頼みの肥溜/A maintainer

雨石穿

Out

第1話 歩道橋の特異点

✜遠近重複




多彩でうねりうねる稲光の根元、そこに自分が横たわっている。

辺りは暗い。そしてピクリとも身体を動かせるわけでもない。


違う、動かす気が無い。頭はこの世の果てを見通せるほど透き通っているのに、ああそうなのねと状況を受容することのみに頭が働く。いや、すまない語弊がある。五感は働く。


触覚、今のそれは鮮やかな雷霆による電気的刺激よりも、数多の人の手を感じる。

視覚、今のそれは遠方にあるにある閃光の収束点よりも、目前に迫る指を感じる。

聴覚、今のそれは轟轟たる電子音を含んだ雷鳴よりも、異形の息づかいを感じる。

味覚、今のそれは甘酸っぱい粘性の唾液よりも、苦々しく不愉快な血痰を感じる。

嗅覚、今のそれはオゾンの生臭い匂いよりも、心象世界に食い込む口臭を感じる。


このように全て動くが、どれしも極点に在る。

近くで、遠く。こことここではないどこかの想いの流れ。

遠近感の欠如、連立する感覚。何もかもが曖昧で意味不明だが、自我境界が溶け落ちている今のここではそれがいいのかもしれない。


霞が晴れるのではなく、降りた。


刹那、脳裏と言っても殆どその語彙が当てはまるかは曖昧なものだが、凡そ六つの自分を構成する感覚が抜けるようなイメージが投射されたはず。


突如、白ではなく黄色の威厳ある雷光が体に這ってきた。抱くように、そして纏うように体毛を一つ一つ丁寧に立ち上げながら全身をなぞり尽くし、奪う。

それに呼応するかのように、あちらこちらで彎曲、はたまた直線に猛進、そして火花を散らしながら歩武堂々目に逼り、奪う。

その後、恐らく耳の穴から甲高い金属音が響き、多分仕留めにくる二撃を見過ごして

「眠ったはず」というのは要は夢裡の中で再び眠りにつき、その虚ろな記憶が今もなお健在していることから現実で眠って、夢で眠って、夢で起きたのが今という時間軸になっている。


曖昧だが。


今現在は......自身の肉体を俯瞰していた。

体勢は両足を両手で畳み込みながら蹲っており、全裸、素っ裸。

相変わらずの粉雪が少し積もった小汚い黒髪、グチャグチャの髪は秋の台風を連想させる。

夏と違った凄まじい風を吹き起こせそうないいプロペラ《ねぐせ》がついており、普段はこんな髪型で廃れた都市に出入りしているのかと我ながら恥ずかしくなる。

もっとも、唯髪を整えるのが面倒くさいだけであり、恥ずかしいというのはあくまで口先だけでしかないのだが。


やはり他人にどう見られようがどうでもいいのだろう。

別にその空間だけ呼吸のやり取りを共にするだけの同種なのだから、不快感やまぁ多分あり得ないだろうが快感を覚えられたところで侮蔑の混じったコミュニケーションには発展する可能性ぐらいしか懸念する要素が無いのでまぁ、これでいい。

いやでもちょっ............とは綺麗にしたいかも、しれない。泓は流石に不衛生だろう。

――――くっそ、矛盾するな。


今度は頭部ではなく身体を。

自分の肉付きで特徴的なのは、ほんのり脂ののった下腹に太った両腕の関節付近と太腿。

それ以外は飲み食いの渋りで痩せて多少は細くなっている―――不健康だ。


これらの身体の要素は普段通りだったのだが、目を背けたくても視点が固定され、見ることを強制される自身の異質な肌。

赤黒く、小さな肉の塊がぽつぽつと浮かんでいる。

当然だった。前の電撃で皮膚の細胞が壊死するなり焼け焦げるなりしたのだろう。

ましてや神経に沿うようにどす黒い爪痕が刻み込まれており、見るに堪えない状態であった。


そういえば周りが暗いのに何故黒い傷が見えるのだろう、ましてや体も。

雷公様の枉駕は終わった。よって光源もない。だが、視界は、いや正確には視界に入った自分の身体のみはしっかりと見ることができる。


夢の夢では視覚が生きていた。


再び視界がぼやけた。

朽ちた思考回路に薄い亀裂が入り、隅から氷河が怒濤の勢いで崩れるが如く瓦解する。その度、ブチリと肉や回線を乱雑に引き千切った音が轟き、淡い意識に生の実感を蓄積させ、「コロすものか」と呼び掛けているようだ。

別にそんな余計なことをと薄々思ってしまっているのは、普通に考えて夢の中で死ぬなら現実でもシぬのか?という難癖つければ予知夢だなんだと返せる問いに対していやそれはないだろうと返す根拠の有無ではなく、という頑なな自己主張の一部からである。

非常に非科学的かつ完全に主観に偏った意見だが、シ、つまり虚無を生きながら一番感じられるのはこの時間ではないかと考えている。

深く考えすぎるのも億劫で、そもそもこの状況下に変な見方をせずに、寝たら起きるという生理的な状態の安直な結末を考え、覚醒が近いことを夢で知覚させようと捉えるべきだと思ったほうがいいのかもしれない。


ふと、起きようと思った。でも、夢の中で自我を持った経験は初めてで、どのようにしてこいつを破壊したり、コロしていいかよく分からなかった。

いつもは無意識に食べて起きていると思う。起きた時はカーテンから差す陽光が顔面に当たり、満腹感に包まれながら起きている。

でも、今回は意識的に眠りについた。

不登校でやることも特に無ければ、最低限の金しか持ち合わせていない......いや得られないので、どうせ食事をするにもおいしい物が食べられない。

金がないので満腹にもなれない。だから寝たんだ。


結果は失敗だと思う。何故なら、このように意識しなければ起きれないのだ。

永劫を感じさせる濃霧の中で不可視の左腕に熱を送る。

さぁ―――蜘蛛の糸を掴むように、ではなく、太刀を振るいつつ鞘を刀身から弾き飛ばす如き手の動作で上った―――




✜漂流願望-α




目が覚めてしまったと冷ややかな布団の中で理解すると同時に、知覚圏の一部を家の通信機器まで拡大させ、左目の網膜に「現在時刻」に関する情報を一斉投射した。

ああしまった家の情報機器は凄い多いから、最低限のデータを抽出せずに一斉投射したら肉体負荷が尋常じゃないぞ、とざっと11刹那程考えたが、両親が家を出て行った時に殆どの機器が消えていたなとぼんやり思い出し続行した。

数字の羅列が左目の中で火花を散らす。青白い閃光を激しく発し続ける数列に何かを思う隙もなくあらゆるフォントが大量に表示される。

現在時刻は2019年11月25日午前11時30分2秒だということを把握。前に寝たのが9月25日だからちょうど2ヵ月寝るように設定したということだ、俺は。親父に買ってもらった一世代前の睡眠時間操作用機器の使用は今回と前回7月15日~8月30日の期間の2回のみ。

一世代前は今とは比べ物にならないほどに超心理学の研究が加速しており、近隣の地域の人々《ジーンリッチ》が実験に駆り出されて、ボロボロになる。

そこで休息や、夢を用いた技術定着を兼ねた「睡眠の管理」に目が向けられ、これが開発される経緯となった、と親父から聞いているが、私的利用に最適だなぁとしみじみ思う。


現状、この世界では極端に言うと人種が支配者と奴隷の二極化が確立されており、差は姿のみ。


支配者にはキャパシティが求められ、奴隷には容姿が求められるということ。


キャパシティに関して、通常はPSI:知力:戦力=5:3:2であり、希少存在である対人又は対物PSI保有者はPSIと戦力が合計されたPSI:知力=7:3の形式で判別されるそうだ。通常の保有者は主に五感の拡張のみであり、対人対物の保有者は物を浮かせたりちょっぴり万物を凹ませるだけだからアンタよりは凄く......両親の発言の引用箇所はここじゃないか。


そもそも、デジタルデバイドのせいで最近知ったことだが、通常の保有者はESP、つまり超感覚知覚をキャパシティとして参照し、ESPとサイコキネシス等を合わせて総称するPSIは対物対人の保有者の場合のみで使うという規則があるようで、統一されたのが2003年であることから両親が情報を制限したか、そもそも知らなかったという2択。だが、後者は両親が外の世界で普通に生活していたことから如何にも不自然だという事が分かるのでここで選択するのは前者、つまり両親は自分に欺瞞情報を吹き込んだことになる。

これが確定した場合、両親の情報の信憑性が欠如するので言っていたことの一部は嘘という事になる。


一部、というのは主観だが殆どの場合嘘は筋の通っているまっとうな話にちょこちょこっと細工をする程度に組み込まれるのが定石であり、両親から聞いた話の大半が嘘だと仮定すると、自分が引き継いだこの外と内の橋渡しの仕事やその他外部公開かつ内部非公開の情報などの情報を際に異常が発生する。


まったく、そもそも前提として自分は両親に対して「知恵」や「歴史」に関しての質問しかしてこなかったので、両親が大幅な改変をした情報を吹き込めば、カバーが出来ない因果関係等が出てきてしまう。そしてそのような事象が発生しなかったことから、それは無いと言える。


近頃の一般人はおかしい。皆同等に異質な記憶力を持っている。

ああっ、普通が再定義される。


両親は数年前に外の監視者のみの世界Ipsum capital《日本国極都》から今いるEa capital《日本国中都》に特定地域の監視者として左遷され、世間一般で言う最低限度の教育を極都で受けさせられた自分をここに連れてきた。

その為、自身は戸籍に関して監視者の付属品ということになっていて教育は必要ないが、この地域では後も旧式の義務教育に従い、ましてや高校もあるので16歳の自分は不登校ということになるのでそう自称している。

という語彙は極力使いたくないので意地でもこうしていたい。


・・・色々と思案している間に一分が経過した。特に時間以外で興味が湧いた情報が無いので一点に拡張した域を元に戻す。


さて、改めて起床してしまったようだ。監視者の仕事を引き継いだとしても、自分に課せられているタスクは「ここにいること」だけ。つまり暇なのだ。

この仕事はドストエフスキーが述べたもっとも残酷な刑罰の「徹底的に無益で無意味な労働をさせること」に該当するのか分からないが、うん、酷いものなのかもしれない。

自分は働いてもいないし、「いるだけ」だから自分のシ体がここにあるだけでもいいと母親から言われた。

加えて、あたしはアンタのシ体を見たら植物や昆虫を見るような気分になるし、アンタが無気力に生きている様子を見ても同じ気分になるわとも言っていた。

はっきり言って存在理由レーゾンデートルが無いのだ、俺は。


だから寝た。イきるとかシぬとかそんなのはどうでもよかった。

寧ろ逃げたのかもしれない、この現実はあまり好ましくないのだ。

だから、期待していた。シぬことに期待する為に寝た、イきることに期待する為に起きた。


―――だから、ここでもなるべくを、やるだけだ。


まずは自分として朝何をすればいいのか考えた。

淫夢を見たら自慰行為か、悪夢を見たら入浴か、明晰夢を見たら食事か、正夢をみたら外出かぐらいだろうか。

逆夢を見た経験はないので除外したが、見たならサツ人か自サツだろうに。

今回は悪夢と明晰夢を見たので食事と入浴を。あんな苦しい思いが現実になると確定したくは無いので外出はしたくないが次第。


風呂に入ろうと思い立ち、生ぬるい布団から体を起こしフローリングを歩くと足裏にぐちゅり、とイヤな感触が。

ここは2ヵ月後の自宅だと後悔しつつ足を退けて床を確認すると潰れたゴキブリのシ体が一つと無数の羽虫のシ骸が。

足裏には3本の足と内臓、欠損した頭部の一部、そして淡黄緑色の体液が塗られてある。


「風呂に入る前に掃除もしなきゃなあ゛」


掠れた鈍い声でポツリと呟く。

辺りは住宅地も関わらずに全くの無音。

でもそれが一番心地よくて、今まで一番感じていた世界なので安心した。

そしていつもの無心。ゴキブリのシ骸を悍ましいとも思わず、特に哀れだとも思わない。


人間の価値が下がった今では、これを他人のシにも抱くのだろう。

万物のシが、概念が具現化され、神格化された今ではシは自分のように客観的に見れる人は近くて親しいものだと思う。ただ、それを最も近くで観測する者は恐怖でしかない。それとほぼ同等にどうでもよくなるのだが。

「シ」は「サツ」の上位。よってあらゆるものをコロしきる。


ゴキブリのシ骸が付いているのは左足の踵部分のみ。

片足を爪先立ちにして歩けばいいだろうと思い、そのままドアをさらりと押して廊下へ。

突き当りに洗面所と脱衣所があるのでそのまま正面へ進み、風呂に入った。


全裸で浴場の床を踏むが、異常に冷たい。

すぐさまシャワーから温水を出すが、これは異常に熱い。

長期間の睡眠で感覚が麻痺していた為、この状態は必然だった。

外部の睡眠時間操作用機器に加えて、全身マッサージ機を持つ布団で寝ていたので身体の動きが少し鈍いぐらいで2ヵ月の睡眠の代償は済んだと勘違いしていたが、他にもあったか。


早くご飯が食べたいのでボディソープ、シャンプー、トリートメントの使用のみで「入浴」のプロセスをこなし、脱衣所に跳び抜け髪をバスタオルで拭いた後に服を着る。

2ヵ月前に準備していた服や下着を脱衣所の一部に設置した衣装ケースから取り出し、気持ちはのんびりと、動作は素早く着こなしていく。

服装は、ライトブラウンのコーデュロイシャツにアッシュのチェスターコートを纏って、ズボンは万が一に動きやすいように全体的に紺色で白のラインが垂直に入ったカーゴパンツを採用。

出来上がった「自分」を鏡で眺めながらドライヤーで湿った髪を乾かしていくと、程よく乱雑な髪型をしたどこにでも男の子がつくられる。

服装が完全に大学生のようなもので、ましてや自身の身長が176㎝であり、平日の昼間に出歩いていることから如何にもそれである。


一か二分程適当に髪を古風な櫛で梳かし、はふぅとため息を付いてから自室に戻り、掃除を始めた。



自動化オートメーションが好きではないので、掃除にはいつも時間がかかる。

ロボットに任せるのも効率が良くていいかもしれないが、こういった人として積み重ねてきたはずである行動の趣に浸るのも悪くない捻くれた人間がここに存在するので、電気掃除機の需要は落ちてはいるもの無くなりはしない。

思った以上にシ骸が転がっているので、床を一掃するだけでも15分程度かかってしまった。


そうこうしているうちに腹が減る。

掃除機を部屋の押し入れに突っ込み、慌ただしく階段を降りてリビングに駆けていくも、ここにもシ骸が無数に。


―――さっきまで掃除の美学を雑に語って自身の行動を正当化していた自分を憎む。

このまま掃除を続けていたら空腹感で何かを破壊しそうだ。

改めて思うが、やはり満たされなかったじゃないか。

外食にするか、と渋々決心し今度は玄関に向かう。

辺り一面に広がる黒い染みを変則的なステップで避けつつ、玄関の寸前でメールを確認していないことを思い出す。


左目の感覚を前回の知覚域部分拡張時にひしひしと迫らせていき、少し体感手前でコツンと落下する。

前は自宅内の電子機器内のアクセスであり、現在は自分の政府公認アカウントのメールボックスにアクセスするので利用形式がまるで違う。

生きているうちに干渉するあらゆる空間や時間を徐々に逸らしていき、指定した脳波に近付けることでごく少量分泌される「思念」が右腕に血潮のように流れるのを実感し、疑似ESP解放へ。


無駄な情報がシャットアウトされた白銀の世界を左目を通して視認する。


―――虚空を睨み貫く。

疑似的なポインターと化した視線それは自身の乱雑に制御された意志程度には従ってくれるので、操作が楽だ。

ただ、機械に干渉可能な疑似ESP《こいつ》を自身が持ち得てしまっても、機械的な知識の完全たる欠如があるので当然のように内部的な情報の読み取りは全くの専門外。

なので、実質一世代前に普及したオペレーティングシステムを備えた携帯電話より少し利便性が上がった程度。アプリの起動時間を自身の能力に応じて短縮したり、多重操作は余裕だ。


すぐさまアプリケーションに補助してもらった自身のアカウントのメールの欄を見ると......87件のあらゆる形式の文章が表示されている。


自分の複雑な疑似能力でしか読み取りが不可能な機密情報のファイルが添付されている政府からの数多くのメールから、極都にいる数少ない友人からのビデオメッセージ等。

卒業した一年制の学校からの安否確認や情報提供、仕事の依頼などのメールは特別個人用という訳でもないので削除予定の欄にしまっておく。


はっきり言って特別な用でもない限りは極都に行くことさえも許されず、どのみち自分は「いる」のが仕事な監視者の分際であり、歩道橋《かんもん》で弾かれる。

特別な用でもない限りは......


少しだけ、淡い期待に縋りつく為に38件ある溜まりに溜まった機密データを圧縮し、「探」と「調」いう言葉で網を作り、流し込む。


一件ヒットした。これはやっただろうと確信しつつ、特定のメールの内容を確認すると「10月1日 管轄下の隠匿保有者の調査の件について」と表示される。


隠匿保有者というのは、支配者と奴隷の二分化社会において互いに限りなく干渉しない中で偶発的に出てきてしまった奴隷側に位置しながらも支配者に回れる能力を持つ人間を指す。


つまりESPは殆どあり得ないにせよ、PSIに含まれる何かしらを持っている人間。


PSI保有者は確かに稀有なケースではあるが、それは極都内での話。

ジーンリッチから自分達に至るまでの過程を考えると、主にポテンシャルに焦点を当てるなら人間として最新である彼ら、その最新より少し前の人々......厳密に言えばその人々の中で良質な遺伝子を持つ子供を抽出し、「経験」や「技術」を学ばせたのが自分らであるので、伸びしろがあるのは向こうなんだから当然だ。


PSI保有者は遺伝子異常か突然変異かは分からないが、殆どの場合は血統関連だろう。

一応、この区域内にいる以上、過去の遺伝情報も考慮しての個々人の安全が証明されているジーンリッチのみが......これは差別表現か。

続けるとジンチ(ジーンリッチの略称)のみが生活しているので、不祥事は稀にあること。

そして動くのは自分自身。

ただ「いる」だけの仕事、つまり例外を考慮しなければそれで済まされるが、真神託宣前のパンデミックのように生きる以上はこれは付き物でしかない。


と、過剰と言っても知る限りの情報をなるべく簡潔に触ってみたが、決して貴方の管轄区域に隠匿保有者が居ますよと明確に表記してある訳じゃなくて、「定期的な調査と報告をして他のジンチに悪影響を及ぼす可能性を徹底的に排除する」ことと「管理者の安否確認」の二つが含まれている。


教育関係と政府は分化していて安否確認を二重でしなくてはいけないのが億劫であるが、奇妙な事に最近では距離が近くなって気持ち悪いんだよね、とさっきの友人からのメールでそのような事が書かれている文面を見たが多分、


兵役関係だろうなと薄々思う。それと同時に両親の柔和な顔が浮かんだ。


さて、現在の自分のタスクは外食、隠匿保有者の調査、家の掃除の三つ。

久々の充実感に心が躍る。空腹感も満ちるし......いや、寧ろこのような充実感に浸らせてもらうために犬のように「お預け」されていたと解釈したほうがいいのか。優先順位を自身の嗜欲のままにすることに決め、玄関で朱色のブーツを履いて2ヵ月ぶりの外気に触れた。


11月の寒さは昼でも露出した首回りや手首に切々と突き刺さり、寒いというよりかは痛いと言い換えた方がまっとうなほど。

空を見上げると、白みがかかった太陽が真上からほぼ直角にやぁ、と呑気な挨拶をしているかのようにも思えるほどに微々たるものだが温かい陽光が差す。

周りの雲はここから北に進むにつれて色の濃さを増していき、過去にゆかりのあった山奥の北の地で雪が吹き荒れている景色を連想させる。


辺りは相も変わらない住宅地で、人気はない。

いつもは夜型の生活を送っている自分であったが、夜にベランダからコーヒーを啜りつつ、住宅地の家々に灯る明かりを眺めながら「他人」を感じているので、若干の違和感は当然至極。ましてや背景が紺から白なのだ。異界にいるかのような感覚に陥るのも無理もないか。


興が乗ったのかは分からないが、ふと自転車ではなく徒歩で散策しようと思った。

確かに、自転車での高速移動をしながら疑似ESPを使用しつつ、観測可能領域内のジンチの血統から現在の健康状態まで把握するなんて、やろうと思えば可能だけど視界が狭くなるのはちょっとなぁ、と徒歩が最も最適解であるように理屈づけて押しに押す。視界が狭まるのは徒歩も自転車も同じだろうにという反論は意識と記憶の狭間に送って、だ。


後ろをちらりと一瞥し、扉にロックをかけるとだけ念じて走り出す。

と、同時に知覚域をここら一帯に設置してあったり壁や地面に埋め込まれている外部機器に眼球を上下左右に微動させ、接続する。


左眼が映すのは自宅での白銀の世界ではなく、ふんわりとした月の光が差す、ある夜の闇のような薄い紺色。どこか自分の心象風景に適しているかのようなこの色は初めて見た時から狂おしいほど好きだった。

ブツリといっぺんに表示されるデータの波。


重視すべき八重野やえの鬼怒川きぬがわ閑振かんぶるい傘屹さんぎつ虚席うろせきの五家のデータのみに集中し、家系図を通信の隙を付いてダウンロードすれば......物珍しい事にどの家も一人っ子で肉親は殆どシ亡している。しいて言えば、閑振は注意人物の母方の従弟が一人、傘屹は父方の従姉が一人、虚席は祖父と兄が残っている状況。

鬼怒川は北の地でしか確認したことがない珍しい名字だが、後の閑振、傘屹、虚席に関しては......このご時世だし作ったのだろうな。

そしてこの三家の権力がうっすらと把握できた。


八重野、鬼怒川、傘屹は娘が一人、閑振は息子が一人で虚席は息子が二人。

これらで注目すべき家は虚席だろう。息子が二人いると言ったが、厳密には次男のみなので一人。兄は六年前に極都行きだ。

ただ、これらの情報は彼ら彼女らの会話データから算出したものであって確証性がないのがタマに傷。よってこれらの事前情報を確実にする為にも接近して盗聴だったり、コンタクトを取らねばならない。ましてや相手は過去に保有者を産み出した曲者血統。他のジンチに比べて人間性があり、コミュニケーションに難があるだろう。


「コード」という管理者を継承する前に焼いておくはずの便利なショートカットを使えず、一々マニュアル操作でしかを見ることが出来ないのだが、コードを使わずにやっている変態は余程歴戦の勘や、経験をあてにする職人気質らしい。

だがしかし、工学をメインとするこの世界では俺みたいな文系が手に付けられる職人職に個人のオーダーに合わせて武器を技で創る武器職人や鍛冶屋なんてものはなく、ライン工だけでしかないのでどうも無理なようだ。


―――来世は刀工にでもなってみたいものだ。


あれこれ考えつつ、時速50㎞で街を疾走している今。物珍しい廃れた田園と小さな雑居ビルや車屋なんかが視界に入るもすぐさま視野の端に横に潰されて消えていく。

外部機器を高速拡張させながら自分の走る速度と直径500m円の探知エリアを一定に保ちつつ、呑気に曇り空を見上げて走る。


探知エリアは視認不可能な遮蔽物があったとしても、外部機器の超音波で人のカタチを特定し、超音波でも不可能な場合は地震計をより日常的な振動を計測する装置に近付けた機器の拡張パーツで人の動きを正確に捉える。

これらを使用しても負荷の余裕が少しだけあるので、左目の視野に入ったモノの位置をレーダーに映す保険も付いてある。保険は主に自分の反射神経を信じた緊急回避の補助でしかない。


目的地である昼飯を頂くカフェまで1㎞に差し掛かった時、突如として左斜め前方に人のマークが。このまま走り続ければ1秒も満たずに衝突するだろう。


「は!?」


素っ頓狂な声を上げつつも、冷静に左足と右足を交互に足裏に力を溜めながら2、3歩前方に走る......もうそれはステップに達していた。


―――4歩目、地面を左足で踏む時、身体の左側面に至近距離で捉えられた女性の体つき。体勢が異様に低かったので特殊な走り方でもしていたのだろうか。


5歩目に移行する為に左足を地面から離した瞬間、上体を左に逸らし反時計周りに体全体を回転させ、衝突寸前だった女の子の頭上へ跳ぶ。

恐らく、今の自分の体の軌道をグラフにでもすれば地面をx軸、女性の頭部から地面に垂直に伸びる直線をy軸としたとき、y=-0.5x²ぐらいのゆったりとした曲線が出来上がるだろうに。


―――5歩目、体を自分の平衡感覚に従って地面に直角になるように右足から着地するも、案外運動不足だったようで右掌を地面につけるハメになった。

コンクリでちょっぴり擦れた掌がヒリヒリ痛む。


しかしながら、ピクリと仰け反りもしない自分の体には慣れているからだな、としか感想を言う事が出来ない。痛みや、基本的な運動能力などは全てこのレベルこそが普通であり、それ以上もそれ以下もないと極都むこうでは教えられた。

もっと向上心がある奴は自分が授かった能力の限界を探ろうとするが、支配者の上位層にそのを軍事利用に誘導され、それが露呈した時には既に純粋な気持ちは抱いておらず、終いには植え付けられた価値観で敵国のAI兵士を貪り殺す化け物になっているのは世の常。可哀想な事に、だ。


自分が跳び越えた少女を捉えた当初、妙に焦ったのは探知エリアに全くの反応がなく、反応があったのは保険のみであったから。

そもそも、ここらの街と農村部の区切れは道路が迷路のように入り組んでおり、外部機器の超音波は余り役に立たないので拡張パーツの使用を主としているが、それが反応しないのは機器の不備か全く振動せずに走っていたかのどちらかでしかない。


意味が分からない。


兎にも角にも、もうすぐ12時になろうとしているこのタイミングで、ましてや探知出来なかった如何にも怪しい少女に話しかけることにした。

少女は数mほど離れている十字路のど真ん中でキョトンとしながらこちらの動向をうかがっているので、小走りで近づいて話しかけた。


「多分、ぶつかっていないはずだけど怪我してない?」

「ええ、大丈夫ですけどそこまで急いで何方へ?」

首をほんの少し傾けて尋ねた少女の服装をうっかり嘗め回すように見てしまったが、紺色と白色で気品のある制服を身に付けていたことから、近くの進学校であるということが分かった。体つきは色々と主張が少なくぱっと見スラっとしているが、左目が[・・・・・高校 2年 剣道部員 傘屹 濛明むめい]と表記していることから、実は筋肉質なんじゃないかな、と変な憶測してみる。


「お腹がすいたので、食事へ。其方は学校、でしょうか?この時間に?」

ああ、少々ではなく相当迫った質問をしてしまったと後悔したが、向こうは特に焦る様子もなければ平然とすぐに答えてくれた。

「朝に体調を崩していましたが、少し時間をおいたら何事も無かったように直ったので、午後の授業から復帰しようかと」

やや小さな声で哀愁を感じさせる声色だが、素直さがあるように思えてあまりないような小生意気とまではいかない口調だった。気のせいだと思うが。

「そうなのですね」

だいたいこの女が少し匂うことが分かり、これ以上ここにいても無駄だろうと直感しためにここを去ろうとしたが、後ろを振り返って別れを告げようとした直前に、女がどこか恥ずかしがる様子が見えたので、ズボンのチャックや顔を触ったが何も異常がない。


すると、あのうと女性が切り出したので顔を直視する。

「学校、いかないんですか」

この質問には素直さがあり、純粋な好奇心だと見て取れた。

どう返そうかと特に悩む時間はいらず、だんだんとお腹が空いてきたので即答した。

「自分、もう学校行ってるし、多分もういけないんだよ」

社会人なのか不登校なのかをやや曖昧化した返答だが、これでよかった。

これ以上用はない。傘屹の娘、体調不良の二つの材料で粗方確定しているのにあの走り方で整ってしまっている。

しかし、走り方の大雑把な概要が分かっても、ソレを可能にするPSIか体術の種類や成り立ちが不明なので是非とも確認したい。


女の学校への最短距離は自分がこれから進んで行く道を通るはずであり、彼女が一年の冬ならまだしも二年の冬であるので......少し、挑発してみたくなった。


では、と軽く手を掲げて、そして下げることで合図し《はたをおろし》、遠心性神経を回転、平均時速50㎞になるように滑らかに加速する。


「傘屹」という名字の由来は、先祖が遊郭だか貴族だかの護衛でよく依頼者に傘を差していたようで、先祖自体が勇猛果敢な侍かつ山の如き肉体を持っていたことから、らしい。聞いた情報から先祖を連想してみると、如何にもその名字が適しているかのように思えた。先祖がその様であるからこそ、子孫も似たようなものなのではないかと予想していたが、女の立ち振る舞いや容姿からは威圧するというよりかはサッ気を出すといった方が正しい。威圧感とサッ気の主観ではあるが共通点......「恐れ」は女の身長が172㎝であることからだろう。ソースは左目だ。


―――そして、歩道の右端を走っている自分の左側を確認してああと嘆いた。


女の名前からして、山と水を連想させる漢字が使われていて、何となく察してはいたが、やはりこういう情景がのだろうか。


明朝、傘を差さなくてはいけない程度の小雨だが、雨で削れたであろう山を見に行けば、濁流となった雨水が木々を薙ぐ情景が。


―――――その速さ、その動き、濁流の如し。

空を切り、足から轟音を上げ滑走するように走る女体。

走り出して5秒も満たないで女は自分に追い付いた。


おんなじじゃなないなんて、どこか、そう、不快だ。


ああ、と嘆いたのは歓喜と何かしらの失望だろう。


女は滑走速度を自分に合わせ、自分も出来る限りの「いつもの」を意識する。


目が合う―――でもなんて話せばいいのか分からなかった。


もし、自分が極都で誕生せずに、中都のこの地域で生まれたのなら、きっと「進学校」という風に括り付けられた高校に通うのだろう。そして、自分は外出するのが余り好きではないから、「彼女」と同じ高校に通うだろう。

自分は、得物を使って他者をのが好きだからきっと剣道部にでも入るのだろう。そして、きっと「彼女」とこんな風に通学路を爆走して登校でもするのだろう。


あくまで、ただの妄想でしかないことだが凄く親近感を感じた。

この同級生だったであろう「女」に。

でも、別に好きじゃないし、女を自分の目的に利用する気にもなれない。

gene rich《彼女ら》とgine richest《自分ら》は似て非なる。

女らは自分らに利用される悦びを学び、自分らは同種のサツ戮を学ぶ。


オカしてオカすこの世界ではどんなに惨くて吐き気を催し、発狂するような醜いセイコウやサツ人に寛容であるが故に。

結局、秩序や平和とかはそれを維持する為に同等の犠牲を払う訳だ。

等価交換の原則なんて古代人も知っている。またそれが万物に備わった機能だということも。


目を合わせたものの、ほんの少し妄想に浸っているだけで興味が無くなってしまった。女がその後こっちを見続けていたかは知らない、もう視線は前へ向いているのだから。ただ、うっすらと呟きが聞こえたのを最後に女は前方に消えていった。


「ふん。やっぱり、隠しているんですね」

「隠している」という言葉は前にも誰かに使った気がする。


特に興味が無くなった、というのはあくまでもだけ。

別に今から走ってとっつかまえようとしても追いつけないだろうし、仮に捕まえて歩道橋に連れて行ったとしても、突破や連行に同行するのも不可。

摘発はするが、本当に利用価値がない。


というのも、彼女のPSIは育成するのに時間がかかり過ぎる。

とっくに走る意欲を無くした自分は彼女の軌跡を凝視していた。


歩道のど真ん中にうっすらと直線に敷かれた氷が、あの十字路から高速で溶け出しているのが確認できる。白煙の小さな波が徐々に自分の元に迫っていき、通り過ぎる直前、加湿器から出るような蒸気が左手の小指を焼いた。


よくある事例だがやや特殊。思念接続領域内に含まれる気体の水分を昇華させ、氷にするだけの1.5工程。水分保存→昇華か単に昇華かのどちらかで判別がつかないので1.5工程と呼ばれる。

特殊というのは、自分の周りの空気が全く乾燥しなかったことだ。

普通にこのPSIは対一般人の場合では無敵でしかない。

思念接続領域を持たないのがジンチとジント(ジーンリッチェストの略称)の違いであり、思念接続領域が無いことは「思念拮抗」、PSIを防ぐ手段が無い事と同義であり、この女にジンチが接近した場合は無差別に体内の水分を抜かれ、氷に変えられる。


あくまで思念接続領域内に人がいればの話だが。

個人の思念干渉領域が縦に広がっていようが、横に広がっていようが思念接続領域はソレの範囲に左右されない。

つまり、女のやったことでは干渉領域までは割れないが、接続領域が自分の周囲を含んでいない事......つまり不可視ではあるものの、おおよそ地面に垂直であるという事が分かる。


だからこそ弱い。加えて、その能力を移動に使うこと自体が馬鹿としか言えない。

地面の滑走は靴に極小のエッジを使用し加速、しかもあのスピードは幼少期からやっているとしか言いようがない。無駄、目障り。


そもそもだ。移動には自転車とか交通手段が中都であろうとも無数にあるので、そこまでしてPSI解放をしながら走る必要が微塵もない。

慣れているなら、それが如何に如何に疲れて寿命を減らすのがかよく分かるはずだ。

寿命の減りは長時間解放なら無意識に分かるはず。血潮が乱、心臓が刻む鼓動が不安定になることを。

補足すると女は「滑るためのPSI解放」に慣れているだけで、概して見れば「PSI解放」に慣れているわけではない。


接続領域のというのは当初に特定の物質の量子が位置していた場所から自分の指定した区域へ如何なる形であってもその量子と関係を結ぶ、スピリチュアルな形で言えば契約をすることからとってあり、というのはその契約が可能な範囲を指している。


女のように接続領域を「滑る」ことに利用するならば、接続領域外に出た氷はどうなってしまうのだろうか。


等価交換の原則はあらゆることに作用する。契約が切れるならば、元の状態に戻るだけ。この場合、「拡大=縮小」みたいなものだろう。ある分だけ画像とかばねを伸ばしたなら、同じ分だけ戻ってきて元の状態になる。


拡大したままにはならず、戻ってきた時も分量がマイナスになることはない。

―――思念や寿命を払わないならばの話だ。払えば可能だが、代償を最小にするには慣れがいるらしい。


そもそも、PSIやESPなんて人智の及ばない場所に踏み入れること自体が遊び半分であったとしても、人として大切なものを交換されるのだ。


こんなものはいらなかった。

幼い頃はが当たって喜んでいたのに、成長するにつれてに憧れた。憧れなければ良かった。

確かに、暴力はいいものだ。どのような形であっても。

セイギだとか騙っておけば自分や自分が慕う人の敵に如何にも気持ち良く、

言葉では「御国の為だ」、「誰々の為だ」と偏見に塗れたセイギでもなんでもないただの「自慰行為」の為に他者を利用する。


結局、激情の中で「綾」とか「陰影」などのもう見えている深層心理を見ないフリをして行為に走る獣だ、自分も皆も。


呪いが足りない、吐き気がする。


単純だが、人はどうして「これでもいいじゃないか」と割り切れないのだろう。

まぁ、「そんなの」


どうでもいいか。




女を育成やもっとマシな使い方を指導する気はさらさらないし、自分みたいな半人前が指導したところでアレを対人PSIに仕上げることはどう足掻いても無理。

出来れば、今日中にこの中都から出たい。


ゲーム送り以外なら、どんなに堅牢な要塞にぶち込まれても、右腕と左腕で何とかすればいい。そんな風に考えながら、右腕と左腕の関節付近の膨らみを交互に撫でる。


女が形成した氷が解かれる蒸気が熱過ぎるので車道にトラックを移し、再びはたをおろした。


空腹だ。




✜漂流願望-ω




・・・・・・今は特別機嫌がいいので、状況整理を。


住宅地と田園風景が続いた都市部郊外を突っ切り、道中で隠匿保有者を発見した自分だったが、まんまと逃げられた。


・・・違うな、お前は逃がしたんだよ。


まぁ、でも逃げられてしまったことはどうでもよくて、もしもこのタイミングであの女、つまりイミジンチ(imitation gene rich) がここら一帯のジンチをサツ戮したところで責任がいくのは今の自分の代理の斎野さいの 羽塲塗はばとクンですしおすしということなので、自分が何をしでかしたところで大丈夫。


今は腹が減って暴れそうなタイミングでやっとカフェに到着し、カウンターで鴨肉のサンドイッチとパンケーキとコーヒーを貪っている。

貪るという表現は何だか欲を満たす為だけに何かを食べているような感じがしてこれが適しているのかなと思いながら食べているが、実際は旨いだ甘いだ苦いだしょっぱいだコクがあるだなどの味わっているような味覚があるので、実は違うんじゃないかと考える。

加えて、店主の中年のおじさんは自分が兎に角美味しそうに食事をしているのをニコニコと見守っているので......やっぱりやめよう。カウンターで鴨肉のサンドイッチとパンケーキとコーヒーを味わっている、だ。


20分にも満たずに食事が終わり、代金である1100円を払って店を出る。

すると、待ってましたと言わんばかりに探知エリアに反応が一つ。

だがしかし、同時に左目のバッテリーアイコンが赤に点滅している。


自分のESPは電力と思念のハイブリッド型、最も使用者にやさしくて古い形式であるので、電力の消費が激しい。

位置を視認で補足して接続を切るために目標に接近しなくては。

反応がある箇所は歩道橋より少し手前のバス停の近く。恐らく下車した直後だ。


お店のドアをそっと閉め、体勢を少し低く走り出し易いように固定セット

走る、前に進む事に専心す――――


キンと昔に聞いた100m走の合図の音が聞こえたが、ただのブーツと地面の摩擦音だった。


耳に台風が入り込んだように荒々しく風が吹き込み、洞房結節の響きが徐々に激しくなる―――速さはこのままで。


正面に迫る最寄りのバス停の屋根を軸に側転して跳び抜き、早帰りの中学生の集団に割り込み、隙間を縫うように歩武する―――身体に籠める熱はこのままで。


学生の群れを抜いた後も、昼食後であろう社会人が雑談をしながらもに歩き、管理者というイレギュラーからしたら壁のように邪魔しかないので、もうどうでもよくなった女を避けたように跳躍し、体勢を刻々と変えながら屋根、壁の溝、あるいは歩行者の肩を指で触り、重心を整え移動―――意志の向きはこのままで。


傍からみたから変人、もはや狂人だが周囲の驚く目が心地がいい。

そう、基本的にジントがやっている事は幼少の頃から変わらない、子供なのだ。

自分がその典型的な例という訳ではなく、嫌いだから殴って......コロして、好きだから言葉にして......オカす。社会の意識がもうそれを物語っている。


ああ、まだこんなに当たり前にどうでもいいことを考える余裕が作業中にあるのか、自分は。


そうこうしているうちに息が切れてきた、たった100mの移動なのに。

肺が少し怯えてしゃっくりしてきたところで人混みから完全に離脱した。

正面にはバス停の丸椅子に人影が二人。

一人は多分赤の他人であろう老婆、もう一人はサッ気を帯びた吸い込まれるような目で文庫本を睨んでいる少年だった。



つけた―――――「閑振」の息子、閑振 隕執えんしゅう



今、自分が彼について持っている情報は「隠匿保有者」であることと「気さくな人」であることだ。

というのも隠匿保有者を調査するように通知が来たのが10月のことであり、彼とはその前の9月に接触しているので調査も何もない。

彼は中高一貫校の中学3年生であり、2つ下の後輩のような感じ。

接触した原因は、街中でのPSI行使を目撃してしまったこと。

この街の人々は電子端末を持っておらず、代用としてあらゆる箇所にスピーカーやマイクが監視や情報伝達のために設置されているので破損がしやすい。その修理と言ったらを彼が無断で行っていたのを見てしまった。




9月のある冷え冷えとした夕方にコンビニでホットスナックを数個買って駐車場に出てみると、近くの電柱のスピーカーから掠れた大きな人の電子音声が響いていたのでうるさいなと思いつつも接近して疑似ESPで何とかしようと近づいたところ、ぬるっと車の影から薄着の少年が飛び出し、ジャンプして右手をスピーカーの中に突っ込んだ。


瞬間、少年を包んでいた陽光や街灯の光が逆行し、辺りが少し歪んだように見えたので近付くとスピーカーの音量が絶妙な具合で調整されており、少年はホッと安堵したかのようにため息をついている。


「きみ、隠しているの?」


そう話しかけたのがファーストコンタクトだった。

彼のPSIも把握済み、ESP

あの女のPSIは上方、又は前方に短距離特化であり、自分がここを抜け出すのに女の能力は適していない。だが、彼は違った。だからこそ、今までこう足早に駆けてきたのだ。


―――――――そして話しかけるタイミングは今ではない。

ここは歩道橋から目と鼻の先、見たくないものが見えてしまっても何らたじろぎはしない。

此処から前方の真上、ちょうど歩道橋に繋がる階段の中腹にアレがいた。

そもそも、奴は今の自分、ここら一帯の監視者の代理。

自分が目覚めたのなら、この場所に常駐するべきではなく役目を交換するために自分の家に向かうはず。

読みが外れた事は確かだが、彼をデコイに自分を引き寄せたのだろうか。

まぁいい。兎にも角にも、


天敵、斎野 羽塲塗と会合した。


ここでの判断はなるべく正確にしたい。

即興の計画ではあったものの、閑振をどこかで発見して連れて行き、斎野が自宅に向かっている間に歩道橋をで突破して極都に向かうという形を取りたかった。


だがしかし、この状況。


職務の譲渡が行われていない今では、斎野が閑振を連れていくのが筋だろう。

しかし所詮は筋だ。切っても問題はない。

社交辞令をする時間は惜しいのですぐさま交渉を仕掛けることにした。

此処からでも声は届く。



深く息を吸い込み、声を張る。



「ナぁ!斎野ぉ!!隠匿保有者を見つけたから極都に連行したいのだが、自分が連れて行っても構わないか?」

急な大声にびっくりした老婆は、腕時計を見ながら自分の後ろへ去っていく・・・・ごめんなさい。

此方を見下ろす小柄な男はくすりと嗤う。

「あ、先輩おはようございます。それは嫌ですけど、どうしてですか?」

「極都に行きたいからに決まっているじゃないか。お前はいつもそっちに住んでいるから、いいだろ」

思ったより率直に断ったので少々言葉が詰まった。


「それは理にかなっていますが、職務の譲渡が済んでいません。譲渡をせずにここを出れば先輩が大変なコトになってしまいますし、元々」

男の笑みが深くなり、離れてみている自分からしたら口が裂けているようにしか見えない。

「僕が貴方に対してぇ、このタイミングでぇ、職務の譲渡をする訳がないじゃないですか!」


互いに、誰がここでいう隠匿保有者であるかを把握している。

見上げる首は全く疲れていないが、そういうフリをしたいので大袈裟に右手で首を叩き視線を地面と平行にすると、閑振が自分の顔を無感情で覗き込んでいる。


「お願い、合図するね」


小声で独り言のように言葉を発すれば、彼はそれに呼応するように小さく頷く。


再び、斎野を見上げる時には彼を憤らせる言葉が浮かんでいた。

笑みには笑みで返す。・・・省いた社交辞令の代用に過ぎないが。


「そっちの極都くにには、こういうルール、いや暗黙の了解ってヤツがあったな《確認》」

これを呟いた途端、少々、見下げている男の顔が歪む。

「あらゆる事象に寛容。争いだって、失敗だって。勝者には向上を、敗者には機会を。それだけのことだ」

向こうも薄々分かっているだろうが、言葉は発することで完全に伝えられる。

錯綜する綾だって。いや、寧ろその副産物が彼を憤らせる要因だということ。


「だから、敗者の為のドナーベビー《ほけん》がいる。これは実力行使を黙認するということだ。自分が成したいことと、相手が成したいことが衝突するなら、戦いは呼吸をするように人として当たり前のことに過ぎない」

これ以上のはなかった。

頭に浮かぶのは歩道橋の監督者が一人か二人であることのみ。

ただ、自分ら《こちら》の遺言か、彼方《てき》の冥土の土産と成り得る言葉を。


「自分はコロすとかオカすという言葉が嫌いだったよな《復元》。楽観的な感情で装飾できるから。でも、純粋なコロしたいとかオカしたいというそれのみに特化した感情は受容できる。あくまでも自分に干渉する場合だが。アイも一緒だと思う」


「だから、さ、お前の秩序を大事にする精神も悪くないなって思える。それは純粋だから、お前がそれを心底望んでいるのが分かるからな。だから―――――今のお前ならタオせると思う、好きだし。だから否定してやるよ、お前」


アンビヴァレンツ。


俺みたいな凡人が出来るワケがないが、激情に溺れたその刹那だけ薄暗い「シ」の概念を纏った気がした。


左目の接続が切れた。電力はもうなく、ここで思念を練る時間もない。

男を目で捉えながら右手で自分を扇ぐようにでにこっちにこい、とだけ閑振にジェスチャーを。

閑振が席を立ち、此方に近づいたところを抱きかかえて走った。

歩道橋付近の地形やオブジェクトは把握済み。自宅のように目を瞑っていても思うように移動することが可能だ。


しゅん、しゅんと纏った風は前なら気持ちの良いものだが、今は痛い。

なるべく閑振の目を回さずにそして視線を上に向けながら、3、4mの階段を2歩で垂直に上る。丁度床板に足を付け、閑振を地面に降ろした時には反対側の階段に橋の監督者であろう屈強な男が一人、その横に斎野が頭を掻きながら心底退屈そうに立っている。


「閑振、正面二人の男は自分一人で受けるから......いや違うな。あのちっこいのは俺が受けるから、ゴツい方にを打ち込んでほしい」

「ですが、距離がありますよ?」

声変りが起きていない放課後の少年は、動揺を隠せずに答えた。

「自分が飛ばすから多分大丈夫。だけど、きみを打ち出した直後にちっこいほうと差し違いになる、かもしれないから自分が流血した瞬間に降参しなさい」

「ですが......」

「いいんだ。きみが極都に行くこと自体に問題はなく、これは自分の私事だ。きみの望みは叶える。俺と一緒だからね」

少年の心配を掻き消し、更に目的を表面化、そして鼓舞する。

「行くよ」

真左に居た少年が膝を縮めてジャンプしたのを確認し、それに合わせて左掌から左腕の関節部分までを少年の足元に伸ばす。


体勢は蛙のように低く、もっと低く――――――――


重さを感じた瞬間、思いっきり屈強な男目掛けて腕を振るい、同時に右腕右足で胴体を包むように防ぐ。


痛い。衝撃が、あった。

あの場面で攻撃に振り切らず、差し違えなかったことを一瞬安心したが、右腕のみに骨に響くような捻じ込む一撃を貰ってしまった。


跳び蹴りか。


やったのは当然移動した斎野。彼の広がった瞳孔は捕食者を連想させる。


閑振の事は今だけはどうでもよくなった。


後ろに飛ばされた自分の肉体は斎野の瞬きの隙に元の位置へ戻っていた。

事前に左足に力を籠めていたので、壁を蹴飛ばし復帰したのだ。



その後は得物を使わない唯の肉弾戦へ発展していった。



互いに純粋な暴力で相手を制することのみに専心している。

呼吸をする時間はあったので、閑振の方を一瞥すれば監督者が阿鼻叫喚しているのが視認出来た。


閑振のPSIは音を消すことに特化しており、辺りの音どころか生体音まで遮断する―――生きている実感の一部を奪うのと同義だ。消音室の比ではない、発狂するのは不思議じゃない。

ましてや、家が家なので合気道も嗜んでいる。


閑振―――音もなく振るう。それが刃だったのか腕だったのかは些細なこと。


閑振が監視者を潰しつつあり、此方に向かう頃合いなのでもう少し、もう少しだけ力を籠めて斎野を否定する。

火事場でもなんでもないが、全力の維持よりもその上へ―――――




・・・あっ、しまった。

立ち眩みがする。視界が白黒に点滅しているが、同じことが斎野にも起こったようで互いに喧嘩を止めた。


どさり、と床に何かが崩れた。凄く重い、なんだろうと周りを見ようとしたが首が動かなかった。体に籠めていた熱が冷え切り、のようなあの冷たい寒さが体を強張らせる。


どさり、とまた何か崩れた。いい匂いがする。斎野の匂いだ。前より大きくなったじゃないか。重いよ、お前。


かろうじて視線は反対側の階段を向いていたので、現状の把握が出来た。


そこには―――倒れた閑振と監督者。そして―――


「やったよ!従姉ちゃん!」

聞き覚えのある女の声とその主。そして、すこし妖しい色気を醸し出す、知り合い。

いや、


ウォレフォル、お前あの女の従姉――――




氷にオカされた。























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