天使と悪魔と随筆家

燈外町 猶

第1話


 一年前の私ならば、彼女がこの部屋に遊びに来ると連絡を寄越した時、それはもう念入りに片付けをしていた。

 今となってはゴミやら衣類やらが散乱する汚部屋に平然と招き入れ、その片付けをさせる堕ち様を晒しているというのに、彼女はいつもニコニコと笑ってその職務を全うする。

 私は私を欠陥人間と自覚しているが、その最たる理由がここにある。

 普通の人間であれば、彼女のように若く優しく美しく、善性に満ちた女性を、私のような惰性で動く泥人形が縛り付けていることに良心の呵責が耐えきれず、自分のことを卑下して別れを切り出すのだろうが、私は彼女を手放す気がない。甚だ可哀想だ。

「先生、晩御飯は食べましたか?」

「食べてない」

「作ってもいいですか?」

碧花あおかは食べてきたの?」

「いいえ。先生と一緒に食べれたらなって思っていたので」

「そう。じゃあお願い」

「はいっ」

 碧花は私の五つ下で、現在華の女子大四回生だ。残すは卒論だけらしく、暇ができるとこうして私の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる。

「今日発売した先生のエッセイ集読みましたよ」

「そう、ありがとう」

「高校生の頃のお話は初めてだったので、先生の新しい一面を知ることができて嬉しかったです」

「ロクなもんじゃなかったでしょ」

「いいえ。確かに波乱万丈で当事者からするとまた別の視点になるかもしれないのですが私は……素敵だなって。世間とか、家族とか、先生とか、その……お別れされた恋人の方との、元恋人の方との……戦いとも呼べる日々は読んでいて惹き込まれました」

「それは良かった」

「私の人生にもきっと活きます。私も、自分の心だけは諦めないで生きていこうと思えました」

「あはは」

 私はしがないエッセイスト(嘘をふんだんに盛り込んでとてもエッセイとは呼べないエッセイを書いている、言ってしまえば詐欺師)だ。

 学生時代から十年間続けたブログが金儲けに目敏い編集に見つかりエッセイ集として売り出され、性的マイノリティとされる方々からそこそこの評価をいただきこうして生活ができている。

「あっ笑いましたね? 本気なんですから」

「知ってるよ。私だって本気で書いた。ありがとう、碧花」

「あっ……はい。もう、先生はずるいです」

 碧花はその後も緩急がどうたら大人の色気がこうたら、上気した表情で演説をしながら調理を続けた。

 やがて小さな小さな背の低い四脚テーブルに運ばれてきたのはカルボナーラ。脳天に突き刺さる香ばしさが、そういえば昨日の朝、腐りかけのウィンナーを食べてきり何も口に入れていないことを思い出させて、箸で卵をぐちゃぐちゃにかき混ぜて食らった。ずぞぞと音を立てて、肩肘ついて、スマホを見ながら食らった。

 マナー講師とかいう謎の人種がこの光景を見たら泡を吹いて失神すんじゃなかろうか。そして濃くなる妄想のせいで薄れゆく現実の景色で、くちゃくちゃ音だけは聞こえない事実に気づきかろうじて目を覚ます。そんな妄想で口元が緩んだのを碧花は見逃さなかったらしい。

「先生、どんな楽しいことを考えてたんですか?」

「碧花の水着姿」

「えっ、み、水着ですか?」

「今年の夏は海に行こうよ。私はおっきなビーチパラソルの下でさ、碧花のいやらしい姿に見惚れるブーメランパンツ共を見下しながらおしゃれなジュースを飲みたいんだ」

「一緒に泳いでくれないんですね」

「おばちゃんに無茶言うんじゃないよ。それに肌が弱いから。太陽に五分も見つめられたら若くない細胞が奥の奥までこんがり焼けちゃう」

「じゃあ私も一緒にパラソルにいます。それで、先生に見惚れるブーメランパンツ達を横目に、先生のいやらしい体の隅々まで日焼け止めを塗ってあげます」

「それはいいね。それじゃあさっそく一番大きいビーチパラソルを買わなくちゃ」

 スマホの画面をSNSからオンラインショップに変更したところで、電話が鳴り響く。表示された名前は、世界で一番見たくない名前だった。

「先生? 出ないんですか?」

「んー今日はもう仕事終わり。だから明日掛け直すよ」

「それがいいですね。就業時間以外は私だけの先生ですし」

 碧花はちゃんと、電話を掛けて来たのが担当編集だと勘違いしてくれたらしい。

 当然、実際には違う。ディスプレイに一瞬表示された彼女は、柚子ゆずは、私が半生を掛けて愛した女であり、自由で、横暴で、美しく、気高く、全ての存在を見下す孤高の女だ。

 ――今更何の用なのだろう。

 あれだけ酷い仕打ちをされ、肉体も魂もズタズタにされ、骨の髄まで腐りかけ、碧花がいなくては人間にすら戻れなかったであろう存在に私を追い込んだ女。

 そんな女から電話が掛かってきて、それでも微かに、心の奥底に植え付けられた彼女専用の感覚器官が歓喜の声を上げている自分自身に、奥歯が軋むほど腹が立った。

「先生、お腹いっぱいですか?」

 表情が固まったまま箸を動かす手も止まった私を、碧花は心配して覗き込んだ。

 なんて愛らしいのだろう。

 彼女は天使だ。その姿も心意気も、私の心を優しく包みこみ、じんわりと融解し、濾過してくれる。

 そうだ、今の私には彼女がいる。だからさっきの電話はもう忘れてしまおう。気になるのなら着信拒否設定をして履歴も消してしまおう。

 記憶の彼方へと追いやってしまおう。

「先生、」

 再び思考に呑まれ視界を落とし手が止まっている自分に気づくと、次の瞬間には碧花の唇が私の唇に触れ、更に次の瞬間には舌が侵入していた。

「ぼぅっとしてると、食べちゃいますよ」

「どうぞどうぞ。私の恋人が作るカルボナーラは絶品でしょう?」

「はい。やっぱりソースを一から作っているから美味しいんですよね」

 碧花は私を強引にテーブルから離し、ベッドへ導く。零時を回る前に寝かしてくれればいいが、最近の碧花はどうにも性欲が強く――

「部屋の掃除代とカルボナーラ代、いただきますね」

 ――そして、私の新刊を読んだ日はやや暴力的に、私を求めるのだ。

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