第7話 定型詩の自由詩への導入
これまでは技法について紹介をしてきたが、今回より複数の文章形態を混ぜ合わせるという本題に入っていく。
その初回は、題にある通り「定型詩を自由詩の内部に取り入れる」という内容について紹介していくが、中身は筆者が高校時代に研究した内容が元となっている。
ただ、これ自体は私が考案したというよりも、元々から日本にある連句・連歌を応用したに過ぎない。
もっと言ってしまえば、本作の根底にある考えの多くは日本の古典文学にあった表現を掘り返し、現代で利用しただけである。
それが近代文学的ではないとされるのであれば、恐らくこれより先の本作は参考にならないだろう。
ただ、文芸創作を始めた頃の私は書き方や表現に強いこだわりがあったわけではなく、色々な技法を取り入れてみようという好奇心に溢れていたため、様々な表現を組み合わせるということを試みてきた。
それがもし、誰かの琴線に触れ、その文芸創作の一助になればこれ以上の幸いはないという思いで本作を書き続けている。
そのため、これより紹介する技法に誤りや問題があれば、その程度の者が語る創作論として一笑に付していただきたい。
さて、前置きが長くなってしまったが、長編詩の中に定型詩を組み込むという技法は連作「幼子の祈り」の最後に当たる「平和への祈り」にて利用している。
これは第七連から第十六連において単純に行を重ねるのではなく、それぞれの連が一首の短歌として独立できるようにしている。
⑦時を経て 記憶の底の 鐘が鳴る 平和の中の 人は知らずに
⑧心臓の 送る血潮に 混ざりけり 平和の民の 刻印は未だ
⑨死の灰を 浴びたこの地に 生まれけり 唯一無二の 歴史の中で
⑩帝国の 正義の為に 我が生は 平和の鐘を 鳴らす身となる
⑪足元の アスファルトにも 命あり 平和を祈る 歴史と共に
⑫今も尚 病魔がそこに 忍び寄る 喜寿も米寿も 知らぬ顔して
⑬八月の あの暑き日の 思い出は 資料となりし フイルムの中
⑭今一度 遠き砂漠に 子供らは あの暑き日の 灰を浴びけり
⑮還暦を 迎え今また 平和への 軍靴の音が 戦地へ向かう
⑯離れても 空の青さは 同じ色 平和を思う 心と同じ
以上の十首がその短歌であるが、それぞれが物語性を持つように、感動の中心を持つように意識しながら仕上げた結果、まとめ上げた作品に奥行きが生まれた。
高校時代の作品であるため練り込みが甘いと思う部分もあるが、今にしても短歌に特化しているわけではないため、そう大きくは変わらないだろう。
また、この十連は視覚的にも工夫を凝らした。
奇数の連は上段に、偶数の連は下段に配置し、合唱曲におけるアルトとテナーのように織り込んでいる。
これは奇数の連が表層的に見える歴史としての原爆を、偶数の連が深層的に燻る現実の原爆を描いたことに由来するのだが、それによって読者の感じ方をある程度まで誘導している。
これが成功した例かどうかは別として、一つの方法として持ち込んでも良いのではないか。
日本における現代詩は「自由詩」が多く、どうしても内省を重視し、そこに韻を加える形となりがちである。
文語詩であれば七五調や五七調の定型詩がほとんどを占めるのだが、これは和歌の流れ上仕方がない。
韻律の縛りから現代詩は解放されたと言えなくもないが、それは同時に過去の技法がかえって目立つということでもある。
原理主義的なことを言えば韻律を失った文章を韻文と呼んでよいのかという疑問が残るが、それを言い始めると話が大きくなりすぎるのでここでは控えたい。
逸れてしまった話を戻そう。
自由詩の中に定型詩を挿入する、定型詩的な部分を挿入する効果は三点あると私は考えている。
まず、読み進めるのに緩急を強いることができる点である。
五七調であればやや「急」をつけることができ、七五調であればやや「緩」の印象を与える。
調べてみて「残酷な天使のテーゼ」が五七調になっていることを知り、試しに指折り数えてみたが、確かにサビの部分が長音も含めれば五七調になっていた。
その与える疾走感は語るまでもないが、読む速度を変えられるというのは読後感や内容への没入感に大きな影響を与えられる。
難しいのは必ずしも速ければいいというものではなく、内容や叙述する心情によって使い分けねばならぬところである。
実際、先述の歌でも利用されているのはサビの部分であり、音楽と相俟って盛り上がりが最高潮に達する。
一方で「青い風が」に始まるメロディ部分はややたどたどしく感じられる自由詩となっている。
これが意図したことなのかは分からぬものの、全てが五七調ではただ歌い流されてしまっていたのではなかろうか。
次いで、音感の変化により場面の切り替えを印象付けられる点がある。
先に紹介した拙作では一首ごとに伸べたいものを変えているが、短歌や俳句を織り交ぜる場合にはこのようなことが可能になる。
また、五七調から七五調に転調させることで同様の効果を生むこともできる。
ただし、注意が必要であるのはこの効果を求める場合には、それぞれの連で独立した場面が構築されなければならない。
特に定型詩として完成されている短歌や俳句、都都逸などで分ける場合には切り分け力が強いため、次に繋げるのは相当に難しい。
連歌があるではないのかと思う方もいらっしゃるかもしれないが、あれは隣り合う上の句と下の句の間で一つの世界を作ることができればよく、隣り合う組み合わせであっても、世界観の繋がりは薄い。
A 若人は 寄り添いあって ランデブー
B 街路樹に彫る 二人の名前
C 子供らは 背丈を比べ 戯れる
このA~Cは私が連句の練習をした際に詠んだものの一部である。
まずAとBの組み合わせを解説すると、カップルが待ち合わせの後に逢引に出て、相合傘であろうか街路樹に二人の名前を彫って残すという若々しい恋愛の歌である。
一方で、BとCの組み合わせでは小さな子供たちが互いの成長を、家でやるように外で比べ合って遊んでいるという牧歌的な歌に変わる。
このように、連歌はあくまでも一つの世界観を通して表現するために書くのではなく、その場の者同士でその瞬間の偶然により生まれた世界を楽しむものである。
これをうまく一つの場面として、途切れた感覚のないままに繋げるとすれば相当な手腕が必要になること請け合いである。
最後に、これは二点目と重複する部分もあるが、ひとつの作品の中で重層的な世界観を明確に構築することができる点である。
例として挙げた詩の説明で述べたとおりであるが、この定型詩部分で筆者である私は歴史としての原爆と現実としての原爆を描いている。
ただ、これはあくまでも途中の話であり、結論としてはそうしたものを越えた先に求めるべきものを示している。
この結論をすぐに出しても良いのだろうが、その当時の私は世界観の共有がなければ共感はないと判断した。
結果としてまだまだ粗削りな部分が大きく、以後は短歌の挿入という形で用いる機会は激減したが、定型部分を挿入して視点や見ている世界を変えるという手法は長編詩を書く場合には今でも利用している。
この手法を利用する際に注意が必要であるのは、自分の作品をどのような形で読者に届けたいかを十分に考えることである。
例えば、息も吐かせぬままに読ませて後に爽快感を与えようとするのなら、短歌の挿入は
習作であるならば試してみればよいのだが、勝負をかけたい作品であるのなら用法容量を十分に吟味されたし。
技法とは手段であり、目的ではないのだ。
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