第14話 スタートライン

最初は独りごとのように小さな声だった。

気持ちよく喋る大柄な生徒はまるで聞こえておらず、変わらずに目の前の相手を責め続けている。彼女が驚いて口を閉じたのは、恭子がばっと顔を上げてからだった。


「言いがかりはやめてほしい。私はあのクラスの生徒だし、不登校でも人殺しでもない。私は――私は彼がいるあのクラスに戻る!!」


突然の叫びに呆気に取られる女子生徒達。恭子は座り込んだ体勢を正し、スカートの裾を払って走り出した。


「え?」


慌てて追いかけるものの、恭子はみるみる内に距離を稼いでいく。火事場の馬鹿力というやつだろうか。羽の生えたように体が軽く追いつかれる様子もない。

あっという間に校舎の入口を通り抜ける。階段に登る手前、一瞬だけ保健室を見た。あそこに戻れば確実に安全だ。まさか女子生徒達も朝礼前のこの時間に追いかけてはこないだろう。けれど、今その選択肢を取ればもう二度とクラスには行けないだろう。

茂くん、ともう一度恭子の口からお守り代わりの声が漏れた。


「ちょっと、待ちなさいよ!!」


気づけば後ろ手に女子生徒達が息を切らしながら迫って来ている。迷う時間はない。

彼女は思い切るように視線を切り、前方にある階段へと足を進めた。

一段登るごとに、期待と不安が交互に訪れる。以前教室で彼を待っていたあの日、目の前で叫び倒れた彼の姿がフラッシュバックする。自分自身必死で否定したかったけれど、恭子を見てそうなったのはもう周知の事実なのだろう。

先ほどの女子生徒達から浴びせられた悪意がもし彼から向けられたら、一体どうなってしまうんだろう。

徐々に足が重くなり、もう僅かの距離しかないはずの二階が遠い。額に汗をかき、それでもどうにか登り切る。もう目的のクラスは目の前だ。

体感時間はやけに長いとは言え、チャイムの時間はもう目前にまで迫っているはずだ。だからなのか誰かがもうドアを早々と閉め切っていて、恭子はいつも触れることのない扉に手をかけた。


「!」


息をのんで勢いよく教室の扉を開く。生徒たちはいつも通り朝礼前の時間を思い思いに過ごしている。彼もまた、先ほど校庭から見た姿の通り窓の外を見ている。今のうちに席について、後ろを見ないようにしよう。

トラウマの瞬間が頭をよぎる。そうして急いで進めようとした恭子の足が止まった。

あ、と息が漏れる。体がガクガクと震え、遮るもののないはずの廊下と教室の境界線が超えられない。


(あともう少しなのに……!)


気持ちははやっても、肝心の足は根が生えたようにどっしりと動かない。手は扉にかざしたまま。このままでは追いつかれるのも必然だ。やはり自分では教室に入る勇気なんてないのか。恭子は悶々としてぎゅっと目をつぶる。


「あれ、やっぱりいた」


その時あんなにも硬く閉ざされたように見えていた扉があっさりと開いた。

え、と恭子の口から間抜けな声が漏れる。目の前にはかつてない程近い距離に憧れの人が立っている。声を出すどころか唖然として動けない恭子の背後で、階段を上がってきた担任が声をかける。


「何してんだ東郷。遠藤まで。もうホームルーム始まるぞー」


間延びした声が突然日常の喧騒を思い出させる。いつものようにざわざわとする教室内にちょうどチャイムが鳴り響く。そしてバタバタと例の女子生徒達が追いついてきた。思わず恭子も身構える。


「邪魔よ! どいて!」


彼女たちは恭子の顔など見ていないようだった。大きく聞こえるチャイムに慌てたように恭子の背をドンと押し、ドアの隙間をぬって教室に駆けこんでいく。その衝撃で恭子の体はあまりにも呆気なく中に入った。


「同じクラスだったんだな、早く席着かないと怒られるぜ」


茂は首を傾げて踵を返す。釣られるように恭子の足が動く。あんなにも怖かったクラスだったのに、入ってみればまるで当たり前のように席についた。

後ろの席で茂が小さな声で「東郷? 椎名じゃない……というかワカメ女?!」とぶつぶつ言っているのが聞こえたけれど、もう叫ぶことも失神することもないようだった。

ホームルームが終わり、一限目までの僅かな待機時間。恭子は意を決して茂に振り向いた。


「あのっ! 私、東郷恭子です。この間は驚かせてしまってごめんなさい」


ショックではあったが、失神までさせてしまった自責の念は拭いきれなかった。その言葉を受けて茂は目を丸くして慌てて手をぶんぶん振る。


「いや俺の方こそ失礼なあだ名つけて本当にごめん!! 驚かせたのはこっちの方だよ、でもこの間と大分印象変わったから、正直席につくまで分からなかったというか」

「髪を大分切りましたからね」

「それだけじゃなくて、顔が見えるようになったし……あのさ、不躾なんだけど椎名って名前の親戚いたりしない? 東郷さんって幼稚園の時の友達に凄く似ててさ」

「椎名は元々の名前ですけど――まさか、しーちゃん?!」

「じゃあやっぱり!」


2人は突然の同窓生の発覚に、これまでの気まずさも忘れて盛り上がった。ついさっきまで女子生徒に追われて恐ろしかったことも、教室に入れずにいたことも、そんな様子を見て悶々としていたことも、2人の間で漂っていたあやふやな部分が一気に過去へと遠のいていく。そうして一限目を担当する教師が怒りの鉄槌を下すまで、恭子と茂は周りを忘れて話し続けた。


お昼休みになって、2人はようやく落ち着いて話す機会を得た。


「最後に話した時、どうしてごめんねって言ってたか覚えてる?」


茂はしーなと会えなくなってから、ずっと気にしていたことだった。だからこそしーなを覚えていられたとも言える。恭子はふっと昔を思い出して遠い目になる。


「昔の私は恥ずかしいけど、自分は強くて大事なものは全部守れるなんて凄く傲慢な考え方をしていたんだ。だから2人で作り上げた物を守れずにあっさり壊されたのが自分の落ち度のような気がしてたんだと思う」


そんなはずないのにね、と自重気味に笑う恭子に、茂は反論の声を上げた。


「でもあの時しーなはちゃんと俺の心を守ってくれたよ。ガキの頃は泣き虫だったけど、代わりに怒ってくれたから泣かずにいられた。あれから虐められてなくこともなくなったんだ。だから今更だけど、お礼を言わせてほしい。ありがとうね」

「何だかおかしな気分。今は私がいじめられっ子みたいな立場なのにね」

「それなら今度は俺が守る番だよな」


え、と恭子の顔がみるみる内に赤く染まる。それを見て茂は慌てて手を振った。


「いやそういう意味じゃなくて、いや違わないんだけど!」

「お二人さーん、砂糖吐きそうだから外行こうぜ」


お互い挙動不審な2人の横から、呆れた顔の和哉が口を出した。その台詞に2人はまた更に慌てることになるのだが、そうして恭子の日常はようやく動き出した。


ずっと人と顔を合わせるのが怖かったはずなのに、顔が見えるだけでこんなに世界が変わるなんて思ってもみなかった。この日、再婚後初めて母に感謝した。

もう2人は交差点ですれ違うだけの関係ではない。これからは、同じ教室のクラスメイトから始まる。ようやくスタートラインに立っただけだけれど、恭子は人生で一番晴れやかな気持ちだった。





終わり

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