第2話

「先生、朝ごはんできちゃいますよ。起きてください」

「ん……うん」

 結局、私が最後に時計を見た時二時を回っていたから、寝たのはそれよりもずっと後だった。

 予想通り碧花は、こうやってエプロンをつけている柔和な雰囲気から一変し、布団の中では私を性の高みと死の淵へ追い詰めた。

 体中に噛んだり吸ったりした痕が赤紫色で残っており、おそらく首にもそれに似た痣ができていることだろう。

「先生、その、昨日は……」

「気持ちよかったよ。碧花はどうだった?」

「っ、わ、私も……最高でした……」

「そう、なら良かった。今日も朝はトーストとスクランブルエッグ?」

「はいっ。もうすぐできますので」

 私の好きな朝食メニューを用意してくれる彼女に安堵する。

 昨日は偉そうにも、私が彼女を手放すだのなんだの思考をしていたが、どう考えてもその思考をする側の人間は碧花だ。

 そして捨てられれば私はおしまい。生活できなくなってエッセイも書けなくなって人生まるごとさようなら。

 だから、乱暴に抱かれるくらいなんてことはない。どうそお好みの痕を付けて欲しい。これが首輪代わりになるなら、それで溜飲が下がるのなら、私としても本望だ。

「相変わらず最高の味付けね」

「えへへ。……毎朝食べたいですか?」

 間接的にプロポーズを言わせに来たか。まったくませちゃって。

「今年の初詣は川崎大師でそれを願ったよ」

 だが流石にそれを口に出すには素面じゃきつい。ここは適当にはぐらかす。

「もうっ先生って本当によく舌が回りますね」

「よく回る舌を私が寝る寸前まで披露してくれたのは碧花じゃなかった?」

「もーっ! 先生!」

「あはは」

 ああ、楽しいなぁ。幸せだなぁ。そりゃこうでなくっちゃ。

 小学五年生から二十五歳になるまで、随分と酷い目に遭った。思い出補正と自己性愛を抜きにしたって十人に七人は可哀想と言って同情してくれるだろう。

「あっ、そろそろ出なきゃ」

「うん。気をつけて」

 食事を終え二人で食器を洗ったあと、バイトに出る碧花を見送った。

「いってらっしゃい」

 ベタかもしれないがこのタイミングでキスをすると、碧花はひまわりのような笑顔を浮かべてくれる。

「はいっ! 行ってきます」

 私のような存在でも、彼女がバイトなどという若い労働力の搾取へ前向きに取り組めるように、こういった努力も行っているのだ。

「さて」

 今週は〆切が重なっている。サクサクと進めていこう。なんて、彼女と一緒に気持ちが前向きになった私がドアを閉じようした、その時。

「っ!」

 死角になっていた場所から突然表れた手がドアの淵を掴みそれを阻む。

 焦りのあまり声も出なかったが、こちらに向けられた爪には、嫌な見覚えがあった。

「ひ・さ・し・ぶ・り」

 その声にも、覗かせたその顔にも、漂ってきた香りにも。私には、覚えしかない。

「な、何しに、きたの」

 心拍数が急激に上がる。このまま意識を失ってしまってもおかしくない。上手くしゃべれない。さっきまでの幸福感は……どこに……。

「電話出てくれないから、来ちゃった」

「……帰って」

「つれないこと言わないでよ。最近仕事が死ぬほど忙しくて溜まっちゃったの」

「ちょ、入ってこないでよ」

 女は強引に私ごと部屋に侵入すると、慣れた手付きで鍵を掛けドアチェーンを下ろす。

「適当な男で発散してもよかったんだけど、せっかく日本に帰ってきたわけで、久しぶりに先生のご奉仕を受けたくなっちゃったの」

「……」

「なにボサッとしてるの? もしかして最近ネコに徹してばっかりで私の悦ばせ方忘れちゃった?」

「……悪いけど今、恋人はいるから」

 何が、何が悪いけどだ。悪いことなんて一つもない。私は――私は、碧花の。

「ふーん。で? どうでもいいよそんなこと。先生に恋人がいようがいまいが先生は私の奴隷でしょ?」

「っ」

 今の私は碧花のもの、なのに。頭を掴まれただけかつての記憶が身体を駆け巡り、反射的に膝から崩れ落ちてしまう。

「ご奉仕、してくれるでしょう?」

「………………」

「返事は?」

「……………………はい」

 声が、香りが、視線が、体温が、その全てが、私に傅けとシグナルを送る。

「んっ良い子良い子」

 私はこの支配者から――逃れる事ができない。

 なぜなら私は、実に愚かしいことに、埃でも払うように軽く頭を撫でられただけでこんなにも、こんなにも――魂が震えて咽び泣き、喜んでいるのだから。

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