第5話
「先生……さっきの方、どなたですか?」
キッチンで料理をしながら、碧花はいつものトーンで切り出した。
心做しかまな板を叩く包丁の音が大きく聞こえる。ああ、死ぬのならそんな野暮なものではなく、どうかその美しい手で。
「古い友だちだよ」
「キレイな……派手な方でしたね」
「海外で仕事してるから、こっちではあんまりみないファッションなんじゃないかな」
「そうですか」
普段よりも二時間程早い訪問。『次の人がシフトを間違えて来てしまったので、早引けさせてもらいました』と碧花は笑っていたが、それを真実と捉えるのは能天気というものだろう。
なんせこのタイミングだ。もしかすると柚子に押し込まれるところを見られていたかもしれない。昨日発売したエッセイには彼女との日々がこれでもかと綴られていたから、頭のいい碧花のことだ、そのシーンで全てを察していたのかもしれない。
幸福を感じて、高鳴って、落ち着いて、暴かれて、油断して、強張って。緊張と緩和で順繰りに殴り続けられた脳みそへ、単調な調理音と家庭料理の香りが届き、私の意識が遠のかせていく。
「碧花」
「なんでしょう」
「少し寝るから、出来たら起こしてくれ」
「わかりました」
目覚められる保証なんてどこにもない。無機質な返答を繰り返す碧花の声は、そのものが包丁のように鋭く、危険を孕み、色気で潤んで美しかった。
×
碧花は、私がエッセイストとしてデビューする前から、私のことを先生と呼ぶ。
「……私、女の子が……好きなんです」
柚子を失って大学を中退した私は、流れ着いた家庭教師というバイトで碧花に出会った。
「どうしたらいいですか? ずっと隠し続けなくちゃいけないんですか? 怖いです。好きな人と同じ大学に行きたいのに……ずっと一緒にいたら……気づかれてしまうかもしれません」
受験が差し迫りもっとも身を入れて学ばなければならないタイミングで自らのセクシュアリティに気づいた彼女は、もっとも関係性が薄かった私へと心中を吐露した。
「あんまり気にしすぎない方がいいよ。なるようにしかならないし……私みたいに悩みを金に変えてる人間もいるしね」
駆け出しのエッセイストとして一冊目を出したばかりの私は、読者が一人でも増えればと思ってアドバイスに見せかけて営業を行い――
「……先生も、私と同じなんですね。……あぁ、良かった」
――私が知らなかった純粋な恋愛と正面から向き合い、尊い輝きを放つ涙を浮かべて安堵する少女に恋をするまでそう時間は掛からなかった。
そして碧花には勉強のみならず女性同士のあらゆることを教え、少なくとも私を、誰かの代用品とすることには成功する。
付かず離れず、生かさず殺さず、じりじりと彼女の心を私に寄せたのにも関わらず、私の心にはいつでも柚子がいた。
だから、これはきっと罰だ。いつまでもいつまでも踏ん切りをつけることができず、それなのに碧花の心を試すような新刊を出した、愚かなる私への罰が、きっとこれから行われる。
×
「先生、起きてください。ご飯の準備ができましたよ」
ああ、やはり私は今日死ぬのだと確信した。
小さな小さな食卓に並んでいるのは、パッと見ても大振りにカットされた牛肉がゴロゴロ入っているビーフシチューに、こんがりと焼かれてガーリックの香りが食欲を誘うフランスパン、クルトンがたっぷり乗ったシーザーサラダ。
どれもこれも私の好物ばかりだ。まさしく最後の晩餐と言えよう。テーブルは一人前で埋まってしまい、碧花が食べる分はない。
「いただきます」
「どうぞ。……ふふ、先生もっと喜んでくださいよ。先生の好きなものばかり、頑張って用意したんですよ?」
「うん、とても嬉しいよ。……だけどどうしてこんな豪勢に? 今日はなにかの記念日だったかな?」
ようやく笑みを浮かべてくれた碧花へ、私も軽口で返す。審判が下るのは早い方がいい。
「何の記念日でもありませんよ、まだ、ね」
言った碧花は、早く平らげろと言わんばかりに貼り付けた笑みを浮かべるばかり。私はわざと味わって、きっと最後になるであろう咀嚼を大いに楽しんだ。
×××
それから私達の間に会話はなく、食事を終え、食器が片付けられるも、碧花は私をベッドに誘うことはなくテレビで何かをセッティングしていた。
「先生、今日はDVDでも観ませんか?」
「珍しいね、もちろんいいよ」
二十二型のテレビモニターにはまだ何も映っておらず、真っ黒な液晶が穏やかな顔持ちの碧花とやや緊張している私を反射していた。
パッと点いたと思えば、映し出されたのは、この部屋と、私の後ろ姿。
「っ……」
疑わしい場所へ視線をやると、確かに怪しげな黒いレンズが、上手く擬態してそこにある。
『ピースが二つしかないパズルみたい』
私と柚子が行った全ての情事が映し出され、唾液を飲み込むこともできないままそれを全て鑑賞し、やがて碧花が「薄ら寒い台詞ですね」と吐き捨て、鑑賞会は終わる。
「うっ」
テレビの電源も切らないまま、碧花は私の髪を掴んでベッドへ放り投げた。
荒々しく私の上に乗ると、まるでそこが定位置であるかのように両手を首に添え、耳元で唇を震わせながら碧花が言う。
「先生、そんなに殺されたいんですか? 死にたいんですか?「昨日の電話、あの女からだったんでしょう? わかりますよそれくらい「どうして私が読むとわかっててあの女と愛し合った日々を書くの「どれだけ私が料理を頑張っても視界に入っても、先生はこれっぽっちも私のことなんて考えてない「いつだって別のことを考えて楽しんでる「それなのに部屋の片付けをさせて、晩ご飯を作らせて、ずるいよ、ひどいよ!」
私の首を締める力が、声音に比例して強くなっていく。掠れゆく視界の中に後光がさして、碧花が私を迎えに来た天使に見えた。
「私が塗り替えてあげますからね。先生。あの女じゃなくても、私だって先生を支配できることを、証明してみせます」
少しだけ緩めたと思うと、すぐさま力んでを繰り返す。これは正しく先程までテレビで実演されていた、柚子のやり口だ。
「あは、こんなに素敵な先生の笑顔、初めて見ました」
絡みつくような碧花の言葉で自分の表情を知る。きっと唾液を垂れ流しながら、きっと白目を剥きながら、私は恍惚の笑みを浮かべているに違いない。
「二人で一緒に、素敵なエッセイを作りましょうね」
何が天使だ。何が悪魔だ。柚子も碧花も、私の被害者でしかない。
孤独に怯え、失うことを恐れ、ただ求められることだけを求めた、惨めな随筆家の――被害者。
「おやすみなさい、先生」
ああ、早く書きたいな。もう一度目覚めることが許されるなら――この最低な人生を、もっと綴りたい。
天使と悪魔と随筆家 燈外町 猶 @Toutoma
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