再会と運命
街は、懐かしい色をしていた。色を失っているのに、私が初め帰路に就いた時、見慣れた世界が灰色になっていた、あの色とそっくりなのだ。
本来の色ではないのに、妙な懐かしさを感じさせられて思わず一人苦笑した。
鉛色の空、気味の悪い風。時間感覚の解りにくすぎる世界なのに、街は一丁前に怯えた色へと変貌していた。
高い高い窓から外へ這出て、私は屋根の上へと降り立った。
短刀を使うのは主に接近戦である。ぎりぎりまで敵との間合いを詰めて、柄が潜るまで深く貫くのだ。知っている。護身の短刀さえ握らせてもらえなかった家だけれど、飛翔にこの短刀を貰った日から、知るということを感じる間もなく知っていた。
だから、走らなければならない。
私が出て来た以上、今感じている高揚を無駄にしない様、間違いなく闘える様に私は走らなければならない。
飛び出す直前まで心配されたが、私がどうしてもと言ってしまったので、橙の少女達は無理強いはしなかった。ただ、『人の子だから』という理由であってもそこまで案じて貰えるという事実が擽ったくも、温かだった。窓を飛び出した時、暗い渡り廊下に、お客様の別館避難の帰りであろう椿が見えた。私達の顔の向きは確かにぶつかり、椿は一瞬吃驚した様に立ち止まったが、頷く様に狐の面が揺れたのを見た。少女達は、最終的には皆、何かを感じ取ったのか認めてくれた。
心配し乍も折れて送り出してくれた少女達と、初めから一番に私を信じた心強い椿。
何を立ち止まる必要がある。私が勝てばいいだけの話だ。
ずっと前の、飛翔の言葉を思い出した。
「此処は皆、貴女が勝つ、その為の舞台なのです」
あの言葉の意味も、もう少しで解りそうな気がする。
なんだか今までとは違う気がして仕方がない。
心が昂っているからだろうか。小さくとも、初陣と比べて自分の変化を感じられたからだろうか。飛翔は何処へ行ったろう。今日は上手く闘える気がするから、見ていて欲しかったのに。
短刀を落とさぬように抱え乍、前方に見えている邪神の背を目指す。
耳元を唸る風が、街の悲鳴のように思えた。
死に物狂いとはこういうことを言うのだろうと思う。
大口を叩いて、また負ける訳にはいかないのだ。
橙色の街、先刻まで見えていた燃えるような橙の夕焼け、橙の着物。
極端な話、もういっそ死んでもいいと思えるくらいに心が昂っていた。
屋根から飛び降りた先の木橋を渡り前方へ回ると、邪神の顔が現れた。相変わらず幾個も目玉が存在して、脚が蜘蛛の様に沢山生えていて、何をどうすればこんな見た目の生物が生まれるのかと、私は未だに不思議で仕方がない。
それにしても、聞いていた通り……否、聞いて予想していたよりも大きな図体をしている。どれほどの強い力を持つ邪神なのだろうか。善良な市民であった時のことを考えて、致命傷を負わせてギリギリ生き残らせるか、殺してしまうか、いずれはそんな事も考えなくてはいけないのだろうか。
私は、ふるり、と頭を振る。それは未だだ。その時には上の人達を呼べばいい。
一先ず、街と人の心を荒らす存在であるこの化物を、邪神を、少しは強くなったはずの今の私が倒さなくては。
根拠のない自信であり乍も、それに走らされていた。
「こっちよ!」
大きい分のっそりとした動きを見せていた化物の体に向かって声を張り上げた。
「ここは善い神様達のお宿なの。あんたたちみたいな化物が現れて、皆を不安にさせていい場所じゃあ無いの!」
するすると言葉が口から紡がれた。考えるより先に、気を急かされる様に。
すると、声に反応した化物は足を屈伸させた。来る、飛んで来る、走って来る、相手のとるであろう行動の選択肢が一気に脳内で飛び交い動揺しそうになるも、唇を結んで短刀を鞘から引き抜いた。
長年刀を扱い慣れている訳ではないので構えは我ながら頼りないが、気持ちをしっかり持っているだけでそんなことはきっと杞憂だ。
足を屈伸させた化物は、真正面から浴びたら耳も両腕ももぎ取れてしまうのではないかと思える程の風を従えて接近して来た。
一瞬で、私達の間合いが狭くなる。
突風に足を踏ん張り、サイダアの如く透明に澄んだ飴色の地面を蹴りつけて、傍らの塀へとよじのぼり、燈籠を、再び屋根を、出来るだけ高い所を伝い、そして、大きな化物の眼前へと飛び出した。
刃紋まで鮮やかに濡れる新刀の柄を握り締め、詰めた間合いで一息に突き刺し切り裂く、
―――――筈だった。
「……なにこれ、……」
困惑した。
唯々困惑した。
初陣で化物と接近した際に感じた強烈な生臭い臭い。
耳を腐らせるような声。
それが私の、化け物への印象だった。初陣だけではない。小さくとも中くらいでも、此奴らは皆そうだった。闘う度に着物を生臭くされて、百年大きな音楽を聴き続けた後かと思われるほど耳を疲弊させて、仲間とも嘆いた事が有ったのだ。
それなのに、今は何だ。
こういう状況下でさえなければきちんと深呼吸が出来そうな程の無臭。
生きているのかと疑えそうな程の無声。
私は、闘いやすい分には良いだろうかと迷いつつも刀を振り上げ、
真正面から突き刺した。びくりと化物の体が痙攣する。
抜け落ちない、確りと刃が通っているのを確認して斬り込もうとする。
これで終わり、の筈だった。
確かに刀の刺さった邪神は大きく体を震わせ影を霧散させた。させたが、何も大きな変化はなかった。その今までにない体の大きさも変わらない。言ってみれば、余分な影を一枚脱いだだけ、に見えた。
そして間髪入れずに、瞬間、私は全思考が停止する。
生臭い臭いの代わりに、此処二年だけで随分と嗅ぎ慣れた匂いが漂った。
鼻腔に届く高貴な其れに、化け物の気は感じられない、そんな匂いである。
この匂いを私は知っている。
おろしたての艶やかな白無垢に香る様な、
白檀の香り。
傍に寄れば寄る程鼻がもげそうだった邪神の臭いではない。
狭い間合いでの戦いを主として来た短刀で、私が眉間から深く深く刃を潜らせた化物、である筈の身体にくっついた数えきれない目玉の中に、
私は、其処に、飛翔を見た。
恐怖とは違う悲鳴が、喉から迸りそうだった。目まぐるしい勢いで巡り始めた仮説に、脳が興奮して叫び出す。混乱して居る筈なのに、思考は速く速く流れて行く。
街で姿を見掛けなかった飛翔。『根っからの邪神では無さそうだ』と分析していた誰かの声。加えて、嗅ぎ間違うことのない強い白檀の匂い。これだけなら、未だ否定出来そうだった。
然し、邪神の体の大きさは其れが持っている力の大きさと比例する。
飛翔はどうだ。
街の警察官の様な、邪神退治の特攻部隊。神様の中でも上層の、あの美しい着物姿は。
―――確かめなくては。
地鉄にも刃にも余計な傷は増やしたくなく、短刀を一度鞘に戻そうとして私は息を呑む。
当たり前だが、化け物の体に潜った刃には血液が付いていた。
散々私達の着物を汚して来た、忌まわしい邪神の血飛沫。
けれど今の考えが本当で、目の前で未だ踏ん張っているこの邪神の正体が飛翔だとしたら。これは飛翔の血では無いのか。
動悸がしそうだ。激しく震える胸を押し留めて、結局納刀せずに又走る。
再び邪神に組みつくと、いつも飛翔の袖から香っていた高貴で上品な白檀の香りが、涙が出そうな程濃く香った。
「飛翔、飛翔なんでしょう」
何処からか斬り込めば、邪神に取り込まれた飛翔を引き摺り出せるのではないかと、
私は夢中で組みついた。流石に何処から行けばいいのか解らなくて、気に障ったのか大きく身を震わせる其の体から、振り落とされない様に必死だった。
そうこうしているうちに軈て、影の体の表面がじわじわと破れ出す。
戸惑っていると、もう否定しようのない程の強い香りに包まれる。
霧散して消えるではなく、影が溶けていくのを見るのは初めてだった。
そうして、取り込まれていた『根っからの邪神』では無かった人が、姿を現す光景も。
屋根の上に、飛翔が倒れていた。
身体の半分は未だ影に覆われて、影と体がまだらの色になって血を流している。
動悸がした。
私が流させた血だ。邪神なんかではなかった。
鳥居の街の強く高貴な特攻隊、白檀を纏う邪神を払う美しい神。
「ごめんなさい」
ぽつりと零れた。混乱から抜け出せない乍ももう事実は眼前に突きつけられている。
「ごめんなさい、……」
前方に見える彼から視線を滑らせると、私の右手には飛翔の血を付けた短刀。
「……飛翔、ごめんなさい」
これは飛翔だ。邪神と半分ずつになった彼が目を上げる。ずっと変わらない白い睫毛に囲まれた藤の瞳は、同じことしか言ない私に注がれる。腹が立つほど穏やかだ。
「どうして」
「……千恵さん」
「どうして飛翔が邪神になっていたの」
「……こればかりは、まったく異例の出来事でした。私達特攻は、今までは唯現れる敵と戦うだけの組織で、こんなことは初めてです」
「貴方の仲間も、私達、いいえ貴方達自身でも、いつからか殺していたかもしれないのね」
もう警戒する必要は無さそうだった。刀を持った私と、影に塗れた特攻の神様が、
互いに血に塗れて言葉を交わしている。奇妙な光景だ。奇妙で、悲しい。
街の灯りは半分だけ回復した。皮肉すぎるであろうと、私は点滅する提灯を睨みつけた。
そして、邪神だと思って私が斬り付けた神は、信じられないことを口にする。
「早く討ってください、千恵さん」
「―――は、……」
「その短刀で、僕を早く」
「何を言ってるの、……邪神になって頭が可笑しくなっちゃった?」
肘をついて体を支える飛翔は首を振る。ふざけて等いないと言いたげな顔が憎かった。
「今からでも戻って調べて貰えば、原因が解って、綺麗に戻れるかも知れないじゃない」
貴方は邪神じゃあなかったんだから。
闘って勝ちたいという昂りは、もうとっくに醒めていた。普段通り彼に語りかけるのと同じ心持で言葉を紡ぐ。
彼は邪神の身から解き放たれ、私は戦意が落ち着き、かつてと同じ『神様と人の子』に戻ったというのに、飛翔はいやに静かな態度のままである。
「それは勿論、普通の市民だった場合ならそう出来たでしょう」
「……どうして飛翔はいけないの」
雨が降って来た。ぽつりぽつり、見計らった様に降って来る。
私は中途半端な灯りの空を心から睨みつけた。俯くと、足元の琥珀色は水滴を受けて寄り綺麗に輝いている。憎い。そうして同時に視界に入るのは、傷ついた飛翔の姿。
飛翔は穏やかに微笑んで私を見ている。今すぐに私の袖で血液を拭いたかった。
邪神の正体がまさか飛翔とは思わなかったと言ってしまえばそれまでだが、この綺麗な神を傷つけたのは私だ。私が流させた血を、血を含んでも柔らかなこの袖で拭いたかった。私が斬った化物のあの部分は、飛翔の脇腹であったらしい。
「頭の良い千恵さんなら解ってくださるでしょう。神の街を守るために清廉、高貴で居なければならないと言われている我ら特攻が、一度邪神に染まった特攻が、何でもない顔をして、もう一度綺麗な特攻隊として混じることが許されると思いますか」
「……私の所為ね。私が、特攻の飛翔の命を奪った」
「千恵さんは本分を果たそうとしただけではありませんか」
「私がここで働き出してから、飛翔は何処に居たの。皆が探した時もあったわ。
……気付けなかった私が特攻の飛翔を殺すの」
「特攻が全てではありませんよ」
「嘘。誇っていたくせに。私見ていたわ。出会った時の飛翔も特攻だった。白い着物はその証で、涼しいけれど自信を持った顔をしていて」
微かなため息が聞こえた。私は顔を上げ、避けていた飛翔を直視する。
真っ白な着物に柘榴の実をぶち投げた様に、紅白まだら。おまけに影の暗い色。目出度い筈の紅白色は、今の私に取ってはこれ以上無く不吉だった。
少女達は追いついて来ない。飛び出して来てからどれだけ時間が経ったか解らないが、私を案じてくれているのだろうか。
「……千恵さんは、いつも自信が無い様な発言をなさる」
耳に優しい静かな声が、私を射た。
「御自分に、自信が無いのでしょう」
こんな時に図星を突かれて、怒ればいいのか悔しがればいいのか、どうすればいいのか解らない。否、あまりにも穏やかで間違いな声で問われて、黙っていることしか出来ない。
藤色の相貌を細めて、困惑極めている私に向けて彼一人で淡々と続ける。
「人の子が此処に迷い込む時には、必ず理由があるんです。御本人が気づいて居ようが、居まいが、なんらかの理由が。勿論、僕には解りました」
―――貴女が初めの神社に迷い込んで来た時、成程と思いました。
あの時の貴女は、賽銭箱に居た私を叱りましたよね。初対面の者にああ言った事を言える気の強さを持っているということは、必ず同時に反する物がある。
貴女には自信が無かった。ええ、あの時の貴女の表情にも本当は顕れていました。
そして、御自分に自信を持てない、即ち、そんな自分の事が、貴女は自分でお嫌いなのではないかとも思いました。
ですから、邪神と闘うのにも適役だと思いました。
自信、又やるべきことを持てないことで自分を嫌い、それが理由で迷い込んでしまったのなら、『邪神を倒し、宿の街を救う、役に立つ』。これが、貴女が元の世界へ帰る為に必要なこと。大きなものと闘って自分に自信を持つ、それが出来れば、貴女はきっと貴女のことを、……仮に好きには なれずとも、嫌いでは、きっと無くなる。
皆が貴女のことを「直ぐに闘える様になる」と言って居たでしょう、あれは貴女の気持ちが出来上がるのを待っていたんですよ。僕が贈り込んだ初陣で負けた貴女が、『闘いたい』『自分の力で闘いたい』 、心からそう思った瞬間から、この世界では闘える様に……強くなれるんです。
椿は迷い込んだ人の子ではなく神の子供でしたが、彼女も言ってくれました。『飛翔さまの様に闘いたい』―――それからですよ、彼女が闘える様になったのも。勿論他の少女達も、皆何かに影響されて、同じ道をたどって闘う術を手に入れたのです。椿の闘う所を見ましたか。他の少女の闘う所を見ましたか。弓。手冑。ナイフ。見ていない武器も恐らくあるでしょう。……千恵さんの武器は僕が与えましたが、あの子達の武器の形状は皆違います。……それは、『闘いたい』と願うことになるきっかけが、皆それぞれ異なっていたから。
ああ、ですが武器の話よりも、貴女御自身のお話を聞いて下さい。兎に角、貴女に関しては今述べた通りなのです。繰り返して申し訳ないですが、貴女は御自分の事が嫌いだったでしょう、ずっと、お嫌いだったでしょう。何も出来ない、何も持っていない、そんな貴方だから帰り道を見失い迷い込み、僕に出会い、貴女の心を垣間見て、僕が邪神と向き合う任務を貴方に与えた。迷い込んだ理由を知り、変化に気付けた迷い人は、ずっと此処にいる義務はありません。言ったでしょう、ここは、迷い込んだ人の、貴女が勝つ為の舞台なのだから、と、ずっと前に――――
馬鹿みたいに、片手に短刀を握ったまま突っ立って聞いていた。
一番最初に飛翔と出会った神社に辿り着く前に自分が何を考えて居たかを思い出し、最初から最後まで、おまけに『飛翔さまを見ているうちに、いつの間にか』と言って居た椿の言葉までが全てが腑に落ちたと同時に、私は愈々何を言っていいか解らなかった。
「……確かにそう。でも、それが今飛翔を討って良い理由にはならないわ」
ぽつりぽつり、だった雨粒が次第に大きくなっていた。
小さな水滴から小雨に変わり、私と彼自身を濡らしている血を洗い流していく。
「僕が、特攻隊に戻れないと云う事も考えて欲しいですね」
お道化て笑う。
「討ちたくないの」
「おや、……ふふ、僕を好きにでもなりましたか」
「軽口は止して。……いっそ邪神のままなら気付かなかったのに、……いいえ、邪神でも気づいたわ。白檀の香りがしたから、飛翔だと気付いたわ。私なんかにそんな理由を持ってくれていた人のことを討ちたくなんて」
「ほら、又」
「……」
「又、『私なんか』と仰る。御自身で闘いたいと仰ったあの瞬間から貴女はもう、充分に闘える力を手に入れていたのに」
雨が降る。『飛翔』の姿が消え、散った筈の影が又集まり出し、彼を覆い尽くしていく。
雪の様な睫毛の瞳が伏せられ、醜い邪神の目が体中に現れる。
「時間を掛けさせてしまいましたが、貴女はもう闘える。小さくとも、御自分の力で邪神を討てる様になった時は楽しかった筈です。貴女は、人の役に立てる娘ですよ。強い御方です。――貴女はもう、御自分の事を、然程嫌いでもないでしょう」
邪神が、飛翔の声で話している。目を塞ぎたかった。
「好きよ。悩んで、迷って、それでも『やってやる』って思える様になった私が好き。
人の役に立てたもの。やりたいことが見つからなくても、その気持ちの切り替えが、私にも出来るって解ったもの」
闇雲に叫んだ。白檀の香りが薄れて行く。初陣と同じ、生臭い臭いに変わっていく。
「―――やめて」
「僕はもう飛翔ではありません。ご覧の通り、ただの大きな邪神です」
飛翔としての要素が、残っていた断片が、見慣れた化け物に塗り替えられていく。
「飛翔」
「僕は此処を動きません」
「……私、……」
「早く刀を握って。僕が預けた刀ですから、血に濡れても力は確かです」
「ねえ、今、飛翔を斬ったら、貴方はもう、死……!」
千恵さんと呼ばれた声を、ふと思い出した。
千の恵と書いて千恵。千の恵みに出逢える様に。母から聞かされていた由来である。
好きなものに出逢えること。強さに出逢えること。大切な事に気付く機会とであえること。―――
目の前に居るのは邪神だ。もう白檀の匂いもしない、眼差しも見えない、
それなのに声だけが消えない。それなのに無意識に、私の手は柄を握る。
帰りたいと切望して居た筈なのに、帰れるであろう時が目の前に迫っても、もうどうでも良くさえ思えて来る。討ってはいけない筈の神様だった。
彼は、私にはもう強さがあると言う。雨に濡れ続ける『人の子』の私に痺れを切らしたのか、
「千恵さん。これが最後ですよ。
貴女はもう、この街から出ても自分を嫌わずに生きて行くことが出来る人間です。
一撃で殺されずに、自分を見つけた貴女に話が出来て良かった」
だから。
高く、羽ばたく。
辺りに飛翔の声が張り渡った。
「飛びなさい!」
混乱して湧いた涙の所為であろうか。
彼を抱き締めたことは無いけれど、その血があまりにも温かかったから、
きっと彼もそうなのだろうと思ってしまった。
*
どれくらい気を失っていたのだろうか。
目を醒ました私の視界に飛び込んできたのは、薄茶色をした天井だった。
薄暗い部屋である。灯りは天井には付いておらず、枕元に小さな物がひとつ、ぽつりと添えられてあるだけ。私の枕の傍らで申し訳なさそうに身を縮めて、球を囲んだ和紙越しに、薄橙の光をぼんやりと漏らしていた。私はというと、近くも遠くにも感じる先程の闘いで浴びた血の着物は着せ替えられ、髪は綺麗に整えられ、丁寧に布団に寝かされていた。世話をしてくれたのは、飛翔ではない。
薄らと目を開いて視線を巡らせると、布団の両脇にはずらりと狐面の少女達が控えていた。目覚めの光景にしては少し驚いてしまい、慌てて跳ね起きる。
「……未だ、勢いよく起き上がらない方が良いです」
椿の声。
「大丈夫?千恵ちゃん、飛び出して行ったあと私達も暫く街を見て回っていたけれど、
一度邪神が消えたかと思ったら、その後暫く帰って来なかったものだから心配して」
牡丹の声。
両側から制されて、その拍子に揺れる鈴の澄んだ音色も両方の耳に届く。
どうやら私は、あの闘いの場所で力尽きて倒れ、雨に濡れていた所を発見され、慌ててこうして回収されたらしい。起き上がらない方が良いとは言われたものの、体に異常は無さそうなので、ゆっくりと布団から抜け出した。
どうやら初めの日と同じ部屋の様だったので、あの突風を浴びない様に用心し細めに窓を開ける。隙間から外を覗くと、提灯は全て灯っているらしく、又朱や琥珀に眩しい普段の街並みが戻って居る様であった。
ただたった一つ足りないのが、飛翔の姿である。
闘った邪神が飛翔だったとは、少女達は、倒れていた私の傍らに飛翔の下駄が二つ転がり落ちていたのを見つけて悟ったのだそうだ。特攻の中でも優秀な、飛翔だけが履いていたらしい一本歯の下駄。
「飛翔のことは、夢では無かったのね」
窓から顔を戻しつつ思わず零すと、少女達は皆一様に俯いた。しゃらん、と重なる鈴の音だけが無知で無垢である。
「……飛翔さまは、暫く御姿が見えませんでした。その時点で気づけば良かったのですが……」
「無理なかったわ、だって容易には想像し難い事だったもの」
静かな声音で、会話をする。誰も、飛翔を討った私を恨んでいる者は居ない様だった。
「ごめんなさい」
それでも、私はその日中彼女達に繰り返した。賢い彼女達はかわるがわる、私を抱き締めてくれた。
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