犬と幼女と鎖
naka-motoo
夕陽がチェーンの一コマ一コマを鈍く照らす時幼女と犬は戯れる
コンテナヤード沿いの道路の幅員は広いのだが歩道は肩幅ほどでカーブに差し掛かると車の視界に入ってないんだろうと思い恐ろしくなる。
なんだか猫背になってしまう。
猫背のままで数段に積み上げられたアルファベットか変形文字かわからないロゴがペイントされたコンテナを裾野みたいにして、ぐあー、と空と海の境目に溶け込んでる『キリン』て呼ばれる巨大クレーン。
この港湾を地方自治体が運営するからなのだろう、僕の住む県のロゴがコンテナのロゴよりも達筆で記されている。
数基間隔を置いてそびえているクレーンが稼働してコンテナを祖父母が孫に買ってやるような高価な電動式の玩具みたいに持ち上げてLoadingかDischargingをしてる様子を見たかったがそもそも船がバースに入っていないのだから何も起こらないんだろう。
何も起こらない。
自分のキャッチコピーみたいで笑えてくるな。
何も起こらない毎日
何も起こらない友達
何も起こらない彼女
何も起こらない家
何も起こらない学校
何も起こらない
人生
何かドラマティックな現象が起こらないだろうか、何か今までの無駄な努力をなかったことにして一瞬にして自分の自己顕示欲も自己実現欲求も叶えることはできないだろうか。
虚しさを突然、消すことはできないだろうか。
だからコンテナヤードのクレーンが見える範囲で裏道に入った。
道は車が二台すれ違えるだけのための幅で向かいあった木造や中途半端な鉄筋家屋が連続して並んでいる所と家が撤去されているか廃墟となって残っているかというスペースとが繰り返される場所に、やっぱりどういう訳か等間隔に地蔵尊が家と家の軒先と軒先の間を選んだようにして地面に直に立ったようにして並んでいる。
この風景が僕の変化の起爆となるだろうか。
でも、そうなる訳はなかった。
地蔵尊が世界から日本から東京から大阪から京都から名古屋から福岡から取るに足らぬ場所として誰にも知られぬ無明の地に存在しているだけで僕の虚無が消える訳などない。
でも、慈悲なんだろうか、ひとつ起こった。
「黄色い花だ」
僕のこのセリフを映画で使ったら極めて間抜けに聴こえるだろう。
花の名を知らぬ主人公としてあり得ぬ属性の僕が言うに事欠いて『黄色い花だ』とつぶやいたその風景は、けれども僕のこの瞬間を映画のように彩るには十分だった。
家が無くなったその土地は、すべてが黄色い名もしれぬ雑草が咲いたようなその黄色い幾重もの花びらを持つ花によって、緑と黄色で風の温度を下げ、なんたることかその上には、巨大なクレーンが背景としてそびえる。
僕は満足しかかった。
でも、本命はこれじゃなかったんだ。
「マリー!マリー!」
僕はそれがその子の名前だと思った。
一軒だけ木造でも鉄筋でもなく、コンテナで造られた家があるその庭には細いロープを張った物干しに洗濯物が海風になびき、コンテナの中からは油の弾ける音、コンロの金具にフライパンが擦れる音、そして母親なのだろうか『マリー!マリー!』と呼んだそのハスキーヴォイスが何語なのか僕が当てられない言語で外に向かって笑いながら語りかけている。
庭は砂地で、小さなおそらくは幼稚園すらまだではないかな、って思う女の子が横向きになって寝転んでいる。
左手に、金属製のチェーンを絡ませて。
「マリー!」
その女の子もそう名を呼んだ。
そこで初めてマリーが誰か僕は分かったんだ。
砂地と同じ薄いクリーム色のカラダを持った毛のしっとりして、両耳がぺたんと垂れた巨大な犬。
マリー。
女の子は鎖をまるでバッグの持ち手を弄ぶみたいな柔らかさでくるくるしながらマリーの背中を恋人を抱擁するみたいにしてハグしてた。
僕はずっと小さな子供の頃に、野犬に噛まれて亡くなった僕の地元の男の子の霊を慰めるために建てられた銅像を見たことがある。
だから犬が時として猛る獣であることを知ってる。
その女の子のことが、僕は泣きたいぐらいに心配になる。
「マリー」
でも、僕の心配すらその事実で覆い尽くされるんだ。
何も起こらない。
岸壁で整備をしていた巡視船の船体に書かれた『Coast Guard』の文字が、野犬に殺された男の子の霊の連想からか『Ghost Guard』ではなかったと錯覚して。
帰ろう。
何も起こらない家へ帰ろう。
何も起こらない僕の街へ帰ろう。
女の子に不審者が涙を流していることを悟られないようにし立ち去ろうとしたとき、涙のために焦点の定まらない眼でもうひとつだけ僕は気づいた。
この子の軒先にも地蔵尊があって。
紫の綺麗な花がしおれもせずに供えられてたんだ。
犬と幼女と鎖 naka-motoo @naka-motoo
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