2005年

関口晶弘

第1話

はじめに

 この物語はフィクションであり、事実と異なる記述があります。どうかご容赦下さい。

                 作者

 


    2005年


                           関口晶弘 作


 2005年、今から15年ほど前の事だ。日本に注目する、ある外国人は言った。

「日本は危ない、いぜれ破綻するかもしれない。」

20年以上も前にバブル経済が崩壊し、低迷を続ける経済は、まだ立ち直ったとは言えなかった。政府機関の不正も、次々と明るみに出てきたのに国民はただ指をくわえて見ているだけだった。悲惨な事件はどんどん多くなっていた。幼い子供達が突然さらわれて殺される。殺しの動機はたいてい憂さ晴らしのためだ。他にも、ストーカー殺人、保険金目当ての殺し、女性や子供の監禁虐待等。

 日本という国が経済的に又政治的に完全に破綻したら、世界はそれをどう思うだろう。気の毒に、と思うだろうか。自業自得だと思うだろうか。しかしある者はこう考えるかもしれない。日本の北西には北朝鮮と中国が北にはロシアがある。この3国の今後の動きによっては日本は再び戦略上重要な地域になる可能性があるのだ。だから破綻はまずい。


 2005年3月、武田が日本にやってきたのはこれが初めてではなかった。これまでにも何度か来た事がある。武田は日本に関するさまざまな資料に目を通した事があるし、大学では日本に関する講義をいくつも取り、勉強した。武田はまた、完璧な日本語を話す事もできた。日本は祖父と祖母の国だった。武田は日系3世なのだ。だから日本には以前から大きな関心を持っていた。

そして結局、武田はその事を評価されたのだ。武田に託された任務、それは日本を救うために最善を尽くすという事だった。


 それは難問だった。この国を救うと言っても、いったい何が問題で、さしあたって何をすればいいのか見当もつかない。

武田はあちこちの街をつぶさに観察した。さまざまな人々に話しかけ、さまざまな話しを聞いた。話しを聞くためにセールスマンや修理作業員、ハローワークに通う求職者、ホームレス等、さまざまな人間に成りすました。日本に来て、数ヶ月がたちまち過ぎた。しかし結論は出なかった。武田は途方に暮れていた。糸口はテレビだった。テレビを見ていて、気がついた事がある。消費者金融やカードローンのコマーシャルがやたらと多いのだ。借金というのは金に困った人間がする事だ。確かに今の日本の経済状態は良いわけではないから、金に困った人間が居るのは判る。しかしその金に困った人間を相手にした商売がこれほど大規模でしかも繁盛しているというのは異常な事のように武田には思えるのだ。武田は調べた。政府はどう考えているのか。また金融業界、銀行や証券会社、保険会社はどうなのか。一般のサラリーマンや主婦はどう思っているのか。そして理解した。この国の問題は借金なのだ。この国では上から下まで借金に犯されている。


 闇金融は儲かる。それは判っていた。だから曽根の居る水谷組でも闇金融に手を出していた。しかしそれは覚せい剤の売買がまっとうに見えてしまう程の汚い商売なのだ。だから水谷組六代目は決して闇金融に本腰を入れようとはしなかった。六代目はこう考えていた。この日本で、闇金融の存在が大きくなっていけば、国民は黙っていない。警察も政府もやがては動きだすだろう。しかしその読みは間違っていた。曽根が七代目を受け継いだ時、東極会はすでに脅威となっていた。その資金力は半端ではない。まだ20歳前後のチンピラが、アルマーニのスーツを着て、ベンツを乗り回しているのだ。東極会は闇金融で大きくなった組織だった。近いうちに、水谷組と東極会の力はほぼ互角となるだろう。そして近いうちに東極会はこの東京でのNO1の座を水谷組から奪おうとするだろう。その前になんとかして東極会の力を抑えなければならない。あの男の命を取る事ができれば、と曽根は思う。原祐一、今東極会でもっとも力を持っている男だ。巨大な闇金融組織をこの男が仕切っている。もしこの男を仕留める事ができればチャンスがある。ブレインを失った連中を一気に叩く事ができれば、こちらに勝ち目があるのだ。しかし原には二人のボディーガードが常に付いている。自衛隊で特殊部隊の訓練を受けたという曰く付きの男達だった。曽根が原を殺るために送った刺客がこれまでに4人この二人に殺られている。

曽根は時々、闇金融という商売について考える。利息、10日で10パーセント。そんな異常な高利にも関わらず、金を借りようとする人間が今の日本では多い。そして一度金を借りた者は決して返す事はできない。彼らはヤクザの奴隷としてその短い一生を送るのだ。彼らはヤクザの命令とあらば親兄弟といえども罠にかけ、その命をも奪わなければならない。ヤクザの幹部が言えた義理ではないが、曽根はつい考えてしまう。警察はいったいなにをやっているのだろう。政府はいったい何をやっているのだろう。確かに一部では闇金融摘発はある。テレビのニュースでたまに報じられる。しかし裏の世界で生きている曽根には判かる。彼らは所詮小物なのだ。摘発は言い訳に過ぎない。


 その男から電話があった時、曽根は焦った。その電話番号は電話帳には載っていない。その番号は組の秘密なのだ。組の重要な関係者でなければその番号を知る事はできない。しかしその男の声を曽根は知らない。曽根は思った。組のどこかで秘密が漏れている。

「突然お電話をいたしましてすいません。」とその男は言った。曽根がどう答えるべか迷っていると、男が続けた。

「決してあなたの御損になるお話しではありません。ただ聞いて頂くだけでもけっこうなのです。どうか電話を切らないでいただけませんか。」

言われなくても曽根がこの電話を切る事はできない。この男は組の秘密を知っているのだ。素性を探らなけばならない。そのためにはこの電話で、できる限りの事を聞きださなければならない。

「あなたは、どなたですか、」と曽根が言った。

「申し訳ありませんが、こちらの素性を明かすわけにはいかないのです。」と男が言った。

「ではどうやってこの番号をお知りになったのですか、」と曽根が言う。

「我々は一般の人達より、多くの情報を手に入れる事ができるのです。」と男が言った。

一般の人間より、多くの情報を手に入れる事ができるとはどういう事だろう。どちらにしても、たずねたところでこちらの知りたい事に素直に答えてくれる相手ではなさそうだ。

とりあえず話しというのを聞いてみようと曽根は思った。その話しとやらを聞いているうちに何かが見えてくるかもしれない。

「話しとは、」

「私達はあなたが今抱えている問題を解決できるかもしれません。」

「問題とは、」と曽根が言う。

「東極会の原を我々が処分してさしあげます、」と男がずばり言った。

男の話しが嘘か本当かはわからない。しかし少なくともこの男は曽根が今抱えている問題を判っているらしい。この男はいったい何を狙っているのだろう。

「あなたの望みは何ですか、」

「我々が原を処分したら、あなたがたは指揮官を失った東極会を徹底的に叩いてくださればいいのです。」

もし水谷組が東極会を叩く事がこの男の望みなら、わざわざ電話をかけてくる必要は無い。原が消えれば言われなくても水谷組は東極会を叩く。

「それで、」と曽根は先を促す。

「私はある事情で、この日本の闇金融組織の力を少し抑えたいと思っているのです。そのために我々はあなたがたの協力が欲しいのです。」

この男はヤクザに向かって闇金融を抑える協力をしろと言う、しかしこの男の言っている事は理にかなっている。つまりこういう事なのだ。もしこの男の言っている事が本当で、東極会を潰す事ができたら、水谷組は今後、闇金融に手を出しにくくなる。下手をすれば東極会と同じ運命を辿る事になるからだ。そして水谷組が闇金融に手を出さない以上、他の組織も闇金融に手を出せない。もし手を出せば水谷組は黙っていない。第二の東極会の存在を水谷組は許さない。

「もしあなたが我々に協力してくださるのならば、我々は近いうちに原を処分します。」と男が言った。

この男の言う協力とは要するに闇金融には手を出すなと言う事だ。水谷組が仕切っている闇金融はそれほど多くは無い。闇金融の上がりは水谷組全体の利益からみればごくわずかなのだ。だから闇金融から手を引くのはできない相談ではない。もし本当にこの男が原を始末する事ができるのなら、悪い取り引きではないだろう。曽根はここで一つ、探りを入れてみようと思った。

「もし私があなたに嘘を付いたらどうなりますか、たとえばあなたがたが原を殺った後、我々が協力しなかったら、」と曽根が言った。

「私は今、あなた方に解決できない問題を我々には解決できると言ったのですよ。」と男が言った。

曽根の表情が緊張した。この男が言いたいのは、水谷組より自分達のほうが力は上だと言う事だ。もし裏切ったら容赦しない。そう言いたいのだ。


 もう深夜だった。曽根はずっと考えていた。あの電話の男は誰だろう。あの男はこう言った。我々は日本の闇金融を少し抑えたい。曽根は考える、闇金融を抑えたいと考えるような組織といえば、どこだろう。警察、政府機関、しかしそれらがヤクザの暗殺など考えるだろうか。相手の申し出自体は悪い話しではない。問題は相手の素性が何も判らないという事なのだ。そういう相手と関わるのは危険な事だ。しかしあの男は東極会の原を仕留めると言ったのだ。そして東極会こそ、今の水谷組にとって、最大の問題だった。東極会との小競り合いはこれまで何度かあった。そのたびに双方が痛手を負った。何人かが怪我をし、何人かが死んでいった。しかし東極会の勢いは止まる事が無かった。どうしたら東極会を抑える事ができるのか、幹部を集めて何度も話しあった。しかし結論は出なかった。いつも最後には誰かが言う。

「いざとなれば水谷組があんな連中に負けるはずがない。」

しかし曽根は思う。それは所詮甘い考えなのだ。対策が無いという事は勝てないという事だ。原を仕留めるというのは本当だろうか。あの男には勝算があるのか、結局それを知る方法は一つしかなかった。我々は協力するとあの男に伝えればそれは判る。もしあの男が本当に原を仕留める事が出来ればそれは真実なのだ。先程の電話で、曽根は言った。

「御返事は今すぐにはできません、考える時間を頂きたい。」

あの男は言った。

「もちろんです、結論が出たらこの番号に連絡を下さい。」

それは携帯電話の番号だった。その番号を書いたメモが曽根の目の前の机の上に置いてある。男は言った。

「連絡は真夜中でもけっこうです。いつでも私が出ます。ですがこちらの希望を言わせていただければ、なるべく早い方がいい。」

曽根は思った。この男は知っていたに違いない。関わるのが危険であろうとなかろうと、協力すると返事をするしか、曽根には道が無いのだ。


 10年前、原には将来の希望など何も無かった。30歳を超える年齢になっても、顎で指図される、チンピラにすぎない。東京の片隅にある小さなヤクザの組であった、東極会の事務所に出入りをしていたが構成員として認められる事は無かった。闇金融という商売を初めて知った時、原もやはりそれを汚い商売だと思った。しかし原にそれを拒否する事などできるはずは無い。汚いもくそも無い、やれと言われた以上やるしか無いのだ。この世の中で、原の居場所はもうそこにしか無かった。しかし運命は原に味方した。原自身、自分にこれほどの才覚があるとは思っていなかった。原は冷酷になれる男だった。他人の弱みに、徹底的につけ込む事ができる男だった。気が付いた時、原は東極会のNO1になっていた。そして東極会は今この東京で最も勢力を持っている水谷組に迫る勢いだ。原は思う。もう昔の惨めな自分にもどる事はできない。もう立ち止まる事はできないのだ。

この10年で、どれだけの人間を地獄に落としてきた事だろう。小さな街工場の経営者、その家族。ホストクラブに入れあげた若いOL。パチンコ好きの主婦。住宅ローンの支払いに行き詰まったサラリーマン。しかし原がその事で良心の呵責を感じる事はない。弱い者は餌食になるべきなのだ。そうであってこそ自分はこの世界でのし上がる事ができる。


 自分の身は安全ではない。原がそう気づいたのはいつの事だったろう。どこかに自分が消える事を望んでいる人間が居る。初めは怖かった。しかし考えてみればそれは自分の力がそれほど大きくなったという事なのだ。のし上がろうとすれば、それは避けては通れない道、という事にすぎない。結局今の原には金がある。だからその金にものを言わせればいい事なのだ。原が雇った二人の男たちは、最高の腕を持っていた。


 その日、原は野球観戦をしていた。原の母校が出場している高校の県大会だった。ボディーガードの男たちがいつものように付き添っていた。原の命を狙うものは多い。この男たちに原は大金を払っていた。野球観戦を終えた原は機嫌が良かった。その日、原の母校が勝利を収めたのだ。日が暮れてあたりはもう暗くなってきていた。車の止めてある駐車場に3人が歩いて行くと、駐車場のライトが止めてある車を照らしていた。野球場の駐車場は広かったが、高校野球の県大会とあっては観戦者が多いわけではない。止まっている車はわずかだった。車は駐車場の中ほどに止めてあったはずだが、3人が行くと、そこに置いてあったはずの車が無かった。3人は苦い顔をした。何故車が無いのか訳はわからない。突然原が脇腹のホルスターに隠し持っていた拳銃を引き抜いた。ボディーガードの二人の男達は驚いて原が銃を向けた方に目を凝らす。遠方の木陰に確かに人影があり、その人影が拳銃を構えてこちらを狙っている。そうとう距離があるが、その人影との間には遮蔽物は何も無い。だからもの影に隠れる事はできない。しかし相手とこちらの距離は70m以上ある。ライフルか、せめてカービン銃ならともかく、拳銃では当たるはずがない、とボディーガードの男たちは思った。しかし相手がこちらに拳銃を向けている以上、とりあえずこちらも銃を出して応戦するしか無い。二人の男達が自分の拳銃を抜こうとすると、原が2発打った。しかし当たるはずも無い。そして次の瞬間、弾丸が原の胸を貫く鈍い音がした。そして原の体が仰向けに、どさりと音をたてて倒れた。それを見た、ボディーガードの男達は慌てて地面に伏せて拳銃を構えた。この距離で相手がこちらを狙えるとなると、状況は明らかに不利だ。相手は暗がりに居る。こちらは駐車場のライトに照らされている。そしてなによりも、相手がこちらを正確に狙えるという事が信じられない。相手の銃声は無かった、サイレンサーを使っているのだ。ボディーガードの一人が原の様子を見た。原は白目を向いている。すでに命は無いようだ。木陰の闇はどんどん濃くなっていく。相手の姿はもはや確認できなくなっても二人の男たちは立ち上がる事ができなかった。もし立ち上がったら命が無いかもしれないのだ。銃声を聞いたと通報を受けた警察のパトカーのサイレンの音がいくつも聞こえてくるまで二人の男たちはそのまま拳銃を構えていた。


 曽根に届いたその封筒には差出人の欄の記載が無かった。中には写真が一枚入っていた。ぞっとしない写真だ。銃で胸を打ちぬかれた原が白目をむいて横たわっている。新聞でもテレビのニュースでも、原殺害の事は何も報じていない。しかし頼りになりそうな組の者数名にその写真の事実が本当かどうか調べさせたところ、その写真に偽りは無かった。東極会は今大混乱に陥っている。何故マスコミが何も報じないのか、それはわからない。しかし東極会の問題はこれでかたづくだろう。水谷組の大きな危機はこれで去ったのだ。しかし曽根は新たな問題を抱えていた。あの男の言った事は本当だったのだ。あの男は恐ろしい力を持っている。そして自分は今後あの男と関わりを持たなければならない。曽根は電話を取った。例の携帯電話の番号に連絡を取ると、あの男が出た。

「写真を見ました、」と曽根が言った。

「これで我々に協力していただけますね、」とあの男が言った。

「もちろんです。」と曽根は言った。

曽根はこう思っていた。この男を敵に回す事などできない。

「お礼を言わせて下さい。本当にありがとう。」と曽根が言った。

「なんの、」と男が言った。

「我々も暗殺は何度か試みました。しかしすべて失敗に終わった。でもあなたは殺った。いったいどうやったのです。」

男は一瞬口ごもった。

「我々のエージェントがこの仕事をやりました。」と男が言った。

「どんな人ですか、」

「彼は銃の専門家です。そしてそれを扱う素晴らしい才能を持っている。」

突然曽根が言った。

「その人に合わせていただけませんか、」

相手は黙った。どう答えるべきか思案しているようだ。

「なんのために、」と男が言った。

「我々はあなたがたの素性を知らないのです。にも関わらず、我々はあなたがたと関わりを持ってしまった。失礼だが素性の判らない相手と関わるという事は危険な事です。私はあなたがたがどういう人達なのか知りたいのです。」

「申し訳ないが素性は明かせません。」

「それではせめて、原を殺ったというその方に会わせていただきたい。」

「会ってどうします。」

「会えば、あなたがたの事が少しはわかるかもしれません。私は、今自分たちがどういう状況に置かれているのか理解したいのです。」

「もしその男に会ったとしても、その男が本当に原を殺ったのかどうか、確かめるすべは無いのではありませんか、」

「あなたを信じるしかありません。」

信じる事などできはしない。しかし何も無いよりは、はるかにましなのだ。曽根はそう思っていた。

「わかりました、」と男が言った。


 その男はたった一人で曽根の事務所を訪れた。その男は原が思っていたよりずっと若い。どう見ても、まだ20代だ。黒いキャップを目深に被り、サングラスをかけているがそれはわかる。側に居た曽根の部下が言った。

「おいおまえ、礼儀を知らんのか、帽子とサングラスを取らんかい、」

男は黙っている。

「おい聞こえんのか、」

「それは勘弁してもらえませんか、」

と男が言った。

「勘弁できるかい、こちらは水谷組のトップだぞ。」

「まあ待て、」と曽根が部下を止めた。

「もし、その帽子とサングラスをとっていただければ、我々はもっとよく知り合えるのでは、」と曽根が言った。

「僕があの男を殺ったのはそれが僕の仕事だからです。そういう者が人に顔を知られるという事がどういう事か、さっしていただけませんか。」とその男が言った。

曽根は思った。殺し屋が誰かに顔を知られたらどうなるか。答えは命が無いだ。

「わかりました、」と曽根が言った。

曽根の部下が男に近づいた。

「ちょっと調べさせてもらうぞ、」

「どうぞ、」と男は言うと両手を高く上げた。曽根の部下が、男の服の上から凶器を隠し持っていないか探った。やがて部下が曽根に頷いた。何も隠し持っていないらしい。曽根が窓際に設えてある豪華な応接セットの方を示し、言った。

「まあお座り下さい、」

曽根とその男は席に付いた。

「お一人で来られたのですか、」

「はい、」と男が言った。

「丸腰で、」

「ええ、」

「怖くはないのですか、ここはヤクザの事務所ですよ、」

「もちろん怖いです、でも仕方がない、」と男が言った。

その時、一つ曽根は気が付いた。男の態度は実に自然だ。気負う事も気後れする事もない。好感が持てるほどだ。これまで水谷組組長の前でこんな態度をとったものはあまりいない。曽根はまず、用意しておいた物を男に差し出した。小さなナップザック。その中に、100万円の札束が5つ入っている。

「お納め下さい、ささやかなお礼です。」と曽根が言った。

曽根は思っていた。あの原を殺って、500万では安すぎる、0が二つ足りない。しかし相手はどう出るだろう。その反応を曽根は見たい。男はナップザックを手に取ると中身を確認した。

「気を使っていただいて恐縮です。」と男が言った。男は素直にそれを受け取った。


「私の仕事はね、考える仕事です。」

曽根は自分のこめかみを指差した。

「この悪い頭を使ってね。どんな組織でもそうだが、我々の組織にもそこに居る者たちの生活がかかっている。しかし日本の社会はとても複雑です。この社会で組織を維持していくという事は簡単ではない。競争相手も居る。障害もある。だから想像するんです。世の中はどう動いているのか、そしてこれからどう動いていくのか。仲間は何を考えているのか、敵は何を考えているのか、誰が味方でだれが敵なのか。その想像は正確であればある程いい。そして我々の敵も多分そう考えている。想像力の戦いです。そして負けた者には残酷な死が待っている。あなたが殺った東極会の原のようにね。

さて我々は今後互いに協力していく事になりました。私が正確に想像をするためには、あなた方がどんな人達なのか知らなければならない。その事が我々の生死を決めるのです。」

「残念ながら、僕があなたにお話しできる事は限られています。でも出来るだけの事はお答えしますよ、」と男が言った。

「それで結構です。」

と曽根が言った。

「私に電話をかけてきたあの方は、あなたの上司ですね、」

「そうです。」

「どんな方なのですか、」

男は少し考えてから答えた。

「強い信念を持った、誇り高い男です。」

信念、誇りと来た、今時の若僧の口から出てくる言葉ではない。組織というのは右翼団体の事だろうか。

「あなた方の組織というのは右翼団体に関係があるのでは、」曽根が言った。

「いいえ、違います」と男が言った。

曽根は考えていた。この男にどんな話しをしたら、この男の事、そしてこの男の組織について判るだろう。結局聞くべき事はたった一つだった。

「どうやって原を仕留めたのですか、」

男は答えた。

「原という男とボディーガードの二人は拳銃を持っていました。拳銃の有効射程距離はおよそ50mと言われている。だから60m離れていれば安全と考えていいのです。つまり60m以上離れて相手を狙えばいいわけです。」

「どうやって60mも先を狙うのですか、」

「銃によっては、60m先を狙う事ができる物もあるのです。」

あの電話の男は言っていた。彼は銃の専門家で、それを扱う素晴らしい才能を持っている。この男は銃を扱う訓練を受けているに違いない。この日本で銃を扱う訓練を受けられるとすれば警察か自衛隊。いや違うと曽根は思った。警察や自衛隊が銃を扱うのは自衛のためだ。60m先から拳銃で人間を狙撃する訓練などしない。もっと別の何かだ。


 短い会見だったが、曽根がそれ以上その男から聞き出せる事は何も無かった。曽根は、地下の駐車場に向かっていた。曽根の後に例の男とさっきの部下が付いいる。曽根自ら客を見送るという事はめったに無い。低調に扱われるのは常に水谷組のトップである曽根の方なのだ。曽根は二人を従え、いつも利用している高価なベンツの方に歩いていった。ベンツに近づくと曽根は男のために自ら後部座席のドアを開けた。

「どうぞ、お乗り下さい、」と曽根は言った。

男は「どうも、」と頭を下げると素晴らしいクッションの後部座席に潜り込んだ。

曽根はドアを閉めると、運転席に乗り込もうとしていた部下に声をかけた。

「おまえは助手席だ、運転は俺がする。」

部下は不思議そうに曽根を見返した。なんでこんな若僧のためにあんたがそこまでするんだ。そう言いたいのかもしれない。曽根は思っていた。この男にとって、今日ここに来る事は危険な事だったはずだ。自分が相手を信用できないように、相手も自分たちを信用できないはずなのだ。この男を抑えつけて帽子とサングラスを力ずくで取ってしまう事もできたし、その後もっと手荒なやり方で、こちらの知りたい事を吐かせる事もできた。確かに曽根は相手を恐れている。それはこの男も承知しているのかもしれない。しかし、今日この男が相手にしたのは暴力によって成り立っている組織なのだ。だがこの男はたった一人で、しかも丸腰でやってきた。この男に敬意を示すべきだ。この男は今日、命を賭けたのだ。

 運転席に乗り込んだ曽根が後部座席を振り返って言った。

「どちらまで、どこへでもお好きなところへお送りしますよ。」

すると、

「新宿の歌舞伎町までお願いできますか、」と男が言った。

「わかりました、歌舞伎町ですね。ところで運転はあまり上手くないんだが、許して下さいね、」と曽根が言った。

確かに曽根の運転はお世辞にも上手いとは言えない。曽根は常に誰かに運転をさせる側なのだ。高級ベンツがぎこちなく走っていくさまは、目にする者には少し滑稽だったに違いない。ようやく歌舞伎町に付いて、曽根は車を止めた。

男は「ありがとう、」と外に出ようとした。

曽根が振り返り言った。

「あなたの上司の方に伝えていただけませんか、今後ともよろしくと、」

「ありがとう、」と男が言った。


 歌舞伎町はいつものように人がやたらと多い。和也は人混みを縫うように歩いていく。やがて歌舞伎町を抜け新大久保へさしかかった。やがて足を止め、狭い通りの角にある自動販売機に100円玉を1枚と10円玉を2枚入れる。ボタンを押すと温かい缶コーヒーがカタンと音をたてて出てきた。

「もうサングラスを取っても大丈夫だ、誰も付けてきていない、」と後ろから武田の声がした。和也は自動販売機から缶コーヒーを取り出し、振り返るとサングラスを取った。

「ご苦労さん、」と武田が言った。

和也が頷いた。武田のすぐ後ろに、小型のBMWが止めてある。武田はその方を顎で示すと運転席に乗り込んだ。助手席に和也が乗り込むと、エンジンをかけて車を出した。

「あんたがどんな人間なのか、聞かれたので、強い信念を持った誇り高い男だと答えた。」と和也が言うと、武田は苦笑した。

「御大層な紹介をしてくれたな、」と武田が言った。

「それから僕達が右翼団体と関係があるかと聞かれたので、違うと言っておいた。」と和也が言った。

「私は日本人じゃないから右翼団体と関係を持つ事はできない、君は別だがな、」と武田が皮肉を言った。御大層な紹介をしてくれた礼だ。

「僕だって右翼と関わるつもりは無いよ、」と和也が言った。

「それから金をくれた。」和也はナップサックを開けて、中身を武田に見せた。武田はそれをチラリと見ると、

「君が好きに使うといい、」と言った。

「後は、今後ともよろしくとさ、報告はそんなところだ、」と和也が言った。

「了解だ、」と武田が言った。


和也は不機嫌だった。武田はその事に気が付いた。何か問題があったのだろうか、

「浮かない顔をしているな、」と武田が言った。

「僕が人を殺したのはこれが初めてじゃない。でも人を殺しておいて気分がいいわけがない。」そんな言葉が和也の口から出た。武田は思った。この男は良心の呵責に耐えている。

「ハンバーガーでも食べにいかないか。」と武田が言った。たった一人でヤクザの本部に乗り込んで行ったのだ、平成を装っていても緊張しないわけがない。和也は消耗しているに違いない。腹が減っているはずだ。大仕事を終えた男にハンバーガーとはケチくさいがわけがあった。

「ああ、何か食べよう、」と和也が言った。

とあるファーストフード店、和也はチーズバーガーをパクついている。時々コーラを口に含む。武田はフィッシュバーガーを注文したが、それには口を付けずにコーヒーをすすっている。店内はあまり混んではいない。一番近くにいる客と5mは離れているし、音楽も流れている。気をつけていれば、話しを聞かれる心配は無いだろう。

「カウンターの中に居るアルバイトの女の子を見ろ、」と武田が言った。

和也がカウンターの方にちょっと目を向けた。

「美人だな、」と和也が言った。

「彼女の父親は町工場の経営者だ。銀行は中小企業に対して相変わらず金を貸し渋っているから、資金ぐりに行きづまっていた。そして彼女の父親はついに東極会の息のかかった闇金融に手を出してしまった。もし君が原を殺らなければ、娘の彼女は風俗街に売りとばされていただろう。そしておそらく、彼女は死ぬまでヤクザから自由になれなかったはずだ。君が彼女を助けたんだ。」と武田が言った。

和也は何も言わなかった。しかし武田は和也の表情が少しだけ変わったような気がした。

「彼女だけじゃない。大勢の人間が助かった。」と武田が付け足した。


 自分は人殺しだ。その事が和也の心を暗くする。もしこの世界に本当に神が存在するとしたら、神はいったい自分をどう思うだろう。

和也はあのファーストフード店を時々訪れるようになった。その店のカウンターにはあの娘が居る。武田は言った、君があの娘を助けたんだ。自分は誰かの役にたった、その事実は拓也の心を癒やしてくれる。たまに娘と目が合う事がある。和也は慌てて目をそらす。その娘にストーカーのようには思われたくない。しかし和也はその店に通う事を止められない。


 「最近、よく来るんですね、」と娘が言った。和也は焦った。口を聞いた事も無いその娘に突然話かけられたのだ。和也は娘の方を見た。娘の表情は決して親しげなものでは無かった。

「あなたが居ると、ちょっと落ち着かない、自意識過剰かもしれないけど、なんだかあなたに見られているような気がして、知らない人だし、ちょっと不安になる。」と娘が言った。

「ごめん悪かった、もう来ないよ、」

と和也はやっとそれだけ言った。和也は慌てて立ち上がると出入り口の自動ドアの方に向かった。しかし彼女の声が後ろから追ってきた。

「違うの、ただ知りたいだけなの、ここに来るのは、ただコーヒーが飲みたいだけなのかどうか、」

和也が振り向いた。娘が和也を見ている。

和也に嘘を考えている余裕はなかった。

「君の顔が見たくて、」と和也は思わず言った。娘は黙っている。和也には娘の表情がさらに硬くなったように思えた。

「ごめん、」と和也は言うと、さらに慌てた様子で出口の方に向かおうとする。すると再び娘の声が和也を追った。

「アルバイトもうすぐ終わるの、待っててくれない、」


 最寄の駅のある方角に向かって、二人は歩いていた。話しかけるのは主に娘の方だった。

「ずっと気になってたんだ。あなたは、ちょっと暗い感じがするけど、よく見るとけっこうかっこいいなって思って、でも悪い人には見えないし、

私、大学に行ってたんだけど、ちょっと事情があって休学してたの、うちの親、借金があって、私の通っていた大学の学費を出せなくなったの、しばらく休学してたんだけど、親がまた学校行ってもいいって、だから私ね、あのお店辞めるの、そうしたらもう、あなたの顔を見られなくなるかもしれないし、それは寂しい事だなって思って、」

娘の話を聞きながら、和也は思っていた。自分の方からも何か話した方がいい。でも何を話したらいいだろう。

「仕事は何をしているの、」と彼女が聞いた。何と言おう。真実を話すわけにはいかないから、嘘を付くしかない。

「どんな仕事をしているように見える、」と和也が言った。彼女は少し考えた

「わからないな、」

「公務員だよ、事務仕事なんだ、」

と和也は言った。しくじった、と和也は思った。公務員が昼間から私服でコーヒーを飲みに来たりはしない。

「そうなの、」と彼女は言った。

会話が途切れた。何か話した方がいい、再び和也はそう思った。できれば彼女に良く思われたい。しかし何を話したらいいだろう。和也が詳しいのは銃に関する事くらいだ。

「僕は小説を書きたいんだ、ハードボイルドを書いてみたいと思ってる。」

と和也が言った。

「へえ、いいな、そんな夢があるんだ、」と彼女が言った。

ハードボイルド小説を書くつもりでいるなら銃に詳しくても、おかしくない。

「どんなお話なの、」と彼女が言った。


 和也の携帯電話にメールが届いていた。由岐からだ。和也には由岐からメールが来る事が嬉しい。その携帯電話は由紀と連絡を取るために、和也が最近手に入れた物だった。和也はもう一つ携帯電話を持っている。その携帯電話には武田からの仕事に関する連絡しか来ない。その携帯電話は、誰かに話しを傍受される事が無い、特別な物だった。

武田には由岐の事は知らせていない。由岐と共に過ごす時間が長くなれば、いつか正体を知られてしまうかもしれない。部外者に素性を知られるのは危険な事だ。だから由岐と関わるべきではないのだ。武田もその事を良く知っている。だから武田には由岐の事を言えない。和也は由岐のメールを確認した。

「今度の日曜日は学校が休みです。授業の下調べや家の手伝い等、やっておかなければならない事は土曜日までにはちゃんとやってしまうので、日曜日は暇です。小林さんも暇だといいんだけど、」

小林さんというのは和也の事だった。もちろん偽名だ。和也は由岐に嘘ばかりついていた。その事を思うとつらくなる。

しかし本当の事を言うわけにはいかないのだ。和也は由岐に会いたかった。和也は由岐に求められている。望まれているのだ。その事が和也を幸福にした。その幸福を手放してしまう事は、和也にはできなかった。


 和也は由紀に話した。

「僕の両親はいい両親だった。今でも思う。彼らは幼い僕を愛してくれた。でも僕の父は母に暴力を振るった。だから母は父と別れた。母は、僕を引き取ってくれたけど、父と別れた後、母には恋人ができた。その恋人には僕の事は秘密だった。子持ちの女では、恋人に相手にしてもらえないと思ったんだ。やがて母は僕を孤児院に連れていった。そして僕は孤児院で育った。母とはあれ以来会っていない。もちろん父とも。

 中学生のころだった。僕は気が付いた。世の中には目に見えない線路のようなものがある。その線路に乗っている人間は安全に幸せに人生を生きれる。でもその線路に乗れない人間は、苦しい人生を生きなければならない。そしてわかった。僕の父と母はその線路には乗れなかったんだ。僕は両親のようになりたくなかった。孤児院で面倒を見てもらえるのは、義務教育が終了するまでと決まっていた。

中学校を卒業生したら僕は孤児院を出て自分の力で生きていかなければならなかった。そして中卒の肩書きでは線路に乗る事など不可能だった。でも中学では世界史の授業があって、それを聞いていて僕は思った。この国では不可能だ、でも海の向こうには別の世界がある。どうせ僕には失うものなど何も無かった。外国語を覚えさえすれば、なんとかなるんじゃないかと思って、英語だけは必死で勉強した。中学を卒業すると僕は小さな運送会社で働いてお金を貯めた。そして17の時僕はこの国を出た。でもこの国を出て僕は初めて気が付いた。僕は日本人なんだって。」


 その話には続きがあった。その続きは由紀には言えない事だった。日本を飛び出して、外国に行ったからと言って、その場所がよそ者の和也をそう簡単に受け入れてくれるわけでは無い。日本を飛び出してしばらくして、和也にはその事がわかった。そしてそれをどうしていいのかわからなかった。気が付けば、住む所も食べる物もない。着ている物は薄汚れていた。数ヶ月間、和也は途方に暮れた。日本に帰る事も考えた、しかし帰ってどうなる。日本には何も無い。和也の居場所はどこにも無い。しかし和也は気が付いた。一つだけ方法がある。それは、その国の兵士になる事、その国のために命をかける事だった。その国には戦争があった。兵士になった和也はやがてこう呼ばれた。東洋から来た、銃の天才。


 由岐がどんな場所でどんなふうに育ったのか和也は知りたがった。由岐の実家の近所を由岐が案内する。由岐の通った小学校、中学校。商店街。由岐が子供の頃、その場所は公園だった。しかし由岐が小学校6年生の頃、公園は取り壊され、5階建ての建造物が建つ事になった。由岐は言った。

「私たちクラスの仲間を集めて反対運動やったの、私たちにどこで遊べっていうのって、ダンボールでプラカード作って大騒ぎしてやった。そうしたら学校に区役所の人がやってきて、反対運動禁止されちゃった。」


二人は神社の前を通りかかった。

「子供の頃、よく来たんだ。家のお父さん自営業だから、藁にもすがりたかったみたい。神頼みは欠かさなかったな。お父さんにくっついて、よくここに来た。」由岐が言った。

「君のお父さん、きっと必死だったんだね、」と和也が言った。

由岐がポケットから財布を出すと小銭を一つ和也に渡した。自分は賽銭箱に小銭を落とすと手を合わせた。それを見ていた和也もその動作に従った。和也は願った。できるだけ長く由岐と過ごす時間を得られるように。しかし自分のような者の願いを神様は聞いてくれるのだろうか。聞いた事がある。神様は死を嫌う。神様はそれを気枯れたものという。殺し屋の和也はきっと気枯れたものに違いない。


由岐が指さした。

「あれが私の家、」と由岐が言った。

「家にボーイフレンドなんか連れて行ったらお父さん怒りだすかもしれないな、でももし今度家に寄ってみたかったら、お父さんが怒りださないようにたしなめとくね。」と由岐が言った。


 和也にはこれまで、自分の事を話す相手はあまり居なかった。自分の事など、あまり話したいとも思わない。しかし付き合うという事は、お互いを知り合うという事だ。付き合いを続けたければ由岐には話さなければならない。そうしなければ、相手を拒否した事になる。和也は由岐が自分から離れていってしまうのが怖かった。


武田は力を持っている。巨大な権力とつながっている。そして武田の指示で動いている自分もその権力とつながっているのだ。そしてその権力が自分に求める事は、銃を使って人の命を奪う事だ。自分は殺し屋だ。その事を由岐に知られたくない。しかし、このまま由岐との距離が縮まっていけば、いつか自分は打ち明けてしまうかもしれない。それは自分にとってだけでなく、由岐にとっても危険な事なのだ。人の命を奪う事を仕事にしている者を由岐はいったいどう思うだろう。世界中のどんな国でも、人殺しは法律で禁止されている。もし犯せば重い罪に問われる。なぜそうなのか、

いつ自分の命が狙われるかわからない、家族や友人の命が狙われるかわからない、そんな世の中を誰も望まないからだ。初めて人を殺した時の事を和也は覚えている。とても怖かった。和也が殺した敵の姿、それは同時に自分の姿でもある。自分が敵を殺した以上、敵も自分を殺そうとするのは当然だ。そして和也にとってこの世界は永遠変わってしまった。常に命をかけなければならない、殺しあいのある世界。由岐はそれを理解してくれるだろうか。


「あなたは時々、寂しそうな顔をする。そんな時、あなたが、もう会ってくれなくなるんじゃないかって思う。でもあなたが会ってくれないと、私は困る、とても困るの。私はまだ子供で、自分に自身が無い。私はあなたに自分から声をかけた。私、本当はそんな事できる女じゃない。知らない男の人に自分から声をかける事なんて、本当はできないの。私いままで、そんな事した事無い。でもあなたは特別なの。私あの時必死だった、一生懸命自分を励まして、勇気を出したの。私気になってる、あなたが私を軽い女だって思ったんじゃないかって。軽い女だと思われてもいい、でも私の事捨てないで欲しい。お願いだから、」

「そんな事、あるもんか、」と和也は言った。

和也は思っていた、もう由岐と会う事はできない。


 かつて日本の川は世界中のどの川よりも美しかったと言う者が居る。それが本当なのかどうか、今では確かめるすべは無い。ダムの建設、護岸工事、河口堰の建設、ショートカット、生活排水、ありとあらゆる川に人の手が加えられている。

それは必要な事だったという者も居る。それはただ税金の無駄使いをするためだったという者も居る。その川も、あまり美しいとは言えない。和也はその川に釣り糸を垂れていた。

「こんなところで何か連れるのか、」後方から武田の声がした。

「ああ、ブラックバスが居るんだ、」と和也は振りかえらずに言った。

広い河川敷、誰かに話を聞かれる心配が無い。仕事の話だった。

「仕事を頼みたい、」和也の隣りに座りこむと武田が言った。

「殺しかい、」

底知れぬ悲しみを秘めた和也の目。武田はそれに気づいた。

「殺しは嫌か、」

「嫌さ、でもあんたの指示なら、僕は従う。」

「今回は殺しじゃない。ある男の指を落として欲しい。」

「指を落とすだって、どうやって、」

「確か君は狙撃銃を使えたろ、凄腕だったはずだ。」

和也は黙っていた。

「彼女の事は知ってる。君が彼女との付き合いを続けたければ、私は止めたりなんかしない。」と武田が言った。

「でも危険だ。もし秘密が漏れたらどうする、秘密を守るために彼女を消すかい、」と和也が言った。

「そんな事はしない。」と武田が言った。

「じゃあどうする、」

「それはまだわからない、しかし悪いようにはしない。」

「僕は彼女と合う事はできない。僕は殺し屋だ。」

「それは違う。君は殺し屋なんかじゃない。君は兵士だ、我々の仲間だ。」

和也は黙っていた。

武田は言った。

「人間はたった一人で生きていく事はできない。家族や友達、仕事仲間、近所の人達、恋人。皆、誰かのために生きているんだ。それが世界だ。この世界は愛によって成り立ったいるんだ。」

この世界は愛によって成り立っている。武田がそれを口にするのを和也は何度か耳にした。和也は思う、この世界は愛によって成り立っている、それは武田の信念だ、そしてどんな事をしてもその世界を自分は守る、それが武田の誇りなのだ。


 「日本の銀行は中小企業に対して相変わらずお金を貸し渋っています。しかしお隣の韓国ではまったく逆の事が行われている。銀行員が中小企業の業務実績を調べて、将来性がある企業には自ら出向いて、我々のお金を借りて下さいと頭を下げるのです。もう20年以上も前、バブルと呼ばれた日本の経済は破綻してしまった。そして我々の経済は未だに立ち直ったとは言えません。お隣の韓国にもバブルはあった。しかし彼らの経済は完全に立ち直ったのです。同じ人間なんです。彼らにできて我々にできないはずは無いのです。彼らの経済が立ち直ったのなら、我々の経済だって立ち直るのです。企業の将来性に投資するという銀行本来の仕事はこの日本では行われていません。日本の銀行がお金を貸すのは大企業です。大企業はこれ以上大きくなるという事が無い。これから大きくなる中小企業と比べれば、将来性は無いのです。小さな企業が大きくならなければならない。大きな企業がいつまでも大きなままでは我が国の経済は衰えてしまうのです。中小企業の経営者は今、銀行の貸し渋りにあって、大変な思いをしています。中小企業こそが、我が国の経済の将来性なのです。我々は彼らを守らなくてはいけない。彼らが居なければ、我が国の経済に未来は無いのです。経済の自由競争というのは日本の国内だけで行われるものではありません。世界で行われるものなのです。

我が国の経済が立ち直るためには、世界で勝てる企業が必要なのです。しかし残念な事に、今世界で勝てる力を持った日本企業は一部の自動車メーカーだけです。すでに大きくなってしまった企業では無理です。これから大きくなる事のできる小さな企業こそが、世界で勝てる実力を持つのです。私は挑戦します。日本の銀行が小さな企業の将来性に投資できるようになるために。私は挑戦します。中小企業の経営者がもっと自由に仕事ができるようになるために。そして未来の我が国の経済の担い手である子供達のために、私は挑戦します。どうかみなさん、気が付いて下さい。今すぐに気が付いて欲しいんです。もはや一刻の猶予も無いんです。そして私に力を貸して下さい。」


 長瀬裕二という無所属の国会議員候補が、今話題になっている。彼は後ろ盾を持たない。演説台としている、ビールのケースと拡声器を原付バイクの荷台に載せてさまざまな場所に出没する。選挙事務所や後援会は彼には無い。彼はいつもたった一人だ。どこかの政党に所属している、議員候補のように、パンフレットなど作って配る余裕など彼には無い。彼の武器はその口から発せられる言葉だけだ。しかしこの男が東京の一地区で、大健闘した。元大手銀行に勤めていたエリート社員、しかしそのすべてを捨てて、国会議員に立候補した。金も人脈も何も持たない、32歳の男。よれよれのスーツ、踵のすり減った靴。手入れの行き届いていない髪、しかし彼は誰よりも輝いて見えた。彼の言う、子供たちの未来のために私は挑戦する、という言葉は有権者にアピールした。対立候補である大臣を経験した事もある与党議員と、よくテレビに出ている野党議員は完全に霞んでしまっていた。


 皆川は、テレビの開票速報をみていて、

長瀬裕二という無所属の新人が、東京の一地区で当選したという事を知った。皆川はこの長瀬裕二にしばらく前から目を付けていた。東京の一地区で無名の男が国会議員に立候補し、大健闘している。その噂は皆川の耳にも入っていた。この男の選挙演説は皆川にとってはあまり好ましいものでは無い。もしこの男の言う通り、小さな企業が大きくなったら、俗に言う政官財の癒着は壊れてしまう。小さな企業が大きくなるという事は、大きな企業は衰えていくという事だ。政官財の財が力を失えば、政官も同時に力を失ってしまう。そうなったら、自分たちの権利も損なわれてしまう。自分たちの権利、すなわち既得権だ。自分達の権利は守られなければならないのだ。長瀬裕二という男は所詮まだ小さな芽でしかない。しかし芽はやがて成長するかもしれないのだ。もしその芽が巨大な大木になってしまったら取り返しがつかない。だから小さな芽のうちに摘み取っておかなければならない。小さな芽を摘むのは難しい事ではない。


 「就職活動はとても厳しかったので、大手の銀行に内定した時はとても嬉しかったです。あの時両親はとても喜んでくれました。私は銀行を辞めたくありませんでした。でも私には人には言えない過去がありました。高校生の頃、私は何度か援助交際をしたことがありました。友達がやっていたし、あの頃は悪い事だという意識が無かったんです。そして私の上司はその事を知っていました。私が援助交際をした相手の中に、その上司の知り合いがいたのではないかと思います。逆らえば居づらくなるよと上司は言いました。私はその上司から、セクハラを受けました。」

「その上司の名は、」

「長瀬裕二です。」


 この話をマスコミは放っておかなかった。先日の選挙で一躍脚光を浴びた、無名の若い国会議員。彼に期待を寄せていた有権者は多い。しかしその期待を彼は簡単に裏切ってしまった。連日大勢のマスコミ関係者が彼を追い回した。追求されると彼は言う。

「私には身に覚えがありません、」

しかしそんな事はどうでもいい。彼に身に覚えがあろうとなかろうと、テレビの視聴率は取れるし、雑誌や新聞の紙面は埋まるのだ。あの女が長瀬裕二にセクハラを受けたと言う以上、マスコミは長瀬裕二を追わないわけにはいかない。


 皆川の自宅に突然届いた郵便には差出人の氏名、住所が無かった。封筒から、便箋を取り出してみると、氏名、住所が無い理由が判った。

「長瀬裕二に対して、おまえがした事は判っている。あの女が嘘を付いているのも、おまえが考えている事も我々には判っている。おまえが状況をもとに戻さなければ我々はおまえを容赦しない。我々は常におまえを見張っている。」

 皆川は考えていた。長瀬裕二という男には後ろ盾は無いはずだ。これは言葉だけの脅しに過ぎない。動く必要は無い。それにしても長瀬裕二を陥れたのが自分だという事が何故わかったのだろう。しかもこんなに早く。あの銀行の頭取に、皆川は言った。

「あの長瀬裕二というのは以前、お宅の銀行に勤めていたそうですね、ああいう男は困ったものですな、世間というものを知らない。もう辞めたとは言え、長年お宅に居たんだから、頭取のあなたにも責任の一端は有るんじゃありませんか。こういう場合は多少汚い事をやってもいいんじゃないかな。なにかスキャンダルでもあれば、いいんですがね。大丈夫ですよ、我々はあなたの味方なんだから、あなたが困るような事はしない。ただ少しだけあなたに力を貸して欲しいだけなんだ。」


 夕食後、皆川は邸宅の3階にある書斎でくつろいでいた。お気に入りの高価な葉巻をふかしていた。葉巻から煙りが立ち上っている。突然ガラス窓に金属片がぶつかる鋭い音がした。と同時に皆川は恐ろしい痛みを感じた。皆川は自分が今葉巻を挟んでいた2本の指が吹っ飛んでしまっている事に気が付いて唖然とした。皆川の叫び声を聞きつけて、慌ててやってきた使用人が、皆川の様子を見て、呆然と立ち尽くしていた。使用人がガラス窓の方に目をやると、穴があいて、ひびが入っている。彼はそれが銃弾によるものだと気づいた。その部屋は3Fにあるから、いつもなら誰かに外から見られるという事がない。皆川はカーテンを引いていなかった。しかし今日は誰かがその窓から皆川の様子を見ていたのだ。いったいどこから、その窓からは、かなたに、東京のビル群が見えた。

その時皆川は気が付くどころではなかったが、部屋のファックシミリがメッセージを受信していた。

「おまえの命はとらない。我々はおまえに判らせたいだけだからだ。今日は指をやった。この次は目をえぐり、鼻を削いでやる。おまえが我々の存在を絶対に忘れられないように、我々はおまえに一生治らない傷を少しづつ付けてやる。おまえがわかるまで何度でもやってやる。」


 2日後、皆川の精神状態はまだ落ち着いてはいない。しかし一刻も早く、対策を立てなければならない。自分は誰かに狙われているのだ。しかしその誰かとはいったい誰だろう。長瀬祐二と関係があるという事はわかっている。しかしそれがどういう関係なのか、検討もつかない。警察には言えなかった。警察に言えば世間に知られてしまうかもしれない。財務省の高級官僚が狙撃されて指を飛ばされたと世間に知られたらスキャンダルだ。裏の世界のコネを使うしかなかった。渋沢剛、ヤクザの組長で、裏の世界ではなかなかの実力者だ。皆川と渋沢の関係はもう10年以上も前から続いている。皆川は渋沢のために、便宜を図り、渋沢は皆川のトラブルを解決する。よくある関係だ。しかし渋沢の答えは思いも寄らぬものだった。

「俺に助けを求めても無駄だぜ、あんたの身に起きた事は知ってる。」と渋沢が言ったのだ。

何故知っているのか、わけがわからない。狐に摘まれるとはまさにこの事だ。

「やったのは、家の本家のお友達なんだそうだ。」

皆川の顔から血の気が引いていった。本家というのは水谷組組長、曽根の事なのだ。水谷組は、この日本で1、2を争う巨大なヤクザ組織だ。渋沢は続けた。

「つまりこういう事だ、この東京では裏の世界の人間は誰もあんたの味方をしない。気の毒だが俺にはどうする事もできない。警察に言っても無駄だろうし、あんたがいったい何をしでかしたのかは知らないが、諦めて腹を括るしかないと思うぜ。」


 先日の河川敷だった。和也がよくこの場所に来るのを武田は知っていた。ここでなら、話を他人に聞かれる心配が無い。広い河川敷には人の背丈程もある草が生い茂っている。その草地を抜けて、魚が居るのかどうかも判らない河に釣りに来る者は居ない。和也を除いては。釣り糸を垂れている和也の横に武田が腰を落とした。

「あんたの仕事はこの国を破綻から救う事なんだろ。」と和也が言った。

「そうだ、」と武田が言った。

「上手く生きそうなのかい、」

「今のところはNOと答えるしかない。この国には希望が無いからな。」と武田は言った。

「そうなのか」

「今の日本に希望が無いのは、日本人が自分達の文化を忘れてしまっているからだ。」と武田が言った。

「日本の文化って、何だい、」

「謙虚ささ、」と武田が言った。

和也は聞いている。武田は続けた。

「かつて日本には美しい自然があった。そしてその自然の中には神が住んでいると日本人は信じていた。日本は島国だから海に囲まれている。そして海の向こうには別の国があることも日本人は知っていた。つまり世界の存在を日本人は知っていたんだ。日本人は昔からこう考えてきた。人間は生かされている。神、自然、そして家族、友人、自分を取り巻く多くのもの、つまり世界に自分達は生かされている。自分を取り巻くものとのさまざまな関係は日本人にとって何よりも大切なものだった。だから日本人は礼儀を重んじたんだ。人は生かされている。それは広い世界を見て多くを学ぶという事だ。そしてそれは世界に希望がある限りこの日本にも希望があるという事だ。そしてそれが強さなんだ。しかし今の日本人は傲慢でひ弱だ。

君が私の国にやってきた時、君は何も持たなかった。自分には失うものなど何もない。君はそう思っていた。それも謙虚さだ。そしてだからこそ君には世界が見えたんだ。謙虚でなければ、世界を見る事などできない。

長瀬祐二のような男もいる。しかしまだまだ少ないし、小さ過ぎる。」

「日本が破綻したら、日本人はどうなる、」と和也が言った。

「国が破綻したら、その国の人間は飢えるか、難民になるかしかない。」

と武田が言った。

「それが現実になる可能性があるのかい、」と和也が言った。

「そうだ、今のところはな、」と武田が言った。

和也は黙っていた。

「もし君が、我が国の国籍を欲しいのならなんの問題も無い。君には軍での実績があるからな、」と武田は言った。

「そのつもりは無い、僕は日本人だ、」と和也が言った。

武田はいい男だ、と和也は思う。これまでもいろいろとめんどうを見てくれた。

武田の言う、この世界は愛によって成り立っているという考え方が和也は好きだった。また武田は非常に頭が切れ、頼りになる。しかし和也は考えてしまう。今現在の武田の使命は、この日本を破綻から救う事だ。武田の国では日本が破綻する可能性があると見ているのだ。武田は日本人では無い。武田は武田の国のために動いているのであって、日本人である和也とは立場が違うのだ。つまり見方に寄っては、今はたまたま和也と武田の利害が一致しているというだけの事にすぎない。状況が変われば、利害が一致しない事もあるだろうし、利害が対立する事もあるかもしれないのだ。和也は言った。

「もしかしたら僕は、あんたにとって都合の悪い事をいろいろと知っているのかもしれない。だからいつか、あんたは僕が邪魔になるかもしれない。そうしたら、あんたは僕を消そうとするかい。」

「そんな事はしない、君は我々の秘密工作員だ。秘密工作員と言うのは君が考えているよりも、ずっと重要な存在だ。」と武田が言った。

答えになっていない、と和也は思った。武田は答えをはぐらかしている。


 数日後の事だった。武田の携帯電話が鳴った。出てみると、

「その節はどうも、」と曽根の声がした。

「こちらこそ、」と武田が言った。

「お元気ですか、」

「ええ、あなたは、」

「私の方もなんとか、」

要件は何だろう。曽根は頭の切れる多忙な男だ、無駄話をするために電話を掛けたりはしない。

「何かありましたね、」と武田が言った。

「実は少々困っているのです。」

「というと、」

「我々は今、東極会の残党を叩いています、徹底的にね、しかし完全に潰すにはもう少し時間がかかるのです。我々がまだ叩ききれない者たちが、まずい動きをしているらしい。」

「まずい動きとは、」

「彼らは大量の覚醒剤を手に入れようとしています。取引相手は東南アジアのイスラム原理主義者です。」

武田は思った。ヤクザと覚醒剤の取引をするイスラム原理主義者となればテロリストと見て間違いない。曽根は続けた、

「彼らはその組織と手を組むつもりです。今回の取引は言わば贈り物の交換と言ったところなのです。」

やっかいな事になった、と武田は思った。

日本という国を動かすためにヤクザに近づくというのは武田も考えた事だ。そしてそれと同じ事を考えている人間が他にも居るのだ。

「我々はまだ何もしていません。情報を掴んだだけです。」と曽根が言った。

テロリストが相手では手が出せない、助けが欲しい。曽根はそう言っているのだ。曽根に近づいておいて良かった、と武田は思った。この男は正しい判断ができる男だ。曽根の判断は正しい、ヤクザがテロリストに勝てるはずがないのだ。

「この件は任せていただきましょうか、」と武田が言った。

「どうか、よろしく、」と曽根が言った。


 和也の携帯に武田から連絡が入った。

「仕事を頼みたい、今話しをしても大丈夫か、」と武田が言った。

和也は自分の部屋に居た。部屋には和也一人だ。

「聞こう、」と和也が言った。

「相手は8人、全員銃を持っている。日本人が5人、東南アジアの男が3人。東南アジアの3人のうち2人はAKを持っている。その他は拳銃だ。」

AKは旧ソ連が開発したマシンガンだ。安価だが、扱いやすく頑丈で、作動も確実な強力な兵器だ。

「AKを持っているという事はそれなりの訓練を受けているという事かい。」

「そうだ、」と武田が言った。

「AKが火を吹いたら、こっちの命は無いな。」と和也が言った。

「やれるか、」と武田が言った。

和也は少し考えた。

「やってみよう、」と和也が言った。

「こっちもマシンガンが欲しい、」と和也が言った。

「なんでも用意しよう、」と武田が言った。

「リュックサックに入るサイズ。反動はできるだけ小さく、しかし殺傷能力は高く、命中精度は確かな物がいい。」

難しい注文だ、銃というのは小さいほど扱いやすいが、命中精度は悪くなる。逆に大きければ、命中精度の高い破壊力のある物が作れる。しかし大きい銃はかさばるし、扱いにくい。しかし相反する長所をバランス良く取り込んだ物が性能が良いと言えるのだ。

「用意できるか、」と和也が言った。

武田は少し考えた、やがて、

「いい物がある、」と武田が言った。

和也は昔、軍隊で訓練を受けている時に教わった事がある。

「テロリストを甘くみるな、彼らはある意味で兵士より強力だ。兵士は戦場で命をかける。しかしテロリストは命を捨てる覚悟をする。そこが違う。」


 アタンの両親は貧しい低所得者だった。

彼らは朝早くから夜遅くまで必死で働いた。しかしどんなに働いても豊かになる事は無い。アタンの国では、貧しい者たちに、チャンスは無いのだ。しかし、彼らはなんとかアタンを学校に行かせてくれた。だが学校を卒業しても、アタンにはろくな仕事は無かった。学校を出ても、アタンのような貧しい家の子をその社会は認めてくれない。やがて母親が病気で倒れても、アタンの家では医療費を出せなかった。アタンは思った。両親はあれだけ無理をして自分を学校に行かせてくれたのに、自分はなんの力にもなれない。やがて母親はこの世を去り、アタンは知った。豊かな者は常に豊かで貧しい者は常に貧しい、その事の残酷さを。そんなアタンに声をかけてくれたのが彼らだった。彼らは教えてくれた。我々の国では、豊かな者は常に豊かで貧しい者は常に貧しい。そしてこの世界では豊かな国は常に豊かで貧しい国では常に貧しい。それは間違っている。神はそんな事はお許しにはならない。決してお許しにはならない。神は悲しんでいる。とても悲しんでいる。日本のヤクザに覚醒剤を売ると言うことがどういう事かアタンにもわかる。大勢の日本人が犠牲者になるという事だ。本当はそんな事はしたくない。しかし自分たちは神のために戦わなければならない。そのためには莫大な金が必要なのだ。自分は自分たちは貧しい。その悲しさをその切なさを癒やしてくれるのは神だけだ。


 午前0時、その場所は日本の領海の僅かに外だった。海は凪いでいる。静かな波がゆっくりと移動している。暗闇を貨物船が一隻ゆっくりと進んでいく、そしてやがて停止した。貨物船から、空気で膨らませたゴムカヌーが三隻、下ろされた。闇夜に紛れれば小さくて目立たない。レーダーに関知される心配も無い。手漕ぎでは少々時間はかかるが目的の新潟の海岸まで約6時間の距離だった。その三隻には東南アジアの男が一人づつ乗りこんで、パドルを手にしている。ゴムカヌーには少し荷物も積み込んである。簡単な食料と水、海図、コンパス、釣り竿のケースに収めたAKが二丁。釣り竿のケースは加工がしてあり、ケースに入れたままAKを打つ事ができる。そして覚醒剤の詰まったアタッシュケースが3つ。リーダー格の男はAKを持っていないがコルト45口径を脇腹のホルスターに収めていた。彼らは新潟の海岸でヤクザと落ち合う事になっている。ブツを運ぶ危険な仕事はこちらで引き受ける。ヤクザにとって上手い話であった方がいいのだ。ヤクザにこちらを認めさせ、彼らにとってこちらが無くてはならない存在にならなくてはならない。そうすればやがて彼らをこちらの思い通りに操る事ができるようになるだろう。大切なのは、日本という国に地盤を築く事だ。日本には金がある。今はまだ。だからその金を頂く。

アラブの同士には石油がある、彼らは自分たちと同じように貧しいが、彼らには石油を持ったスポンサーが付いている。ビィンラディンはサウジアラビアの大富豪の一族だったし、アメリカも石油を持ったスポンサーの存在に気が付いていた。だからアメリカは必死になって彼らの資金の出どころを探ったのだ。やがてテロ支援国家の存在に行き当り、アメリカはイラクを攻めた。アラブの同士には石油がある。しかし東南アジアの我々にはそれが無い。だから資金源を手に入れる必要があるのだ。


 アタン達がその海岸にようやくたどりついた時、あたりは明るくなり始めていた。日本のヤクザはすでに海岸で待っており、砂浜の上に5人の内、3人の男が立っていた。他の2人はどこかで見張りをしている事になっている。

暗いうちに取り引きを行った方が、人に見られる心配が無い。しかしもし、ヤクザが金を払わずに、ブツを手に入れようと考えた場合、暗闇はヤクザの見方になる。大勢のヤクザが闇に紛れてこちらを狙っていたら、こちらに勝ち目は無い。

取引を成功させるには明るさが必要だ。それに、たとえ明るくてもその海岸には人はほとんど来ない。絶壁に囲まれていて、入り込むには少し努力が必要だ。ヤクザは皆、まるで登山者のような格好をしていた。彼らは絶壁を超えてきたのだ。


 突然、30m程向こうにある岩陰で何かが動いた。アタンは緊張した。素早く肩から吊していたAKに手を添える。獣か何かかと思ったら、なんと人間だった。釣り竿を手にしている。野球帽を被り、リュックザックを背負っている。リュックサックには釣り道具が入っているのだろう。釣り人らしい。アタンは心の中で怒鳴った。たかが遊びのために、わざわざこんなところまで来ることはないではないか。この男は何か見ただろうか。覚醒剤も金も、アタッシュケースに入っていて、中身はわからない。ヤクザは登山者の格好をしているし、自分たちはライフジャケットを身に付けている、自分たちはアウトドアを楽しんでいるレジャー客のように見えるだろう。しかし無駄だった。ヤクザの一人が拳銃を抜いてしまっていた。気の毒だが、拳銃を見られてしまっては、死んでもらった方が安全だ。

殺れと誰かが拳銃を抜いた男に声をかけた。ここからでは距離がある。狙えないわけではないが近づいて至近距離から打った方がいい。もしここから撃って外したら、標的は逃げようとして走りだすに違いない。もし足の早いやつだったらやっかいだ。それよりも、拳銃は一旦脇腹のホルスターに収めて標的に近づいていけば、標的は逃げださないかもしれない。こちらに何か話しがあるものと思って待っているかもしれない。「なんでもないんだ、見なかった事にしてくれないか、」こちらがそう言うのを期待しているかもしれない。ヤクザはアタンが今考えたように、拳銃を一旦ホルスターにしまった。そして標的に近づいていく。あと数メートルに達した時、標的が後ずさった。まずい逃げだすかもしれない。しかしその心配は無かった。標的はけつまづいて尻餅をついた。と同時に近づいた男が再び拳銃を抜いて標的に向けた。そして銃声。しかし信じられない事が起こった。撃ったはずのヤクザが仰向けに倒れたのだ。よく見ると標的が銃を持っている。そしてこちらに向けた銃口からすでに銃弾が発射されている。小さいが拳銃ではない。マシンガンだ。あの距離から、左から順に正確に味方を仕留めていく。一番右側に居たアタンは慌ててAKを構え、引き金を引いた。セミオートにセッティングしていたAKから、一発は打てたが、しかしそれだけだった。すでに敵の玉を数発くらっている。そしてアタンはその場に崩れ落ちた。


 釣り竿のケースを持っている東南アジアの男が右端と左端に居る。AKはあのケースの中に入っているに違いない。AKを持っている男が二人並んでいれば、問題は無い。しかし離れているとなると、どちらかに反撃のチャンスを与えてしまうかもしれない。右から片付けていけば左端のAKが一番最後に残ってしまう。左から片付けていけば右端のAKが残ってしまう。最後に残ると言うことは余裕があると言うことだ。それは反撃するだけの余裕なのかもしれない。AKが火を吹いたら、アウトだ。しかしやるしかなかった。和也は覚悟をきめた。今から命をかけるのだ。

ヤクザが近づいてくる。ヤクザがこちらに充分に近づいて、こちらが向こうから死角になった時がチャンスだ。リュックザックの中にマシンガンが入っている。そしてリュックザックには和也自身が手を加えている。リュックザックの下部は大きく開いていて、手を突っ込んで、銃のグリップを握れば、マジックテープでとめた銃を引っ張り出す事ができる。ヤクザがさらに近づいてくる。和也は後ずさり、躓いたふりをしてわざと尻餅を付いた。立っているよりも座っている方が自分は的として小さくなる。テロリストに対してはどうかわからないがヤクザに対しては効果があるだろう。そして腰のあたりが痛んでいると思わせるように、顔をしかめて手を回す。回した手がリュックザックの中の、銃のグリップを握った。そして左端から片付けていった。右端がAKを構える前に全員を倒さなければならない。しかし間に合わない。右端の男が釣り竿のケースに入ったAKを構えた時、和也は頭だと思った。敵は自分の頭を狙っている。一瞬の判断、和也は頭を僅かに振った。しかし次の瞬間、左の側頭部に強い衝撃を感じた。強烈な痛みと恐怖。銃に詳しい和也だからこそ弾丸の恐ろしさを良く知っている。痛みよりも恐怖の方がずっと厄介だ。しかし堪えなければならない。堪えなければ命が無い。敵がまだ二人どこかに居るのだ。

意識はまだある。まだ動けそうだ。和也はそう思った。和也は尻餅を付いた状態から素早く真後ろを振り向き、腹ばいになって銃を構えた。そしてそこに一人居た。10mも離れていない。その男は銃を持っているが銃口をこちらに向けようとはしない。こちらを怖がっているのだ。その目が恐怖を訴えている。和也はためらわず引き金を引いた。そして男の眉間に穴が開き。男は倒れた。


 崖の上の方に居た、久瀬剛は銃声を聞いた。東極会の構成員になってこれが初めての仕事だった。彼はそこで見張りをしていた。見張りといってもこんな所に誰も来るはずは無い。楽な仕事のはずだった。しかし突然そうではなくなったのだ。マシンガンの銃声、本物の銃声だ。本物を聞いたのは、初めてだが、それが銃声だと判った。海岸を見下ろした。皆倒れて、血が流れているのが剛の場所から見えた。彼らは皆、銃で撃たれたのだ。誰がやったのか、判らない。全員倒れて、血を流している。剛の体が震えている。震えが止まらない。恐ろしかった。ふいに、近くで何かが動く気配がした。剛は慌てて物陰に隠れた。人の動く気配だ。獣ではない。剛は脇腹のホルスターから拳銃を引き抜いた。そして数日前兄貴分に教わった通り、安全装置を外してスライドを引く。これで引き金を引けば玉が出るはずだ。物陰からそっと覗いてみる。しかし誰も居ない、何も動かない。

突然何かが動いた。剛は慌てて拳銃を突き出し、引き金を引いた。しかし動いたのは石ころだった。誰かが石を投げたのだ。そして次の瞬間、剛は拳銃を握っていた右手首に強烈な痛みを感じた。自分が手首を撃たれ、拳銃を落としたと気づいた時、剛の前に誰かが立っていた。剛はそれを死神だと思った。死神が自分の命を取りに来た。死神は自分に銃を向けている。そしてその弾丸が剛の頭蓋骨を砕いた。


 あの弾丸は和也の頭蓋骨を僅かに擦っていた。あと1cm右だったら弾丸は頭蓋骨を砕き、脳に影響を及ぼしたかもしれない。しかし、命拾いしたのだ。頭に包帯を巻いた和也が街を歩いていく。また人を殺した。その恐怖や悲しさを判ってくれる相手はどこにも居ない。和也は孤独だった。宛ても無く街をさまよっていた和也の目があるものにとまった。あの銃だと和也は思った。武田から手渡され、東南アジアの男3人とヤクザ5人を殺したあの銃が、ショーウィンドウに飾ってある。そんなはずはなかった。ここは日本なのだ。街でマシンガンが売られているわけが無い。ましてあの銃は最新式の高性能銃だ。和也はそのショーウィンドウに近づいていく。そして気が付いた。非常によくできているが、それは玩具なのだ。電気で動く空気銃だ。この店は玩具の銃の店だ。ふらりと店の中に入ると店主らしい男が一人だけ居て、和也に「いらっしゃい、」と声をかけた。店内のショーケースの中にも、さまざまな玩具の銃が飾られている。和也の目から見て、一目で玩具と判るものもあるし、本物と見分けがつかないくらい、非常によくできたものもある。

「何か、お探し?」と店主が言った。

「おもてのショーウィンドウに飾ってあるのを見せてくれないかな、」と和也が言った。

店主は隅の方から箱を引っ張り出してきた。店主がその箱を開けるとあの銃の玩具が入っていた。

「どうぞ、」と店主が言った。

和也はそれを手にとった。それはプラスチックでできた玩具だったが、非常に良くできている。

「撃ってみるかい、」と店主が言った。

和也は頷いた。店主がその銃のマガジンにプラスチックの小さな丸い玉を込め、バッテリーをセットする。そして、店内の奥のドアを開けると、そこに射撃場が設えてあった。狭い通路のような射撃場で、玩具の標的まで10m程の距離がある。

和也が射撃場に入っていくと、店主が玩具の銃をくれた。和也は数発撃ってみた。撃ってみると、よくできているのは外観だけではない事がわかる。狙った箇所にまっすぐに玉が飛んでいく。1センチの誤差も無い。

「こいつはすごい、」と和也は思わずもらした。

「すごいのはあんただよ、たいした腕だ、」と店主が驚いた顔で和也を見ていた。

その後、店主がコーヒーを振る舞ってくれた。店主は和也に興味があるようだった。

「儲かるのかい、こういう店は、」とコーヒーをすすりながら和也が言った。

「コーヒーをサービスするほど暇なんだぜ、儲かると思うかい、」と店主が言った。

「そうなのか、」と和也。

「こういう店は世間様から嫌われててね、肩身が狭いんだ。エアガン使ってバカな事するやつが多いから、」と店主が言った。

店主は先ほどの玩具の銃を手に取ると言った。

「こういうのが好きなのさ。プライベートライアンのミラー中慰はトンプソンを持っていた。007はワルサーを持っていたし、ダーティーハリーは44マグナムを持っていた。彼らは皆、カッコ良かったからな、」と店主が言った。和也が微笑み、頷く。自分に話しかけてくれる相手が居る事が和也には有り難かった。

「ところで君の腕を見込んで相談なんだが、君、サバイバルゲームに興味無いか、良かったら今度、うちのチームに参加してみないか、」と店主が言った。

「サバイバルゲームってなんだい、」と、きょとんとした顔で和也が言った。

店主は和也がそれを知っているものと思ったようだが、そうではなかった。店主が和也に説明する。

「俺たちのような玩具の銃の愛好家は世間様からあまり良く思われていない。だから世間様の目にとまらない所にみんなで集まって(ここで店主は再びさっきの玩具の銃を手に取った。)こういうのを撃ちまくるのさ。」

みんなで集まって、という言葉が和也の耳にとまった。かつて、自分にも友達が居た。和也はふとそう思った。


 いつもは釣り道具を持ってやってくる河川敷だったが、その日和也は釣り道具はもって来なかった。その代わりにエアガンをいくつか持ってきていた。

「脅かすなよ、実銃かと思ったぞ、」と背後から武田の声がした。こんなところに実銃を持ち出したら、たいへんな騒ぎになってしまう。

「玩具さ、」と和也が言った。

「こんなものどうするんだ、」と武田がたずねた。

「サバイバルゲームをやるんだ、」と和也が言った。

和也とは違い武田にはサバイバルゲームの意味が判ったらしい。武田にしては珍しく嫌な顔をした。

「戦争のプロが戦争ごっこをするのか、止めておけくだらない、」と武田が言った。

「玩具の中に本物がいくつか混ざっていても、わからない。ガンマニアっていうのはなかなかいい目眩ましになると思わないか、」

「いい大人がこんな玩具を持ってたら、一目につくんじゃないのか、」

「反対か、」

「ああ反対だ、」

戦争を遊びにするという発想が武田には気に入らなかった。戦争は遊びにするには悲惨過ぎる。

「僕にだって友達が必要なんだ、」と和也が言った。そのセリフを口にする時の和也の表情を武田は見た。和也は真剣だった。武田は思った。和也にとって、この玩具を持つ事は少々重要な事らしい。少し様子を見た方がいいのかもしれない。武田は和也が持っていたエアガンを一つ手に取った。プラスチックの拳銃、見た目は同じでも実物とはまるで違う。まさに玩具だ。武田は一発撃ってみる。小さな丸い、プラスチックの玉が気持ち良く飛んでいく。

「玉になにか仕掛けがしてあるな、」と武田が言った。

「玉に回転がかかってるんだ。揚力で飛距離が出るようになっている。」と和也が言った。

今度は少し離れたところに転がっている空き缶に狙いをつけて撃ってみた。小さなプラスチックの玉が正確に空き缶に当たり、カンと音をたてた。

「うん、こいつはなかなか良くできてる、」と武田が言った。


 徳永は元、公安委員会に席を置く刑事だった。公安を辞めた理由は、規則に縛られるのが嫌になったからだ。規則がなければ、組織は成り立たない。規則に縛られなければ組織の一員で居る事はできない。しかし結局、公安の規則は徳永には荷が重かった。今徳永はフリーの雑誌記者をしている。徳永には公安の刑事としての経験と、独特な文才があった。そしてそれは、世の中に受け入れられたのだ。フリーの雑誌記者になった今の徳永の仕事は、結局刑事をしていた頃と同じ、捜査だ。ただ犯罪者を逮捕するという仕事はもう無い。その変わりに記事を書く。転職は徳永にとっては正解だった。規則から自由になれたし、金回りも良くなった。出版社は徳永の文章をわりと高く買ってくれる。


 徳永はよく、昔の同僚を誘って酒を飲む事がある。今でも公安に席を置いている連中で、たいてい徳永の奢りだ。現役の刑事の給料はお世辞にも高いとは言えない。しかし今の徳永には金がある。それに、今も公安に席を置く昔の仲間達は徳永に貴重な記事のネタを提供してくれる。酒を奢る事くらい、なんでもない。それに徳永にとっては彼らが昔と変わらずに自分を受け入れてくれる事がありがたい。徳永にとって彼らは皆、共に命をかけた事もある大切な仲間なのだ。


 あの日も徳永は彼らを誘って酒を飲んでいた。いつもの安い店だったが、彼らは喜んで付き合ってくれた。たわいもない話し。記事のネタになるような話題は特には出てこなかった。別にそれでも構わない。大切なのはその日も彼らと共に酒が飲めた事だ。気分良く飲んでいると誰かが言った。

「あの原も殺られた事だし、これで日本も少しは平和になる。」

原が殺られた、初耳だった。その一言で酔いが覚た。原とはあの極東会の原の事なのか。あの水谷組の曽根も狙っていたが、どうしても命を取る事ができなかった。もし本当ならすごい情報だ。


 徳永はその席では何も言わなかった。原が殺られたという言葉を確かに聞いたが、聞こえなかったふりをした。その手の情報を専門に集めている徳永にとって初耳なのだ。その話しはまだ世間には出回っていない。もしかしたらそれは公安委員会の刑事だけが知る事ができる極秘事項なのかもしれないのだ。徳永は今、公安委員会とは関係無い一般市民だ。公安の刑事がうっかり口を滑らせて、極秘事項を一般市民に知られてしまったら、問題になってしまう。とりあえず今は聞かなかった事にしなければ、この件を口にした人間は立場を無くしてしまうかもしれない。それは上手くない。


 原の件を記事にすれば、昔の仲間に迷惑がかかってしまう。だから記事にするつもりは無い。しかし徳永はこの件の詳細を知りたかった。原が死んだとなれば、東京の裏社会の勢力図はガラリと変わる。それは当然、表の社会にも大きな影響を及ぼすだろう。社会というものは表裏一体なのだ。この一件は東京という街を変えてしまう程の大事件だ、徳永にはそれがわかった。しかし公安にはおそらくすでに緘口令が出てしまっている。ではどうしたらいい、徳永は必死で頭を絞っていた。


 一般人は何も知らない、雑誌にも新聞にも一切、取り上げられてはいない。しかし、巷では極東会に関する噂が飛び交っていた。よく注意していれば徳永がその噂を耳にするのは簡単だった。東極会に対し水谷組が壮絶な襲撃を仕掛けているらしい。これまでにも水谷組の東極会に対する襲撃は何度かあった。しかしこれまでは水谷組と東極会の力はほぼ互角だった。しかし今、東極会は水谷組に一方的にやられているらしい。これまでとは違うのだ。水谷組のやり口は徹底していた。それはまさに見せしめだ。水谷組に刃向かったらどうなるか、世間にしらしめようとしているかのようだ。しかし、何故かマスコミは一切取り上げようとしない。徳永の同業者にその記事を出版社に持ち込んだ者が何人か居た。しかしその記事が雑誌や新聞に載る事は無かった。どこかで握り潰されてしまうのだ。どうやら緘口令が出ているのは公安委員会だけでは無いらしい。そしてもっと不思議な事があった。公安を含め警察はこの件に関し、見て見ぬふりを決め込んでいるらしいのだ。これまでのところ水谷組にはいっさいお咎め無しだ。


 マスコミでは一切扱っていない、しかし水谷組は東極会に対する仕打ちを世間に対する見せしめにしようとしている。だから知っている人間は知っているのだ。警察やマスコミには緘口令が出ているらしいが、すでに公然の秘密となってしまっている。もはや極秘事項とは程遠い。原殺害のいきさつを聞くだけは聞いてみよう、と徳永は思っていた。話すか話さないかは、相手の判断だ。だめならあきらめるしかないが、意外と話してくれるかもしれない。問題はその判断ができる人間が誰かという事だ。


 「中華料理のいい店を見つけたんだが、近いうちに付き合ってもらえませんかね、」と徳永は電話の相手に言った。

部長刑事の吉田は徳永の先輩で、現役の頃はずいぶんと世話になった恩人だ。

「そうだな、たまには上手いものでも食うか、」と吉田は言った。

数日後、徳永が吉田を連れていったのは、高級中華料理店だった。

「おい、こんなところでめしを食うのか、」と気後れしたように吉田が言う。

「ええ、格安ディナーをやってるんです、今日は奢らせてもらいますよ、」と徳永が言った。

「普通のラーメン屋の方が良くないか、」と吉田が居心地悪そうに言う。

この店でなくてはまずいのだ。高級中華料理店には個室がある、個室でなら周囲に話しを聞かれる心配が無い。徳永は個室を予約していた。


 席に付き、注文を取ったウェイターが出ていってしまうと吉田が言った。

「原の一件か、」

さすがに、吉田には徳永の意図がわかったようだった。

「そうです、」と徳永が言った。

吉田は黙って考えこんだ。

「無理にとは言いません、吉田さんに迷惑をかけるつもりはありません。それに、どうせ記事にはできません。マスコミには緘口令が出ているらしい、」と徳永が言った。

「警察にもだ、」と吉田が言った。

「あのバカが口を滑らせた時、おまえが興味を持つだろうとは思っていたが、」吉田もあの酒の席での事を気にしていたらしい。

話したところで問題は無いはずだ、と徳永は思っていた。しかし吉田どう判断するだろう。

「わかった、教えてやるよ、」と吉田が言った。


吉田は話しはじめた。

「数週間前、極東会の幹部で原という男が殺された。原の護衛の二人の男は、原は拳銃で狙撃されたと言ったらしい。」

拳銃で狙撃という言葉は徳永に違和感を感じさせた。狙撃と言えばライフルを使うものだ、拳銃が使われているのに護衛の男たちは、何故狙撃と思ったのだろう。

吉田が続けた。

「確かに、使われたのは45口径、拳銃の弾丸だった。45口径の拳銃は弾丸が大きく破壊力があるが、弾丸が大きい分、装弾数が少ない。何発も打ち合うつもりならそんな銃は使わない。そいつは一発で仕留めるつもりだったんだ。距離はおよそ70m、護衛の連中が言っていたように確かにあれは狙撃だ。」

徳永は驚いた。拳銃の弾丸が70m先に命中すると言うのは、普通なら有り得ない。

「おまえは、どう思う、」と吉田が言った。

徳永には、こんな事ができるやつがいったいどこの誰なのか見当もつかない。

「007だったらどうかな、」と吉田が言った。冗談のように聞こえるが、そうではない。吉田が言っているのは、犯人は外国の秘密工作員のたぐいではないのか、ということだ。秘密工作員というのはアクション映画の中だけのものでは無く、実際に存在するものなのだ。もし外国から日本政府に圧力がかけられているとすれば、警察やマスコミに緘口令が出ている事の説明も付く。しかしかなり突飛な発想ではある。

「バカげているとは思うが、今のところ他には何も思いつかん、」と吉田が言った。


 もしこの世界に運というものがあるならば、その日の徳永は運を持っていた。その日、徳永は車で河川敷沿いの道を走っていた。その途中だった、河川敷で銃を構えている男を目の端に捉えた。徳永の背筋に冷たいものが走った。徳永は徐々にスピードを落としUターンした。徳永は今はもう刑事ではない。しかしあんなところで銃を構えている男を放っておく事はできないと思った。車から降りた徳永はその男を探した。もし自分が目の端に捉えたものが本当なら警察に通報するつもりだった。その男はすぐに見つかった。まだ若い。男はまだ銃を構えている。一目につく場所ではないが、一目がまったく無いわけではない。この男は何を考えているのだろう。男の10数メートル先に空き缶が置いてある。男はその空き缶に狙いを付け、一発打った。プラスチックの小さな玉が空き缶に当たる、カンという音がした。玩具を本物と勘違いしたのだと徳永は気づいた。バカをやったと徳永は思った。徳永はその男に気づかれないように背を向け、車に向かった。


 車に戻って、運転席に乗り込んだが、徳永はなかなかエンジンをかける気にならなかった。何故、自分はあの男が実銃を打とうとしていると思ったのだろう。あんなところで実銃を打つ人間が居るわけがない。しかし徳永は何故か本物だと思いこんでしまった。男の銃の構え方だ、と徳永は気づいた。あれは、徳永が昔、警察学校で教わった通りの基本的な構え方だった。銃の玩具をいじるのが好きなだけの男なら、あんな構え方はしない。徳永は再び車から降りるとあの男が居た場所に向かった。男はまだ空き缶に玩具の銃を向けていた。徳永は物陰からその様子を見ていた。基本に忠実でとても自然な、美しいとさえ思えるような、そんな構え方だ。しかしだからこそ凄みがある。まるで野生の豹が獲物を狙っているような、

もしあの銃が本物で、その銃口の前に誰かが居たら、あの男は確実にその誰かの命を奪ってしまうだろう。突然、男が振り向いた。男の目が徳永と目が合う。しまった、と徳永は思った。男に見とれて、隠れている事が疎かになってしまった。

「やあ、」と言うと、徳永は慌てて笑顔を作った。

「エアガンかい、かっこいいね、」徳永は続けた。

「あんたもエアガン持ってるのかい、」と男が言った。

突然そんな質問をされて、徳永は意表をつかれた。

「いいや、持ってはいないんだけど興味があってね、」と徳永は言った。

「撃ってみるかい、」と男が言った。

「いいのかい、」と徳永は無理に笑顔を作った。男はエアガンを人差し指を使ってクルリと回すと、グリップを徳永の方に向けた。


徳永はその玩具の銃を手に取った。軽い。それはただのプラスチックの玩具だった。徳永は先程の空き缶に向けて1発撃った。プラスチックの小さな丸い弾は上手く空き缶に当たらない。続けて2発3発と撃った。11発目でようやく空き缶に当たった。命中するとなんだか嬉しい。徳永はエアガンを遠くの空き缶に向けて撃つという行為に少し楽しさを感じた。


 徳永は近くの自動販売機で缶コーヒーを2つ買ってくると、男の所に戻ってきた。男に1つ差し出す。

「ありがとう、」と男が礼を言った。二人は川岸に座りこみ、川の流れを見ながら缶コーヒーをすすった。

「エアガンっていうのもなかなかいい物だね、」と徳永が言った。

「うん、僕も最近興味を持ってね、ちょっとはまってるんだ。」と男が言った。

最近はまったにしては、あの構えは年期が入り過ぎている、と徳永は思った。

「君は、仕事は何をやっているの、」

と徳永が聞いた。

「フリーターさ、なかなか正社員の口が無くてね、」

「確かに、今の就職状況は厳しいようだね、」と徳永が言った。男は頷いた。

「あんたは、何やってる人。」と男が言った。

「私はフリーライターをやっている、」と徳永は言った。

「フリーライターって雑誌記者の事かい、」

「ああ、窃盗、強盗、殺人事件といった、言わばちょっとエグい記事のね、」

「へー、凄いな、最近はどんな記事を書いてるの、」男にそう言われて、徳永は口ごもった。

「そうか、大事なネタを簡単に喋るわけにはいかないもんね、悪かった、」と男が言った。徳永はそれを打ち消すように、

「いや、いいんだ、ここのところちょっと変わったバラバラ殺人がおきてね、それを調べてる。」と言った。

「そういえばニュースでよくやっているけど、多いね、バラバラ殺人て、」と男が言った。


徳永は喋った。

「死体をなんでバラバラにするか、知ってるかい。死体はバラバラにして小さくした方が隠しやすいんだ。昔は誰もそんな事は考えなかった。私がまだ若い頃は、バラバラ死体なんて聞いた事も無かったよ。でも今ではみんなが知っている。死体っていうのは、そのままの状態では隠すのが難しい。大きくて重いし、悪臭だってする。でもバラバラにして、ビニールの袋に区分けしてしまえば、誰にでも隠す事ができる。怖いと思わないかい。昔は誰も知らなかったんだ。でも今はみんなが知っている。」

「確かに怖いね、」と男が言った。

徳永は続けた。

「死体を隠すという目的とは別の理由で、人間の体をバラバラにする事もある。つまり、見せしめのためにね。」

「見せしめのためだって、」

「そう見せしめのために、人間の体をバラバラにするんだ。その場合は生きている人間の体をバラバラにする。つい最近の事だ、両腕と腰から下を切り落とされた人間が見つかった。彼はゴミ捨て場に捨てられていたんだ。見つかった時、その男はまだ生きていた。すぐに出血多量で死んでしまったけどね。どういうわけかマスコミは取り上げないけれど、私が調べたところではそういう話しが他にもいくつかあるらしい。やったのは水谷組というヤクザの組織でやられたのは東極会というヤクザ組織の構成員だ。

この日本という国には60年以上も戦争が無かった。だからみんながこの国は平和だと思っている。でもそれは本当の事なのかな。」

男は黙っていた。徳永には何故か男の表情がひどく悲しそうに見えた。


 あの男と別れ、徳永は自宅に戻っていた。あの男が銃を構えている様子が徳永の脳裏から離れなかった。形は同じでも、徳永がよく知っている、警察官の銃の構え方とはどこかが違う。警察官が銃を扱うのは自衛のためだ。だから、身の危険を感じなければ、警察官が銃を抜く事は無い。しかし本来銃というのは人間も含め、動物の命を奪うためにあるのだ。銃を構えてそれが自然に見えるという事は、銃を扱かっている者が、その動物、或いは人間の命を奪うつもりでいるという事だ。あの男は猟師には見えなかった。


 玩具の鉄砲を打ち合うというのは、子供の遊びだ。テレビや映画のヒーローに憧れて、子供達は玩具の鉄砲を欲しがる。それを大人達が知っているのは自分達が同じような思い出を持っているからだ。だからこそ、いい大人がそんな真似をしたがるのかもしれない。ほんのひととき、子供の頃の自分に帰るために。サバイバルゲームというのは、きっとそういう事なのだ。和也はそう思う。


 その日和也はサバイバルゲームをするために、チームのみんなと落ち合った。そして相手チームと待ち合わせている喫茶店に向かう。その店でモーニングサービスを注文して皆で腹ごしらえをする事になっている。時刻は午前7時、いい天気だ。天気がいいのがありがたい。そんなふうに思えるのはいい事だと和也は思う。もう何度か、チームの仲間と過ごした。エアガンショップの吉住店長のチームに参加する事に決めたものの、和也は初め、自信が無かった。会った事も無い他人が自分を受け入れてくれるか不安だった。しかし今では皆、いい仲間だ。エアガンショップの店長の吉住さん、35歳。玩具の鉄砲の事ならなんでも知っている、チームのまとめ役だ。サブリーダーの浜中さん、最年長で45歳、公務員で廃棄物処理の仕事をしているらしい。エアガン歴はなんと20年。ついにこの年まで辞めなかった、というのが浜中さんの好きなセリフだ。自動車整備士の亀田さん31歳、エアガンに興味を持ったのは2年前で、それまでは真面目なだけがとりえの仕事人間だったと本人は言う。エアガンを初めて少しだけ人生が変わったそうだ。その他に大学生の菅原君、彼は大学にはあまり行っていない。何か悩みがあるらしいので和也が尋ねたところ、人生に悩んでいるのだそうだ。そして浪人2年目の高峰君。ちゃんと勉強してるのかどうかわからない。来年の大学受験が心配だ。皆で子供のように原っぱや野山を駆け回った。それは和也にとってとても大切な時間だった。


 約束の喫茶店に到着すると相手チームのメンバーはすでに来ていた。揃った一同はそれぞれに相手チームの顔を眺めて、嬉しそうな顔をする。同じ趣味を持っている他人と出会えるのは、嬉しいものなのだ。まず、リーダーの吉住店長が相手チームのリーダー等々力さんに挨拶する。

「どうも、おはようございます。いい天気で良かったね、」と吉住店長が言った。

「ほんと、今日はよろしくお願いしますよ、」と等々力さんが言った。

先に来ていたチームBのメンバーはすでにモーニングサービスを食べ始めていた。

あらたにチームAのメンバー分を6人前注文する。和也はモーニングサービスのメニューの中から、トーストとハムエッグにホットコーヒーが付いている物を選んだ。和也が運ばれてきたトーストに口を付けていると。和也の背中をつつく者が居る。和也が振り向くと、相手チームのメンバーの一人が言った。

「あんた、獲物は何、」

和也はトーストを頬張りながら、バックの中から、MP7を引っ張り出した。

「MP7か、悪くないね、」とそのメンバーが言った。

「そっちは、」と今度は和也が尋ねる。そのメンバーが自分のバックの中から、M4を取り出して和也に見せる。和也がM4を手に取る、

「いいね、」と和也が言うと

「そうでしょ、」とそのメンバーが同意する。


 チームBのメンバーの中に、一人異様な雰囲気の男が居た。アーミールックに身を包みサングラスをした男。隅の方に一人座っているが、妙な存在感というか威圧感がある。細身だが長身だ。迷彩入りのタンクトップなので、その男の肉体が鍛え抜かれたものである事がわかる。胸板の筋肉が盛り上がっている。男はバカでかいマシンガンを軽々と持ち上げた。10キログラムはありそうだ。もちろん玩具なのだろうが。しかしどこかで見覚えがあるような、男がちょっとサングラスをづらして、和也に顔を見せた。武田だった。普段は高価なブランド物のスーツに身を包んでいるのでわからないが、武田の体つきはまるでランボーのようだ。しかしなんで武田がこんなところに居るのだろう。武田がサバイバルゲームに興味を持つわけが無い。という事は目的は和也の監視だろうか。しかし玩具の鉄砲を打って遊んでいる和也を見張ってなんの意味がある。


 一番若い二十歳の高峰君は負けん気が強かった。だから武田の態度が気に入らない。隅の方で一人、ただ黙って座っているだけなのに、圧倒的な存在感を持っている事が気に入らない。自分が優位に立ちたいのだ。そして高峰君はやがて、武田のウィークポイントになりそうな、ある事実を発見した。うまくいけば揚げ足をとる事ができるかもしれない。武田のバカでかいマシンガンには小さな注意のシールが付いている。エアガンは人には向けない事、銃口を除いた時に暴発すると失明の恐れがある事、説明書をよく読んでから使用する事等が書かれている。そして銃口には暴発防止の赤い保護キャップが付いている。そのシールと保護キャップは高峰君にとってはとても格好悪いものなのだ。武田はただそこに居るだけなのに、周囲を威圧するほどの迫力がある。だから武田に意見するのは勇気がいる。しかし高峰君はその勇気を出す事にした。

「そのシールとキャップ、ダサくないか、」と高峰君がわざと馬鹿にして口調で言った。

「そんなの取っちゃえば、」と高峰君が言った。

武田は腰のホルスターからグロックを引き抜いた。もちろん玩具だ。そしてそのグロックにもシールと保護キャップがちゃんと付いていた。

武田が言った。

「こんな物が付いていればリアリティが損なわれてしまう。売り物としてはマイナスだ。でもあえて、こんなシールやキャップが付いているのは何故なのか、考えてみた事はありますか。」

武田はサングラスを外した。武田がその玩具を見つめる眼差しはとても優しかった。

「こういう物は世間から嫌われる。人を傷付ける事を連想させてしまいますからね。私たちにはこの玩具を理解できる。でも多くの他の人たちにとってこれは変わり者のための有害な玩具なんです。そういう物を作って売るというのはきっと肩身の狭い事なんじゃないですかね。でもこれは、とてもよくできている。狙い通りによく当たるし、いろんな工夫がしてある。いい物を作りたいという思いが無ければ、こんなふうには作れない。だからこれを作った人たちは、できるだけ大切に安全に扱って欲しいんじゃないですかね。この保護キャップとシールからは、これを作った人たちの愛情が伝わってくるじゃないですか。これは、僅か二千円の玩具だが、私はこいつが好きですよ、」

武田は愛という言葉が好きだった。

「その通りだ、」と吉住店長が言った。

「うん、そうなんだよ、」と等々力さんが言った。

皆が同意するように「うん、うん、」と頷いた。最後に高峰君がしかたなく、

「そうだね、」と言った。


 和也は武田が何故ここに居るのか、問いただそうと思っていた。和也は武田がこの場所に居るという事実に腹がたった。何故武田がここに居るのか、和也にはわからない。確かに自分は武田の指示を受けている。しかしそれは仕事だからだ。仕事以外の事で、干渉される言われは無い。自分は自由であるはずだ。和也はそう思った。それは甘い考えかもしれない。和也の仕事は特別なのだ。しかしその時和也は自分の感情を抑える事ができなかった。和也と武田の関係は一般にしられてはまずいものだ。周囲に、顔見知りである事を知られない方が得策だ。今日初めて出会ったように、装う方がいい。喫茶店を出た後、車に分乗して、目的地に向かった。吉住店長の言う世間様の目にとまらない山奥だ。和也はどこで武田と接触するか、思案していた。車から降りるとそのチャンスがあった。武田は一人離れた場所に居た。俺はそんな男なのだと言いたげに見えるが和也にはわかる。玩具の銃で撃ち合いっこをするような連中の気持ちなど武田には解らない、だから様子を見ているのだ。用は怖がっているという事だ。そばに居た同じチームの者に、和也は言った。

「あのバカでかいマシンガンを見てくる、」

そして少し離れたところに居る武田に近づいていった。


「何でこんなところに居る、」と和也が言った。

「コンタクトはエージェントの事を知っておきたいものなのさ、」と武田が言った。

やはり監視だった。和也は嫌な顔をした。

「嫌か、」と武田

「ああ、」と和也

「はっきり言うんだな、」と武田、

和也は武田をちらりと睨んだ。

「君の邪魔をするつもりは無い。ただちょっと心配だったんだ。」

「何がだ、」

「先日、君は寂しそうだった。孤独というのは厄介なものだ。それで潰れていった者達を何人も知ってる。」と武田が言った。その言葉で和也の武田に対する敵意が消えていく。武田は自分を理解している。

「好きにするさ、」と和也は言うと、武田にくるりと背を向けて、向こうに行きかける。その背中に

「なあ、」と武田が声をかける。和也が振り向く。

「私も君の友達の一人に、加えてくれないか、」と武田が言った。

「ああ、」と和也が言った。


 和也が森の中を進んでいく。和也が木陰を進んでいくと気配を感じた。近くに誰かが居る、敵か見方かどちらかは解らない。MP7は小さくて、扱いが楽な分、他のエアガンと比べるとやや飛距離が劣る。もし敵が近くに居るなら、できるだけこちらの方から近づいていった方がいい。落ち葉を踏む、カサッという音が微かに聞こえたような気がした。和也はその感覚を反芻し分析する。音がしたのは和也の左、9時の方向だ。おそらく相手は移動していない。待ち伏せているのだ。和也に気がついているかどうかは解らない。落ち葉を踏む音に和也が気がついたという事は近距離に居るはずだ。だからこれ以上近づく必要はない。この場をなるべく動かずに先に敵に狙いを付けた者が勝ちだ。和也のすぐ左手に大きな木がある。多分その向こうに居る。和也は一呼吸置いて、素早くその木の向こうにMP7を突き出した。居たのは武田だった。地面に伏せて、あのバカでかいマシンガンを和也の方に向けている。和也が思った通り、和也のチームのメンバーがここを通るのを待ち伏せていたのだ。武田は和也に気づいていた。和也が木の陰から出た途端、武田のマシンガンからプラスチックのBB弾がフルオートで発射される。和也は機敏に反応し、素早く木の陰に隠れる。武田の弾は和也には当たらない。状況は和也に有利だ。待ち伏せしていた武田は、和也を仕留め損なった。すでに和也は武田の位置を確認している。そして大きくて重いマシンガンを持っている武田より、小さなMP7を持っている和也の方が動きが早い。和也は再び、木の向こうの武田にMP7を突き出す。武田が再びフルオートで撃ってくる。和也はまたしても、撃たずに木の陰に隠れる。やがて武田のフルオートが止まる。

その瞬間、和也は木の向こうの武田に数発お見舞いした。しかしその時すでに木の向こうに武田は居なかった。マシンガンだけがその場に起いてあるが、武田の姿が無い。動きを読まれたのだ。武田は先程、グロックを持っていた。あのグロックで和也を狙うつもりだ。あのグロックは連射ができない。一発で勝負するつもりだ。形成は逆転した。和也には武田の位置が解らないが、武田はどこかで和也を見ている。武田の一発はどこから飛んでくるのか。もしその一発を避ける事ができれば、和也が勝てる。突然、武田が和也の目の前に躍り出た。20m程前方で横っ飛びに、ジャンプしたのだ。武田は柔道の受け身の態勢をとっている。その態勢のまま地面に着地するつもりだ。

しかし武田の右腕だけは受け身の大勢をとっていない。武田の右手にはグロックが握られ、その銃は和也を狙っている。

武田は動いている、和也は制止している。

不利なのは和也の方だ。そしてもし和也が撃ったら、武田の一発を避ける事はできない。一瞬の判断。武田の一発が放たれた時、和也の姿はそこには無かった。武田が地面に着地して立ち上がろとした時、和也のMP7が武田の頭に突きつけられていた。

「流石だ、負けた、」と武田が言った。


 午前中のゲームは和也のチームの勝ちだった。体を動かしたため、皆腹が減っていた。和也達は、昼食を取るために集合場所に戻っていた。そこで、皆で持ち寄った材料を出し合って、バーベキューをするのだ。昼食は楽しみな時間だ、2時間取ってある。携帯用調理器具の上で肉や野菜の焼けるいい臭いがする。各自が焼きあがった肉や野菜の串を手に取り、頬張る。空いた腹を満たしていく。クーラーの中で冷えた缶ビールが喉に心地良い。和也も、腹が減っており、豪快に食べている。武田が料理の腕を披露した。調理器具の上で焼ける切り分けたステーキ肉に武田がワインを振りかけると、ボッと火が立ち上った。皆が楽しそうに歓声を上げた。皆楽しんでいた。


 和也は食事を終え、くつろいでいた。

突然、和也の後ろから、

「やあ、」と誰かが声をかけた。

和也が振り向く。サバイバルゲームの仲間ではない。しかし見覚えのある男だった。確か名前は徳永と言った。

「ちょっと通りかかったんだ、」

と徳永が言った。

こんな人里離れた山の中をたまたま通りかかったなどという事があるはずは無い。和也は気づいた。この男は水谷組と東極会の事件を調べていると言った。そして、東極会の原を殺ったのは自分なのだ。この男は自分に目を付けている。この男は自分を追っているのだ。この男はずっと、和也を付けていたに違いない。今までまったく気づかなかった。

「ちょっと話しをしないか、」と徳永が言った。和也は徳永に付いていった。話しを聞かれる心配の無い距離まで皆から離れると徳永は足を止めた。

「さっきのを見たよ、」と徳永が言った。

「さっきの、」と和也が問う。

それは武田と和也の勝負の事だ。

「プロフェッショナルという言葉がある。」と徳永が言った。

「遠くで見ているだけでは、その凄さはわからない。でも、近づいてよく見ると、解るんだ。足が竦んでしまうような圧倒的な迫力。とても真似できない。君は何者なんだい。」

徳永はもはや和也が原を殺ったと思っている事を隠そうとしない。確信があるのだ。しかし、直接和也に問いただそうとするのは何故だろう。和也が正直に答えるはずがないのは徳永にも解っているはずだ。和也は思った。徳永は不意を付かれて動揺した和也が、ぼろを出すのを待っている。

「何者だと思う、」と和也が言った。

「もしそれを知ったら私の命は無いのかな。」と徳永が言った。

「かもな、」

と和也が言った。


 あの徳永という男は自分を疑っている。その好奇心を止める事は難しい。人間の心というのは他人には支配できないものなのだ。和也が武田に近づいていった。

「まずい事になった、」と和也が言った。

「何があった、」と武田が言った。

「サングラスをかけて、あの男を見ろ、」と和也が言った。武田はサングラスをかけた。さまざまな服装の者が居る。迷彩服を着ている者、ジーンズにTシャツの者、中にはジャージを着ている者も居る。しかし共通点がある。皆動きやすい服装をしているという事だ。だから違和感のある者が誰か一目でわかった。

「ジャケットを着た男か、」と武田が言った。

「そうだ、あの男は雑誌記者だ。東極会の原を殺ったのが誰か興味があるらしい。彼は僕に目を付けている。」と和也は言った。

「どういう男なのか、調べてみよう。」と武田が言った。

「消すのかい、」と和也は言った。

和也の目は底知れぬ悲しみを秘めていた。

「心配するな、まだあの男が我々の脅威になると決まったわけじゃ無い。」と武田が言った。


 徳永は車で、自宅に向かっていた。先程、徳永はあの男に言った。

「もしそれを知ったら、私の命は無いのかな、」

「かもな、」とあの男は答えた。

徳永は恐ろしかった。これほど強烈に死を意識した事は無い。公安の刑事を勤めていた頃、徳永は危険に直面した事が、何度もある。しかしこれほどの恐怖を感じた事は無い。あの男の発した、「かもな、」という一言。あのわずかな言葉が、徳永を捉えて離さない。それが何故なのか、徳永自身、解らない。ただ一つ言えるのは、あの男は普通ではないという事だ。


 いつもの河川敷だった。和也は相変わらず、玩具のエアガンをいじっていた。しかし今日はいつものMP7では無い。

「新しい玩具か、」と和也の後ろから武田が声をかけた。和也は振り向かず、

「ああ、」とだけ言った。

「早く大人になったらどうなんだ、」と武田が言った。

「もう少し、子供でいさせてくれ、」と和也が言った。次に武田の口から出たのは例の言葉だった。

「仕事を頼む、」

和也は言った。

「聞かせてくれ、」

「テロリストの幹部が二人、日本にやってくる。その二人を消す。掴んだ情報では、二人は日本に来て数日後、車である場所からある場所へ移動する。深夜だ。そこを襲う。車1台に5人が乗っている、その中の二人がターゲットだ。」

武田は写真を2枚、和也に手渡した。その写真の男達がターゲットだ。昼間ではなく一目に付かない深夜というのは、襲われた場合、反撃する用意をしている。つまり敵は武装しているという事だ。敵が武装している以上、遠距離からの狙撃が最も安全だ、おそらく武田もそう考えている。しかし、走っている車に乗っている人間二人を狙撃するというのは、神業に近い。できるかどうか、答えを出すのは和也の役目だった。


和也はすぐには返事をしなかった。何かを思案しているようだった。

「こいつを知ってるかい。」

と和也が玩具のエアガンを武田に示した。

「FN、P90、」と武田が答えた。実物はベルギー製で、ちょっと変わった形をした銃だ。

「こいつはいい。軽くて小さいが、パワーがある。それにとても構え易い。素早く敵を狙う事ができる。」と和也が言った。

武田は少し嫌な顔をした。

「こいつが手に入るかい、」と和也が言った。P90は特殊部隊専用の特別な銃だ。いかに武田と言えど、そう簡単に手に入る代物ではない。

「玩具をいじっていて、本物が欲しくなったのか、」

と武田が言った。

「僕には走っている車に乗っている人間二人を狙撃するのは不可能だ。でも車のガソリンタンクを破壊する事なら、できるかもしれない。P90があればね、」

と和也が言った。

武田には和也の考えている事がわかった。

「なるほど、装甲貫通弾か、」と武田が言った。P90は厚い鉄板を貫通する特殊な弾丸を発射する事ができる。それを使って、車ごと破壊してしまおうと言うのだ。

「わかった、なんとかしよう、」と武田が言った。


 深夜だった。広い河川敷に雑草が生い茂っている。暗闇に和也が居た。オフロードの原付バイクから降りた和也が、背負っていたバッグから品物を取り出し、準備を始める。ヘッドホン型の無線機を頭から付ける。その後、銃を取り出し、サイレンサーを装着する。銃はあのP90だ、武田は手に入れる事に成功した。銃には予めスコープと薬莢を受けるための袋が装着されている。スコープが付いていても、やや大きめのリュックサックにすっぽり入ってしまう程の大きさだ。川向こうの河川敷もかなり広くその先の堤防の上に舗装道路が走っている。その向こうには巨大な工場の建物群がある。ターゲットはあの舗装道路を通るのだ。距離はおよそ150m。道路の照明と、工場の夜間照明に照らされているため、舗装道路の上の明るさは確保されている。スコープを覗き、川向こうの舗装道路を確認する。次に銃を構えた状態で、視点を少し移動させてみる。スコープは問題無い。弾倉を装着し、セレクターをフルオートの位置に合わせコッキングレバーを引き弾丸を装填する。そして、無線機のスイッチを入れ、口元のマイクに、声を入れる。

「和也だ、準備完了だ。」

「了解、そのまま待機しろ、」と耳のスピーカーから味方の声が聞こえた。無線機も問題無しだ。川向こうの道路は静まり返っている。和也は待っていた。その間、周囲の気配に気を配っていなければならない。万が一、銃を持っているところを誰かに見られてはまずい。また敵が襲ってくる事もありうる。一分が一時間にも思える、気の遠くなるような長い時間。

やがて無線機のスピーカーに、味方の声が入る。

「ターゲットがそっちに行く。黒いワゴン車だ。時速約45キロ、3分後にそっち行く。」

ターゲットはあまりスピードを出していない。パトカーに目を付けられる事を警戒しているのだ。武装しているから、警察に調べられるわけにはいかない。こちらの読み通りだ。和也はスコープの向こうの舗装道路に意識を集中した。やがて味方の予告どおり、黒いワゴン車がやってくる。そのワゴン車のガソリン給油口の下、ガソリンタンクのあたりをスコープの照準が捉えた瞬間、和也は引き金を引いた。そしてそこに10発前後の弾丸が命中するのをスコープを覗く和也の目が捉えた。

「成功だ、引き上げる、」と和也が言った。

「了解だ、」と味方が言った。

和也は素早くサイレンサーを取り外し、銃と無線機をバッグに詰めて、オフロードの原付バイクに跨った。そしてガソリンが発火したワゴン車の爆発音が遠くで聞こえるのと同時に、バイクのエンジンを始動させる。河川敷の草村をライトを付けづにゆっくりと和也のバイクが走りだす。今頃、武田の指示を受けた掃除屋が、P90の特殊な弾頭を始末しているはずだ。そして常のごとく、それを誰がやったのか、誰にもわからなかった。

                  了

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2005年 関口晶弘 @sekiguchimasahiro

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