Dive

第2話 新生感死

✜御子狂化




「井ノいのはら副教頭、過去に中途参入者との実戦経験はありますか」

狩野かりの先生と周囲から呼ばれる弱冠23歳の男はおどろおどろしく隣に佇む初老の男に尋ねた。

「二回程。今の子供たちの7年先輩に一人、あと一応入れてしまいましたが現役時代にと類似した状態の汚染者と遭遇しましたね」


呑気なものではないが、きっかり10m先で蠢く青年の狂人を話題にして雑談をする二人の男、少なくとも片方は余裕がある。

或いは余裕やそのような慢心はいらず、唯狩るのみというように。


「狩野先生、幾ら初めてで、緊張していて、ましてや対象が自分らが指導している子供たちのような人間であったとしても、情を注ぐのはやめた方がいいですよ」

それも泥の汚染者なんだからと補足し、井ノ原は言葉をあちこちで区切った、諭すような口調で狩野に警告した。

「分かっています、分かってはいます。なるべく―――頑張ります」

狩野も井ノ原の言葉を反芻し、自身に暗示をかけつつ鼓舞しようとする。


狩野の覚悟以外の準備は万全といったところだが、正面の青年はひたすら唸り声を上げ、殺して下さいと懇願するように首を差し出しているが為に今が斬るのに最適のひとときとなっている。


辺り一面の白銀の世界は寒くもなく汚す事に特化している人間には絶好の場所。ましてや障害物もない。それ故に狩野が正面に切り込んでいくことで試験が完遂される。


普段は「試験者」という区切りに位置づけされたこの世界の子供たちだが、それを指導する大人たちも試験を行わなくてはならない。


そう、初めて己が手を汚す狩野のように。


「今です。やって下さい」

息の詰まるような切迫感の独壇場を勢いよく壊すようにに井ノ原は狩野の背中を強く押す。


プスゥと空耳にしか聞こえない啜るような呼吸音とともに、狩野は右足を一歩だけ踏み込む。


縦長で遠距離である狩野の干渉領域は、彼が足を踏み出すだけで狂人の首を射程内に捉えられる。干渉領域も接続領域も保有者を中心として広がっていくのがセオリーであり、例え接続領域が短くても、干渉領域内に目標を入れてしまえば致命傷にはできないものの、身体障碍の一つや二つをつくる程度の撃ち込みは容易。


ただ、今回は接続領域内の操作ではなく、干渉領域内の操作に特化した異常者である狩野が撃ち込みを行うのだ。身体障碍をつくるどころか即死。

あのまま青年が突っ立ってくれる場合なら。


狩野は【疑似乱数掃射ダストスイープ】と銘じられているを記憶内にある変数座標粒子移動系統のストック中から抜き出し、青年の水平になっている首を凝視する。




干渉領域は運を,

接続領域は伎倆を要するが故に一瞬で勝負を決めるなら確実性が勝る接続領域を取ることが多い。

ただし、中には干渉領域と接続領域の均衡がよろしくない人間がおり、そうした場合にはどちらかに特化することを強いられる。

狩野はその典型的な例だが、特化どころか接続領域の知識を捨ててまで干渉領域を研究したことから極致に達している。


そういった苦労を重ねた人間にはそれ相応の報酬がなくてはいけない―――――彼が得た報酬は「乱数の分布を絞れること」つまり、彼が今復元した借伎はに基づいて視置していした干渉領域の一部にある、空気中や地表の設定外の物質を高速で移動させる、といった内容になっている。

疑似乱数列を大雑把にいえば、規則性も再現性もない真の乱数列とは違い、確定的な計算で作る乱数列で、確定的な数列であることから数の生成法や一部の状態さえ分かれば予測可能というものである。


狩野はその疑似乱数の生成法の中でも1946年のジョン・フォン・ノイマンが提案した最古の生成法である「平方採中法middle-square method」を元々の感性で採用してしまい、「線形合同法linear congruential method」というより広範囲の塵芥を移動させることが出来る生成法があるにもかかわらず、未だに使い続けている。




閑話休題。




【視置、1×2×2単発範囲Set up a sign―――――霞想再現draw rough

狩野は脳裏に描く1m×2m×2mの範囲に絞った借伎を心象領域で叫ぶと同時に、内心こうとも思っていた。


悪いな少年、現実あちらへお帰り。


その首、刎ね千切る。


幾ら干渉領域が長くとも、ある程度の使用経験がある大人が使えば意識とほぼ同時にへ借伎を適応することが可能。

よって、その速度は音速をも凌駕する。


光を屈折させる狂風が狂人の間近で発生し、直後に地面から何億もの極光が放たれ二人の男の視界をホワイトアウトさせた。

凡そ20秒程光の柱が立ち込み、光が弱くなって視界が確保される頃には狩野が絞った多面体の範囲の全面が鮮血で塗られ、また光で掃除されの繰り返し。

永劫を彷彿させるような紅白のコンヴァージョン。


その時、井ノ原は絶句していた。

他にやることといえば、自分が熟練の教師だということに少しばかり驕りを感じていて、毎秒進化する子供たちの万物に害をなす御業から目を逸らしていたのかもしれない、とひたすらに自問するだけ。


新人である彼の借伎でさえこの次元なのだ、これから成長を遂げていく生徒たちは―――やさしく排除していた俺と彼を比較しても、殺すということはこういった残酷さも含むのか。

自問の中で俺自身は彼の借伎の残虐性を恐れているということで、特に殺すという事に関しては彼以上の理解があるのではないかという結論に至ったが、瞬時に否定した。


―――結局俺は実戦経験があるだけで中途参入者を実際に殺したわけではなく、ただそのやり方を見ていただけで、自分を中途参入者を殺した人間に自己投影させることで体験を騙り、狩野に先輩ヅラをしたかっただけだった。それを曖昧にするために「やった」ではなく「遭遇した」という言葉を無意識に選んでしまった。


狩野はただ俺が鼓舞しただけで抵抗感があるのにも関わらず残酷な殺し方をしてしまった。いや、そもそも9m強接近すればほぼ確実に殺せるという彼の借伎面でのキャパシティのみを参照して10mきっかり距離を取らせ、ましてやどのような借伎を使うかの事前確認も非常時であったためか杜撰に行ってしまい、強要といっても過言ではない行為をした自分に責任があるな。


井ノ原は惨劇に目を向けるのやめ、顔を曇らせながら未だに凝視を続ける狩野の顔を覗き込むと目に光がなく、死んでいるような、眠っているような表情を視認し、冷や汗をかく。


―――ああ、彼は仕方のないことだと殺生の道理や上司の命令を考慮してやったのか。


やがて赤に塗られる回数が減ってきたのを狩野は確認し、再現を解くと目の前には見たくもない虚像が立っている。


「な――」


今度は狩野が絶句する番であった。仕留めたであろう狂人は両腕を関節部分まで欠損させながらも両腕を振り上げ、幽鬼と化した立ち振る舞いをしている。


「I...Y...li......」


言語設定が英語なのか、やや流暢な青年の青い喘ぎが聞こえるが、それはこの現状では一層混乱を極めるばかりであった。

更に、青年の両腕の切断面は血が黒く凝固している状態か、流血が続いているのが現時点では自然だが、切断面は。骨の周りの肉や神経が赤ではなく白に染まり、濃さがこの白銀の大地と同等であるが故に逆に骨の色を強調しているかのよう。


少年の服装は辺りの景色と同化したワイシャツにスラックスで裸足で顔やワイシャツのあちらこちらに得体のしれない白い粘土のような塊が付着しており、重力に逆らっているような部分にもあるので、どちらかと言えば「刺さっている」という表現が正しい。炸裂弾やミサイルの破片のように。


「副教頭!アレって、泥の汚染者って何なんですか!!!」

ハッと少しばかり冷静になれた狩野は位置関係を全く考慮せずに井ノ原に向かって絶叫する。ただ、その大声が現実を直視させるには十分過ぎる起爆剤だったようで、井ノ原の背筋がびくりと硬直した後、姿勢を少しだけほんの少し低くして状況把握をする。一秒にも満たない後、重々しく口を開いた。

「泥の汚染者というのは、中途参入者が此方の......いや、ここに堕とされた瞬間に発生する狂化現象を受けてしまった事、つまり「汚染」がこの地面の物質「通称:泥」を憑代にして起こった場合の中途参入者のことを指していますよね」

「此方」や「堕とされた」の単語を発した時、井ノ原は鼻血を少量噴き出したが、狩野は着ているジャンパーのポケットからハンカチを差し出すのみで、その事象を気にも留めていない。

井ノ原は鼻血を拭き取った後、再び話を再開した。

「中途参入者は普通、最も適性があったり普段から遣っている物質に汚染されてこっちに来る―――要は今の子供たちの適性が判明する際に風とか蒸気とかを過剰に噴き出す吸気初期拒絶反応Overdrive-αが起きる。彼は進行が進み、危険性も最上級となっている。これらの情報から普通に考えると、彼方で存在しないものとみなされるこの泥の遣用に適性があったり、普段から遣っているなんて異端者でしかないのです」

話の後半はこの時間帯、この場所であるからこそ聞いているものは誰もいないと断定できるが、システムは当然そういう内部要因を無視して個人に処罰を下す。


井ノ原はついに吐血して跪いた。


「聞いたのは自分ですが、もう大丈夫です!それよりも――――」

狩野が急いで介抱するが、前よりも頭は冷めていた。内心無礼な発言や言動が続いてしまった事を反省するが、上司を介抱した後にすることは決まっている。

「そうですね。死人を出す前にやらなければ」

もうすでに上司としての威厳を失いつつある井ノ原は、少しづつ体に力を入れながら立ち直し、戦闘態勢に移行する。


「狩野先生、先の攻撃は私の失策です。、泥の汚染者に対してはそもそも不可能なことであった」

嘆くように井ノ原は言葉を放ち、話を続ける。

「挽回させて頂きます。今度は私が近接攻撃での伎倆を計り、可能なら仕留めにかかる形で。ですが、狩野先生は保険として私を接続領域内に常に捉え、緊急時に戦闘エリアから離脱できるような借伎をセットしておいて下さい」

「了解しました」

狩野の声に生気はなく、ただ壊れかけのロボットが同じ言葉を発し続けるような不気味さに井ノ原はぞくりとしつつも、感心していた。


―――ああ、これ程無能な上司であるのに。


「行きます」


合図はそれだけの檻から獣を放つかけ声で満ち足りた。もう血が滾っている二人には、大衆の安全よりも目の前の敵を殺すことのみに意識が向いているのだ。




急接近する二人の見知らぬ男性に青年は「死にたくないな」と言葉にすればこのような形になるリビドーのみを抱く。




―――とりあえず、からしてみる。

かき集めたこの青年の残りかすから、狂人は適当な暗示を作る。


toじゃなくて、likeを用いるならこう?


「.........Like breathe《呼吸するように》」


狂人は青年を支配し、喉を震わせ騙る。

普段からして生の実感を求めている上で手にしたこのカラダ。あまつさえここでなら万物に干渉することさえも容易だろうに。

ただ、この青年が背負う罪にしては重過ぎる故、わたしには慈悲がある。

彼自身の適応がある借伎で済ますとするか。




声は要らず、意識も要らず。

天誅も下らないこの地でただ産すのはひとときの晩餐。

或いは天災、泥の騒めき、今大成すべきは「秩序」。


――――――前方の老いぼれの得物を刎ねるには十分。


不可視は可視へ、無は有へ。万象流れし海の掟。

生まれ堕ちようぐしゃに万死を。


「̪聢と受け取れ、律の顎を也《Decem spina》」


虚空の心象風景で狂人がそう告げた途端―――


「なっ、―――不備エラーなら仕方あるまい。回復まで取り出すだけだ」

狂人に一直線に向かってくる井ノ原は拡張倉庫から片手に放ったであろう長剣が出現しなかった、或いは霧散したことに狼狽えるも、単発命令ではなく多重命令に切り替えて何とか得物を取り出そうとする。


一方、狂人は内心ひどく焦っていた。

権限によって一度は武器の破壊を招いたものの、二度目の行使が出来ないことに。


ものの数刹那で男の手にするであろう劍が青年の首元を捉える。

それは同時に絶対的な死を意味するということは狂人も呼吸をするように理解していた、いや、そもそも命の危機に瀕すであろう未来が読めていたのにも関わらず、目を背けていたのかもしれない。


――――――この雄、相当の太々しき。

そう、そうだ。こやつには域が二つを体表に。そもそもあるだけなのかもしれないが、分析するには時間が惜しい。

わたし、は今は誰も殺したくはない。


よって、武具を鏖殺することのみに意識を割かねばならない。

武具を砕くのはなんだ?ルールか?

いや、中世の時代打ち砕かんと猛威を振るっていたあの大槌が最適だろう。

だが、アレはリーチが長く両手を必要とし、

はぁ。初見で適合させることが出来るかは知らぬが、やるべし。


専心すべきは初撃で武器を確実に破損させ、相手に切り結びを強制させること。

必殺に拮抗させること程気持ちのいいものはない。


今、ここに顕たんとする尊厳を墜とす。


生まれ堕ちよう愚物ぐしゃらに万死を。

今度は彼の口から告げる。

「Decem malleus《聢と受け取れ、武神の御手を也》」


彼が言霊を発すると同時に、右腕の白色の切断部が樹の根のようにぐねりと歪曲しながら伸びていき―――純白の片腕が顕現する。

更に、目を疑うことに青年の薄橙の肌は限りなく白に近い色に切断部分から染まっていく。

片腕の権限後、彼は軽く手を握り開きすると、掌の中心が屈折しながらに輝き出した。

井ノ原はそれを危険視したのか、標的を首から左腕に移し切り抜かんと再び手に握った長剣を振るうも、虚空で切っ先から破片が飛散する。

それでも、井ノ原は柄を強く握りしめて接続領域を折れた刃まで戻したが、剣はびくともしない。

振り降ろした長剣はそこに静止しているとでも言わんばかりに。

男が動揺しているのを見図り、青年は輝く手を剣の唾より下段へ伸ばし、虚空を握った。

握った場所から刃が6本も付いている異質な片手剣が露出する。片手剣というより、メイスであるソレは、驚くほど自然に現れた。

特筆すべきエフェクトもなければ、音も亡く。

元々、その場所にあった説明されても二つ返事で納得出来るかのように。


病的に、唯在った。


虚空に静止していたかのように見えた長剣は、ただメイスに付いている刃の隙間にショルダー辺りを引っ掛けられているだけ。

井ノ原は瞬時にアプローチを変えた。

左手に直刀を取り出し、狂人の義手の根元へ差し込めば一瞬で霧散してしまう。だがしかし、狂人は上半身を仰け反らせた為、井ノ原は左手にサバイバルナイフを取り出して心臓目掛けて投擲、直後に右手を離して長剣を破裂バースト、すぐさま刀身を逆さにした打ち刀を取り出し、体勢を限りなく低くしながら遠心力を使う為、右脇腹に頭を衝突させるような勢いで身体を迅速に回転させ剣先を真後ろにいる狂人に突き刺そうとするも、サバイバルナイフと共に右脇を掠めるだけであった。




井ノ原は初期のPSI保有者であるので極端に干渉領域、接続領域の範囲が狭かった。

それにより、その時期の他の保有者と同じようにある考えに至った。

「領域が狭いなら、攻撃手段として用いるのにさえも危険が伴う。なら、防御に、いや、もう防御だけに領域を用いればいい。なら、この少し広がった領域はどうすればいいのだろう......」という単純なものだ。

最終的に井ノ原は干渉領域と接続領域の均衡に恵まれたので、領域を体に纏うような形をとった場合、干渉領域と接続領域が同じ部分に同じ大きさだけ常駐してしまう事に苦悩した。


・・・単に無駄だからだ。


ただ、体に纏っている状態は元々あった領域を部分部分で広く拡張することも可能であったので、何とか棄ててしまった攻撃手段にならないかと日々開発と借伎の効率を戦場に通いながら考えていたところ、対AIなら無敵のとある絶技を開発した。

その一部がであった。

纏うということは、領域内で武器を使うという風に言い包めることは出来ず、人体と同じように構成変換も出来ることを示唆している。


つまり、武器自体を相手の体内に入れた瞬間に「勝ち」が確定する。

また、これは物体にも同じ。


井ノ原は領域の拡張、縮小を武器が収まる程度の広さで行い続けていたので、初見や初めて使用する武器にも使用が可能。


ただしこの技は絶技のほんの一部であり、条件付きであれば現在の試験者でも、出来る子供は出来るので、その事実すら風化している。

井ノ原は自身の真骨頂をここで魅せるわけにはいかないので、実質封印設定にしている。




閑話休題。




井ノ原の戦闘を付近で見ていた狩野は、簡易の後方移動借伎で井ノ原を狂人の間合いから離脱させ、更に10m程狂人との距離を隔てて初期の臨戦態勢に戻す。

戦況は狂人の実質両腕を切断した此方の方が有利......とはいかず、井ノ原は必殺の二撃を外した負担が頭にいっている。狩野は井ノ原の回復に自分との会話のリソースで邪魔をしないために特に声をかけずに井ノ原の肩を担ぐ。

ただ、狩野が井ノ原に抱く思いは自分もあと十数年年をとればあそこまで動けなくなってしまうのかという戦闘結果の感想のみ。



狩野、そして井ノ原は未だにここであの未知と戦う理由が分からないままであった。

ただ、外から「指定した場所に訪れる子供を殺せ。そいつは泥の汚染者だ」としか告げられていないのであの青年が抱く危険性以外はまったく不明確なことばかり。


更に、狂人の一連の行動を分析すれば反撃する瞬間は幾らでもあったことが理解できる。大掛かりな井ノ原の切り込みを受け、続くサバイバルナイフの投擲デコイと打ち刀での突きを躱した狂人。


隙は多く、それは井ノ原が計算して仕込んだ多さでもあった。

ただし、それは半ば作為的なものであり、付け込まれたとしても井ノ原が反射、又は反撃が確実に成功するわけでもない。

井ノ原は事前に致命傷や後遺症が残るような一撃を絶対に食らうことがなく、それでも狂人は自分に攻撃することが可能な隙を魅せたのであった。


それが意味するのはたった一つ。

井ノ原は自傷行為をして相手の伎倆を図る立ち回りをしたのだ。

ただ、その常軌を逸した立ち回りに無反応というより「防衛」のみを考えた動きで狂人は応えた。


―――疾駆する大男に怖気づいたのか?いや、それでも武器を創る様子は遅く優雅なものであったはず。

狩野は遂にこの戦況をどういったものにすればいいのか分からなくなってしまった。




頭は潰れ、行使する武力も弱まりつつある戦況に狂人は安堵していた。


―――あと少し、あと少しだけ攻撃をやめてくれれば、私はこの青年を取り込める。


だが、相当消耗し過ぎた。


狂人の創った義手とメイスは徐々に白き輝きを失い、空気に霞む。

それに呼応するように狂人の両足が地面に沈んでいく。

沈んでいく際に辺り一面に地割れを伴い、接近するのを拒絶、或いは一種の儀式かのように神秘的である。

両手の義手が完全に消失した時には、もうすでに狂人の下半身が地面に吸われ、狂人......いや青年はうつ伏せになりながら両手を伸ばして喘いでいる。


「まだ死にたくない」と抵抗するように。


「すみません、少し宜しいでしょうか」

もしもしと青年の肩を誰かが叩いた後、穏やかで無機質な声が青年の頭上から響いた。

青年が首を捻り上を見上げると、白髪の長髪で高身長の人間、顔は何やら様々な記号が書かれている布らしきもので隠されていて性別は判別できないが、実験動物を見るかのように微動だにせずに立っていた。

「此処から逃げたいですか」

その覆面の人間は凛として質問する。

又は、質問への回答以外の行為を許さない威厳を醸し出せながら。


現在、青年が僅かな理性で抱いたのは「恐怖」。

彼にとって両腕が切断された痛みはどうでもよく、ましてやそれ自体は絶望でもなければ行った狩野に対しての恐怖はない。

ただ、この人間だけは細胞が悲鳴を上げるほどの根源的恐怖、絶対感を持っていることを青年は理解し、それを恐れているのだ。


それでもだ。


他人から「殺される」といった否定的な評価を受けた後、「逃げられる」という青年の意識では肯定的な評価を差し伸べられたら、後者を選択するのは当たり前だ。

青年は上半身を左に逸らし、欠けた左腕を覆面の人間へ伸ばす――――――

瞬間、青年が左腕に義手を創ったような錯覚に人間は陥るも、須臾の瞬きでそれを掻き消す。


「そうですか」

憐情の籠った声をうっすらと上げながら、覆面の人間は青年の脇回りを右手で包み、いとも容易く地面から下半身を引っこ抜いてみせた。

人間に掴まれた青年は安堵したのかがっくりと意識を失い、その様子が心地の良いものだったので、突然の乱入者を非難する言葉を二人の男は失ってしまった。


「貴公らに問う。先の借伎で削り切った彼の両腕を復元することは可能だろうか」

覆面の人間は井ノ原と狩野に向かって問いかける。

どちらかといえば狩野の顔色を窺うような顔の角度であるので、井ノ原の消耗具合は考慮している様子。

「無駄な会話はなるべく省く。今はその質問を無視する。我々は彼を大衆の安全の為に殺さねばならない。そう聞いてくるのは、彼を助けろということと同義だと僕は解釈する。その行為を求める理由、彼の死を是正する為の代償、または許可の提示を要求する」

狩野は淡々と、感情と覆面の人間の問いを殺して返答する。

「彼を貴公らが指導している子供たちと同じようにする、これは理由。貴公らは外との交流時に“Astarothに妨害された”とだけ伝えればいい、これは彼の死を是正するための代償」

「Astaroth」という名称が出た瞬間、狩野ではなく井ノ原の目が吊り上がる。

間もなくして、井ノ原は惜しむようなため息を一つついて再び狩野に体重をかけた。「前半の回答、それが認められるかは校長次第だ。後半の回答、それは.........理解した。これで其方の求めていた場は整ったようだ。無視した質問に返答しよう―――――可能だ。復元から接着までも問題ない」

狩野も井ノ原の反応に思う事があるようで、少しの間をおいて返す。狩野自身も事前にある程度の察しがついていたようで、この展開自体には満足している様子。


どのような関係であれ子供を殺さない、という展開を。


「御丁寧な対応に謝礼を。接着までのご厚意は頂きませんが、復元までを。細胞が壊れていても構いませんので」


女性のような喋り方と中性的な機械音が混じった覆面から発せられる声に改めて少々違和感を覚えた狩野だが、その後の雅なお辞儀を見届けた後に井ノ原を地面に座らせる。少しばかりの血痕が残る場所に歩いて行き、右手で接続領域内に漂うナニかを虚空を撫でるかのように纏め上げ、握り拳をつくって上に掲げる。


ほんの十数秒後、狩野が拳を翻し手を地面に向かって開けば、乱雑なポリゴンの渦の発生と共に青年の両腕が出現した。


狩野がその場から井ノ原の元に向かうと同時に、覆面の人間が青年の両腕を地面から拾い上げ、後ずさりしていく。


二人の距離は凡そ20mも離れて交渉が終了した。

場には未だに張り詰めた空気の残穢が残りつつあり、ややピリ付いているのを両者は感じ取った。

別れの言葉を告げようと、覆面の人間は布のようなものを揺らす。


「聢と受け取りました。ありがとうございます。謝礼はまたの機会にしようと思案しておりますが、手付金のようなものとして情報を少し」

狩野は内心首を傾げながら正面の人間の話を聞く。

「自分は湯町ゆまち 燿燦ようさんの監督者兼、保護者でもある者です。今は彼の治療に専念したいので詳細は省きますが、詳しいことは校内で燿燦を捕まえて聞いて頂ければ幸いです。では」


軽く会釈をした後、覆面の人間はのそのそした走りで都市部郊外の方角へ去っていく。


「僕らも引きますか」

「悪いな」

狩野は井ノ原片腕を担ぐのを止め、短い会話をした後すぐに青年らとは真逆の方角、「学校」の方へゆったりとした足踏みで帰路につく。




片方の勢力は戦う意義も知らぬまま戦い、戦地となった場所はこの狭い世界のある広い空き地。普段は生徒達が模擬戦を隠れてやっているひみつの場所になっているが、そこで再び血が流れた。


「?」

両腕が戻った青年の体重が重いのか小走りが徐々に遅くなっていき、今では唯の徒歩になってしまった覆面の人間は、抱えている青年の顔の辺りから血が噴き出しているのを視認する。


徒歩であるので特に目立った音も聞こえず、ただひたすらに血が地面に溜まっていく光景に異様さを覚える。


――――――まさか。


右手で青年の首を抱き起せば、右目から頭蓋を貫通し冷酷に突き刺さったロングソードを模倣する泥が。


――――――すぐに処置を。


ガントレットで青年の右目から少しづつ泥を外に排出していき、同時に接続領域内の血液、破壊された脳細胞を復元していく―――が。

脳を貫通していた刀身を引き抜くも、右目を潰した切っ先はどう強く抜こうとしても現れない。


「私ではここらが限界、ということだ」

自分でもふと何故に口を開いたのだろうか、と覆面の人間は考える。

が、冷静になり過ぎたと反省しそれよりもこの状況の打破について思案する。

――――――を遣用するのは忌避したい。そのように考えつつも私自身の弟子はそれを主兵装プライムにしているのだが。後は......燿燦、或いは......というよりこれは最終手段だが対をなす天都辺りに頼んでみよう。


覆面の人間は青年の止血と「右目」以外の最低限の治療を完遂させた。


「この子の名前は―――――へぇ、英語なのか。いや、唯の名称に英語が使われているだけ」

「“Division:Kutu”か。分裂?分解?......まぁいいか。宜しくね、Kutu」

一方通行の会話を済ませ、あだ名をどうしたものやらなどを考えつつ彼らは改めて帰路についた。


青年には少しばかりの苦痛を。

覆面の人間には先の人間性とは正反対の軽さを出しながらこの状況に充実感を覚えた。


その後、狂人が青年の肉体を支配することはなかった。




✜幼子ノ家




「ただいま」

学校からちょうど1㎞程離れたとある居住区の玄関先に声が響く。

そこに暮らす湯町燿燦から「指南番」と呼ばれる人物が帰って来たのだ。


「おかえり~指南番。あれ?その子......」

ドタドタと家の二階から階段を駆けてくる音がした後、右手の部屋から顔を覗かせた眠そうな少女の顔。それでも目鼻立ちは整っていて誰が見ても綺麗な子だと言うに違いない顔である。紛れもない燿燦は出迎えの挨拶とともに指南番に抱えられた青年を淡く睨みつける。

「ご覧の通りの危篤状態に............近しい感じ。コレ、抜ける?」

指南番はやや曖昧な説明だったかとほんの少しの後悔とともに、顔を覗かせた燿燦にあざとく首を傾げてみる。

「あーーーえーーー分かんない。でも試してみるけど......ね」

燿燦は青年の顔を観察した後、指南番の顔色を疑った。

何かを欲している、それよりかは訴えているようなアイコンタクト。

「ああ、そうそう。彼、さっきの子供......」

「そうじゃなくて!あたしと同級生なのかってコト!通わせるなら!」

指南番の「燿燦が彼のことを危険視しているのだろうか?」という普通の察しに間髪入れずに燿燦自身の欲しがっている情報の開示を求める。

「え、えーと。違うね。取り敢えず。でも......ああ、そういえば男性Male嫌いだったか」

帰路の間に実年齢と精神年齢を計っておいて良かったと指南番は満足する。

それと同時に再び疑問も浮かんできた。

何故、精神年齢が帰路の間で下がり続け、実年齢との差が10にもなってしまったのか、という疑問が。

「男性嫌いはどうでもよくて!ただ、彼が慣れるまで介護しないといけないのかなーとか思っただけ。じゃあ、こっちきて」

「ちょっと待って。それなら彼を運んで欲しい。ああ、それとできるなら異物の除去を。・・・男性だし、運ぶのは少し重いけど。私は上着だけ脱いでおきたいんだ。ここは家だろう?」

「おけ」

燿燦は渋々了承しつつ、「重ッ!?コレ重いよ指南番!ふっざけんなよこの泥剣がァ!!!」と荒々しい声を上げて階段より奥にあるであろう部屋に進んで行く。

指南番は自身の察しの悪さに後悔よりも「私が悪いのか、燿燦が悪いのか」といった疑念を抱く。玄関のショーケースに着ていたブルゾンを入れて青年と同じくワイシャツを着た姿が露わになる。加えて、元の服装がロングスカートに黒タイツにフレアヒールであったのでまんま教師といったものであった。

最低限の着替えと慣習になってしまったを済ませて燿燦が向かった部屋に行く。

玄関から見て右手奥の部屋が洗面所とお風呂、そこから入って出た正面にある階段の左に伸びる通路にあるトイレや研究室等の扉ら。

その中でも通路の突き当りにある一番大きな実験室で燿燦は青年に突き刺さった剣を除去しているだろう。

指南番は通路を肩を伸ばしながら進み扉を開けた瞬間、視界がレッドアウトした。


鼻腔をくすぐる生臭い匂いに嘆息をつきながら接続領域を広げ、右手の人差し指に領域内に飛散した血液を纏める。

「ああ、指南番、申し訳なかった。本当にごめん。普段は一人で弄って最後に掃除しているから加減を忘れてしまった」

「色々弄っていた?まさか......死た」

「いやいやいやいや!死体とかじゃなくて、泥で創った武器や防具とかを改造してるだけだからね!?そもそも体内は専門じゃないわ!ったく調子狂うなぁ......」

部屋に入って初めて会話した時の燿燦は指南番に「植物」や「死にかけの何か」を連想させるほど、気味が悪いぐらい穏やかだったのに対し、指南番がストレートな例えで切り込めば普段の破天荒で活発な女の子に戻る。

この指南番にとって最高のギャップが彼女と行動を共にする理由の極一部であり、燿燦のあらゆる行動面においてアドでもあった。


「指南番。血液、貸してくれない?彼に戻すんだ」

「いや、譲渡の方が面倒だから私がやろう。それよりも、その抜いたロングソードの解析をした方がいいんじゃないかな?」

「それもそうだけど......コレ、法則に反しているっぽくてムリ」

「ん?じゃあ抜くときどうしたんだ?」

「領域中和でこの剣をあたしの領域内に引きずり込んで排除しようにも、コレ、切先が彼の視神経に侵食し始めていたから、変更して最低限のポイントで切除するっていうやり方」

指南番は左手を顎にやりつつ、もこもこと顔を覆うフィルターから四角いブロックを湧かせながらKutuに近づき、右目に血液や神経細胞などを流し込んである程度元の状態に戻す。

燿燦は指南番の顔に手を当てるという珍しい行動を終始心底奇妙そうに眺めていた。


「やはり.........」

「ああ、右目ね。うっすらと分かっていたけど、復元......出来ないか、指南番でも。応急処置をした時のデータがあるなら、帰宅早々投げるだろうし」

「残念なのかを決めるのは彼、Kutu自身が起きて判断するべきだから何も考えないが、右目のデータだけ欠損していたのは確かなこと」


この世界で、「復元」の許可や術を持つ誰かが、どこかしらの場所で自他共に精神体の損傷を起こしたとしても、周りに散らばる血液や接続領域を広げた時に見える多色片オーブをかき集め、元の場所に戻せば手動、又は自動で修復されるという仕様になっている。

唯、データの欠損が無いということはザラにある。

そのことで身体機能に不便が生じたり、記憶の欠損さえも起こし得る。


「彼、“くつ”っていう名なんだ。漢字は?履く靴?それとも掘るの掘?」

燿燦は靴を履いたり、手で穴を掘るようなジェスチャーをしながら指南番に問いかける。

「いや、漢字じゃなくて英語。けーゆーてぃーゆー。多色片の読み取り時では、姓に値するのかは判別が出来ないが、“Division”とだけ。これは借伎の系統か?」

「借伎の系統はまんま漢字だし、そもそも名前に系統入れるなんてどうかしてるよ。相変わらずの疎さ......。まぁ、いいか。ところであの付いてた泥は中和出来たから、纏めてその床に転がっている白いキューブにしたけど、運用は?倉庫送り?」

指南番が燿燦の指差す方向を見ると、一辺30㎝ほどの小ぶりの正方形が置かれていた。

「運用はよーさんの自由でいいよ。ただ、お願いがあってね。その泥、見かけによれば高純度だからKutuの義眼を創ってくれないか?彼は奇怪な泥の汚染者だそうだから、があるのは当然。ああ、そういえば視神経に泥が侵食しているなら接合が多少は楽なはずなので、やっぱりよーさんは創ること頼むよ、お願い」

「だけって何よ、だけって。まさか相当苦労した切断より高難易度の神経接合までやらせる気だったの?幾らあたしは泥が主兵装だからって細部作業やらせるとかヤバ過ぎるでしょう!?さっき体内は専門じゃないって言ったよね?」

物凄い剣幕で高速で反撃してくる燿燦を横目に指南番は転がっているロングソードを手に取り、鑑賞する。


指南番がこの剣を初めて見た時から、見返しても浮かんでくる感想が「凝っているなぁ」というものであった。

―――実戦用か鑑賞用かの見分けがつかない程の精巧さ。


グリップを握った時に感じる数㎜の深さの正方形の凹凸の違和感。

だがしかし、これはこれで使い慣れてくれば寧ろ欲しがる中毒性のような指にはまる安定感を垣間見た。

ポンメルに視線を向けると無数の影を生み出す極小の正方形の小山。

最も特徴的なのは二重螺旋構造と正方形のコンビネーションが成すとも言えるガード。自然的なヒトの遺伝子と人工的な四角の対比は独創性に長け、人類がこれから向かうであろう「サイボーグ化」への兆しを表現しているかのよう。

ブレイドはもはや「残虐性」の権化と化している。

片刃だけ、これまた一辺約1㎝ほど「四角」く刃毀れしているかのように思えたブレイドだったが、切先から数十㎝下とガード付近にこのが集中しており、つばぜり合い時のアドや一撃一撃の「惨さ」を増す要因と成り得る可能性を秘めている。


―――いや、きっと。


この為に作られたのだろう。しかも、個人用。




指南番がロングソードに見とれていると、背後から右肩をガシガシと強く叩かれ衝撃によってフィルターから正方形のエフェクトが零れ落ちる。

「指南番、義眼創り終わったよ。まぁ、事前にコピった研究用の目から構造を理解してこの代用物質で適当に創ったヤツをKu-くんの微弱な残留思念に合わせて再構築して創った欠陥品......いや、お飾りに過ぎないものだけどね。さっき処置した右目のあったについて詳しく説明すると、泥に侵食されたのは軸索部分で、幸運な事にそれが視神経損傷後の脳側に向かう変性を遅延させてる。つまりまだかいふ......」

「もういい、もういいから!ね?怒ってるのは分かるし、こっちもツッコミしたいところは無数にあるし、その専門的な話はとても理解出来るけどさ、理論じゃなくてタスクをお願いするよ」


指南番は「もしかしたら、よーさんが癇癪を起してあの目を破壊しちゃうかも」という懸念を抱いたので、放心状態の燿燦からしれっと義眼を強奪する。

2度は合っても3度目の反撃をする余力を燿燦は持っておらず、雑に首を縦にふって「了解」の意を表し、話を再開した。


「はぁ。うん。えーとね。ああ、タスクの説明か。取り敢えず、指南番はこの右目にぶら下がってる視神経を視交叉付近で途切れた侵食中の視神経に繋げるだけ。あたしの万が一の為の義眼を創った苦労とは比べ物にならないほど簡単な作業でしょ?ねぇねぇねェ!!!」

「分かった、分かったよ。もう体内が専門じゃないっていうのが嘘だということが露見してるし......あ、違うね。よーさんは物理的にも、身体的にも傷つくのが嫌いだから、万が一に目とか腕とか失ったとしても、最低限の障碍で済むような身体の器官の保険が欲しいだけ。ただ、その保険を自身の主兵装である“地神の汚泥”で創れるようにした、違うかな?」

そう自問するかのような言葉を上の空で呟きつつ、指南番は燿燦の付近で仰向け横たわるKutuの右目に気色が悪い疑似視神経がぶら下がった義眼を瞼をこじ開けて捻じ込む。


「―――――身体干渉開始」


指南番はとある河原の心象世界のど真ん中で瞼を閉ざし、そう告げた。

真っ暗の視界の中心から発光現象が発生、縦に横にと奥行きを生み出しながら光の連鎖を起こしていく。

やがて、その光たちは群れを成し不揃いの極小円をあらゆる場所に構築。

その円から徐々に触手のようなものが急速に周りの漆黒に向かって伸び進んで根を形成した。


辺りは暗い。


―――――これが燿燦の言っていた視神経の......細胞部。細か過ぎる。もっと、もっと手前へ。俯瞰し、全体を統率する一つの「意志」として、全てを意識せねばならない。

束になっていく視神経細胞らから視野、意識を離していく――――

あらゆる光が肥大化していき、一瞬だけ視界を白で埋め尽くす。

ただ、それでも一瞬だけ。視界の上や下の隅からすぐに黒が侵略し、ふと「意識していること」を意識した時には、視界を通り抜ける一本の太い光の線と、その周りを囲む赤黒い肉壁の何ともヒトの神秘な「絶景」が映し出された。


―――――ふむ。これが先程の視神経か。右へ直線に伸びているということは、がやったことだろう。なら―――もっと右へ視野を広げれば!


「追告――――知覚領域拡張」


私は、もっと右を見てみたい。


指南番は次に視野を右へ移動する旨を告げる。

「無意識」、心象世界を意識するように。

平らな胸に右手を当て、細い左手の指先で世界を侵食する。

爪を立て、肉を抉るように。

この世界の景色にくでさえ削り取り、河原を彩る浅瀬の川を激流が岩をも打ち砕く滝へと変貌させるが如き思念の濃度で。


視野を右にスライドさせれば、そこに見えるもう一方の途切れた視神経の束を指南番は確実に捉えた。

この二本の紐を接続させるのは、補足外の指南番自身の安易借伎が必要不可欠。

ただ、この細胞量を正確に繋げられるかは未知数。

地神の汚泥の借用とは致しがたいことではあるものの、自分の「親切心」が指す「Kutuを少しでも救ってあげたい」という願いに従うべきだと指南番は強く信じる。




「―――――視認可能な視神経細胞の操作権限を付与......っ......がぁ!ぶぐぅ!!!」


―――――頭が、重い。


ほんとはないのに?


―――――頭が、締め付けられるように激しく軋んで、痛い。


いまではないのに?


そうだった。

今は痛みが無い《Open my disturber》んだ。気のせいだ。

不思議と頭がむず痒く、そして軽くなった。


ああ、忘れていた快感。気持ち、いい。


暗示。


指南番は数多の細胞体、シナプス、軸索、髄鞘、成長円錐を視認、意識することに成功した。

不可視の左手を右に扇ぎ、途切れた視神経に疑似的な視神経を繋ぐ。

雑に切れた軸索や髄鞘は右人差し指でなぞるように切除していく。


優雅な手つきで指南番は全工程を終了した。


「―――――身体干渉終了」


終始同じ心象世界で告げた後、指南番は気だるげに瞼を開けた。


「あ、えっと多分終わったよ。あんまり覚えていないけど。で、さっき私が立てた推測って合ってるの?」

「は、え!?指南番、体感数秒しか経ってないんだけど、早くない?ああ、そうそうソレ合ってるよ。うん、たまには察しが宜しいことで」

「これが早いとは。普段のよーさんも早いはずだから時間、計ってみたら?とは言え」

指南番は座り込んだままKutuの瞼をやんわりと開け、会話を再開する。

「いい白色の眼だね、コレ。ただ、さっきの身体干渉で垣間見た義眼の水晶体の部分に「異常」と言っても水溶性タンパク質と硬タンパク質を泥で代用する調整が甘いのが原因だと思うが、これじゃあKutuはモノを視認できず、傍から見たら彼の右目がいつも純白に光ってるだけだね。周りの光が中で屈折し続けるだけの機能しかない。“お飾り”っていうのは本当に“お飾り”だったことか」

「いや、そこはKu-くんの残留思念に合わせたが為にそういう欠陥があるってこと。事前説明でソレ言ったよね?というかお飾りっていう言葉をそっちも使っているなら覚えているでしょ?言葉通りよ言葉通り。そんなにあるはずのない綾とか読もうとする指南番の性格は直した方がいいと思う、本当に。ただ、例え普通のモノが見えなくても、泥が神経を侵食していることを利用したを硝子体の一部に増設してあるから、実用価値はあると思うよ」

「記憶がさっきから曖昧なんだ。今思い出したよ。仕掛けについては特に言及しないが、その呼び方、まだ会って話もしてなくてその馴れ馴れしさはやめようね。私もこの性格を何とかしてみるからさ」


燿燦は短時間だが濃密な会話で息があがっている様子。

二人とも近接戦闘に特化した人間なのに、これほど差が出るのは普段の鍛え方の問題なのだろうか。


「よーさん、今日はもう寝た方がいいんじゃないかな?さっきのは流石に分野の話であり、多分年下の男だから労わりたい気持ちが強く出るのは分かるけど、疲れすぎだよ。学校と独自研究で消耗した後、あんなに正確な義眼を無茶して創ったってさ。まぁ、お願いしたのはこの上ない私自身だけど」

「ナチュラルな煽りも聞き飽きたわ。分かった、今日はもう寝るよ。まだ20時だけどね。Kutu、明日には起きていればいいけど」

燿燦はその後じゃあね、と言い残してそこそこ大きい一角がほんの少し欠損した白い正方形を左脇に抱えて部屋から出ていった。


指南番は自身の暴論に反省し、怒られるのも覚悟していたが流石にその体力さえ残していなかったと一安心して一息ついてロングソードの鑑賞に戻った。


「この剣は、私が扱って無理ならあの子にも......と」

「起きたか。気分はどう?私の言葉が理解できるかい?」

指南番は真後ろで鈍い物音が聞こえたので振り向いてみれば青年が右瞼を圧迫している途中だったので問いかけてみた。

「おきる。わ、たし?」

上体を起こした青年は興味深そうな顔をしながら指南番に答える。

そのどうも阿保らしく無垢な様子に指南番はうっすら笑みを浮かべるとともに、自身の疑問視していた事が現実になったのでどうしようかと悩む。

「その精神年齢......三歳頃まで下がったか。模倣ね。ふん、だがしかし此方にも手がある」

「すこし、ここでまっていてね」

「じゃあねえ。あわ、わたし」

青年はほんの少し先程よりもおぼつかない発音をしている事から、指南番はある事象を考慮した。


「精神年齢が少し語弊があるものの、で下がっている」という事象を。


指南番はすぐさま部屋の扉を開けて隣にある自身の研究室に急ぐ。

木製の古びた扉に付いてある金メッキが剥がれたドアノブを引き、古風な部屋を一望しつつ入って右手前にあるショーケースを開き、がインストールしてある試験管のようなメモリースティックのケースを探す。

様々な色合いで意味不明な記号や数字が描かれた独特な収納方法に当惑するが、基礎的な知識を入れたメモリは全てエメラルドグリーンのものであったので数秒で発見できた。


「あった“保有者一般知識集”。彼の肉体年齢は16歳だから16を選べばいい............っと」


ケースの底に指を当て、今となっては廃れてしまった指紋認証を行い真空パックを取り出した。袋に入ったメモリースティックを片手に青年がいる研究室に急ぐ。


指南番が研究室に到着すると、青年は暇そうに天井を見上げている。


それはある意味指南番にとってのチャンスだった。

指南番は袋からメモリースティックを取り出しつつも、この広い部屋の縁を消音を意識したステップで青年に迫り、何を血迷ったことか本来は機械に挿すのが用途であるはずのスティックを青年の首に刺し込んだ。


いや、恐らくこう使うのがアレの用途なのだろう。


指南番の手の中から一滴だけ血の雫が零れ落ちるも、青年は奇妙な事に声を上げるどころか澄みきった雪解け水のような透明感の声で真後ろから抱擁してくる指南番に問いかける。


「ねぇ、これって何?」


だがしかし、返答は無かった。

青年の精神年齢の回復は中枢神経に目掛けて刺し込んだメモリースティックからの電気信号と、それの補助をする指南番。

青年に対しての全ての情報のインストールが終了するまで指南番は無意識下に行く前の筋肉硬直を続けるのだから、抱擁が暫くの間続くのは必然的なのだ。


青年は考えた。後ろにいる人間が一体自分にどのような感情を抱いてこのような愛情好意とも捉えられるような行動をしているのか、そしてこの無機質でそこそこのスペースがある空間がどこであるのか、もっと極端なことを挙げるならば自分が「Kutu」という人物であるか否かを。

青年に遺された唯一の記憶として「自分がKutuであること」と外界から入って来た「自分が何者でもないこと」という二重の記憶が混合し「自分がKutuであるのか」という疑問が頭に浮かぶ。

ただ、これ以上考えても無駄な事であると青年はある結論を下す。自分が分かるか分からないか、「意識的な有か無か」という選択なら有った方が普通なんじゃないのかと安直に自分を決めた。


青年はKutuとなった。


Kutuは自身の漲る活力と増幅していく経験量、記憶量に混乱するも「世の中は肯定と否定で済ませてもよい」といった浮かんできた情報に気を留めた。

ただ、先程の無意識に口にした誰かに向かって発したコトバからして自分は疑問を持ってしまったんだなぁ、と少しばかり惜しくなった。


ただ、あの時はこの後ろに居る人間は寝ていたようだったし聞こえていないんじゃないかという安心感が湧くとともに、これからはこのカッコいい生き方をしようとKutuは心に決めた。


ほんの少しだけKutuが鼻息を荒くしてから間もなく、左腕から背中にかかる力が薄れていった。


「おはよう、気分はどうだい?」

指南番はやや頭の中がガランとしているものの、上を見続ける幼気なKutuに簡単な挨拶をする。


が、Kutu自身は問いかけにYesかNoのどちらが適しているのかが分からないでいた。

気分、心身に抱く弱い持続感情を指しているが自分の身体に抱く感情は皆無。

だがしかし、「痛い」や「怖い」という否定的な感覚を抱いていないことが、自身の感情に直結すると解釈した為、Kutuは浅く首を縦に振った。


「へぁ......あっはぁ。大成功から限りなく遠い成功だ。世の中を取り巻く様々な意見を取捨選択する思考が未発達なまま、最適解を引いちゃったか......こりゃ周りに触発されながら生きていく環境に入れても生きていくことに難があると言いますか」

指南番は自身の想定以上の悪い研究成果に失望しつつも、メモリースティックを見ながら独白を続ける。

人格イマノキミを殺すのは面倒でもないんだけど、心苦しいし何よりもこれはこれで私個人の研究の転換点でもあれ、その転換点に立って君を見ればこれこそとした色眼鏡で見るってことになる...............はて、どう教育したらいいのだろう」

Kutuは思考を放棄した。

名前も知らない誰かが自分に対してどう扱うかを決めていることを瞬時に理解したが、あくまで独り言の範疇に囚われた情報しか出てこないので



必要がないと頭の回転を終える。


僅かの時間、天井を見上げている見知らぬ誰かであったが、予備動作もないまま急に合点承知の助と左掌に右拳を打ち、口を開いた。

「生きる、には守ることが重要だし、この世界は傷つけ合いが生理行動のような自然さで行われるから自衛手段は最初に確保するべき。折角掬い上げた命だから、意志がないなら遣わせてもらうよ。さあ来て」

指南番はKutuの目を凝視しながら緩やかな口調で語っていく。

合間で機械音がよく走り、Kutuにとって当初、それがこの人の話を聞く上での違和感でしかなかったが、終盤からこの人の「持ち味」や「感情」が機械音によって上手く読み取れるようになっていき「自分はどうやら必要とされている」ということを分かりきった。

話が終わると指南番がKutuの右腕を掴み、Kutu自身はしっかりと歩いているものの、半ば引き摺るようにして「問題演習場」と名付けられている玄関から家に入って真正面にある核シェルターのように装甲板で作られた重厚な扉から階段を通って進める「地下室」に連れて行った。


問題演習場は底面積は100m²高さは7mにも及ぶ天井は純白、床は漆黒の狭間。

あちこちに人の造形を象った言葉通りの「型」が様々な形で連続しており、何かアスレチックの競技でもやっていたかのような雰囲気がある。

「多分、きみが長らくこの名を口にすることは無いだろうけど私は指南番って呼ばれている人間だから。宜しくね。それで、ここに連れて来たのは単なる体術の訓練をしてもらうためさ」

「ここにある無数の人型......それが示す体の運動通りにきみ自身の体を動かしてもらいたい。と、まぁ概要はこんな感じ」

「休むのは結構。ただ、私が次に戻ってくるまでの型を試す、もしくはようにしてね」


Kutuはそれを頷くだけで了承した。

それを見届け指南番は別れも告げずにやってきた階段を上る。


Kutuが周りを見渡せば、


数千もの墓標のような人型が彼を取り囲んでいた。




























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頼みの肥溜/A maintainer 雨石穿 @Amaisi_hoziku

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