五 華一掬

 さても開封は、早馬が報せた再びの勝利に沸き立った。かの四代目皇帝、仁宗などは飛び上がらんばかりに喜んで、

「今回の戦いに参加した兵士たち全員に、たんと褒章をはずめ。惜しんではならぬ。でなければこの後、狄青のような人物は出てこなくなるぞ」

 と左右へ言ったほどであったという。

 その「褒章」を報せるには、彼の知っている人物が一番であろうということで、韓琦が出迎えを兼ねて、先だってと同様、宮城門へ行くことになった。

(科挙を経ていない人間が、ついに枢密使になったか)

 今回、狄青に与えられた位は、現在の韓琦と同位である。簡単に言えば、副宰相から宰相に出世した、ということになろう。

(私は一体、喜んでいるのか、残念がっているのか)

 街のみならず、宮中全体が浮かれ騒いでる中を、韓琦は門へ向かいながら苦笑しつつ、(己も当然喜ぶべきである)と自分に言い聞かせている。だが、

(向後、彼が負うであろう困難については、私の関知するところではない)

 とも、冷静に思っている。

 勝利に浮かれた街の喧騒のほとんどは、軍部の人間が繰り出した酒場や食堂から発せられたものだ。日常勤務の間に与えられた小憩中、それらの店に寄った兵士たちは、

「今回の戦いで功を上げたのは、俺達と同じ刺青者だ」

「かの刺青将軍は、文官の奴らが誰も出来なかったことを、あっという間に成功させたのだ」

 昼日中から大声で語り笑い、かつ飲み食いしては、

「結局、文官の奴らなんぞ、戦いにおいては、てんで役立たずだということさ」

  堂々と言うまでになっていた。

 事実なのだから、文官のほうとて言い返す言葉が見つからない。実際に、兵士たちがたむろしてる酒場を通りかかった折、

「見ろ、役立たずが行くぞ」

 などと野次られているのを、韓琦も見た。

 さすがの兵士たちも、最高官史である韓琦には面と向かって罵らぬ。だが、軍部においては、上官である文官の命令を聞かぬ兵士が出てきたらしいことを彼は知っていた。

 自分へそのような愚痴をこぼしに来た官僚のことを思い出して、

(彼らの気持ちも分からないではないが)

 門の屋根の下でぴたりと足を止め、韓琦はわずかに苦笑する。

 これまでは、文官が散々兵士たちを軽んじ、蔑んできたのだ。それに対する不満が今回のことで一気に吹き出してしまったのだろう。

 韓琦が残念がっているのはまさにそのことについてであり、

(彼は成功しないほうが良かった)

 成功するにしても、一度くらいは大負けしてから、兵士たちの力を借りて辛くも勝った、という形になればよかった、と、彼は思った。


 韓琦も、一度は戦いに出た身である。従って、実戦における用兵の難しさを嫌というほど思い知っている。だから、今回の狄青の勝利も、

(彼なりの綿密な計算に導き出されたゆえの結果である)

 と見ることができる。

 しかし、実戦を経たことも無く、戦いの有様を実際に見ていない人々が、つまり都にいる人間には、当たり前だが、それらの模様がどんなものであったのか分からないし、ましてや勝利に至るまでの将師らの苦労を思いもしない。そんな人々には、狄青がいとも簡単に反乱を収めてしまったように見えたに違いない。

(彼が突かれるとしたら、まずはここからだろう)

 もしもこの辞令を受けて……命令であるから受けずにはおられないのだが……狄青が枢密使になってしまえば、兵士が上官である文官の命令を聞かないのは、その頂点にいる狄青の責任である。などと、難癖に等しい糾弾がまず、彼を襲うに違いない。

 それに狄青が韓琦と同位になってしまえば、韓琦自身にとっても、その意見を無視することは出来なくなる。なんとなれば、同位である韓琦以外の……その上ともなればそれこそ仁宗くらいでなければ……誰も文句を言えぬだけの功を、彼は立てたからだ。韓琦が、狄青を批判する側にあえてつかねばならなくなることもあるだろう。

 もちろん、狄青自身は、あくまで謙虚で慎ましい人間である。身の程をわきまえぬ野望も持っていなければ他人の言葉に耳を傾ける度量も持ち合わせ、特に彼が恩を感じている人間の意見には素直に従おうともするだろう。そういう人物であることを韓琦もよく知っている。しかし、こと政治という面で見れば、文官側の頂点に立つ自分と、軍人側の頂点に立つ彼とは、ある意味では既に政敵とも言える立場でもある。

(悪くすれば、狄青の功に便乗して軍人が今以上にのさばるかもしれない。それを今、分かっている人間がどれだけいるか)

 彼の凱旋を待っている間も、韓琦の周囲では興奮に満ちた百官の囁きが止まらない。その中央で一人、妙に冷ややかな面持ちで、

(彼はいずれ、彼を持ち上げようとする者たちにこそ足をすくわれ、破滅するだろう)

 韓琦はそう考えていた。

 自分が直接何も言わなくとも、既に密かに醸し出されている彼への妬みが、枢密使に任じられたことで、より明瞭な形で表面上に出て爆発するだろう。しかも、その絶好の好機とも言うべきものを狄青を讃えている者たち自身が作り出すに違いない。わざわざ韓琦自身が手を回さなくとも、彼を葬り去る結果になるのだ。

(それも、恐らくは長く待つ必要はない。そうなれば、私は改めて自分の手で民のためになる政治を行うことが出来る。軍隊が強くなったところで、平時は決して民のためにはならないのだから)

 結論付けて、韓琦はいつの間にか伏せていた瞼を上げ、視線を正面へ据え直した。


  二列になった百官は、門を挟んで韓琦の前後にずらりと並び、辛抱強く狄青を待っている。ひそひそと交わされる兵士たちの話題は、皆が皆、今回の勝利と刺青将軍の凱旋についてである。宰相である韓琦の目の前においても、急ぎの所用で通り過ぎる文官へ、兵士たちが頭を下げぬばかりか侮辱の眼差しを注ぐのみ、といった光景が、当たり前のように繰り広げられている。

 その有様を見ながら、

(だから太祖は、軍部を嫌ったのだ。ただ単に、戦乱を招くことを恐れていたというだけではない)

 韓琦はようやく、宋の初代皇帝が軍部を下位に置いた、深い理由の一端を知ったように思ったのだ。

 今でこそ先進諸国では当たり前のように行われている文民統制ではあるものの、かつてはどうしても戦の強い者こそが政治においても力を持つという形が多かっただろう。しかし、言葉は悪いが、この頃の戦いに参加する兵士たちは教養のない者が大半であり、それを恥じるどころか、むしろ戦いに強要や礼儀作法など無用のものだとさえ思っている者が普通だった。とにかくどんな真似をしてでも勝てばよい。そして勝てばどんな無法も許されるとさえ思っている者も決して少なくなかった。

 それを、宋の初代皇帝が軍部を文官の下に置くことで制御し、理性的な治安組織に育て上げようとしたに違いない。しかしその御心に思いが至らない連中が増長した結果が今の都の有様である。

 太祖は、決して軍人を軽んじていたのではない。むしろよりよい組織を成す人材として大切に育てようとしたのではないのか。

 惜しむらくは当の文官自身がその太祖の想いを忘れ増長してしまった為に失策を重ね今回の事態を招いたことも事実ではあるものの、だからと言って今度は軍部が増長すれば結局また同じ失敗を繰り返すだけだ。

 十分な教養も身につけていない軍人はえてして、「いつも理屈ばかり振りかざしている頭でっかち」な文官の言うことなど耳を貸さなくてもいいと思ってる者が多い。彼らが認めるのは、彼らより強く、何も言わずともその実力を身でもって示す人間のみなのだ。

 今回の場合、それが狄青だった。しかも、元からある謙虚さに加えて教養をも身に付けた彼は、太祖こそが目指したであろう軍人のあるべき姿だったに違いない。兵士たちも、己の力を示して見せた彼の言うことならばきっと聞くであろう。

 ただ、本当に残念なことに、今はまだ、彼はあくまで「稀有な存在」でしかなかった。彼に倣いその謙虚さと教養を身に付けようとする者がたくさんいれば、このようなことにはならなかったのだと思われる。一介の兵士でありながら上官を蔑ろにし侮辱したりはしなかったに違いない。現に、狄青はそうではなかった。

 その一方で、兵士たちを愛してあまりある狄青は、今の部下たちの横暴すらある程度は許してしまうだろうと韓琦は見ていた。厳しい素振りは見せるし、時には命令に背いた者を厳しく罰することもあるが、彼の本質は「お人好し」である。兵士たちも、彼のそういう部分を期待しているというのも多分にあるのだろう。


 確かに最初のうち、彼が通そうとするのは、まことに他愛ない小さな要求であろう。その要求を呑んてるうちに、それは必ず、少しずつ大きいものに変貌していく。そして気が付けば、軍部が政治の中枢を担っている、といったことになりかねない。

 韓琦が思うに、それでは、宋の太祖が目指した理知的で理性的な進んだ国家にはならない。だから、

(狄青は排除されなければならないし、排除されるだろう)

 と、彼は予測した。

(人に対するに信をもってする、誠実な人柄……それ自体は大変に素晴らしい。だから多くの者に愛される。だが、こと政治となればそれだけでは駄目なのだ。下心を持ちおべっかを使ってすり寄ってくる者であっても、それが必要な力を持つものであれば敢えて身近に置いて上手く利用するくらいのことができなければ、政治の世界では生き残れない。まことに残念だ。妹を嫁にやらないで良かった)

 かの話が持ち上がった時、狄青と縁続きになっていたなら、「その時」がやってきた折、韓琦は彼自身が日頃からモットーとするところの公平性に基づいて、身内であればこそ厳重に罰しなければならなくなろう。

 従って狄青という人物を惜しみながらも、

(そうならなくて良かった。それで良いのだ)

 救いの手を差し伸べぬことを、韓琦は改めて自分自身に誓ったのだ。

 やがて、ようやく狄青の到着が知らされた。その姿が城内二つ目の門に小さく現れたのを見て、

(彼も、朝廷においては長く生きられる器ではない)

 穏やかな微笑を浮かべながら、韓琦は少し背をかがめた。あまりに急激に頭角を現しすぎた今までの官僚と同様、これから宮廷で狄青を待つのは、妬みや嫉みからくる誹謗と中傷の嵐である。

(嵐は、身をかがめてやり過ごすべきだ)

 思いながら、

「枢密副使狄青殿、ご苦労様でした」

 近付いてきた彼に、韓琦は声をかけた。

「なんとお懐かしい……いろいろと気遣いくださいまして、ありがとうございます」

 韓琦の出迎えを心から喜び、かつ恐縮しているらしい狄青へ、

「皇帝陛下からの褒章である。本日、枢密副使狄青を枢密使に任じる。謹んで拝命するように」

 韓琦は続けて告げた。たちまち、狄青の周りで兵士たちが歓呼の声を上げる。

 全く、返事をする間もない、とはこのことだろう。

「見ろ、皆がそれを喜んでいる」

「は、しかし……、俺はこれ以上の出世など」

 戸惑って周囲を見回す狄青に、韓琦は穏やかな微笑を浮かべてさらに言う。

「皆が、そなたに宰相になって欲しいと言っている。ここはその望みを叶えてやるのが、そなたの務めだと思うが」

 告げながら、

(ああ、嫌だ。なんという嫌な人間だ)

 韓琦はこの時、己自身を心の底からそう思った。

 そんな言い方をすれば、狄青がきっと断ることをしないと、自分は誰よりもよく知っている。しかもその言い方は、己が彼の破滅を密かに望んでいるなど、誰にも微塵も悟らせない。

 果たして韓琦の声が響くと、文官、武官を問わず、その場にいた人々皆が再び歓声を上げ、狄青の名を繰り返し呼んだ。

(参ったな。故郷に帰ろうと決めていたのに、これでは断れない)

 彼の情の深さから来るものであろう。頼まれると断りきれぬ、といった、場合によってはまことに厄介な性癖が、どうやら顔を出したらしい。狄青はそんな己に思わず苦笑したが、

「適任者が俺以外にないというのであれば、俺は謹んでお受けいたします」

 その大歓声に背中を押されるように、そう言ってしまったのである。

 科挙を一度も経たことのない軍人が、宋における最初の枢密使(宰相)となった、という報せは開封だけでなく広く国内外に知れ渡ったに違いない。

 そしてこう答えたことが、これ以降、急激に転落した彼の余生の第一歩となった。


 それからというもの、兵士たちは、狄青が鍛錬場に現れると必ず歓呼の声を上げたし、狄青が城内を歩けば、人々は必ず彼の屈強な体を見つけて駆け寄り、その周りに群れを成す。

「……かほどまで、かの刺青殿に人気が出るとは思いませなんだ」

 かくて半年も経たないうちに、官僚の中からは羨望交じりのため息が聞かれるようになった。

 特に、先に狄青の家系図をでっち上げて、彼の覚えを良くしようとした某などは、

「頬に刺青がある、というだけで、兵士たちにも絶大な信頼を寄せられるとは、何が幸いとなるか分かりませんなァ。いや、宰相閣下は大いに得をしている」

 率先してそう言い出している有様である。

 そもそも、兵士が必ず逃亡するもの、と最初から決め付けて、まるきりその人間性を信じてもいなかったから、朝廷側は彼らの顔へ刺青を入れたはずなのだ。その兵士の気持ちが分かるのは、やはり同じ目に遭ったことのある狄青しかいない。

 おまけに狄青は、宰相という身分になっていながら、未だに宿舎で一兵卒同様の暮らしを続けて、兵士たちと生活をほぼ共にしている。兵士たちが、彼に親しみと信頼を寄せるのも当然であろう。

(彼の頬に刺青があるから兵士たちに人望がある、か……一理という意味では間違っていないかもしれないが)

 某が、誰彼構わず吹聴して回るのを、さすがの韓琦も苦笑いでもって聞いたものだ。

 某が狄青のことをことさら悪く言おうとするのは、かの家系図の件が原因に違いなく、

「狄青に恥をかかされた」

 と思い込んでいる、ということの他に、狄青によって己の媚を咎められたような気分を、何とか糊塗したいあら、ということも理由であろう。

 要するに、結局は己の行動が恥ずかしくてたまらないのであり、それを狄青のせいにすることによってすり替えたいだけなのだ。


 一方で狄青自身はといえば、

(いつ官位返上を申し上げよう)

 都へ戻って来てから、実はそのことばかり考えている。

 枢密使ともなれば、軍事だけでなく民事も担当しなければならぬ。しかし実際に、朝議において彼がしたことと言えば、

「故范仲淹殿の所領を、そのご家庭ご子孫がある限り、後世に必ず伝えることをお願い申し上げたい」

 と奏上した……幸いにもその案は容れられた……ただそれだけであった。

 官吏が血縁一族のために設置していた一族共用の所領は、宋代では義荘と呼ばれている、このことにより、范仲淹の所領(范氏義荘)は後世、義荘の模範と呼ばれるのだが、

(こんなことでは、范仲淹殿の恩に報いきれたとは到底言ええぬ。だが、他に俺に何が出来ようか)

 狄青は何とも言えぬもどかしい思いを抱いていた。

 確かに范仲淹には恩がある。しかし、それはあくまで個人的なことだ。

 三班差使などという「下っ端」であった頃ならともかく、現在自分が就いているのは、宋朝廷内で最高位と言える地位なのである。あまり范仲淹とその一族のことばかり気にしすぎると、

「宰相の立場にありながら、身びいきが過ぎる」

 などと言われてしまうであろう。

 さすがにこの頃になると、政治に疎い狄青でもよく分かっていたから、

(この程度で満足するしかないか……)

 南方から引き上げてくる時、必ず范仲淹の供養をすると誓った彼自身としては甚だ物足りなかった。しかし他官吏の感情を思うと、そうやって己を納得させるしかない。

 それに、再び五月蠅いほどに、

「貴方のための邸宅を建てましょう」

 と言ってくる官僚を、

「俺は兵士たちの面倒を見たいのです」

 そんな口実で追い払うのにも忙しい。

 それをもって、兵士たちは、

「刺青の枢密使殿は、高位に上がっても未だに俺たちの立場で物事を考えている」

 などと彼を誉めそやすのであるが、それに対して、

「俺は、単に寂しがり屋なのだ。だから、馴染んだお前たちのいる宿舎から離れられないのだ。そこまで深くは考えていないよ」

 狄青は苦笑しながらそう返すのが常だった。実際に、彼は政務の後、毎日のように鍛錬場に訪れては、兵士たちの弓の訓練をみているのである。

 妻子を持たぬ、従って家という名の付くものを生涯持たなかった男の、行き場をなくした愛が、それらに代わって兵士たちに注がれていた、と言えなくもない。

 だが、

(疲れたな)

 素直に思って、彼は肩を回しながら天を仰いだ。

 気が付けば、空は彼の憂鬱など知らぬ気に秋晴れである。

 兵士たちが自分へ注ぐ敬意と、そのことに対する他の軍部将校たちの嫉妬……例えば、重要な報告を敢えて上官である狄青にせずにいたり、狄青が通りかかるのを待って、わざわざ他の同僚と共に彼の悪口を聞こえるように言ったり……まるで幼子が気に食わぬ者にするような態度を取られるようになって幾ばくか、

(俺が気に食わぬというのなら、面と向かってはっきり言えば良いものを。言われた所で、俺は別に怒りはしないのに)

 それを思うたび、狄青は苦笑するのである。それやこれやに振り回されて、根がごく単純な自分の精神が、近頃はとみにくたびれているのを自覚するのだ。

 加えてこの頃、彼は既に己の背にある違和感にも気付いている。

 実際に戦いを経験したのは二度ほどでしかないが、その二度の、大小の戦場において、「お前達をなるだけ傷付けないようにする」との言葉通り、必ず彼は軍隊の先頭を駆けて敵を追い払ってきた。

(その無理が祟ったのかもしれない)

 沐浴斎戒のために背へ湯を流すと、その中央から染み入るような疼痛が起き、それはしばらく彼を苦しめる。時には、流した湯の中に血の塊が混じっていることもある。日に日に腫れ上がって熱を持ったその場所の皮が、時折破れるためであろう。

 昨今では、朝議の間、立ったり座ったりを繰り返すのも辛くなった。自分には訳の分からない言葉で埋め尽くされた他の官僚の報告を、痛みに気を取られるあまりぼんやりととしか聞けず、韓琦に咎められることも増えた。

 医者も、その原因を長年の疲れのせいであるとして、医学的観点から官を退いての養生を勧めてくる。ゆえに、

(本日こそは申し上げねばならない。いよいよ俺が役に立たなくなる時が近づいている。幸い俺の邸宅などもない。去るなら早いうちが良い)

 そんな風に考えて、しかし己を引き立ててくれた人々への義理をも思い、迷いながら一日一日をうつうつと過ごしていた彼の部屋へ、

「兵士たちが、酒場で暴動を起こしています」

 巡回使が血相を変えて飛び込んできたのは、南から帰ってきて数年も経たない春の夜のことである。

 そう聞かされても、

(またか)

 と思うだけで、狄青はさほど驚かなかった。

 なぜなら、枢密使になって数ヶ月後には、酔った兵士たちが直属上司の文官へ喧嘩を吹っかけたり、暴言を吐いたり、ということがたびたび起こっていたし、その都度、狄青は彼らへ罰を与えていたからである。

 それらの中でも、兵士たちの文官に対する暴言の類へは、特に厳しく臨んできたつもりだが、最近では狄青に好意を持っていた官僚でさえ、

「あれは皇帝陛下に取って代わるつもりらしい」

 だの、

「軍隊を盾に、陛下を脅したいらしい」

 だの、陰で言っているらしい。実際にそういったかどで、仁宗にもたびたび呼び出され、その都度、身の潔白を証明してきたのだ。

 仁宗のほうも狄青の人となりを信じていたから、

「呼び出すのは形だけである」

 と思ってるらしいし、その都度、文官たちが居並ぶ前で、「不問に付す」との結論を下す。でなければ、百官が承知しないのであろう。

 狄青に対する信頼はもちろんのこと、それら諸々が込められた仁宗の、ある種の悲哀ともいうべきものが、彼の発せられる声に込められているのが伝わって、

(とんだ芝居だ。これがいわゆる「茶番劇」というようなものか。陛下も大変なことだ)

 思いながら、狄青が皇帝を見ると、皇帝もまた、同じような微苦笑を含んだ目で彼を見詰めていたものだ。

 いつもの如く部屋の寝床へ横たわり、背への薬を塗ってもらっていた狄青は、医師と顔を見合わせて思わず苦笑しながら、

「俺が行こう。どこの酒場だ」

 瀟洒な縫い取りのある衣の袖へと手を通した。

(暴動とは、大袈裟な言い方だが)

 そしてよく耳を澄ませば、なるほど、今夜は町から伝わってくる喧騒が一段と大きいようにも感じられる。だが、

(これまでと同じだ。懲りないことだ)

 あくまで軽く考えて、苦笑いを浮かべながら狄青はその酒場へと急いだ。すると、

「この国が平和なのは、誰のおかげだ!」

「手柄の無い文官が、大きな顔をするな。お前たちこそ手柄の無い罪で、刺青を入れられて然るべきだ!」

「そうだそうだ、何なら俺たちの手で、今すぐ刺青を入れてやろうか!」

 近づくにつれ人だかりは多くなり、そのような罵声も聞こえてくる。

 そして、狄青がその人垣を掻き分け掻き分け、ようやく店の前へ姿を現したのと同時に、

「かの刺青将軍であれば、お前たちや皇帝に取って代わって、この国の皇帝になってもよいはずだ!」

 酒場の入り口に屯していた五、六人のうち、とある兵士が叫んだ。

 その兵士は、既に一人の文官の胸倉を掴んでおり、その文官は地面に膝をついている。それへ向かって、兵士が拳を振り上げるのと、

「やめろ!」

 狄青が叫ぶのとがほぼ同時だった。瞬間、骨が砕けるような音がして、文官の体は地面へ投げ出されており、

「医師を呼べ! それから、巡回使をこちらへ集合させてくれ」

 狄青はその文官へ慌てて駆け寄って、てきぱきと命令を下す。

 さすがに敬愛する人物が姿を現したとあって、

「刺青殿だ」「刺青宰相が来た」

 興奮していた兵士たちの酔いも、一気に醒めたらしい。

「……酔った上での戯れではすまない。分かるな?」

 青ざめた顔の兵士たちへ、狄青は静かに告げた。静まり返ったその場に、太いその声はいやによく響いて、

「お前たちは、軍令に違反して上官へ暴行を加えた。実際にその現場を見たから、俺も黙って見過ごすわけにはいかない。それに、お前たちは俺が皇帝に取って代わる、とまで言った。陛下に対する大変な不敬である。よって、俺はこれよりお前たちを」

 続けながら、

(俺は、こんなことが出来るようになることを望んでいたわけではない)

 さすがに一瞬、息を呑んだ。

 そして強く結んだ唇から、ゆるゆると息を吐き出しつつ、

「お前たちを、ここで処刑せねばならない。そこへ並べ」

 と、続けたのである。


 泣きそうな顔をしながら、それでも兵士たちは素直に地面へ膝を付いた。現代ならこんな風に大人しく殺されたりはしないかもしれないが、この頃にはそれほど珍しい光景でもなかったことで、そういうものだという感覚があったのだろう。

 狄青もそれらに対して容赦なく、下手に手加減して死に損なって苦しむことになってはいけないと、頭の中を空白にしてまるで機械のように次々と刃を振り下ろした。

 兵士たちの首がごろりと地面に転がり、切られた断面から血が噴き出す光景にも氷のように冷え固まった表情のままで一瞥をくれただけで、狄青は切り替えたかのように駆け付けた巡回使らに声を掛ける。

「先刻の文官の方には、なるだけ手厚い治療を。俺はこれより宮城へ赴かねばならぬ」

 もはや兵士らの遺体には目も向けず、その表情のままに冷たい声で言い置き、彼は踵を返し歩き出す。

 彼の頭の中では、既に次の心配事がよぎっていた。兵士が放った暴言は、すぐにも、いやもうすでに皇帝の耳にも届いているかもしれない。狄青自身にとっても由々しき事態だが、先程の兵士に同調する者が他にもいると思われては、今回自分が処刑した者達だけでは済まないだろう。下手をすると数十人、いや百人単位で処罰される者が出てくる可能性すらある。

(これまでと似たように、俺自身からよくよく話せば、聡明な陛下ならきっとお分かりくださる。俺を信じてくれている韓琦殿もいる。自分が罰を受けるだけで済むなら、それが一番だ)

 彼はそのように己に言い聞かせながら、背を奔る激痛に堪えつつ、急ぎ宮城へ馬を走らせた。

 夜はすっかり更けているのに、彼が辿り着いた時には、宮城内にはあかあかと火がともされている。やはりすでに事件のことは伝わっているのだろうと覚悟しつつ、宮城を守っている門番へ、

「枢密使狄青である。夜分であるが、急ぎ陛下への取次ぎを頼む」

 頼んだ途端、

「……刺青将軍殿か」

 待ち構えていたらしい将校たちが、彼の周りを厳しく取り囲む。その中には普段親しく会話を交わしていた将校もおり、しかし彼らは全員、狄青が息を呑むほどに顔を険しくして、槍も構えていた。

 彼がその顔を見ると、皆一様に目を逸らす。逸らしつつ、警戒は緩めない。

 その様子に、彼は察した。

(ああ、そうか。反逆者を見る目だ)

 無言のままで、将校たちは彼に歩くように促す。辿る道は、何度も通い慣れた玉座の間へ続くそれで、

(俺は、とうとう罪に問われるのだ。それも、決して些細なものではない罪に)

 そのことを悟り、ある程度覚悟はしていたとはいえ自分でも驚くほど、サバサバとしたような気持ちで狄青は思った。

 彼自身に、政変を起こすなどといったような考えは一切ない。そのことは、当時宮中で彼の人となりを知る者なら誰もが知っていた。彼に対する中傷の多くは、取るに足らぬ嫉妬によるものである。

 だが、世の常として、どんなに根も葉もない噂でも、何度も言われているうちに、ついには聞き逃せなくなってしまうものになることも多い。それに今回のそれは、何より兵士が放った、

「狄青が皇帝に取って代わる」

 という一言が、たとえそれが酔っ払った一兵卒による戯言であったとしても、狄青に政変を起こす気があるという根拠となりえてしまう類のものだった。そして今夜の事件はもはや、開封城内ほぼすべての人間に広まってしまったと見てよいだろう。


 いつのまにか彼のことを嫌い始めていた文官たちも、さぞや「それ見たことか」と思ったであろう。政変を起こす気があると見られている、というだけでも、十分に罪の対象になるのであるから、彼らにとっては、狄青を取り除くための、まさに好機であったと言える。

(積もり積もったものが、先ほどの兵士の言葉で遂に爆発した。それが今日であったというだけの話だ)

 将校らに囲まれながら淡々と思い、狄青は歩き続けた。

 果たして、玉座の間で膝を付いた彼に、

「枢密使狄青を現職より罷免する。従来ならば皇帝陛下に対する不敬罪に値するが、病を患っているゆえもあり、これまでの功績をも考え合わせた上、罪一等を減じ、陳州長官に任ず。理由は以下である」

 これまでにない険しい顔で韓琦は告げたのである。

 今まで自分を引き立ててくれた韓琦が、自分に対する罪状を続けて並べるのを、狄青は従容とした面持ちで聞いていた。

 その罪状の中には、

「兵士たちが酒場で上司である文官を侮辱した」

「文官へ暴行を加えた兵士を囃し立てた者を厳重に処罰しなかった」

 こういった些細なことを、まさに針小棒大にした類のものも含まれていて、いかにこの場に間に合わせるために急ごしらえで作られた内容であるかというのも窺わせるものだった。

(出世を望んでいなかった者を出世させ、そしてとある時期が過ぎれば、罪に問うて突き落とす。まことに、朝廷とは不可思議なところだ)

 狄青はどこか他人事のようにそれを耳にし、己の置かれた状況に、むしろある種のおかしみさえ覚えていたのである。

 その様子に、

(常の者ならば、放逐を告げられた時点で懸命に自己を弁護するものだが)

 反って苛立ちを募らせたのは、むしろ罪を宣告している韓琦のほうだった。

(この者は、本当に何のためにここにきて、何のためにここにいたのか)

 ほとんど腹を立てんばかりに思い、

(汝、何ゆえに此れに来たりて、何ゆえに此れにありや)

 これまでにも何度か心の中で思い浮かべ、今まさに喉元まで出掛かっているその言葉を、懸命に嚥下しようと努めながら、

「兵士たちを扇動し、皇帝陛下にたてつこうとした罪」

 そこまで言って狄青をちらりと見た。すると、彼もまた、いやに澄んだ眼差しを韓琦へと注いでいる。それに気づいて、

(何故、こんな目が出来るのだ。まるで、私のほうが彼に憐れまれているような)

 韓琦は内心非常に狼狽し、狄青を見詰めたまま、しばし言葉を失っていた。

 そんな彼を救うように、

「そういうことで、そなたには陳州へ赴いてもらう。陳州ならば、そなたの故郷にも近いゆえ、気候もさほど変わるまい。今までご苦労だった。ゆるりと休まれよ。向後、朝廷において、そなたの手を煩わせることも無かろう」

 王座にいる仁宗の声が響く。

 冷たいように聞こえるその声には、今なお、皇帝が自分に寄せている信頼と、

(もう狄青をかばいきれない。かばうと百官の支持を失って、宋の朝廷が自分の代で無くなってしまう)

 という、いかにも苦し気な響きが混じっている。それを狄青は敏感に感じ取った。

(これが、己の気持ちを公に出来ぬ皇帝陛下が、この場で俺へ示してくれた、精一杯の思いやりなのだ)

「謹んで拝命いたします」

 何ともいえない顔で見己を見詰めている年下の皇帝の顔を、微笑を含んで見つめ返した後、

「陛下にも、枢密使韓琦殿にも、どうか御体には気をつけられますよう」

 心から床へ額をつけたのである。


 果たして、狄青の「左遷」を聞いた兵士たちは一斉にいきり立った。

 中には、

「今こそ刺青殿を担いで、俺達が文官の奴らにとって代われば良い。朝廷に脅しをかけて、今回の処分を取り消させてやれ」

「刺青殿が言うから、今まで見逃してやっていたのに。こうなるなら文官の奴らにもう二、三、拳などを喰らわせてやっておれば良かった」

「陳州まで俺もついていく。そこで刺青殿の国を、新たに作れば良いではないか」

 などと、わざわざ狄青の部屋にまで押しかけてわめいた物騒な輩もいて、

「気持ちはありがたいが」

 と、はや旅立つ準備をしている最中の彼は、そんな兵士たちを前に苦笑する羽目になった。

「それでは、都に内乱が起きることになる。何のために俺たちが異民族と戦ってきたのか、これまでの戦いが意味を成さなくなる」

 自分たちが戦ったのは、宋の国に平和をもたらすためではなかったのか、と、説くと、彼らは一瞬押し黙ったが、

「それにしても貴方はお人好しすぎる。何故俺たちのせいにしない」

「一言も弁明しなかったというではないか。何故だ」

 再び口を開くと、そこから漏れるのは一層悔し気な叫びである。

「それに、貴方がいなくなれば、俺たちはどうなる。せっかく少しは良くなった居心地が、また変わってしまうではないか。俺たちを見捨てるのか」

 自分たちの気持ちと痛みを共有してくれる人間がいなくなる、どうしてくれるのかと口々に言う彼らに、

「……何も変わりはしないし、お前たちを見捨てたわけでもない」

 心の痛みを隠しながら、敢えて彼はそう告げた。

「何も変わりはしないよ。これまでと同じだ。陛下の玉体と上官の命令をよく守りながら、日々鍛錬すれば良い、今だとて俺以外にも、お前たちのことを良く分かってくれる人物はいるのだから」

 言いながら、先の戦で共に戦いまだ現地で事後処理をしている余靖、孫沔などの顔を思い浮かべた。彼らもやがて都に戻ってくるであろう。

(かの二人なら、兵士たちを粗略に扱いはしまい)

 そう考える一方で、

(都における唯一の心残りは、彼ら兵士たちのことだった)

 今更ながらに思い、話す口元は次第に歪む。

 それを隠すために彼らから顔を背け、

「この引き出しに、かつて俺が范仲淹殿から頂いた春秋左氏伝がある。お前たちの中で、もしも学を深めたい者が出てきたら、それを読め」

 言った後で、

「もう良いだろう。俺の部屋から出て行け」

 狄青は兵士たちへ背を向けて、窓の外を眺めた。

「出てゆかねば、お前たちも……」

(お前たちも罪に問われる)と言いかけたのを、

「より一層、俺の立場が悪くなるのが分からんか」

  大きく息を吸い込んだ後、彼は言い換える。すると背後は一気に静まり返り、しばらくして嗚咽の声が聞こえてきた。狄青の言葉に隠された真実の想いを、敏感に読み取ったのだ。

 自分に責任が降りかかってくるだけなら、喜んでそれを被ると言い出しかねない者は相当数いただろう。実際、「自分たちが責任を被ることで刺青将軍を助けられるのなら」という意味合いのことを口にしていた者もいた。だから狄青は、軽挙妄動に走れば救いたい相手こそが余計に苦しむことになると気付かせるためにそう言ったのである。

 それでようやく、兵士たちは、一人去り二人去りして、

(やっと行ったか)

 ようやく再び独りきりになって、狄青はほっと息をついた。気が付けば、夜は白々と明け始めている。

 静かになると、背の疼痛がいよいよ辛く感じられる。背の腫物と心と、双方の痛みに顔をしかめながら、彼は机の引き出しを開けた。

 そこには先ほど彼が兵士に告げた『春秋左氏伝』と、つい数年前に桂州で使った両表の銭、そして、紐を掛けた木の箱がある。

(これだけは、あちらまで持参するのを許していただこう)

 その箱の中には、宋夏戦争において作らせてもらった懐かしいものが収められていて、

(韓琦殿へも、結果的に不義理をすることになった。最後に改めてご挨拶をしに行こう)

 朝廷に残っている官僚の中で、今やただ一人となった彼の恩人との、数年の出来事を懐かしく思い出しながら、狄青は中からそれを取り上げる。

 まとめていた荷物の中へ、その箱を大事に収め、

(こうなったら、俺は死ぬまで官位を返上すまい)

 これまでとは正反対のことを考えた彼の口元には、微笑さえ浮かんでいた。


 かくて至和三(一〇五六)年秋、都の人々と兵士たちに限りなく惜しまれながら、狄青は陳州へ向かったのである。彼が左遷される理由として皇帝への不敬や叛意の罪を問われたことを知りながらも、『政治』の外にいる多くの人々はそれが濡れ衣にも等しい言いがかりであると悟っていたのだろう。

 彼についていくことを許されたのは、二十年前に故郷を共に出て、今なお生き残っている古くからの仲間十人あまりと、

「これからは、私どもが身の回りのお世話を致します。何なりとお申し付けを」

 出立の直前、部屋へやって来て顎をしゃくり上げながら告げた二、三の文官である。

 身の回りの世話をするとはよく言ったもので、

(これもしかし、陛下の心からの思し召しではあるまい)

 その実は己の監視役であることをさすがに察し、狄青は苦笑したものだ。

 陳州も、その右隣に接している狄青の故郷と同様、かつては契丹の侵略をたびたび受けてきた土地である。

 しかし今は、狄青の武勇伝がまだ新鮮なため、至って平和なものらしい。長官としてやるべき日常任務として与えられているものといえば、朝廷へ送る租税のこと、契丹、金から開封へ赴いたり、あるいはその逆の道を辿る商人や異民族の通行許可を与えることなどその程度で、

(なるほど、これなら中央で活躍していた役人たちほど、酷い仕打ちと悲観するかもしれない)

 教養のない自分でもこなせる仕事だ、と、長官府に腰を落ち着けた狄青は思った。確かに閑職といえば閑職であるから、エリートたちには屈辱なのだろう。

 しかし、背の腫物に体を蝕まれている今の己にとっては、むしろありがたいとも言える境遇だった。ただ一点、

「都からの使いが来ました」

「長官にお客人です」

 そう知らされて、それらの人々に会う度、先の「監視役」が必ず同席しているのが、少々煩わしいと言えば煩わしい。

 ここへ来て改めて、

(俺は、それほどまでに警戒されているのか)

 ということを思い知らされ、狄青は寂しく笑ったものだ。

 事実、使いの話では、都で未だに、ほとんどの兵士が彼を慕っていて、時には彼の帰還を請願する運動なども起きるという。それを聞くだに、

(そもそも出世したことが望外だった。俺自身は何も変わっていない)

 彼は繰り返し思う。

 ただ故郷を守るために戦った。それだけなのに、

「いつ兵士と結託して、反乱を起こすか分からない」

 といった目で見られているらしいのが、そういうものだと思っていても何ともたまらない。

 だが、それでも、

(俺は死ぬまで、官位を返上すまい)

 今ではそう決心している。下手に官位の返上など申し出ればそれこそ己を頭目に新しい国を作り蜂起するのではとも思われかねないと彼は案じていた。

 ともあれ、監視されていることの煩わしさを除けば、まことに静かな暮らしだった。


 その一方で、背の腫物は、まるで己の生命を吸い取って成長しているかのように、日に日に腫れ上がり続ける。

 長官室の窓の外に広がっている景色は、故郷に近いだけあって、険しい山々が連なり、秋になると葉が美しく色づくような、何とも懐かしいものである。腫物と監視の目さえなければ、毎日のように「異民族の襲撃に備えて」等々の理由を作っては馬で山間を駆けまわっていたであろうと狄青は思い、

(何とも残念だ)

 陳州に来てわずか半年あまりで、監視がいるいないに拘らず馬に乗ることさえ出来なくなってしまった己の体をも思う。

 古い仲間は、面と向かっては何も言わないが、医者に診てもらったところで諦め顔でため息を吐かれるばかりであるし、

(俺も、いよいよだな)

 近頃ではもう、もはや呼吸することさえも、声を出すのもままならぬほどに、堪えがたい痛みが全身を襲うようにもなっている。ために、密かに覚悟を決めていたのだ。いや、決めずにはいられないと言うべきか。でなければ子供のようにおいおいと泣いて、誰彼構わず当たり散らしたくもなってしまう。

 それほどまでに、病は、彼の肉体も精神も蝕んでいった。彼が正気を保っていられたのは、一にも二にもそれが狄青という人間だからだろう。

 そんな彼の下に、古い友が、まさに「不意に」訪ねてきたのは、陳州へ来てから最初の年が明けて間もなくのことである。

「都からの使いです」

 この頃になると、狄青はもはや自力で起き上がることさえ出来なくなっていた。自室の寝室に横たわりながら、辛うじて政務を執っていたいた彼へ向かって、監視の役人がいつものように事務的に告げる。

 その後ろから、

「……随分と痩せたな」

 憎まれ口を叩きながら、案内されるのを待ちかねたかのように部屋に入ってきたのは、

「ホウか。お前、一体今までどうしていた」

 宋夏戦争以来、別れ別れになっていた、契丹出身の古馴染みである。

「フン、俺はお前のように有名人ではないからな。俺は度は、お前のことをほとんど毎日、嫌でも聞かされていたというのに」

 懐かしげに言われて、ホウは鼻を鳴らしながら彼の寝室の側へ近づき、

「こいつらは何だ」

 じぶんとおなじように、寝室の傍らにぴったりとくっついている監視役人を顎でしゃくった。

「俺の身の回りを世話してくれている方々だ」

 狄青が苦笑しながら答えると、ホウは再び「フン」と鼻を鳴らして、

「まあ、木偶のようなこいつらに聞かれても、別段困るような話ではない。お前が病に倒れたと聞いて、土産を持ってきてやったのが用事の一つだ。お前は患い中ゆえ、外に出られぬらしいから知らないだろうが、今年は妙に暖かいからな」

 言い言い、手にしていた包みを剥がす。

「よく咲いていたな」

 狂い咲きとも言うべきその花を、穏やかな目で見て狄青が言うと、

「それともう一つ。三度目ならぬ四度目の正直というやつで、今日という今日は、何が何でもお前を連れて行こうと思ったのだ。そもそも、お前の方から言い出したことだからな。今、これから、俺と共にかの場所へ帰ろう」

 その場所はすぐに分かった。これが証拠だ、と、狄青にその百合を押し付けながらホウは続けるのである。

(セイの眠る場所に咲いていたのか)

「ああ、そうだ。確かにそう約束した。だが」

 ホウの言うことの一つは分かったが、しかし、

「これから、とはまた、なんと無謀なことを言うのだ」

 狄青はかすれた声で言い、苦笑した。

 傍らにいる監視役人も、ホウの言葉にただ目を丸くしている。彼らを「木偶」と言い切ったのもさることながら、

「俺を、俺の故郷へ連れ戻す、というのか」

「そうだ。今の宋朝廷にとって、お前はすでに無用の者だ。そんなお前一人、断りもなしにいなくなっても困る奴は誰もおらん。こいつらが勝手に、お前は死んだと報告すれば良いだけのことだ」

 続く言葉は到底、都からの使いとも思われぬ。

 それに、この会話でさすがに、ホウが「都の使い」と言ったのは方便だったと分かったに違いない。だが、あまりのことに、反ってどうしてよいものか分からなくなったらしい。役人たちはただ二人を見比べつつ、体をおろおろと揺らしているのみである。

 そんな彼らを鋭い眼光で睨み返しながら、

「来ぬとあれば、お前を負うてでも連れて行く。お前の病気も、故郷に戻ってこいつらの監視が無くなればすぐ治る。だからお前も、これからすぐ支度しろ。ここから出るぞ」

 ホウはなおも言うのだ。

(初めて出会ったときから、こいつは全然変わっていない)

「気持ちはありがたいが」

 狄青はかすかに微笑ってホウを見上げた。

「俺は、ここから去るわけにはいかない。若い頃、お前にした話を覚えているか。俺が我を通して、ために親父によって木に吊られたという話だ」

「ああ、覚えている」

「……その時と同じだ。俺は、何も間違ったことなどしていない。政治的には間違ってたとしても、人としては間違ったことはしていない」

「だから今回も、朝廷の奴らの方が音を上げるまで、奴らの気が済むまで、木に吊られているというのか」

「そうだ」

 そこで狄青は再びかすかに笑って、寝床の側、自室に面している窓から外を見る。冬の寒々とした景色の中、変わらずかなたに連なる山脈を越えたところに、恐らく己の故郷はあり、

「いつまで吊られていれば良いのかは、皆目分からないがな」

 今でもそこに健在であるのかは定かではないが、かつて父に吊るされた木のことを脳裏に描いて、狄青は言うのである。

 そんな彼を見て、

「何とでも言え。それでも俺は、お前を引っ張っていく。俺と共にかの場所の守りをさせる。そのために俺は西夏を抜けてきたのだからな。俺は、酒に溺れて死んだ奴なんぞが国王だったかの国には、とうに見切りをつけている。だからお前も、お前の国の朝廷にとっとと見切りをつけろ。約束は守れ」

 と、顔を歪めながら吐き捨てたホウへ、

「ああ、それも一つの方法ではあった。だが、俺はやはり行けない。機を逃してしまったのだ」

 機を逃してしまった。とは、二つの意味がある。一つは、枢密使の役職を辞退する機を逸したこと、それともう一つ。

 狄青は大きく息を吐き出しながら、「見ろ」と震える手で羽織っていた衣をはだけ、背を向けた。途端、ホウが大きく息を呑む気配がする。

「自分でも分かるのだ。俺は、もうどこへも行けない。だから、そこの引き出しを開けてくれ。その中に」

 左右に控えていた部下が、慌てて彼の衣服を整えた。それを待ちかねたように、狄青はついに寝床に横たわる。もう体を起こしていることもままならない。

「……中に、ある」

「何があるというのだ」

 苦し気な深い呼吸と共に吐き出された声を聞いて、一層顔を歪めながらホウは狄青の言っているらしいところの引き出しを開く。

 中には木の箱が入っていて、

「俺の代わりにそれだけでも、かの場所へ。頼む」

 無造作にその紐を解き、中の物を確かめたホウへ、狄青は目を閉じながら言った。

「俺はもう、どこへも行けない。我を通しているというのも、言ってしまえば己自身に言い聞かせるための詭弁だ。俺の体はもはやどこへ行くことも何を成すこともできない。だから、それを俺の代わりに。今度はかの場所のみを守る鬼になりたい。自分から言い出しておきながら果たせず、まことにすまぬ」

「……お前は馬鹿だ」

 告げ終えて、さも安心したような表情を浮かべる狄青の顔を見ながら、

「お前は、単に弓がずば抜けて巧いというだけが取り柄の、まことに平凡な男だ。そんなつまらん奴が、分不相応に宰相なぞなるから、そんな目に遭うのだ」

 ホウは震える声で罵る。

「ああ、そうだな。まさしくその通りだ」

 目を閉じたまま、狄青は口元に笑みを浮かべた。

(俺の罪は、それだったのだ。兵士たちをまとめる器量に欠けていたことだ。故郷を守れたという自己満足に浸るばかりで、多少好かれはしていたかもしれないが、人に好かれることと人の上に立つ器量というものの違いを理解せぬまま、出世などしてしまったことだった。韓琦殿が何度も教えてくれていたというのに)

 さらに思えば、官位を返上しようと考えていながら、南方から帰った折に、はっきりと辞退しなかったのも己の罪であり、大きな悔いの一つでもある。あの時は、何を置いても辞退すべきだったのだ。ホウの言う通り、分不相応な立場になぞなってはいけなかったのだ。

 ただ懐かしく恩人のことを思い浮かべる一方で、口にしようとしている事柄のあまりの空々しさに薄々気付きながら、

「……韓琦殿はきっと分かってくれている。俺のことも忘れていないはずだ。いずれ俺にも、都に戻ることを許される日がくるのではないかと思っている」

(俺に罪状を告げた折と、最後の挨拶に伺った折の彼の顔は、理解してくれていると言うには程遠かったがな)

 それでも彼は、口端に微笑を含んだままそう言ったのだ。

「人に対するに誠実をもってすれば、その人は信を持って応えてくれるものなのだ」

「そんなことがあるものか」

 狄青の、己自身に言い聞かせるような言葉へ案の定、ホウは噛み付いて、

「俺は外から見ているからよく分かる。韓琦が、お前のことなど信じているものか。信じていれば、どうしてお前をこんな目に遭わせるのだ。なぜお前を庇わなかった」

「韓琦殿にも、俺を追いやらねばならなかった、やむをえぬ事情があったのだ。彼は今まで、親身になって俺の面倒を見てくれた。もしも俺が韓琦殿に忘れられているというのなら、それは彼に甘えるばかりで、彼との信を繋ぎ続ける努力を怠った俺の罪だ。なあ、ホウ」

 彼の言葉に対して、なおも反論したそうなホウを、軽く右手を上げて抑えながら、

「たとえ異種族同士であろうが、信で繋がった人間同士であれば、きっといつか分かり合える。お前と俺がそうだったようにな」

 狄青は、閉じていた瞳をうっすらと開いて微笑む。

「俺は、こうして生きてきた間は俺なりに精一杯、俺の大事なものを守りきれたと思っている。だから、これまでの俺の生き方を決して悔いてはいないし、今の境遇を恨んでもないのだ」

 それを聞き終えた瞬間、獣の吼えるような声を上げてホウは床へ膝を付き、

「お前はまっこと、どうしようもない馬鹿で、お人好しだ。何故そんなお前なんぞの為に、俺のほうがこんなに悔しがらねばならんのだ」

 かの宋夏戦争の折、狄青が被っていた面具の入っている箱をその胸に抱いて叫んだ。

 気が付けば、監視役人や部下の姿は二人の側になかった。

 恐らくはようよう正気を取り戻して、誰ぞに連絡を取りに行ったのであろう。ゆえに、

「ホウ、早く行け」

 嘆くホウへ、狄青はかすかではあるが穏やかな声で急かした。

「俺が声を出せる間に、早く行け。でないとお前も囚われる」

 ホウは涙に濡れた顔を上げ、

「青、今から俺の言うことを、しっかりとお前の頭に刻んでおけ。くたばるまで忘れるな」

 二十年を経てようやく再び、狄青の名を呼んだ。そして、

「西夏とお前の国が戦ったときに、俺が使者に立ったのは、他の誰でもない、俺こそが、お前に会いたかったからだ。だから、今回もこうしてやってきたのだ。俺はお前の言うとおり、お前という奴をやっぱり気に入ってるらしい。セイは、俺の妹は、お前のせいで死んだ。それは今でも許せない。だが許せないのと同じくらいに、お前のことが放っておけないのだ。自分でも悔しいほどにな」

 一気に言い放ったかと思うと、

「クソッ、せいぜい養生しろ!」

 さっと身を翻して、傍らの窓から姿を消したのである。

 ホウが去った後、開け放たれたままの窓から一陣の冬の風が舞い込んだ。

(全て終わった)

 しばらくホウが去った方向を眺めて、狄青は深く息を吐いた。

 吹き込む風は、寝床に横になっている彼の膝にある百合の香を運んでくる。

(セイよ)

 それは、懐かしい初恋の少女の匂いを彼に思い起こさせ、束の間ではあるが彼の体を襲う全ての苦痛を忘れさせた。

 閉じた瞼の奥に、今まで片時も忘れたことのない彼女の顔を思い浮かべながら、

(もういよいよ、俺は駄目らしい。だから、今からお前の傍へ行きたい。俺を許してくれるか)

 黙したまま話し掛けると、かの少女は笑って彼に白い手を差し伸べる。

 狄青もまた、大きく息を吐き出しながら、彼女へ向かって微笑んだ。

 吐き出された息は、二度と吸い込まれなかった。肉がげっそりと落ちた手が、掌を上に向けて体の横にころりと投げ出される。

 部屋の外から慌ただしい足音が響いてきたのは、それから間もなくのことだった。乱暴に開けられた扉からは、五、六人の将校を従えた先ほどの監視役人の姿が覗く。

 それら全員が、息を呑んだ。

「……刺青殿、今までまことに、お疲れ様でありました」

 しばらく無言で、寝床に倒れた狄青の姿を見つめていた将校の一人が、やがてぽつりと呟いた。

 その呟きが聞かれるや否や、監視役人を除く将校たち全員が、一斉に持っていた槍を携え直し、英雄に向かって最上級の礼を取る。

 誰からともなく嗚咽を漏らし始めた部屋の中を、冬の野焼きの匂いを含んだ風が吹き抜ける。その風は、狄青の膝の上にあった百合の花弁を、まるでどこかに届けようとでもするかのごとく巻き上げつつ過ぎていった。

 時に宋の元号が至和から変わって嘉祐かゆう二(一〇五七)年初冬。後に北宋時代きっての名将の一人に数えられることになる刺青将軍は、背にできた「」すなわち悪性腫瘍のために、こうして四十九年の生涯を閉じたのである。




 宋が北方異民族の国の一つ、金に攻められて南遷することになるのは、それからほぼ七十年後のことだ。以降、人々は、南遷以前の宋を「北宋」、それ以外の宋を「南宋」と区別して呼ぶことになる。

 北宋の首都の開封は、当然ながら金に占領された。それにより、面影が幾ばくかでも変わったであろうかの都市は、かつて述べたように、幾度となく繰り返された黄河の氾濫のため、現在では地下深くに埋もれている。

 刺青将軍その他、北宋の兵士たちが寝泊まりしていた兵士宿舎の位置は、現在もはっきりとは分かっていない。だが、発掘が進めば、どこからかひょっとして、腐食した春秋左氏伝と両表の銅銭が見つかるかもしれない。








 了


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刺青将軍 せんのあすむ @sennoasumu

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