第二十打席
前日、慎二は試合に備えて事務所にいた。
「吉井さん、資料できました」
「ありがと。あ、そうだ。慎二くん、今から明日の選手紹介の差し替えやってもらうから」
「わかりました。ええと、スタメンはこれですね。データはそのまま出力しちゃって大丈夫ですか?」
吉井は首を横に振った。
「普通ならそれでいいんだけどね。犀川投手だから。まだ入れられないの。どうしてかわかる?」
慎二はその理由を一瞬考え、ひとつの答えに行き着いた。
「色、ですか」
「あ、知ってるんだ。じゃあこれはどう? 犀川投手の波の色がどうやって決まるか。これは慎二くん知らないでしょ」
慎二は彼に関する記憶を辿る。その答えは高校時代にあった。
「彼の気分、ですよね」
「え、なんで知ってるの。生粋の横浜ファンでも理由までは知らないわよ」
「高校時代に一度対戦したことがあります。その時聞きました。青、緑、黄、赤があるって」
「そうそう、知ってるなら話早いわ。だから決まり次第差し込んで甲子園送るから、犀川投手抜きで作っておいて。はー、明日は赤じゃないといいな」
「わかりました」
それを聞くと、吉井は手を振って去っていく。慎二はスタメン表の彼の名前を見るにつけ、その記憶を掘り起こしていた。
犀川直巳は、マウンド上で憮然としていた。プレイボールが宣言された直後のこと。彼の初球、151kmの速球が右打者の腕に直撃したのだ。怪我の心配はないが、かなりの痛みを伴う。ファーストのケビンは目の前の事態に動揺していると、セカンドから山田が歩いてくる。
「覚えとくこった。あれが赤のサイだ」
「はい。僕も聞いたことあります。彼が赤と言ったら内角攻めの日だって」
「ああ、しかしあぶねえなあ。もう十センチ上行ったら退場だぞ」
そう言って打者の方を見ていると、ある異変に気がついた。一塁に向かっていかないのだ。痛みを訴えていた状態から一転して、直巳の方を睨みつけている。直巳も直巳で帽子を取るそぶりも見せずに視線を返している。
これに狼狽したのが内野陣だった。
「やば、あいつマジだ。グレアムちょっと来い」
そう言って呼び寄せ、耳打ちをする。ケビンは驚き、聞き返した。
「ほんとにやるんですか」
「誰かがやらんとサイがマウンドから消えるぞ、これも新人の仕事だ」
そう言われれば、ケビンはやらざるを得ない。ダッシュで向かい、大股で迫り来る打者と直巳との間に立つ。この時、一塁ベンチはすでに動き出していた。
「どかんかいワレ」
「ノー。どけません」
「ああ? なんやと、いてまうぞコラ」
拳を振り上げる肘を咄嗟に抑え、ケビンはなんとかその進行を食い止める。直巳はすでに内野陣に守られており、一塁ベンチの矢面に立つことになった。
「外人が何イキっとんねん、往ねや」
「せやせや。こちとらあのガキに用あんねん」
無数の腕に小突かれながらそう言われても、引き下がるわけにはいかない。ベンチから救援に来て必死で応戦していると、ふと後ろから声が聞こえた。呟くような小さな声だったが、誰もがそれを聞いていた。
「ごめんなさい」
帽子を取って頭を下げてはいるが、その声に微塵たりとも気持ちはこもっていない。それを聞いて乱闘は収束に向かった。一番興奮していた打者の男が、その拳を収めたのだ。
「最初っから言わんかい」
そう言って打席に戻り一塁へと向かえば、もはやこの乱闘を続ける理由はない。両軍はゆっくりとベンチや守備位置へと戻っていった。
ケビンも定位置へ向かうが、その姿を見て内心頭を抱えた。何せそこに先ほどまで組み合っていた男がいるのだから。
「ほんま、あんなもんはいっぺんどつき回さなわからへんのですよ」
コーチとの会話を背中で聞きつつ、ケビンは内野陣の方を見た。直巳の謝罪は、彼らが無理矢理言わせたものだろう。三人はそれぞれ、ケビンへの労いの合図を送っている。それを見て安心したケビンは、一転して後ろの声に戦慄することとなった。
「兄ちゃん。ええ度胸しとんな」
「いえ、先程はすいません」
彼は笑っていたが、しかし怒りが消えているとは到底思えなかった。
50ft pitch 北家 @AnabelNorth
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