見えてきた未来

―――――


「…恵、千恵!」


目覚まし時計はまだ鳴らない。

時計がなるよりも先に、布団の頭側にある窓から差す光が 私の網膜を照らして目を覚まさせた。それから、まだ覚めきらない頭に容赦無く飛び込む母親の声。


「早く起きなさい、いつまで寝てるつもりなの!」


こんな朝早くじゃ学校はまだだし、体はまだ眠っていたがって、頭もまだ眠りに戻りたくて鈍いままなのに、そんな私の小さな要望などお構い無しである。


「もう、朝からやめて頂戴よ…こんな早くから元気ねえ……」


眠ってやろうとして目を瞑りっぱなしでいても

母の声が明らかに勝るので、そう零しつつ、仕方無しに私は布団の上に身を起こした。

真っ直ぐに正座をすると、頭の上に跳ね上がっていたらしい髪の束がゆっくりと眼前に落ちてくる。

寝癖のせいでどこから来ている髪か解らないそれを適当に払い、私は溜息をついた。

毎朝ややこしい形になるこの寝癖も、いつも手こずる。けれど、私らしいと思う。


「元気やねえじゃないよ、千恵あんた今何時と思ってるの!」

階下から飛んで来ていたはずの母の声が、

私が布団の上でぼうっとすればするほど近くなる。

そして最後、仕方ない動き出すかと立ち上がった時には、白地に控えめな花の模様のついた襖が勢いよく開かれていた。すぱん、と耳に残る大きさの弟に思わず身を竦める私。


「何時よ、随分早いじゃないの」

「これが早いですって?時計よく見てみなさい」

「時計…?」


そこで私は、

目覚まし時計が鳴らなかった理由を知った。


「…………止まってるわ」

「あんたいい加減自分で起きないと駄目よ」


「時計、止まってる……」


始業は八時半。現在、七時五五分、過ぎ。

着物で登校している為、家から学校までは徒歩。

通学なんかに高い車を使ったら怒られる。

五分で着替えたとしても、

着物着て、顔を洗って、朝ご飯食べて、

今こうしている間にも時間は過ぎて……


「というか勝手に止まるのがいけないんだわ。

目覚まし時計なら、私が起きるまで鳴り続けるべきだったのよ!」


「何を言っているのよ、あんたなかなか起きないんだから時計止めないし、そんな事してもお母さんが煩い思いするだけよ。もう支度して行きなさい」


慌てて跳ね起き、

私は時計への不満を集めて母にぶつけた。



結局、家の門を出たのがそれから少し経った頃。

洗面を終え、喉に詰まりそうな朝食も終え、

危なっかしく下駄を履き外に出て少し行くと、仲の良くていつも迎えに来てくれる紅ちゃんが、痺れを切らした様子でこちらの角を覗き込んでいた。


「千恵ちゃん!遅い、遅刻してしまうじゃないの」


可愛らしい色をした羽織の肩を弄りながら、紅ちゃんは僅かにむくれている。私よりも背が低くて、初等科の女の子が怒っているようである。

いつも迎えに来てくれるが、彼女は必ず早く来て、支度の遅れがちな私の家の前でこうして急かすのがもう常だ。

口調が強くなってもこの子は可愛らしい。

私といえば、未だ眠くてはきはきとした声が正直辛い。

口には出さない様にしているけれど、少しだけ耳が痛くって。

私が早起きを出来る日はいつになったら来るのだろうか。


「ごめんね。朝ぴしっと起きるのは、どうにも私には向いてないみたいなのよ」


「千恵ちゃんのことは好きだからそれでもこうしてお迎えに来るけど、いつかそのうちとんでもない遅刻して、先生に私まで怒られる未来が見えるようだわ」


――――何となく記憶に残っている、同じやり取り。

いつかの朝も、こんな事をした様な気がして仕方が無い。


意識ははっきりしている。夢ではない。私は、元の世界に戻っている様だった。

記憶もはっきりしている。神様の娯楽のお宿街。狐面の少女達と繋いだ手の感触も、飛翔の双眸も、何処を見ても綺麗だったあの街の色も覚えている。


きっと私は、鳥居の先であの後、眠るか意識を失うかしたのだろう。

そうして、少女達がきっと、送り返してくれたのだ。

あの街では二年の月日を過ごした筈だけれど、戻って来たのは古い記憶の日常である。

ということは、私の心に刺さっていたあの質問が、もう一度紅ちゃんから繰り出されることだろう。



「そういえばよ、千恵ちゃん。

今日先生にお話すること、ちゃんと考えてるの?」


私よりもしっかりしている紅ちゃんが、下駄の爪先を見て歩いていた私の顔を覗き込んだ。ほら、やっぱり。


「考えてるわ」

「千恵ちゃん偉いのね。てっきりまだだと思ってたわ」

「失礼ね、私だってちゃんと思うところがあるのよ」


同じ質問、同じやり取りを繰り返し乍も、今の私なら違う答えを返す事が出来る。


所属学年が一年進んでから、私達は自分の将来について学校でよく問われる様になった。

明治以降の日本。海の外の国でこそ戦争があるものの、

子供だからだろうか、私達は変わらない日常を過ごしている。

そんな中で、学校を出たらどうしたいのか。

まだ文明開化のお祭りの名残があるこの街で、

女学校を出てその中に飛び込む自分を想像しても……

いや、想像すらも出来なかった。今までは、そうだった。


「私ね、人の役に立つ人間でありたいの。誰かを守れる、役目を果たせる、

そんな大人に。いいえ、大人じゃなくても、今からでもそうありたいわ」


紅ちゃんは目を丸くした。

「千恵ちゃん、ちゃんと考えてるのね」

「馬鹿にしないで頂戴」


ふざけ合い乍歩くうちに、これがあまりにもいつもの日常すぎて、そうでないと思いつつ、一方でやはり鳥居の先で過ごした束の間の日々は夢なのではないかと思い始めた。


夢と現実の狭間が解らない。だけど、ついうやむやになりかけた私の思考を、紅ちゃんが晴らしてくれた。


「そういえば千恵ちゃん、今日の着物、とっても綺麗ね」

「え?」

私は自分の胸元を見下ろした。寝坊もあって、特に何も気にせず傍にあったものを着て来たのだけれど、私が着ているのは、狐面の少女達と揃いで着ていたあの鮮やかな橙の着物だった。手提げからは、軽やかな鈴の音までが聞こえて来る。

向こうの街から贈り物にされてしまったらしい物が、沢山私の身についていた。


夢では無かった。

「その着物。それに、なんだか瞳の色も。何かしたの?」

「瞳の色?まさか。」

「手鏡、見てみる?凄く綺麗よ。秋の藤棚を、瞳の底に映したみたい」


暴れ出す胸を抱えて紅ちゃんに差し出された四角い手鏡を覗くと、私の瞳の奥底には、深い藤色が滲んでいた。

――飛翔は此処に居たのね。

本当に、何もかも貰ってしまって。ごめんなさい。有難う。

特攻の一人減ってしまったあの街は、大丈夫だろうか、―――





「何もしていないなら、なんだか不思議ね。吃驚したわ。

でも、なんだかこの千恵ちゃんも、綺麗で、私とっても好きよ」


紅ちゃんが、私の返した手鏡を仕舞いつつ微笑んでくれた。

私も、守られている様な心地になってはにかんだ。


「不思議ね。でも私も好き。私、自分のこと、なんだかとっても愛したいの」

「ふふっ、何よ、自分で自分のこと愛せたら、それ以上強いことは無いわ」


「そうよ。自分で自分のことを愛せたら、それだけでもう、何でも出来そうでしょう」


「千恵ちゃん、もしかして何か良い事でもあった?」

「ううん……まあ、そういうところ。だけど、これだけは秘密にするわ」


何それ、と笑う紅ちゃんの鏡を見るべく立ち止まって動いていなかったのに、

鈴の揺らされる音が幾重にも折り重なって耳に響いた。

その震えは嬉しそうにみえた。


今日の夕暮れ、朱と橙に染まる帰り道には、私は、鳥居の神社を捜そうと思う。

次は迷い込む為ではなく……否、自分の事を少しでも好けている今はもう、

自分嫌いを直すべく送り込まれた場所への道は開けないかもしれない。


それでも、あの日よりは前向きになった自分で、あの場所に立ちたく思った。

今までとは少し違う私で、色彩温かなあの街に、帰りたい。


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雲隠 ヒラノ @inu11

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