ケーキのイチゴ、最初に食べるか最後に残すか?

鳥辺野九

新人マナー講師、東条まなびの矜持

 マナー講師の戦いは、試合開始前にすでに始まっている。


 いや、むしろ戦う前に勝負は決まっている。そうイキリ倒したマナー講師はついさっき重大マナー違反で一回戦負けした。マナー講師の戦いとはそういうものだ。


 私は応接テーブルで高級パイプ椅子に浅く腰を下ろし、初戦の相手を待っていた。かれこれもう十分はこうして座っているだろう。レフェリーよりも早く戦いの場に着く。歳下のマナー講師として最低限のマナーだ。


 やがて、応接室の扉がノックされる。4回。ぴったり国際基準推奨マナーの回数。それもトントン、トントンとキレのあるリズミカルノック。この人、できる。


「どうぞ」


 私の声に応えるように、音も立てずに扉が開く。


「お待たせしました」


 勿体ぶった台詞とともに対戦相手が現れた。試合開始予定時刻ぴったり、全然お待たせなんかしていない。しかしそれが当然のマナーだ。たとえ待たせていなくとも、謙虚にお待たせしました。さすが、強い。


「はじめまして。東条まなびと申します。本日はよろしくお願い致します」


 私はすかさず立ち上がり、ぴたり俯角30度に頭を下げて、ストレートの黒髪をさらりと肩から流して名刺を差し出した。まだ試合は開始していないが、戦いはすでに始まっている。この私の名刺で先制攻撃だ。黒髪ストレートに触れずに名刺を受け取れるか。


「東条さん、ですか。随分とお若いマナー講師の登場だ」


 シルバーな髪をオールバックに決めた紳士な対戦相手は試合開始前の先制攻撃を見事に受けて切り返した。失礼のないように黒髪には触れず名刺のみを掻っ攫う。そこへいきなり歳相応の親父ギャグをブッ込んできた。危ない。気付かずにスルーしてしまえばレフェリーへの心証を悪くするところだ。


「お上手ですね。まるでお酒に酔ったうちの父のようです」


 ゴミみたいなダジャレだけど、これも大事な試合マナーだ。ベテランは若い人材にウィットに富んだ言葉をかけるものなのだ。


 この人は今大会の優勝候補の一角、鋼のマナー講師こと金剛大志その人だ。いきなり初戦で優勝候補とぶつかるなんて、なんてついてない。


「ビジネス・テーブル・セットアップ。試合開始です。規定により、先手、金剛。ビジネス・スターティンッグ」


 ツンとした態度で女史レフェリーが告げた。髪を七三分けに撫で付けて、吊り上がった眼鏡がキツめの顔をさらに険しく印象付けている。よし、試合開始前のフリートークで減点なし。鋼のマナー講師相手に上出来な滑り出しだ。


 ビジネステーブルに後に座った方が先手を取る。それがマナーバトルのルールだ。少しばかり不利な展開に陥りやすい先手だが、それを補って余りあるフリートーク展開の地の利がある。今回は私が上手く捌けたが、はたして鋼のマナー講師の初手は如何に。


 試合開始。


 金剛さんは私にグラスを差し出した。すっとコースターを滑らす澱みないアクション。整った指先がきれい。


「お暑い中をようこそ。どうぞ」


 冷たい麦茶。


 背の高いグラスには適度に水滴がついていて、液面に浮かんだ氷がタイミングよくカランと音を立てた。さて、このよく冷えた麦茶、どういただく?


「相手企業の要求を無条件に飲む、と言われることから、商談の場で出されたお茶は飲んではいけない。新人に教え込まれる基本的ビジネスマナーです。でもそれって、もはや前時代的なマナーですよね」


 マナー解説の一手を挟んで、私はグラスを手に取った。ひやっと指先が冷たくなる。よく冷えている。氷が揺れて、さらにカランと高く響く。この状況で導き出せる正解の妙手はこうだ。


「いただきます」


 一気。息もつかせぬ一気飲みだ。って、冷たいわっ! 冷た過ぎるよ、この麦茶っ! あまりの冷たさに危うく咳き込んで吹き出してしまうところだった。さすがは鋼のマナー講師。シンプルな一手なのに深みのあるトラップを仕掛けておくなんて。こんなマナー戦術もあるのか。


「その通りだ」


 見事回避したな。と言いたげに上から目線で金剛さんは言う。


「商談相手がどんなに厳しい条件をつけようと、丸ごと一気に飲み干してみせるという気概がなくて、何がビジネスマンだ」


 金剛さんは鋼のマナー講師の異名が示すように眉毛一つ動かさずに冷徹に続けた。


「無論、ビジネスレディもまた然り」


「ドロー、ノーカウント」


 女史レフェリーが公正なジャッジを下す。


「ファーストラウンド、後手、東条」


 私の手番だ。落ち着け、私。如何に鋼と言えど、必ず隙はあるものだ。


 カップとソーサー、すでに茶葉を淹れているティーポットをセッティング。シュガーポットとスライスしたレモン、小さなミルクピッチャーを添えて。


「一杯いかがですか?」


 さあ、この一手、どう返す?


「とても澄んだ黄橙色だ。ミルクで濁してしまうのはあまりに惜しい」


 レモンとミルクを同時に並べる私の奇襲にも金剛さんは動じた様子を微塵も見せなかった。澱みない仕草でティーポットの紅茶より先にミルクピッチャーに手を伸ばす。そう、それが最適手だ。


「まだ白紙状態である商談もあなたの望む色に染めましょう。そんな意味合いも含めて、ミルクを先に注いだカップへ紅茶を注ぐ、イギリス式ミルクティーを選択するのが最善だ」


 ティーカップに適量のミルクを溜めて、そこへ紅茶をゆっくりと注ぐ。カップの乳白色があっという間に紅色に染められた。正解だ。それも模範的な。いや、ビジネスマナーの本場であるイギリス式だと言明した辺り、私の予想を軽く飛び越えている。


 思わず、私はレフェリーへと目を泳がせてしまった。


「マナーロスト。アドバンテージ、金剛」


 私のかすかな不安が表情に出してしまい、アドバンテージを取られた。ファーストラウンドから鋼のマナー講師相手にこのアドバンテージは痛い。


「セカンド・シーズン。先手、金剛」


 私に挽回のチャンスもくれずに冷酷にも女史レフェリーは試合を進める。金剛さんは私にビデオジャッジチャレンジを申し出る時間すら与えてくれず、次の一手を指した。


 私の前に差し出されたのは、ホカホカと湯気を立てる一舟のたこ焼きだった。


「どうぞ。召し上がれ」


 たこ焼きを食す際のマナー。そんなのあったっけ? と、考える余裕はない。行動あるのみだ。よくよく見れば、一舟八粒のたこ焼きに串代わりの爪楊枝が二本突き立っている。これだ。ヒントは爪楊枝にある。


 私は爪楊枝を二本、箸を持つようにきれいに並べて一粒のたこ焼きに突き刺した。


「一粒のたこ焼きに対して楊枝を二本使うのは、私とあなた、二人の共同作業としてこのビジネスを取り落とさないという強い意志を表します」


 たこ焼きを頬張り、って、今度は熱ぅっ! 熱過ぎでしょ、このたこ焼きっ!


 私は咄嗟に麦茶のグラスを手に取ってしまった。しかしそれは空っぽだった。前手で飲み干しているのだ。もはや一滴の麦茶も残されていない。氷がカラリと無様な音を立てるだけだ。


 そしてその悪手を金剛さんは見逃さなかった。


「空のグラスに手を出すのはいけない。それはお茶のお代わりを勧めないことを責める行為だ。すなわち、お茶のマナー違反だ」


「金剛、ポインツッ! アドバンテージ・ゲイン。3マナー・ゲッツ。セカンド・シーズン、後手、東条」


 ルールに法って淡々と試合を進める女史レフェリー。アドバンテージに加えてポイントを取られた。しかも3マナー・ゲッツだなんて。このままでは私の負けだ。普通に戦っても2ゲッツが限界だ。何か、逆転の一手を考えなくては。


「こ、こちらを召し上がってください」


 セカンド・シーズンに私が用意したのはイチゴのショートケーキだった。


 金剛さんは赤くきらめくイチゴに一瞥をくれて、少しだけ悩むように眉を寄せて顎に手を当てた。


「イチゴを先に食べるか、それとも楽しみは後に残すか。ここが勝負の分かれ目だな」


 余裕綽々な表情で私を見下す。答えはすでに解っているって顔だ。


「では、いただきま……」


 させないっ!


 もう後がない私は金剛さんより一瞬だけ速く動くことができた。瞬き一つ分の時差で十分だ。私の手のフォークが、金剛さんのフォークよりも先に、赤いイチゴを刺し貫いた。


「なっ、何を?」


「何をするんだ、と言いたげですね」


 私はつと左方向を指差した。私を睨む金剛さんの目がギョロリと左を向く。そこには、女史レフェリーと、彼女の前に鎮座するもう一つのイチゴのショートケーキ。


「このビジネスの場には三人います。対してイチゴのショートケーキは二つ。どうしても一人余ってしまう」


 女史レフェリーがイチゴを見つめて小さく頷く。


「男性が、しかも一番年上であるあなたが、私たち女性にスイーツを譲るのは紳士として当然のテーブルマナーです!」


「そんなマナーがっ!」


 マナーがないなら、新たに作り出せばいい。


 でもまだだ。もうひと押し、強引に押し込め。


「ビジネスの場で、おじさまはイチゴに手を出してはいけないの」


 ぱくんっ。私の小さな唇がショートケーキに居座っていたイチゴをまるっと咥えた。


「そんなマナーは存在しないっ!」


 血を吐くような叫び声を上げてから、金剛さんは慌てて口を塞いだ。しかしもう遅い。


 そう。イチゴに関するマナーなんて、私がたった今考えたなんちゃってマナーだ。確かにこんなマナーは存在しない。だが、しかしっ!


「そんなマナーはないっ! って上から目線で言い放つのは重大なマナー違反ではありません?」


 女史レフェリーはフォークを静かにショートケーキに沈めた。


「東条、リベンジポインツッ! 2マナー・ゲッツ。アドバンテージ、東条! ゲイン・3マナー・ゲッツ。トータル・5マナー。勝者、東条!」


 勝利の赤いイチゴはまだ熟れていないのか、ちょっと酸っぱかった。

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