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ダッシュボード上のデジタル時計を見ると夜の九時近くで、普段なら帰りの電車の中だろうと彼は思った。今日は日中に出社していたことが今となっては信じ難かった。
不測の事態とはいえ周囲に迷惑をかけたのは事実なので、不本意ながら明日はまず詫びを入れるべきだろうと彼は考えた。まずは上司だった。次いで詫びるべき人間を次々と思い浮かべていくうちに、誰一人として彼を見る目に一切の感情が籠っていないことに気が付いて、彼は気持ちが萎み始めるのを感じた。これはただの想像なんだから気にするなと自らに言い聞かせたが、逆に何らかの感情が籠った目で自身を見る社員が、彼にはただの一人も思い浮かばなかった。
祓いの効能で曇りの取れた彼が改めて思い返すと、先程の想像に限らず三十年以上働いてきて、どの社員もカメラのような無機質な眼差しを返してきたことに気付いて、彼は頬を張られた気分になった。
妙な息苦しさに徐々に心拍数が上昇し、彼は急かされるようにハイヤーを降りて家の中に入った。
玄関の電気を付けたきり、ドアの摺りガラスから光が漏れるだけの暗いリビングに立ち尽くしながら、彼は静か過ぎると思った。死んだ家みたいだった。
かつてここに女が越してくる可能性があったこと自体が、彼には信じられなくなった。引っ越しの進捗の確認がてら、何度か女が家に遊びに来たことがあった。和室からの庭の眺めが気に入った女は、よく縁側の日溜まりの中に背を丸めて座っていた。柿の木がいいと言っていた。その柿の木も根が腐って、もう十年以上前に庭師を呼んで切ってしまった。その一帯は荒れるに任せ、今や溢れ返った雑草で足の踏み場もなくなっていた。
縁側に並んで座って柿の木を眺めるような慎ましい未来を思わせるものは、この家の何処にもなかった。色彩も音もなく、タールで黄ばんだ壁紙のように、あらゆる壁やあらゆる四隅に三十年の時間がべったりと張り付いていた。
「何これ? 圧倒的じゃない」
暗い室内で彼は呟いたが、何の返事もないことが家の空虚さを絶望的に際立たせた。
何も期待せず、誰にも気持ちを許さなかったからこの孤独を直視せずにどうにか人生を歩んでこれたのに、今や彼は手を叩いてきた彼女の掌の温もりや、共に泣いてくれた心根に触れた感触を既に知ってしまった。それを知った今、もうこれまでのようには生きていけないことを彼は悟った。彼女が示した全ての善意が、彼の人生の徒労と無価値ぶりを無惨にも明るみに引き摺り出してしまった。
「これはあんまりだ、あんまりじゃないか」
苦しみのあまり、彼は狂おしく頭を掻き毟った。何の返事もなかった。今まで直視せずに逃げてきたものに、ついに肩口を摑まれたことを彼は悟った。
彼は
泣き疲れると、虚ろになった心に膨大な無が流れ込んできた。彼はそれに抗うことを止めた。彼は静かに立ち上がると浴槽に熱い湯を張り、背広のままで肩まで浸かりながら袖を捲った左手首にカッターの刃を当てた。もう死ぬつもりなのに消毒を気にして刃をライターの炎で炙ったのが我ながら解せず、彼は人生で最後の虚ろな笑みを浮かべた。
静脈に当てた刃を一気に引く前に彼の頭を過ったのは、もし成仏できなかったら共に泣いてくれたあの女も、今度は袈裟を羽織って思い詰めた怖い顔をして自分の前に現れるのだろうか、という思いだった。
善意 江川太洋 @WorrdBeans
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