左手の花束は偽りの色に輝いて

遊月奈喩多

指輪の光は、鈍く。

恭子きょうこ、結婚おめでとう」


 そう微笑んできた佐織さおりの顔を、私ははっきりと見返すことができなかった。彼女はあの頃よりももっと綺麗で、眩しい。

 独身最後の夜を過ごす相手として彼女を呼んでしまった身勝手さに恐ろしくなったけれど、佐織はそれでも、笑って許してくれているように思えた。

 けれど……。


『やだっ、なんで、怖いよ、やめて恭子! ねぇっ、ねぇってばっ!!!』

 目の前で柔らかく笑ってくれている笑顔と、“あの日”の悲痛な泣き顔が重なる。一生恨まれても仕方ないことをした自覚はある。それでも、自分で自分を止めることができなかった。

 好奇心だとか欲望だとか、思春期だったからとかいう言葉で片付けたくはなかった。わたしはあの頃、本当に、本気だった。

 本気で、佐織のことがほしいと思った。


 放課後の教室、差し込む夕日、誰もいない静寂、薙ぎ倒されて私をはばんだ椅子、追い付けなくて転んで擦りむいた膝と肘、それで助け起こそうと動きを止めた佐織の手を掴んだ感触。

 佐織の、信じられないものを見るような顔。私がどんな顔をしていたかなんて、佐織の顔を思い出すたびに思い知らされてしまう。

 泣き叫びながら私の目を覚まさせようとする声、全部終わったあとの静かな嗚咽。謝ることすらできなくて、呆然と流れる血を見つめているだけだった、赤い夕焼け。


 その全部が、私のなかにずっと突き刺さっている。棘のように抜けなくて、引っ掛かって――だから、私はその日から佐織を避けた。

 避けるために付き合った人は何人もいたし、その中で自分が佐織にしたことの恐ろしさを思い知って後悔したりもした。

 泣いていると何かを勘違いして慰めてくる人たちが鬱陶しくて、もうひとりきりでいいと思いながら過ごしていたところに、彼と出会った。


 触れられるのが嫌だと感じなかったのは、佐織を傷付けてから出会った人たちの中では初めてのことだった。私が時々取り乱しても何も詮索しようとはせずに優しく慰めてくれたり、楽しいと思うことを一緒に楽しめたり、ふたりの時間を何よりも尊いと思うことができる相手だった。

 そんな人と出会えたことを心の底から幸せだと思えたし、彼にならいつか私の犯した過ちのことを打ち明けられるかもしれないとすら、思った。


「ねぇ、佐織」

「え?」

 保管しておいたワインを注ぎながら、私は佐織に話しかける。答える佐織の声は優しげで、なんとなく安心できる――昔の佐織そのままの声だった。

 その反応をみたいがための言葉だったから、何を続けたらいいかわからなくて、その場で思い付いたことを話すことにした。

「いや、佐織は誰かいい人とかいないのかなって」

「うわぁ、出た結婚する人の余裕! わたしは全然そういうのないよ、そっちはどうなの? マリッジブルーとかなかったわけ?」

「なかったかなぁ……、なんか安心感ばっかりだよ」

「ふ~ん、よっぽど仲がいいんだね。いいなぁ~」


 そんな、軽口ばかりのやり取りをしているうちに、佐織が急に「ふふ、」と笑い始めた。ちょっと顔も赤いし、酔ってきたのかもしれない。

「大丈夫、佐織? もう横になったら?」

「えぇ~、まら飲めるっれ、へーひへーき~」

「もう呂律ろれつ回ってないじゃん……」

 よろけた佐織を支えようと手を伸ばして、抱き合う形で受け止めたとき。佐織が、耳元で囁いてきたのだ。


「いいの?」

「え?」

「今ならお酒の勢いにできるけど」

「――――っ、」


 ぞっとした。

 背筋が凍る思いがして、思わず佐織を突き飛ばしてしまう。あと少し遅かったら、背中に回され始めていた指先が私を絡め取ってしまっていただろう。

「……酷いなぁ」

「ねぇ、あなた……誰?」

 思わず尋ねてしまうほど、佐織の様子はさっきまでと違うものになっていた。目は蕩けたように据わり、偶然とは思えないくらいに肌蹴はだけた服から覗く肩は、つやつやと綺麗に見えて。


 やめてよ、もう。

 嫌なの、忘れたいのに。


「も、もう……寝よう? 酔っ払ってるんだよ、佐織は。お願いだから、もう、もうさ……」


 振り切りたいのに。

 振り切れると思っていたのに。

 どうして?

 どうして今、私の胸はこんなに高鳴っているの?

 苦しかった、怖かった、だから早く佐織には正気に戻ってほしくて、じゃないと私もきっと――


「おかしいなぁ、旦那さんはこうしたらすぐに襲ってきたけど?」

「……え?」

 何言ってるの?

 旦那さんがって、誰の?

 襲ってきたって、何のこと?


 あっさりとした口調でぶつけられたその言葉が、頭を揺らしていく。急にアルコールが回ったみたいにぐらぐらと視界が揺れて、まともに物事を考えられなくなってしまう。そんな私の耳元で、佐織が甘い声で囁く。


「わたしね、あれからずっと、人が怖くて仕方ないの。たぶん一生……ずっと誰にも心を許せないと思う。恭子みたいに都合よく忘れることも、幸せになろうなんてことも、もうできない。

 当たり前だよね、1番の友達に裏切られたんだもんね。……ねぇ、恭子?」


 すべすべと柔らかな指が、私の薬指に絡まってくる。やめて、今その指輪を外されたら……っ!


「自分だけ都合よく幸せになろうとなんて、しちゃ駄目だよ? わたしとおんなじ所まで来てよ、あなたがわたしをこんな風にしたんだからさ」


 今日が独身最後の夜でしょ?

 耳をくすぐるその声に、今度こそ抗うことなどできなかった。

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左手の花束は偽りの色に輝いて 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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