四月某日、東京に雪

御子柴 流歌

花見にも雪見にもつかない


 四月も今宵も、ようやく半ばを過ぎた頃――。


 底冷えのする寒さとは違う、身を削っていくような寒さにすっかり狭くなった空を見上げれば、花弁のように雪が降ってきていた。


「……は?」


 酒に花。酒に雪。

 花見酒に雪見酒。

 どちらもうまいモノだが、どうやらさっきの店にそんな風流心は捨て去ってきてしまったらしい。


 理解しろということが難しいとは思う。


 俺の脳細胞はとくにしっかりとしたアイドリングもしないままに、『これは桜の花びらである』なんて決めつけてしまったモノだから、今降り始めているこの白いモノが地元ですっかり見慣れていたはずの雪だとは全く思わなかった。

 それもそうだ。あちらの地方では平然と端午の節句にも雪が降ることはあっても、東京ではそんなことはほぼあり得ない。

 たちの悪いエイプリルフールかと思うくらいだった。


「いや、ぼけっとしてる場合じゃないな」


 自分に言い聞かせるようにして、最寄り駅へと向かうことにする。

 早くしないと一瞬で白旗を揚げて運行ストップ、明日の朝になっても不通のまま――みたいなことになってしまう。


 明日は折角の土曜日。ここでおかしなことに巻き込まれては、貴重な休みの無駄遣いだ。

 もし既に電車が止まっていたとしても、最悪でもまだタクシーは捕まえられるはずだ。

 もちろん最終手段としてしか考えてはいないけれど、それでもあらゆる手段は思考に入れておかないと――――。



「今夜は冷えますね」


「……え?」


 不意に左斜め後方から声がした。

 バリトンの随分と色気のある声に、心臓は予想だにしない跳ね方をした。

 ぎょっとして振り向けば、そこに見えたのは和装の男だった。


「冷えますねえ」


 声が聞こえないと思ったのか、和装男は同じ事を、今度は穏やかな笑みを添えて繰り返した。


 歳は、六十を超えているだろうか。

 青磁色の着物に濃紺の羽織を重ねている、落ち着いた印象の人だ。

 目尻の皺はそれ相応と思えるくらいには深いが、そのくせ肌理は細かいので年齢が読めない。

 元々その辺りの眼力には自信が無いので、難易度が高すぎる。

 あまり触れないようにしておくのが、こういうときの鉄則だろう。


「ええ、まぁ、……そうですね。雪も降っていますし」


「そうですね、雪ですねえ」


 当たり障りのない、相鎚のようなものを返すだけにしておく。

 そのわりに、男はやたらと満足そうに頷き続けている。

 どうやら目的地は俺と同じ方向にあるようで、和装男は駅へと歩を進める俺の左側についた。

 怪しい雰囲気しか無いが、とくに危害を加えられるような雰囲気も無い。

 大きな通りから外れないようにしておけば、万が一の事があったとしてもとりあえずは安心だろう。


「この後は、またどこかへお出でですか?」


「は? いや、さすがにもう今日は帰ろうかと。電車もいつ止まるかわからないでしょう、雪も降ってきましたし」


「こちらでは、まぁ、そうですよね」


 些細なことかもしれないが、『また』だの、『こちらでは』だの。何となくさっきから和装男の言い回しに引っかかりを覚える。


「私は北国の生まれでしてね」


「ああ、なるほど」


 こちらと比べれば、向こうの鉄路には幾分か雪への耐性がある。

 完全に疑念が尽きたわけではないが、それを知っているのなら話は別だった。


「誠に失礼ながら、あなた様はつい今し方まで飲んでいらしてましたね?」


「え? ええ、まぁ、そうですが」


「それなりに飲んだつもりだったけれど、この寒さで少し酔いが冷めてしまって、何となく物足りなさを覚えている。……違いますかな?」


「……あの、すみません。どこから見てました?」


 店から出たところを見られたのならまだしも、そこまで思考を読まれてしまっては気味の悪さを覚えるのも無理は無いだろう。

 あからさまに俺よりも年上なのに『あなた様』なんていう言い回しをしてくることも含めて、疑問が口を突いて飛び出してくるのは、至極真っ当な事だと思う。


「丁度、あなた様がそこの酒場から出てこられるところですよ」


「……はぁ」


「酔い冷めで物足りなく思うのは……、『同じ釜の飯を食う』であろう人のようであるから、でしょうかね」


「…………は?」


 何を言っているのだろうか。


 どう考えてもこの男とは初対面だ。

 和装の似合う中年なんて、これまでの人生で会話を交わした記憶なんかない。

 ――いよいよ、気色悪さを覚える。


「まぁ、こんなところでの立ち話もなんですし、少し行きましょうか」


「え、ちょっと待ってください」


「怖がる必要なんてありませんよ」


 そのセリフが余計に怖いんだ。

『何もしないから』なんて言って男なんて、この世界を探してもどこにもいないのと同じだ。


「何。すぐそこにから」


「えっ」





 ――風。



 ――光。



 ――雪。

 




 それは、和装男が言うように、現れた。


 大きなビルの隙間に挟まるように建っている、都心の進化に置いて行かれたような雑居ビルくらいの大きさほどの――――。


「これは……」


「市電……みたいなものですかね」


 列車というには、あまりにも上背がある。

 ロンドンや香港あたりの二階建てバスよりも背が高いような気がする。


 ――違う、今の問題はそこじゃない。


「いや、レールは……」


「細かいことは言いっこなしでしょう」


 細かくはないだろう。

 今俺の目の前にあるのは、一部雪で斑模様になっているアスファルトだけ。

 鉄路なんか敷かれていない。


「では、トロリーバスということにでもしておいてくださいな」


 仕方ないと言わんばかりの妥協を見せてくれたが、結局そういうことじゃない。

 どう見てもその『トロリーバス』とやらの足下は、ゴムタイヤではなく鉄輪が履かされている。


「さて、では参りましょうか」


 酔いは醒めた。

 ――いや、醒めているのか。


 そもそも、この目が覚めているのだろうか。

 夢なのではなかろうか。


 実はどこかで酔い潰れて、眠ってしまっているだけなのではないか。


 夢ならばまだしも、実はこの世とあの世の境目くらいに居て、その風景がなのではないだろうか。


 ――ココで乗ったら、俺、死ぬんじゃないのか?


「い、いえ、さすがにちょっと」


 やんわりと断ることにする。


「飲み直し、したくはないですか?」


「……ぅぐっ」


 的確に痛いところを突いてくる。


「いや、あの……これでもまだ俺、命が惜しいので」


「ハハハ! そんなモノは取りはしませんよ。そういうことは出来ませんからね」


 思わず本音を口にすると、男は高らかに笑う。

 じゃあ何ならできるんだ、このは。


「しかし、そこまで怯えられるのはこちらの真意ではありませんね」


「そう、ッスか」


 思ったより簡単に引き下がってくれた。

 怯えていたつもりはあまりなかったが、他人から見ればそうだったのだろう。

 無様かもしれないが、背に腹は代えられないし、酒欲に命は代えられない。


「それではまた近いうちに、お会い致しましょう。その時はに上がりますので」


 返事をすることもできないまま、再び辺り一面がフラッシュライトを焚かれたように明るくなり、俺は思わず目を閉じた。






          ○






 目が慣れて再びまぶたを開ければ、俺の目の前にはすっかり見慣れた賃貸マンションの玄関扉があった。


 雪は、止んでいた。

 降っていたことすら夢のように、跡形も無く消えていた。

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