最終話

 ねえ、話があるの。

 私が彼女にそう告げた時、どんな声をしていたのか、私自身にはわからなかった。ただ、電話の向こう側で彼女がくすくすと笑っていたのをやけに鮮明に覚えている。

「もしかしてこの間の話? 何かわかった……」

 冷え込みやすい実家の自室で、古びたアルバムを前に、私は一言、うん、とだけ答えた。それ以外に発する言葉を見つけられなかった。

「あの十字路、まだ行ってないでしょう。行ってみない? 5時ごろでどうかな」

「そうだね、わかった」

 5時。日の暮れる時間。薄明かりと宵闇が交差して、影ばかりが濃くなる時間。

 彼女は私に何をしたいのだろう。

 考えても答えは出ないだろう。私は通話を終えた携帯電話をベッドの上に放り投げた。


 私と彼女はあの怪談の舞台となった十字路に佇んでいる。

「話ってなあに」

 たおやかで、それでいてよく通る涼やかな声で、彼女は私に問いかける。

 行こうよ、などと急かされて、私は自然と先導する形で十字路を進み始める。

「久しぶりに昔の写真を見たの」

 写真は、ちょうど、彼女が行方不明になる直前に撮られたものだった。クラス全員で出かけた林間学校の集合写真だ。つまらなさそうな顔をする生徒と共に、彼女もまた曖昧に笑っていた。

「あなたもいた。よく知っている顔だったし、今のあなたとよく似ている」

 彼女はくふくふと笑っている。背中に軽やかな笑い声がぶつかるが、羽毛のように柔らかく、不自然なほどに軽い。

「だけど」

 だけど、なあに?

 夕陽に照らされた道路がまるで自ら発光しているように輝き、強すぎる日光によって輪郭を失っていく。

 眩しくて目を開けていられない。

「あなたの名前を、私、思い出せない」

 何度確かめても、絶対に。

 意識した瞬間に、脳髄の一番奥から流れ出てしまう。

 --あなたは誰なの。

 日が落ちかけた十字路の真ん中で、私の背後にいるはずの彼女に向けて私は問う。

 鈴を鳴らすようだった彼女の笑い声がふと止んで、耳が痛いほどの沈黙が、橙色に染まった世界に溢れ出す。

「昔の、ことだけれど。

 あなたと一緒に帰っているとき、あなたが道の真ん中で泣き出したこと、あったでしょう。先を行っていた私はついつい振り向いてしまった」

「それは……」

「名前というのはね、世界の中に自己を定着させるための接着剤なの。だから名前をとられると、誰でもないものになってしまう。アレはそういう子供をまず作ってからともだちにするの。ずるいよね。

 振り向いてしまってから、わたしは自分の名前が分からなくなった。傍らにはいつもアレがいた。わたし、行方不明だって騒がれている間も、普通に学校にいたし、家にもいたのよ。ただ誰にも分かってもらえなかった。名前を無くしていたから。

 ねえ、わたしはね、あのときかみさまのともだちになったの」

 ねえ、あなたはわたしのともだちよね。

 

 現実を侵食した子供たちの共同幻想が、現実を虚構にしたのだ。目眩がした。名前を失い存在の輪郭を失い、彼女は海面にふと浮かび上がる漂流物のように世界を漂っているのだ。おそらく、誰かが怪談を思い出し、語り始め、その幻想を共有し始めると名前を取り戻すのだろう。「かみさまのともだち」という名前を。

 そうしたのは私たちであり、私であるのだ。

 

 ねえ、ともう一度強く問いかけられても、私は答えられなかった。橙色の光が狂気を帯びて世界に降り注いでいる。

 

 このこにしよかな。

 幼い子供の歌声が聞こえた気がして、私は弾かれるように首を巡らせ、


 わたしの

 なまえは

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