に白い糸に結ばれた5円玉を突きつけた。

ゆらり、ゆらりと、右に左に、振り子のように5円玉が揺れる。


「俺のことを好きに……」

才悟が魔の呪文を行使をせんとした、その時である。


「甘いわね」

一瞬、ほんの一瞬だけ――才悟は鏡を見ているのかと思った。

勿論、そんなわけがない。

目の前にいる少女は、鏡に映る自分と比べ物にならぬ美の化身である。

だが、冗談みたいに自分の振るう5円玉と同じようなものが目の前で揺れていた。


そう、鏡を見ているかのように、目の前の少女は自分に催眠を掛けているのである。

それも、金の輝きではなく、銀の輝きを用いて。

――50円玉による催眠術。


「俺のことを好きになれェェェェェェェッ!!!!!!!!!!」

「吹き飛べェェェェェェェェェェェェェッ!!!!!!!!!!」


才悟が叫ぶ。リエンも同時に叫ぶ。

催眠術に出力というものが存在することを、才悟は薄っすらと感じていた。

目に見えぬビームのようなものである。

強ければ、強いほどにその命令は強力なものになる。


そして今、才悟ははっきりと自身に迫る協力な催眠術の存在を感じていた。

おそらく、自分のものよりも十倍は強い。


「好きに!好きに!好きにィィィィ!!!!!」


叫びながら認識する。自分は催眠術の掛け合いに負けたのだ。

今、自分の目の前にはリエンの催眠術の光線が、

自分の放った催眠術も巻き込みながら、自分を吹き飛ばさんと迫っているのが、

はっきりとわかる。


「あァァァァァァァァァァァッ!!!!!!」

才悟は悲鳴を上げ、50m程吹き飛んだ。

蹴飛ばされたボールのように才悟は何度も地面をバウンドし、

その度に悲鳴を上げた。

骨が折れ、血を吐き、目には涙が滲んでいた。


「どこで催眠術を学んだかはわかりませんが、

 5円程度の能力で、この私を催眠催眠術かけれると思うとは……

 全く、愚かな……」

空に輝く月が地を這う虫を見る目で、

飛べぬものを見る目で、己に届かぬ塵を見る目で、才悟を見た。

視力が非常に良いのだ。


「おっと、催眠殺トドメ催眠さねばなりませんね……」

催眠殺催眠殺ころされる……」

アスファルトの地面を踏む、かつ、かつという音がやけに響くようであった。

リエンは才悟を殺す死の50m歩を、ゆっくりと、ゆっくりと歩いている。


報いである、と才悟は思った。

そして、死ねぬ、とも思った。


才悟は凡庸な男である。

容姿も勉学も運動も、何一つとして突出するような部分はなかった。

そして、今その催眠術すら上回られ、塵のように殺されようとしている。


やっと、手に入れた自分だけのもの。

それだけは負けたくない、と心の底から思った。


折れた手で無理矢理に糸を握りしめ、5円を振り、ぼそ、と才悟が呟いた。

蚊の鳴くよりも更に小さい声である。

そして、リエンに負け犬の声は届かぬ。


何度も、何度も、才悟が呟く。

5円玉をじつと睨んで、何度も、何度も、呟く。

徐々に大きくなる声を、リエンは聞いた。


「俺を……自宅に瞬間移動しろ!」

自己暗示自分に催眠かける奴……!」


リエンが認識した瞬間、才悟の姿は消えていた。

残されたものは負け犬の薄汚い血、ただそれだけである。


「成程、成程……」

リエンは笑っていた。

5円玉の出力で瞬間移動まで果たすとは、大した催眠術師である。


「ポチ!ポチ!おいでなさいな!」

大声でリエンが呼んだ。

美しい顔の女が、美しい声で、武器を呼び寄せた。


「ワン!」

リエンに駆け寄ってきたのは、黒のドーベルマンである。

首輪がされている、リードもつけられている、だが、たった一匹で来た。

リードの持ち手を引きずってきたのだから、

どうやらこの犬はだいぶ自由に暮らしているようである。


「いい子ね」

リエンはポチの頭を撫ぜると、首輪を外し、リードを持った。

そして、財布から札束を抜き出したのだ。

百万円――計算によれば、これは5円玉の二十万倍の価値を有する。

そして、その出力もまた、おそらく――


かくして、奇々怪々たる催眠合戦の火蓋は切って落とされたのである。

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