イクスプレス

如何敬称略

第1話

桜、きれいですね…。


先輩、ご卒業おめでとうございます。急に呼び出したりしてごめんなさい。どうしても、先輩に伝えたいことがあったんです。


先輩は、僕と初めて会った日のことを覚えていますか。「会った」は適切じゃないかも知れませんね。初めて話した日を覚えていますか。


去年、僕がこの中学校に入学したばかりのころ、天気予報が外れて雨が急に降った日です。電車を降りると、激しく雨が駅舎を打ち付けていました。傘を忘れた僕がなかなか止みそうにない雨空を見上げて途方に暮れていたところ、予備で折りたたみ傘を持っていた先輩が声をかけて傘を貸してくれました。突然のことで「ありがとう」としか言えませんでした。普通だったら十分だったのかも知れませんが、少し経ってから、先輩は大きい方の傘を僕に貸してくれて、先輩自身は小さい折りたたみ傘で帰ったことに気づいて、いろいろな言葉が僕の頭を巡りました。翌日、駅でちゃんと返せたときはほっとしました。あのことがあって以来、僕もかばんに予備の折りたたみ傘を入れるようになったんです。


逆に先輩が予備の傘すらも忘れた時がありましたね。梅雨の時期なのに傘を忘れていたことに少し驚きましたが、学校の玄関で佇む先輩を見つけたときはここぞとばかりに傘を貸し付けて返礼させていただきました。


その頃からですね、先輩と同じ車両に乗るようになったのは。先輩は電車の中では基本的に本を読んでいましたね。僕は、初めの頃はその横で何をするでもなく、ただぼうっとしてましたが、先輩の影響で少しずつ本を読むようになりました。先輩の勧めてくれた本はいつも面白かったです。


本を一緒に読むのも良かったですが、先輩について話を聞くのも楽しかったです。先輩が好きな本のことはもちろんのこと、先輩の家族のこと、先輩の得意なこと、先輩の苦手なこと、先輩の愚痴まで。その全てが、聞いていてとても楽しかったです。


先輩はたくさん、先輩について教えてくれました。言葉に限らず。


初めて会ったときは、とてもしっかりした人というイメージでした。ですが、稀に朝の電車の中で必死に週末課題をしている先輩や、寝不足だったのか座ってこくりこくりと船を漕いでいた先輩、少し寝癖の残る寝ぼけた先輩、下校のときは、体育で疲れ果ててくたくたな先輩や、週末を前にしてテンションが高めの先輩…。数えてもきりがないほど、たくさん先輩の顔を見てきました。


そんなに今更恥ずかしがらないでください。確かに、世間の「先輩」ってこういうものなのかなと疑問に思っていた時期もありました。ですが、それ以前に先輩は先輩です。何より、初めて会ったときに傘を貸してくれた先輩はまさに「先輩」らしい姿でした。先輩をとても尊敬しています。…今度は僕が言ってて少し恥ずかしくなってきました。


尊敬できる部分をちゃんと兼ね備えた上で、先輩は先輩らしかったんです。


学年の差とは国境のようなものと言われますが、全くそのとおりで、僕は学校での普段の先輩を全く知りません。ですが、どうにも電車や駅での先輩の姿が仮構のものには思えなかったんです。電車でうとうとする先輩も、嬉嬉として本を勧めてくる先輩も、両方とも僕にはある意味生き生きと写っていました。見ているだけで僕はとても楽しくて…。そして、学校の階段を僕よりも多く登る先輩の背中を追うのが寂しくて…。


国境を越えて、先輩が凄く遠くに感じる瞬間は理不尽なまでにリアルで、国境というより、地面からの高さの差によって、異世界とさえ錯覚してしまいました。先輩はまたねと言って明るい様子で教室へ向かってましたが、二度と会えないのではないか、そう思ったことも数え切れないです。


電車の中で、先輩は僕に友達がいるのかと聞いたことがあると思いますが、僕は誤魔化しました。実際、僕には友達があまりいませんでした。…そうですか、分かってましたか、さすがは先輩です。ですが、先輩といるときはとても充実していました。本当は充たされているのは暫時的な心の隙間で、実りが有ったかと言われれば、無かったかも知れないです。それでも、僕は先輩といると、救われた気がしました。


…そんな先輩も今日で卒業ですね。今日は一緒に帰れないのかも知れませんので、これが先輩と最後の会話になる可能性もあるんですね。


先輩はどうでしたか。先輩は僕よりも一年早く、あの電車に乗っていたんですよね。今とその頃、僕がいるのといないのではどちらが良かったですか。どちらが、楽しかったですか。…どちらが、先輩は好きですか…。


困らせてしまってすみません、無理に答えなくてもいいですよ。その代わりに、次の質問に答えてほしいです。


先輩は確か、桜菱高校に行くんでしたよね。…あんなに難しい学校に通ってしまうなんて。いえ、ばかにしているわけでは。今とは反対方向の電車に乗ることになるんですよね。


すー、はー…。


先輩!僕は先輩に、何度も何度も救ってもらいました。先輩にその自覚が無いとしても、その恩は感謝してもしきれない程です。その上で、図々しくもお願いがあります。


先輩の透き通るような白い肌や、凛々しくも優しい目元、澄んだ瞳、控えめな桜色の唇、きれいな髪を僕は初めて会った日からきれいだと思っていました。そして、先輩の少し面倒くさがりで、朝が弱くて、困った人を放っておけなくて、自分の好きなことにとことんのめりこんで、後輩思いな性格を僕はとても尊敬していますし、とても、好きです。


そんな先輩の横にいる資格が僕にあるのなら、どうか、僕とこれからも懇意にしていただけませんか。


心の暫時的な隙間を埋めていただけの先輩との時間は、今では僕にとって、なくてはならない時間となりました。それも、暫時的ではなく。僕の心の一部なんです…。


先輩にとっての僕がどれほどのものなのか、わかりません。ただの一後輩なのか、それとも登下校を共にする友人なのか…。


今まではそれでもいいです。ですが…!


「結局、何が言いたいの?私の大事な後輩くん」


まったく、君は…。


卒業式の日に、それも桜の樹の下に呼ぶなんてして何がしたいのかわからないくらい鈍くないよ、君の好きな先輩は。


ちょっと、そんな泣かないでよ…。準備して、勇気を最大限振り絞って私に「お願い」をしようとしたことは十分伝わってるよ。


それに、意図が分かった上で、私は来た。それだけ、真剣に君と向き合いたいと思ったから。それだけ、君が私にとって大事な人だから。


まず、答えなくてもいいと言われた質問に答えさせてもらうよ。君との登下校はとてもたのしかった。あの路線を使用するうちの学校の生徒は少ないから、私が一年生のときはずっと一人で本を読んでいた。その頃はそれで満足していたんだ。でも、君と話すようになってから、それまでとは違って、本の話をする人ができた。それは凄く新鮮で楽しかった。充実していた。君と本の話がしたくて、読書で夜ふかしをするようになってしまった。一年生の頃までは夜ふかしなんてしたことなかったんだけどね。それで電車でたまに寝てしまったんだ。元々は課題だってちゃんと家でやってたんだよ。そうだよ君のせいで私は慌ただしい生活になったんだ。…君のおかげで楽しい生活になったんだ。君も楽しんでくれてたみたいで良かったよ。


そして、御存知の通り、今日が最後。


そこで私から後輩くんへお願いが二つあります。まず一つ目は、来年、桜菱高校に来てくれませんか。君さえ良ければ、私とまた一緒に通学したいです。ですが、これだと来月からまた一人になってしまいます。ということで、二つ目のお願いは…。


「後輩くん、私と付き合ってくれませんか」


線路脇の桜は二人の背中を未来へ押すように舞っていた。

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