ビューティフル・イマジネーション

さかたいった

帰り道

「ほら、これ」

 小学校の昼休み、雄太が携帯端末でその画像を見せてきた。

 ピースサインをして楽しげに笑う若い女性の画像。女性の肩口から、背後に佇む青白い人間の顔が覗いている。

「うえっ」

 つかさはその典型的な心霊写真を目にし、嫌悪感を露わにした。

「フェイクだよ」雄太が言う。

「えっ?」

「作り物ってやつ。心霊写真なんて、だいたいが光の反射とかカメラの不具合だし、画像を加工すれば簡単に作れる」

「そんなこと知ってるけど」

 本物かどうかに関係なく、気持ち悪いことに変わりはない。

「ほら、次はこれ」

「もういいって!」


 学校からの帰り道。雄太と遊びながら帰っていたせいで、少し遅くなってしまった。

 友人と別れ、司は帰路を歩く。夕日が街を茜色に染める夕暮れ時。

 車がよく行き交う十字路を折れて、狭い道に入っていく。

 戸建てが立ち並ぶ住宅地。この先は袋小路になっているため、住人が利用する車以外ほとんど通らない。街灯はあるものの、設置の間隔が大きくやや薄暗い。車のエンジン音も届かず、辺りは静かだ。カラスの鳴き声すら聴こえない。

 ランドセルのショルダーにがっちり固定している司の両手に力が入る。

 薄暗い路地。

 昼休みに見た心霊写真のイメージが脳裏に蘇る。

 気づかぬうちにすぐ後ろにいる、白い顔。

 司の足が止まる。のっぺりとした恐怖が足元から上昇し、全身を包み込んでいく。

 もし。もし、今後ろを振り返って、何かがいたら?

 しまったら?

 そいつが、いたら?

 鍵の解かれた扉から一気に恐怖が流れ出た。

 ガクガクガクと膝が震える。

 心拍が加速して、息が苦しい。

 家はもうすぐだ。

 このまま真っ直ぐ行けば、右手に見えてくる。

 進め!

 走れ!

 だが司の意に反し、体は硬直して動かない。地面に打ちつけられた釘のよう。

 司の体がビクッと震えた。

 それは錯覚だったかもしれない。

 ただ司の意識には確実に影響した。

 すぐ背後から、ねっとりとした息遣いが聴こえたのだ。

「うわあああぁぁぁぁぁ!」

 叫びがスロットルとなり、司の足が回り出した。

 脇目も振らず全力で走り、家に辿り着くと門を乱暴に開け段差を上がり、玄関のドアを開けて中に飛び込んだ。

 靴置き場からフローリングの床に覆い被さるようにして体を丸めた。

 息が弾み、体の各所から各種液体が滲み出ている。

 リビングのドアが開き、母の明子が顔を見せた。

 司はそこでようやく安心した。


「司、いい加減お風呂入りなさい」

 この日、司は既に四回母の注意を受けていた。今ので五回目だ。もう夜の九時を過ぎているが、司はリビングでずっとテレビゲームに勤しんでいる。

 ゲームをやめたくないわけではない。そんなことは百も承知だ。司はただ一人になりたくなかったのだ。

 父も既に仕事から帰ってきている。普段なら司はとっくに風呂から上がっている時間である。

 テレビ画面では、赤い帽子を被った小さなおじさんが、左から右に進んでいく。赤い帽子のおじさんは、ゴール一歩手前でブロックとブロックの隙間に落ち、画面下に消えた。ゲームオーバー。

 いつまでもこうしているわけにはいかない。司は渋々ゲームを終えて、洗面所に向かった。パジャマとタオルを用意し、洗面所の鏡を見ないようにしながら風呂場の扉を開ける。

 風呂場に入ると司はすぐにボディーソープを手にすくって、それを風呂場の鏡に塗りつけていった。鏡の表面が白い泡で埋まっていく。

 湯船には浸からず、急いで体と頭を洗った。一度目を閉じると開ける時が怖いので、ずっと目を開けたままだった。

 鏡の泡は流さず、風呂場を出る。タオルでさっと体を拭き、パジャマを着て自室に急いだ。大丈夫、体を流す時におしっこもしてやったぞ。

 ベッドにうつ伏せになって枕に顔を押しつけ、目を閉じる。朝になるまでもう絶対に目を開けないからな、と司は決心した。

 その後、司はなかなか寝つけなかった。寝たいと思う時に限って眠れない。世界はそういう理不尽によって成っている。

 体が睡眠状態に入らないことにより、段々と膀胱に溜まっていくものがある。行きたくない時に限って行きたくなるのだ。

 小学六年生にもなって、お漏らしはできない。体を起こしちょっと歩いて、用を足してくるだけだ。それで屈辱を免れる。

 しかし司は動けなかった。今もし、自分の背中側に、人間の形をした何かが浮かんでいたら? 狂気と嫉妬に歪んだ表情で、自分を見下ろしていたら? その時自分はどうしたらいいのだ?

 雄太は心霊写真なんて作り物だと言っただろう? 幽霊なんかいないのだ。全て生きている人間の思い込み。そのはずだ。ただ人間の精神は理屈通りに動いていかない。理屈でわかっていても、人はまやかしに本物の恐怖を抱くのだ。その感情は、フェイクではない。

 司は無謀にも行動に出た。見なかったら、怖くない。何かがそこにいることを知ることはない。それならずっと目を開けなければいいのだ。

 司は目を閉じたまま体を起こし、ベッドから下りて手探りで部屋の入口に向かった。大丈夫、問題ない。毎日通る慣れ親しんだルートだ。視覚に頼らなくても辿ることができる。

 部屋を出て、壁に手を当てながら廊下を進み、トイレまで進んだ。ドアを開け、スイッチを切り替えて明かりを点け、足の感覚でスリッパを探り当てて履いた。ドアを閉めて鍵をかける。ズボンとパンツを下ろし、便座に座った。

 無事辿り着いて瞬間的に安堵したのか、司は思わず目を開けてしまった。トイレの花柄の壁紙が目に入る。

 よかった、何もいない。モザイクがかったような小さな窓にも夜の闇が張りついているだけで、その先に白い顔など見えはしない。司の司から自分でも驚くほどの量が放出された。

 廊下にも、自室にも、何もいない。ただ静かな夜。

 しかし再びベッドに横になった司は、その日二度と目を開けようとはしなかった。


 翌日は部活動の午後練があった。六年生になってからサッカー部に所属している司は、部活が終わると足早に帰路に就いた。

 十字路を曲がり、住宅が並ぶだけの路地に入る。既に日は暮れかけていて、薄暗い。

 道を進み、あとは自宅まで直進するだけになった。

 しかしまたそこで恐怖が司を鷲掴みにした。

 後ろに何かがいる。見てはいけない何かが、今自分を見つめている。

 耳鳴りがし、体から嫌な汗が噴き出て、全身が石のように硬直して動かない。

 それはゆっくりと背後から近づいてくる。どんなにゆっくりでも、動けない司にいずれ辿り着く。

 小刻みな体の震えで歯がガチガチと鳴り、ランドセルのショルダーを握る手がバイブレーションのようにぶるぶる震える。

 すぐ背後に気配。体が密着しそうなほどに近い。

 司はまぶたを閉じた。もう一生開かないのではないかというぐらい強く。

 後頭部に、吐息がかかる。

 背中を悪寒が突き抜けた。

 右の肩に手を置かれる。

 その手に、少しずつ力が込められていく。

 その手は、司を振り向かせようとしている。

 その事実に気づいた時、司の中で一本のネジが飛んだ。

「うわああああぁぁぁぁぁぁ!!」

 目を開いた司は放たれたパチンコ玉のように駆け出した。

 躓き、よろけ、転びそうになりながらも全速力で走り続けた。

 自宅の前に辿り着き、門の取っ手を掴んだ。強引に前後に取っ手を動かす。

 門はガチャガチャガチャと音を立てるばかりで、開かない。かんぬきが差さっているのだ。取っ手を少し回転させて押すだけで門は開くのだが、司の理性は背後に忍び寄る存在だけで許容範囲を超えていた。

 絶対に振り向くな!

 どうにか門を開け、段差を上がり玄関のドアの取っ手を掴んで手前に引く。

 ガン、と衝突音がし、ドアは開かない。

 鍵が閉まってる!

 母が夕食を作っている時間のはずだが、どこかに出かけているのか。

 司は家の鍵を持たされている。ランドセルの中にあるはずだ。

 すぐ後ろで足音。

 司の体が再び硬直した。

 司はその場で体を丸めて蹲り、目をきつく閉じて両手で耳を塞いだ。

 何も見えないし、何も聴こえない。

 そう自分に何度も言い聞かせる。

 何かが司の丸めた背中に触れた。

 ビクッと体が震える。

 何かの声がした。

 司はより一層強く耳を塞いだ。

「司、司!」

 司がようやく母の存在に気づいたのは、それから一分近く経った後だった。


 司は元々あまり口数の多いほうではない。学校での出来事などを、家族に話して聞かせるようなことはほとんどない。年齢的に思春期の手前に差しかかりつつあることは、そのことにより拍車をかけていた。それでもこの日、司は自分が遭った出来事を全て母の明子に話して聞かせた。明子は司を慰め、落ち着くのを待った。

「自分の想像だけでこんなに怖がる動物は、人間の他にいない。私も昔はすごく怖がりだった」

 家のリビング。一通り話を聞いた後、司の向かいに座っている明子が言った。

「司は人一倍想像力が豊かなほうだから、その想像力が怖さを助長してしまうの」

 明子の思いやりのある穏やかな表情は、司を安心させる。

「でもその想像力は無駄じゃない。むしろとっても役に立つ。使い方さえちゃんと学べばね」

「どうすればいいの?」

 その後司は明子からレクチャーを受けた。浮き上がる恐怖を他に押しやる方法だ。

 話の後、明子が冷蔵庫からプリンを出してくれた。司の大好物だ。

 プリンはとても美味しかった。幸せの味がした。


 翌日。暗がりの通学路。

 もう少しで家に着く直線に入ったところで、司はまたも恐怖がフラッシュバックした。

 背後から感じる気配。

 大丈夫、落ち着け。司は自分に言い聞かせ、昨日母から受けたレクチャーを実践する。

 想像力のスイッチを切り替える。怖いことばかり考えるから、怖くなる。それなら他のことを考えればいい。

 司は頭の中で花畑を想像した。


 美しい景色。咲き誇る色とりどりの花々。

 温かな日差し。優しい風。黄色い蝶たちが踊るように宙を舞っている。

 甘い花の香りと、草木の匂い。

 小鳥がさえずり、平和な音色を奏でる。

 たくさんの風船が空に浮かんでいく。

 そう、これでいい。怖いものなど何もない。

 穏やかで、幸せな世界。

 花々も笑っている。

 歯を剥き出しにし、幸せを喰らいながら邪悪に笑う……。

 太陽は雲に隠され、暗黒が訪れる。

 威嚇するようなカラスの鳴き声。

 三日月が血の涙を流し、空が血に染まっていく。

 美しい花畑は滅びた文明の廃墟と化し、死の臭いが辺りに蔓延る。

 影から覗く何かの視線。

 視線。

 視線。

 視線。

 う

  し

   ろ

    う

   し

  ろ

   う

    し

   ろ


 我に返った司は、後ろを振り返った。

 見慣れた路地。

 そこには何もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビューティフル・イマジネーション さかたいった @chocoblack

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説