私情まみれのお仕事 外伝2 もう一つのお家騒動
赤川ココ
第1話
旧姓は
小売業の社長の岩切
この地に来た時、直はかなり荒れていた。
が、岩切学、
中学生に上がる年で、その力の強さから、術の方の古谷家を継ぐ人材として、期待され始めていた。
僧侶としての技量には乏しく、それならばと保育士を目指して日々励んでいたのだが、高校を卒業して成人を迎えるころ、突如心変わりした。
熱愛が、心境を変えてしまったのだ。
現在二十三の直は、女房を連れて里帰りしていた。
といっても、本当の自宅でも、岩切学の家でもない。
鬼塚家は、男を立てるのを良しとする家柄で、婿養子となった直にも実の娘に対するよりも風当たりが優しい。
婿の実家に送り出され、嫁である
直が戻る家と言うのが、本物の実家でも伯父宅でもなく、古谷家だと言うのも心を安堵させる要因だろう。
しかも、年末のこの時期、古谷家は別な意味で忙しい。
当主の古谷氏は、年中忙しいのだが、その弟子と妻子もこの時期、別な意味で忙しくし始める。
大みそかの前日、決まって行われるある一戸建ての大掃除が、多忙の原因の一つだった。
前日は古谷家に泊まり、翌朝早くその山へと向かう。
勝手知ったる家の中を、隅々まで磨き、空気を入れ替え、傷んだ部分は修正する。
今回は人数が多い気がするが、数日前の騒動を思うと、仕方ないと思う。
働き者の作業者が増えると、掃除も順調に進み、昼前には殆どの部分を終えていた。
やり残しがないかと、直が雑巾にお湯を浸したバケツを下げて、家の中を徘徊していると、客間の座敷の中に立ち尽くす人に気付いた。
同じようにバケツを手にしたままの金髪の若者は、こちらを背にして炬燵机に目を落としている。
その目の先に、新聞があった。
珍しいと思いながら、直は声をかけた。
「座って、読んだらどうですか?」
我に返って振り返る若者は、そのまま曖昧に答えて立ち去ろうとするが、直は更に言う。
「もう、あらかた終わってます。お茶でも入れますから、座っててください」
返事を待たずにその場を去り、バケツを片付けて茶の用意をする。
何だか、久しぶりの雑用だ。
今日いる人数分の湯飲みを出し、茶菓子と共に急須と茶葉とポットを盆にのせ客間に戻ると、若者は立っていた位置にそのまま座っていた。
いや、持っていたバケツはないから、一度片付けてから腰を落ち着けたらしい。
わらわらと作業員が集まる中、セイは机の上の新聞に目を落としたままだ。
その見出しを読んで、その横に座ったエンが言う。
「物騒な話だ。銃で、撃たれたって?」
「え、どこでですか?」
驚いて、直はつい、新聞を覗きこんだ。
大きな見出しと共に、見た事のある屋敷の物々しい現場の風景が、載っていた。
「
「犯人が逮捕されていないようだから、逃げてるんでしょうね。しばらくは注意しながら外出した方がいい、君らも」
集まった面々を見回してエンが優しく言い、黙ったままの若者を見た。
「どうした?」
まだ、その記事を凝視している様子が、妙に不自然だ。
返事をせず視線を落としたまま、セイは男の名を呼んだ。
「エン」
「何だ?」
「出かけたいんだけど」
「駄目だ」
気持ちいいほどの、即答だった。
一瞬詰まり、若者はエンを見上げた。
見返す目を見据え、ゆっくりと言う。
「篠原さんとは、顔見知りだ。見舞いに行きたいんだよ。それ位、いいだろ?」
笑顔を絶やさずにいた男の顔が、更に濃い笑顔になった。
「約束は、約束だ。それに、今言っただろう? その子を撃った奴は、まだ捕まっていない」
「……」
立場的に弱いセイは、そこで黙ってしまったが、茶を飲み終わるまでその記事を凝視したままだった。
すでに掃除も殆んど終わり、昼食の準備にかかった夫人たちを尻目に、暇になった直はそっと、自室に引っ込んだ若者を訪ねた。
襖を開け放ったその畳部屋に座り、窓の外をぼんやりと眺めているセイに、男はそっと声をかけた。
「若、何か、気になる事でもあるんですか?」
その声に、振り返ることなく無感情に答える。
「気になるけど、流れに任せるしか、無いみたいだ。やっぱり、練習しておくんだったな……」
ぼんやりと、反省しているのだが、何を後悔しているのか、いまいち分からない。
「流れに任せても、何かに障らない事なんですか?」
襖の縁の前に正座し、直が尋ねる。
十代に満たない頃から古谷を行き来していた為、自然に適度な礼儀は身についた。
この人とも、その頃からの付き合いだから、こんな時の心境も何となく理解していた。
眠っているのか起きているのか分からない、ぼんやりとした状態の時、セイは大いに反省している。
そして、そんな時の若者は、反省しながらも打開策を思考している。
「障る。だから困ってる。世間的な面はもう間に合わない。動けないんじゃあ、どうしようもない」
大きな溜息と共に、やっぱり今からでも……と、真剣に目論んでいる。
何を考えているのかは分からないが、深刻な事態の様だ。
この数日の話を、古谷氏にも聞いた。
保育園のあの最悪な事件も動き、関係者は近い内に逮捕に踏み切られるだろうと言う。
この地を離れていた直は、送迎バスの件も部外者として話を聞いた。
昔の自分が想像もしない熱愛によって、結婚するに至った事に後悔はないが、疎外感は面白くなかった。
今も忙しい合間をぬって、この地に根を下ろした家の人たちが、活動しているのを、内心やきもきして見守っている。
大きな事件には、係れない。
鬼塚家は比較的自由な家柄だが、限度がある。
だが、目の前で何か目論む若者を、黙認するのは後が怖い。
「……若」
改まって声をかける直を、セイはようやく振り返った。
「何か、用か?」
ぼんやりと上の空だった目が、いつもの無感情なものに戻っていた。
その目に笑いかけながら、男は切り出した。
「あなたの周囲の家は忙しくて、あなたの個人的な憂いを晴らす暇はない」
「そんな必要もないだろう。私の憂いとやらは、私だけの悩みだからね」
「その憂いは、世間にも障るんでしょう?」
男を見つめた若者が、ああ、と呟いて頷いた。
「あんただったのか、相槌打ってたの」
「……」
その言葉につい、笑ってしまった直を見とがめ、セイは眉を寄せた。
「何だ?」
「いえ、気を遣わなくてもいいですよ」
本当は、いたのか? と言いたかったのだろうと、男は笑った。
直がこの地に来たての頃、同じような場面があった。
その時は、つい声をかけた少年に、若者は本音を漏らしてしまい、思いっ切り体当たりされた。
実の親たちに、言葉にすることを全否定され続けていた直は、今思うと本当に荒れていた。
何せ、この若者に、未だに気遣いを思い出させるほどだ。
今では直も、あの時のセイが、周囲に誰がいるのか分からない程、素に戻って油断していたのだと、知っていた。
「……あんた、古谷の誰かに、体当たりを教えてないよな?」
少し前に、誰かにそうされた記憶があるのだがと、目を細める若者に直は首を傾げた。
「教えなくても、やろうと思えば誰でもできるでしょう。それより、若」
「ん?」
「噂、うちの方にまで届いていますよ」
改まった指摘に、どの噂か判断がつかずに、セイは目を瞬く。
真顔で、男は主張した。
「
「弟子?」
黒々とした目が、今度は丸くなった。
やっぱり、と直は思う。
周囲が、そう思ってしまっているだけだ。
なまじ、似た年格好の他の二人が、同じ時期に同じ位の年齢の少年少女の面倒を見始めていた為、セイまで一緒くたにされただけだ。
訂正したところで、出回った話は消せないだろう。
志門は公式な弟子と思われていると、直に聞いたセイは小さく唸った。
「あんなのでいいのか? 弟子取りって?」
それでいいのなら、昔に遡ると、何人もの弟子がいる事になると言う若者に、直はそうだろうと何度も頷く。
志門も、昨夜つい意地悪で指摘した時、目を剝いていた。
そんな恐れ多いと慄く少年を、言い過ぎたかと宥めたほどだ。
「弟子は大げさでしょうが、オレや志門を含めて、そう言う子供が何人もいることは、忘れないでくださいよ」
志門には、便宜上そう考えとけと言っておいたが、セイが面倒を見た連中を、どう呼ぶべきなのかは、考える余地がある。
だが今は、その名をつけて貰おうなどと言う、恥ずかしい思いでこの話題に触れた訳ではない。
言いたいことは、ここからだ。
「あなたの憂いを晴らす、お手伝いがしたいと考えるのは、何もこの地の人たちだけじゃない」
真顔で切り出した直は、まじまじと見つめる若者の目に耐えながら、続けた。
「オレで役立つなら、いくらでも使って下さい」
「そう言う機会があれば、お願いするよ」
「え、今回は、その機会でしょう?」
思わず声を張り上げる直に、セイは宥めるように言った。
「あんた、自分の奥さんが大変な時に、こっちに係る気か?」
鬼塚桃は、今妊娠四か月だ。
安定期に入った時期に、年末が来て幸いと、古谷の方に避難して来た形だ。
何せ、初孫への期待が、鬼塚家では過剰なほどなのだ。
このまま、出産までいさせて欲しいと、古谷の師匠に交渉中である。
「勿論、女房一人置いておく気はありません。だから、当分はこっちにいますから」
産休育休を取ったと言う直に唸り、セイは考えながらも頷いた。
「それならお願いするけど、奥さんの体の事も考えて、大事にしてやれよ」
「勿論ですよ。何やりますか? さっきの篠原家の件、調べましょうか?」
勢いよく言う男に首を振り、若者は切り出した。
「篠原家のあの事件で、動きやすくなった奴が、一人いる。どう動きだすか分からない奴だ。そいつの監視をお願いしたい」
「え? その、篠原家の嫡男に会わなくても、いいんですか?」
「流石に、まだ目は覚めてないんじゃないのか? どんな銃かは知らないけど、撃ちどころ次第では、意識が戻るのも先の話だ」
その間に、見舞える時期が来るかもしれないと、セイは希望的な見方をしている。
「若らしくないな。時間に望みを託すなんて」
「意識云々の前に、その詳しい情報は、近く入るはずだ」
篠原家の嫡男の名は、
高校一年の少年で、
「……ん? って事は……志門とも、同級生ですかっ?」
「あ、そっちを気にするか。そうだな、あの子とも、顔見知りのはずだ」
セイが言いたかったのは、刑事二人の子供たちが、和泉の幼馴染だと言う事だ。
「子供に甘いわけじゃないけど、
幸い、年末年始は、頭脳派の連中も顔を揃えるから、意見を求めてくるかもしれない。
「なるほど、その件は、待ってればいいわけですね? その、動きやすくなった奴ってのは、誰ですか?」
身を乗り出す直に答えたのは、女の声だった。
「ああいう裕福な家は、人間にも私たちのような奴にも、狙われやすいんだよ」
廊下に、雅が立っていた。
つい慄いて体を反らした男を、清楚な美少女はあっさりと部屋に放り投げ、自分も座敷の中に入ると襖を閉めた。
「こういう内輪の話の時は、閉めててもいいから」
「聞かれて不味い話は、してないけど?」
「不味くはないけど、大きな声で話せる事でも、ないだろ?」
雅の行動に首を傾げたセイにはそう返し、女は直に説明した。
「篠原さんの奥さんの
斎とは面識があったと、直は頷いた。
結婚した後のごたごたで、香典だけ古谷氏に託す形になった事が、今でも悔やまれる。
「そうですか、あの人の代わりが務まるか分からないですが、最善を尽くします」
「入院して、家を離れてる和泉君は心配ないと思うけど、そいつがどの程度力をつけたか、ここじゃあ見当もつけられない」
「かと言って、今この子は動けないし、私も下手に動いたら、怪しまれる。直君が動いてくれるなら、協力者を紹介するよ」
直が提案に頷くと、女は一人の人物の名を上げた。
今現在、篠原家の執事として働く男の、妻に落ち着いている女だった。
まずは向かい合って、静かに相手を見据える事から、始める。
二人の若者曰く、顔見知りで親しい者同士の手合わせは、馴れ合いにしかならなくなる。
それでは実戦を知る二人には、意味がない。
だから、本当の殺気を込めるのだと、言っていた。
獲物は木刀だが、殴られれば致命傷になる鈍器だ。
下手に気を抜いて、要らない怪我をしない為にも、二人は真剣に集中していた。
突如として始まった打ち合いは、岩切家の道場で行われていた。
二人とも真剣の時同様の、死を間近に置きながらの打ち合いだ。
大掃除を手伝うから、道場を使わせろと
家中の掃除をし、昼を回る頃には終わってしまった。
道場の方も掃除を済ませた昼食後、こうして木刀を合わせているのだった。
最近、成長が目に見える程になった蓮は、そんな体格の違いを感じさせない機敏な動きで、相手の懐に入り込もうとする。
それを上手に避けながら、鏡月は隙を見つけて、ほれぼれとするような動きで切り込んでいく。
どちらも目に見えるのがやっとの動きで真似できないが、この二人の打ち合いを黙って見ているのが、静はここに引き取られた時から好きだった。
道場の片隅に正座し、見続けていた少女の前で、唐突に二人の動きが乱れた。
「っだあっ、いくら打ち込んでも、かすりもしねえっ」
突然わめき、蓮がまずその場に座り込んだ。
「当たり前だっ。お前らに打ち込まれるようになっては、オレの方が、大打撃だっ」
年上の威厳と我慢していたのか、鏡月もすぐ後にその場に座り込み、吐き捨てるように返した。
疲労感が襲う体を宥める若者に、蓮が溜息を吐いた。
「打ち込めねえうちに、こっちが体力を消耗したら、アウトじゃねえか」
「体力お化けが、どう言う心配だ? オレの方が、それは危うかったんだがっ?」
鏡月は睨み、辛うじてまだ小さい若者が、立ちあがるのを見上げた。
息が、全然乱れていない。
舌打ちしたい気持ちを押し隠し、何とか立ち上がって静の元へと歩いて来た若者を、少女は汗拭きタオルを掲げて迎えた。
「お疲れ様です」
「……」
鏡月が受け取った後、蓮にもタオルを差し出す。
「おう、悪いな」
「冷たいお茶も、用意しています」
いそいそと準備しながら、少女が二人の世話を焼く。
「大掃除は助かりましたが、蓮は珍しいですね。この時期は、市原さんの所にいると、聞いていましたが」
黙ってタオルを使い、コップの冷たさに浸る鏡月の横で、蓮は冷たい茶を一気に飲み干した。
「……そのつもりだったんだがな、今年はそうもいかなさそうだ。あの家にいたら、ごたごたに巻き込まれちまう」
かと言って、セイの所は論外だ。
今手掛けている件で、出し抜いた連中が、そろそろ再び集まり始めるからだ。
「まあ、間が悪いんだよな。何だってこの時期なんだか。理由の想像は出来るが、正直思い切ったよな」
「ごたごたに巻き込まれると言う事は、葵の奴、事件勃発で駆り出されたのか?」
「ああ」
この年末の慌ただしさの中で、騒動を起こす輩は多い。
今年は非番のはずの葵まで、駆り出す程に人手不足らしい。
やれやれと、首を振る鏡月と相槌を打つ静を見て、蓮は首を傾げた。
「ん? あの事件、知らねえのか? もう、テレビでも新聞でも出回ってるはずだぜ?」
昨夜、起こった事件だ。
「事件?」
「ああ。ある豪邸で、ガキが撃たれた」
命は助かったが、未だ意識は戻らない様だ。
「ああ、篠原さんの所ですね」
静が思い当たって頷いた。
「うちの両親も、心配していました」
今はあの家に近づけないので、心配するだけしかできないと、新聞を見ながら唸っていた。
「葵の奴はな、事件だから出向いていったし、オレを巻き込む奴じゃねえけど、凪がなあ」
巻き込まれたのが幼馴染では、尚更犯人捜しに執着するだろうと、若者は苦い顔だ。
「正直、この件はややこしい事になりそうで、触りたくねえんだよ」
「そうですね、市原先輩は、許せないでしょうね。篠原和泉先輩とは、保育園からのお付き合いだと聞いていますし」
「篠原、和泉? あの、斎の息子?」
鏡月が呟いて、眉を寄せた。
露骨に嫌そうに顔を顰めるのを見て、蓮が小さく笑った。
「な? 触りたく、ねえだろう?」
「ああ、いくら金が欲しくても、解決を頼まれたくは、ないな」
「だから、逃げて来たって訳だ」
こういう複雑な話は、傍から見ている方が楽だと、二人の若者は頷き合う。
意味不明の会話だが、静はいつもの事と聞き流す。
聞き流しながら、昨夜起こった事件の概要を、思い出していた。
屋敷内の、高校生の子供の部屋に、何者かが侵入し銃で撃って逃走した。
その部屋にいた和泉は、肩の辺りを撃たれて重傷、出血がひどく、未だに意識が戻らない。
警察は、監視カメラの映像を解析し、犯人の特定を急いでいる。
「……侵入者を知らせるセンサーなどは、無かったんでしょうか?」
「どうだろうな。あっても、意味ねえかもな。家の住民なら」
「え?」
思わず振り返ると、口を滑らせた蓮が取り繕うように咳払いした。
「それは、詮索する事じゃあないだろう。お前は、静かに年末年始を過ごせ」
「お前たちも、セイの所に挨拶に行くんだろ?」
「ええ。年末の明日から、年明けまでいる予定です」
それじゃあ、静かには無理だと蓮は苦笑するが、鏡月は頷いた。
「志門や
「え、どうしてですか?」
「ばったり鉢合わせたくない人が、出入り始めそうだからだ」
これも曖昧すぎて分からないが、静は一応頷いた。
そして、思い出す。
「そう言えば、篠原先輩とも、会った事はあります。何だかもてそうなメガネ男子ですね」
「……お前、この国に染まって来たな」
「
凪が帰宅する志門を直撃し、それを救い出すのがここしばらくの日課だったと、静は報告した。
一緒になって話しかける高野晴彦と市原凪の後ろで、静かに苦笑して立っているのが、篠原和泉だった。
「……と言うことは、他の同級生よりは、面識あるんだな。篠原和泉と志門は?」
「こりゃあ、まずいな」
天井を仰ぐ鏡月の隣で、蓮がその心境を代弁した。
「まずいとは?」
「面識がある同い年の子供が、大怪我して入院って話聞いたら、志門の奴心配するんじゃねえのか?」
「少し、人がいい所があるからな。あり得る。心配して出かけた先で、凪にとっ捕まって、巻き込まれていそうだな」
静が立ち上がった。
無言で一礼して道場を後にしようとする少女を、蓮が引き留めた。
「冗談だ、本気にするな」
「ですが、あり得る話です」
「あのな、静」
やんわりと、若者は言い切った。
「志門は確かに人がいいが、お人好しじゃあねえぞ。出かけ先で凪に会ったとしても、すぐに逃げて来れる」
「そんなこと、分からないじゃないですかっ」
思わず声を上げる少女を、鏡月はにんまりとして見つめた。
「何だ、お前は志門を妬んでいたんじゃなかったのか?」
本当は、セイに師事したかったのだと知っている若者の、意地の悪い問いに静は詰まった。
「む、昔の話を、いつまでも蒸し返さないでくださいっ」
確かにそんな時期はあった。
父親が自分の名を、憧れた若者の名にちなんでつけたと知った時から、憧れも引き継いでいた。
鏡月の剣技も好きで、師事した事に後悔はないが、その後でセイが面倒を見始めた志門を、羨ましく思っていたのだ。
今は、そんな気持ちは消えた。
むしろ、あの人がセイの弟子で良かったと、そう思える。
「ほう、いつの間に、そんな心境の変化があったのだ?」
「……深く突っ込むな。まだ早いだろうが」
楽しそうな鏡月を、蓮が呆れながら窘める。
静はこれでもまだ、小学生だ。
「ま、明日、あいつらと会うんだったら、その件も話題に上がるだろ。お前が率先して動く必要は、ねえよ」
「そう、でしょうか」
「心配なのは分かったが、過保護にするのは、志門の為にもならねえぞ」
しょんぼりと肩を落とす少女を、鏡月は微笑ましい気持ちで見つめた。
数か月前に起こった事で、静にも心の変化があった。
その変化がいい方向へと向かえばいいと思う若者の隣で、蓮はふと思い当たった。
「ん? 確か、
「持つんじゃないのか? 知り合いの家の事件で、例の息子は健一の先輩だ。心配より、好奇心で首を突っ込みそうだな」
意地の悪い指摘に、若者は舌打ちした。
逃げてきた意味が、なくなってしまいそうだ。
「仕方ねえ。顎でこき使える人材を、用意しておくか」
あくまでも自分は動かない、そんな気概の蓮は、頭に浮かんだ人材に連絡を入れるべく、傍に置いてあった手荷物に手を伸ばした。
大事件に隠れてしまったもう一つの騒動が、ゆっくりと動き出していた。
物々しい現場を見回し、古谷志門はすでに後悔していた。
顔見知りの少年が、とんでもない事件に巻き込まれたと知り、手が空いた時を見計らって篠原家の前に来たが、野次馬とマスコミの数に慄き、気後れしてしまったのだ。
大体、目当ての少年はここにはいない。
どこかの病院に搬送され、治療を受けている最中のはずだ。
ここで立ち尽くしていても、自分が寒いだけだと溜息を吐き、志門は家路につくことにしたのだが、そんな少年を見とがめて声をかけた者がいた。
「あれ、志門さんっ」
聞き慣れた声に振り返ると、大柄な少年が大きく手を振って近づいて来た。
「志門さんも、野次馬ですかっ?」
違うと言い切れず、志門は曖昧に答えてから、少年を見上げた。
「健一さんも、ここに来ていたんですね?」
「はい。だって、こんな大きな家に侵入した奴がいるんですよ。この辺りに潜んでいると思うと、わくわくしちゃって」
元気よく頷く
「ご無沙汰しています。古谷先輩」
「お久しぶりです。あの節は、お世話になりました」
「そう、それだ、
健一が思い出して、友人を指さした。
「お前、街で面白い事、やってるんだってなっ?」
「……その件は、お前の父親にでも、詳しく聞いてくれっ」
吐き捨てる所を見ると、健一は思い出すたびに、これを一々話題に乗せているようだ。
どちらの味方もする気はないが、一つだけ気になってその話に乗った。
「今日は、そちらにはいかないんですか?」
「ええ。今の時期は、小父さんの自警団に任せろと、小父さん方代表の方に言われまして、皆冬休みに入りました」
速瀬
「どこかのニュースの中継で、監視カメラには怪しい人影はなかったと、言っていました」
「つまり、あの家の誰かが、篠原先輩を撃ったんです」
「……どういう種類かは知りませんが、銃と言うものはそんなに簡単に手に入るものでは、無いのでしょう?」
その手の物を持つときは、資格や証明書がいると聞いている。
志門の指摘に、健一は真顔で答えた。
「篠原さんは、元々狙撃手だったそうですから、そう言う物を持っていたかも」
何代前の話だと、大人たちが苦笑しそうな話だ。
「篠原君は、まだ目覚めないのでしょうか?」
「ええ、そうみたいです。もし意識を取り戻したら、犯人の顔を見ているかもと、
それだけ、間近で撃たれたらしい。
「しかも、揉み合った形跡もあるし、絨毯を這って異変を知らせようと先輩が動いた跡もあるようです」
「大人しそうな顔してるけど、結構肝が据わってるみたいだよな」
二人が集めて来た情報は余り役に立たないが、それだけ集められただけでも、上等だろう。
「さっき、市原先輩と高野先輩が、この家から出てきましたよ。現場を見たのかな?」
事件発生から、半日近くたっているから、現場での捜索は終わっているのかもしれないが、篠原家の嫡男とは、面識が薄い自分達では、中に入るのは難しいだろう。
「あの二人から、見てきたことを訊くのが良策でしょうけど、やっぱり現場は自分の目で見ないと、面白くないですよね」
好奇心は消えず、健一は歯がゆい気持ちでいる様だ。
そんな友人を、伸は呆れながらも宥める。
「あの二人の先輩から訊くにしても、どう切り出す気だ? 外から見るだけにして、係らない方がいい」
「正直、あのお二人と係るなら、面識のない人の事件を知る必要は、ないように思います」
二人と言うより、市原凪を苦手としている志門は、正直に気持ちを吐露した。
「それでも知りたいのであれば、どなたか別のお知り合いが入るのに便乗してはいかがですか?」
「そんな都合よく、篠原家に出入り可能な知り合いが、いるはずないでしょう」
先輩の提案に頷きつつも、可能性は低いと嘆き、健一も諦めかけた時、幸か不幸かその知り合いがやって来た。
「……何やってるんだ、お前たち?」
呆れた聞き慣れた声が、志門に呼び掛けた。
振り返ると、兄弟子が籠を片手に立っている。
「直さん、あなたこそ、どうしてここに?」
思わず駆け寄った志門に目を見張り、直は答えた。
「年末の挨拶も兼ねて、お見舞いだ。お前たちは、野次馬か?」
「そうです」
答えた健一の脇を、伸は思わずどついてしまう。
「ん? 見かけない顔だな?」
その少年に気付き、男が首を傾げると志門が答えた。
「健一さんのご友人の、速瀬君です」
「へえ」
更に目を見張る直に、伸は丁寧に頭を下げた。
「初めまして、速瀬伸です」
「鬼塚直だ。そうか、お前さんが……いや、話は色んな所から聞いてるんだが、まだ話に係った人間と会う機会がなくてな。良かったな、健一」
小さい頃から知る少年が、ようやく得た友人を見て、直はつい微笑んだ。
照れる健一に構わず、志門に尋ねる。
「ここの息子さんが、お前と同級だとは聞いてるんだが、親しいのか?」
「いえ、そこまで親しくは……ただ、顔を合わせる機会は多かったもので、気になりまして……」
「そうか」
少し考え、少年たちを見回した。
「お前さん達も、事件に興味があるのか?」
「はいっ」
「いいえ。休みにまで、頭を使うのは……」
「興味と言う程では、ありません」
三人三様の答えだ。
二人の答えを聞いた健一が、露骨に顔を顰めた。
「興味がないなんて、駄目ですよ、志門さん。速瀬も、何を爺さんみたいなこと言ってるんだ?」
「ですが、私が気になったのは事件自体ではなく、怪我をした同級生で……」
「余計な首を突っ込んで、痛い目見たくない」
二人の更なる言い分に嘆く少年を、直は面白そうに見返し、切り出した。
「じゃあ、健一だけ、一緒に訪問するか?」
「ええっ、オレだけじゃあ、本当に野次馬になっちゃいますよ」
「現場を見たいだけなら、それで充分だろう?」
やけにあっさりと言う男に、伸がつい尋ねる。
「ですが、警察の方の邪魔になるのでは?」
「訪問の連絡をしたら、警察の方々はもう帰ったと言っていた。殺人だったわけじゃないから、その分早かったんだろ」
成程と納得する少年に、健一がにじり寄る。
「速瀬、こんなところ見る機会なんか、滅多にないぞ」
「なくても、困らないだろう」
「話が進まなくなるだろ。頼むから、一緒に行ってくれ」
何の心配だと呆れる伸は、困って志門へと目を向けた。
高校の先輩は、直を見ていた。
その視線に気づいて振り向いた男が、首を傾げる。
「どうした?」
「……この事件、只の傷害事件で、すまなくなりそうなのですか?」
「それは、分からない。だが、若が気にしておられるんだ。動けないのが、歯がゆいらしい」
戸惑いの目になった少年に、直はゆっくりと尋ねた。
「入って見るか? 志門」
選択を任せる問いに、志門はすぐに頷いていた。
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