死にたがりと悪魔の話
藤井杠
最期に見たもの
曇天の空、比較的穏やかな風が吹く中、男は一人、静かに本に向かっていた。古びた木製の椅子に腰掛け、ゆったりとした時間が過ぎていく。
ぬるり
外から差し込む穏やかな明かりに、黒い影が射す。窓辺に降り立ったそいつは、唐突に男に言い放った。
「人間、今からお前の魂をとってやる。ふふふっ。泣け!
全身を黒い衣服で飾り、背中には黒々と燃える大きな羽が揺らめていた。
人は俗に彼らを、『悪魔』と呼ぶのだろう。
陶器のような白い顔に浮かぶ、ギョロギョロっとした金色の目が、じいっと男の反応を凝視する。
風が男の髪を揺らし、本のページが男の手を呼ぶように叩く。男は声のする方に顔を向けると、慣れない笑顔でこう答えた。
「なんだとやった。そいつは嬉しい!」
「えっ」
悪魔は目を見開き、口をぽかんと開けた。数秒前の不気味な気配は薄れていた。
「私は生まれてこのかた、ずっと死んでしまいたいと願っていた。君が、私の魂を持っていってくれるというなら、こんなに嬉しいことはない。」
悪魔は男の答えに大きく肩を落とし、息を零した。
「うーむ、これは困った。俺たち悪魔は人の魂を食べて生きているが、人の魂というものは絶望すればするほど
そして、少し間をおいて、口元をゆがめながら悪魔は言葉を続けた。
「それならこうだ。お前には永遠の命をくれてやろう!ほかの悪魔や天使や神々共が何と言おうと、俺はお前が絶望するまで生かし続けてやる!」
男は顎に手を当てて考えた。
「ほう、なるほど。確かにそれなら今すぐにでも死にたい私は困ってしまうな。
しかし、人は普通、長生きを良しとするものが多い。私も人の身なら他の者の言うように、いつか長い生命に喜びを見い出すかもしれないぞ。」
悪魔はそんなバカな、という顔で男の話を聞き、次に視線を外し、最後に空を見上げ、片手で頭を抱えながら、ポツポツと、
「なんだとしまった、それはだめだ。幸せな魂など、雲より味がないというし、腹にもたまらない。あぁ、どうにかしてお前を絶望させなければ・・・。」
少し疲れたような顔で、悪魔は言った。
「ようし、それならこうしよう。
お前が『生きること』の喜びを知ったその時、俺がお前を殺す。
お前は手にした幸せを味わう間もなく失うという、絶望に陥るのだ。」
「なんだと、それは
「はぁ?」
「生まれてこのかた
しかし、こうとも考えられるぞ。生の喜びとやらを知ったその瞬間に死ねるというのならば、その時の私はもう二度と生の喜びを感じられない悲しみよりも、喜びを知れた気持ちによって、絶望からはずっと遠いところにあるのではないだろうか。」
悪魔の顔は、空腹と悔しさでみるみる青ざめていった。
そして顔に手を当て、ひと撫で。
「あー。これは困った、困ったぞ。
ようし、こうなったらどんな手を使ってでも、お前を絶望の淵に追い込んで、
お前を、俺が殺してやる。」
悪魔はそう言い残すと、羽を広げ、一度大きく動かしたかと思うと、次の瞬きの後には姿を消していた。
男は窓の外の方を、しばらくの間ほうっと眺めていた。
男のもとから去った後、手始めに悪魔は男が悲しみ、絶望するようにと、男の周りにいた人間を手当たり次第に殺した。
そして男のところへ再び訪れると、悪魔は嬉々として殺した者の風貌とその最期を事細かに話した。
「どうだ?お前の心は、悲しみと無力感で一杯だろう。」
男は、
「良かった良かった。実はあいつらは俺が生まれた時からずっと俺を
「なんだと!?これでは駄目だ。お前は不幸になっていない!
・・・次の手を考えなければ」
次に悪魔は、男を孤独にしてやろうと、男の周りの者だけでなく、男の元に訪れ近寄る人間をすべて殺した。
そして一人、窓辺の近くに座る男のもとへ行き、悪魔が今日殺した者達の話をすると、
「良かった良かった。あいつらは私にしつこく迫ってくる借金取りたちだった。おかげで私のもとには、わずかだが資産が残った。」
「っ~~~!!!」
悪魔は割れんばかりの金切り声を出して、再び窓の外へと消えた。
こうして、悪魔が男を不幸にしよう、絶望させようとすればするほど男は笑顔に、心なしか幸福になっていくような気がした。
悪魔は次第に、空腹も忘れて意固地になっていた。
「・・・今日も来たのか。」
男は、窓辺にかかる悪魔のわずかな音に顔を向ける。
悪魔はすっかり疲弊し、窓辺にうなだれていた。
「お前は、全く不幸にならない。俺が何をしようと絶望の色を見せない。
お前の幸せとは・・・何だったのだ?」
「私の・・・幸せ?」
「あぁ!それさえ分かれば、俺はその幸せをズタズタに引き裂いて、お前の魂を喰らう事が出来るというのに!!」
悪魔はそう言うと、また何かを思い付いたように
顔にかかる風を感じながら、男は、自分の心と初めて向き合おうとしていた。
しかし、この悪魔が男の魂を食べることはとうとう出来なかった。
悪魔と男が出会って幾ばくもしないうちに、やがて悪魔は、魂を喰らうためだけでなく、関係のないその周りの者の命まで奪ったとして、その目に余る行動から、神々に捕らわれ、羽をもがれ、縛り首の刑にされてしまったのだ。
暗闇の中、悪魔はただ、己の体への感触と、言い知れぬ空腹感を感じていた。
不死の体に、永遠に縄が締め付けられる。目覚めと苦しみと気絶の繰り返しの中、この悪魔の魂は絶望するのだろうか、
それとも。
青空の下、男は一人、古びた椅子に腰かけていた。風がゆったりと流れ、男はただ耳を
「今日はいつものあいつは来ない。私に彼の姿はよく見えなかったが、話をすると面白いやつだった。」
「あれが友人というものなのだろうか。それにあいつは私に、生の喜びというものは何なのかを教えてくれた。
・・・もう少し生きてみるのも、悪くはないかもしれないな。」
そうして、男は本当に一人になった。
死にたがりと悪魔の話 藤井杠 @KouFujii
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