第8話 本歌取り

 本歌取りとは元々和歌の技法であり、元となる和歌の一部をそのまま自分の歌の中に折り込んでしまうというものである。

 有体ありていに言ってしまえばパクリであるのだが、この議論自体は新古今の頃にもあったようで、反対意見も多かったようだ。

 そこで、三代集(「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」)の時代に範囲を絞ろうとしたり、趣向を変えようとしたりするなど様々な規定を定めて技法へと昇華させようと腐心した。

 時代を経るにつれてその規定は整備されていくものの、やがてはもじりの句として笑いにも昇華されていく。


本歌)ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる

狂歌)ほととぎす なきつるあとに あきれたる 後徳大寺の 有明の顔


 江戸時代のおかしさというのは、教養と滑稽の合一ではないかと私などは思うのだが、本歌取りの精神でこの作品を見るとよりおかしさが増す。

 単純に見れば本歌は時鳥の鳴いた方を見てみれば、もう月しか残っていなかったという寂寥の歌となり、狂歌は作者を単に茶化したものとなろう。


 しかし、ここに平安時代の貴族の風習と狂歌の読み主の性格を加えればどうだろうか。

 平安時代の貴族にとってこの時鳥の初鳴きを聞くことは典雅の象徴であり、また朝一番の鳴き声を聞くために山の中で夜を徹することもあった。

 一方、狂歌の読み主である蜀山人は権力には情け容赦なく斬り込む方であり、


世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといふて 夜も寝られず


寛政の改革を批判したこの狂歌などが有名である。

 「ほととぎす」の狂歌もまた貴族の遊びを暗に批判したものとも考えられ、品なく罵詈雑言を繰り返す文士とは格が違う。


 こうした本歌取りを直接用いるのは今どき珍しいのかもしれないが、ふたつの世界観を合わせることで内容に深みを与えることができる。

 これを他者の作品から引いて用いる場合には、その著作権に留意する必要があるが、古典作品の場合には気兼ねなく利用できる。

 そして、これは散文に応用することも可能である。


原典)三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。

実例)石巻の豊穣一睡のうちにして、平泉の遺産は一県ひとけん彼方に在り。


 「徒然なるままに~草青」で本歌取り宜しく書いたものであるが、これは悪い例である。

 単なる列車内での居眠りを「おくのほそ道」を利用しているのだが、ここでは芭蕉の旅路を往ける喜びこそ分かるが、それ以外には何の面白みもない。

 加えて音数を変えてしまったために、特有の読み心地の良さも失われてしまい、これでは芭蕉おうに顔向けができぬ。


 それに対して、「雪国」を次のように用いたことがある。


原典)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

実例)国境 トンネル越えて 雪景色 はて長崎か 東長崎


 「徒然なるままに~夢に現に朧長崎」で世界が変わる瞬間を表すのに、これ以上の方法は当時の私に考えられなかったであろう。

 小説にせよ、随想にせよ、詩歌にせよ、広く知られた作品により感情が具体化され、共感を得られやすくなる。

 あまりにやり過ぎてしまえば独自性のない作品となってしまうが、ここぞという箇所で用いることで、作品の質が一つ上がるのではなかろうか。


 また、自作を利用するのも一つの手であり、過去の思いを重ねることで訴求力を増すことができる。


本歌)長崎と いう名は今も ここに在り あのあつきひの 燃える想いと

実例)長崎と いう名は今や ここに在り 四枚の紙の上 町のすみ


 「徒然なるままに~長崎の晩餐」の序段で、長崎が失われつつある危機感を示すのにこれ以上の方法が私には思い浮かばなかったのであるが、今見返してみても凄まじい組み合わせである。

 本歌の方は原爆という災厄を経ても、なおその姿を残す長崎の在り方を詠んだ歌であり、高校時代の私らしい伸びやかな書き方をしている。

 八月の暑い日に、人が投下した熱い火によって燃やされた思いを継ぎ、そのようなことが二度とないことを祈ろうとする、怒りと僅かな希望を孕んだ一首である。

 その一方で、実例の歌はその思いを下地に持ちながらも、独自の在り方を失いつつある長崎の窮状と忸怩たる思いを苦悩して詠み上げた。

 これが単独の歌であればその意味は薄らいでいたことだろう。

 本歌を下地にし、二つの世界を重ね合わせることでより強い印象を読者に与えるのがこの本歌取りの本質であり、最大の意義であると私は捉えている。




 ただ、それ以外にもう一つだけ、本歌取りには意義があるように思う。

 拙著「徒然なるままに~日常の燔祭」で、大火の後の京都アニメーションを訪ねたのだが、その際の思案を締めくくるに以下の一首を用いた。


 日常の 笑顔の先の 晴れ間より 魔法の如き パライソや来る


 気付かなければ何でもない下手な歌であるが、


「アル晴レタ日ノ事、魔法以上のユカイが限りなく降り注ぐ不可能じゃないわ」


という同社が製作したアニメーション「涼宮ハルヒの憂鬱」の楽曲である「ハレ晴レユカイ」と重ねるとどうだろう。

 理不尽な人災により、亡くなった多くの方々の命が戻ることはない。

 しかし、そうした方々に敬意を表することは残されたものにできることの一つであろう。

 本歌取りにはそうした使い方もあると私は考えている。





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混合文芸概論 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

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