記憶の底に確かあったはず。

真朝 一

記憶の底に確かあったはず。

あ、捨て猫の眼。

ネオンのまぶしさが届かない闇の中、とーとつにそいつに射すくめられて身をひくと、鞄の中の缶ペンが音を鳴らした。カラコロとすっとぼけた音がコンクリートの壁に軽く反響する。

「これは、不思議な小瓶でね」

男はそう言って、あたしに手のひらにおさまるサイズの透明な小瓶を見せた。

人通りの多い繁華街の裏で、その男はゴミまみれの、それこそ野良猫が闊歩して生ゴミをあさっていそうなビルの狭いあいだにいた。社会の谷間。汚い地面に座りこみ、小瓶をつまんであたしに差し出している。

遠くから喧騒が聞こえる。夜の闇の中できらきらと無駄にかがやく電飾からのがれ、煙草の煙と酒臭さと香水の匂いはすっかり遮断されている。月の光すら届かない、ただ小汚く暗いだけの、世界の終末のような路地裏。ニュースじゃ語られない日本のダークな部分をまとめてぶちこんだ系の。マジ、死んでる。

整った顔立ちの青年は、その穏やかな表情にとてもとても似あわないきつめのパンクファッションで、真っ白にブリーチした髪に半分隠れた瞳であたしを見あげていた。全身アクセサリーまみれで、金属のかたまりが歩いているみたいだ。

瓶の中にはちいさな紙切れが入っていて、ケビン・コスナーの映画を彷彿とさせた。海を漂流するSOS入りの瓶。

「かわいい瓶だろう?」

その男はまるで少年のようにかわいらしい笑みを浮かべ、ピアスをいくつもジャラつかせながら小首をかしげた。なぜだろう、オコジョを思い出す。ふわふわの白い毛、ぷにぷにの肌、くりくりの目。雪景色に溶けこんで何も見えない。

あたしは学校帰りの制服のまま、そこに直立不動で呆然としていた。なんだこいつ、というのが正直な感想で、会って数秒でそんな感想を持ってしまうような、素性も知らぬチャラ男からいきなり手紙入りの小瓶なんて微妙な品物をプレゼントされても、何も言えず戸惑うしかない。チャラい男は嫌、なんていう女じゃないけれど、どう考えたって怪しいしあたしはまだ将来有望の中学生だ、下手なことに巻きこまれたくない。

「かわいいとは思わない」

朝に巻いて崩れかけてきている髪をいじりながらぶっきらぼうに答えると、男は色素の濃い深紅の唇で優しく笑った。彼の長めの前髪が左に流れ、片方の目を完全に隠す。

夜が濃くなっていく。街の喧騒が一層うるさくなっていく。音の奔流に世界が、下流にむかってのみこまれて、ゆく。

男は「受け取ってよ」と言って瓶をあたしにぽんと放った。反射的に手を出してそれを掴むと、思いのほか軽くて拍子抜けした。ちょっと力を加えたらあっというまにピキピキと亀裂が走りそうな、百均クオリティに近い小瓶だった。中に入っている紙は四つ折りになっていて、文字が書いてあるのかどうかは分からない。

「いらねえし。こんな雑いの」

「そう? 別にあけなくてもいいからさ、とりあえずもらっといて。海からのSOSのメッセージみたいでおしゃれじゃない。部屋にでも飾ったら?」

全然おしゃれじゃない。あたしの部屋に飾っても、きらびやかなネイルの瓶の隣にこの小瓶を並べておいてもきっと映えない。存在感が希薄になるどころかネイルのラメに圧倒されて消滅してしまう。

「捨てるよ、じゃあ」

苛立ちがおさえられない。もう夜も遅いのに、早く帰りたい。こんな意味不明な男につきあっている暇はあたしには、ないんだ。

男は相変わらずへらへら笑っていた。それは捨ててもいい、ということなのだろうか。

本当は目の前でこの瓶を地面にたたきつけてしまっても良かったのだが、さすがにくれた本人の前では気が引ける。しかたなくあたしは鞄の中に瓶を乱暴に放りこみ、ふんっと鼻で彼を嘲笑って踵をかえした。地面に無造作に捨てられた空き缶を蹴飛ばすと、軽やかな音をたてて転がっていく。つい、と空気をアーチ状に切るような転がりかた。男は追いかけてこなかった。離れてもなお、びりびりと強烈なオーラを感じてしまう。

夜空を電線が縦横無尽に走る狭い路地裏。そこから抜けだして通りに出ると、急に熱いスポットライトのように四方から光を浴びて目を細めた。パチンコ屋やゲーセンやカラオケボックスの、イルミネーションの強い看板が目に痛い。攻撃性をはらんだ無邪気な光たちのせいで、昼も明るいが夜はなお明るい。

じつに様々な種類の人間がぶつかりあいながらあっちやこっちやとせわしなく行きかう繁華街。あたしはけむたい煙草の煙をなるべく吸わないよう、ハンカチを口元に当ててうつむき加減で走りだした。重い鞄が邪魔でしょうがない。後ろ髪をとめたコンコルドがずり落ちてくる。それでもあたしは、人ごみの中をかけ抜けていった。駅に着くまで、一度も顔をあげなかった。

大勢の人間が集まり、イルミネーションがまぶしく、やかましい。これだから今どきの若いもんは、なんて言われそうな中高生のカタマリ。煩悩の吐き場。鬱積したマイナスの感情をひきうけてもらう相手に飢えた女の子たちが、下品に笑いながらあたしとすれ違った。視界の端々できらきら乱反射する光。ぐっと目を閉じ、彼女らの傍を早足で通りすぎる。ゲーセンが競うように無差別に発するデジタルな音も、不動産屋のくそ明るいBGMも、車のエンジン音も、ショップの入り口に飾られてあるブランドの新作の服も。全部が全部、あたしの中で透明なプラスチックの翅になって粉々にくだかれた。その破片がたとえば、あたしの撮るプリクラなんかにちょこっとうつりこんでたりするけれど。

やっぱり、うるさい街は嫌いだ。

あたしを丸ごと犯していってしまいそうで。

身体の中の思考回路や血管や神経なんかがみつあみに結われて大縄跳びをされているような、目まいを起こしかねない息苦しさを感じる。いや、たちどまっちゃダメだ。大縄跳びのまんなかでたちどまれば、一番痛いベンケイにバチンと一発、直撃を食らうから。あれはもんどり打つほど痛いから。ゆーびんやさん、おっはよーうさん、なんていう声とともに小学生のころを思い出すから。だから、走る。

終電が近い駅に着いた時には息もすっかりあがっていて、あたしは乱れた髪を整えもせず、定期をバンと改札にたたきつけてぬけた。やたら陰鬱な街から逃れるために。すぐにホームに滑り込んできた電車に、スリーステップで飛び乗る。ホップ、ステップ、ジャンプ。ドアガシマリマースゴチュウイクダサーイ。



最初に噂を耳にしたのは、休み時間中に友達とトイレに集まって化粧直しをしているときだった。

「二年の長谷部くんが来年度の生徒会長に自薦したっていう話、ガチなんだって」

長谷部のハの字でも見れば問答無用で色めき立つ女子たちが、ピカチュウの十万ボルトを浴びたようにいっせいにびくりと反応した。「えーっ」という黄色い声が小汚いトイレに響く。ジャニオタじゃないんだからと、耳に指を突っ込みながらぼんやり思った。

「マジかよ、そんなタイプに見えないって。死んでるし。超勘弁」

「だよね。長谷部くんってどっちかっていうとワルっぽくない? それなのに生徒会長って、実は真面目系だったのかなあ」

「それ超ショック。なんかイメージ崩れるし。あたし、年下オッケーだから狙ってたのにー」

「適度に真面目で誠実なのはいいけど、生徒会長なんて肩書つくほど真面目すぎると逆にシケるくない?」

ねー、なんて同意の声が飛ぶなか、あたしはてきとうに相槌を打っていた。頭の中で「たりい」と思いながら。

芸能人なみのルックス、けれど制服はだらしない、煙草も酒もどんとこい、喧嘩上等、なんていう今どき古風で少女漫画的な不良で、ミーハー女子からの憧れの的になっている下級生の長谷部ナントカ。二年五組のアイドル。彼と交流はないが、恐ろしいまでの人気と知名度で名前と顔だけは知っていたし、方々で悪質な噂も聞いていた。どうして同年代の女の子たちって、ちょっと不良のイケメンが好きなんだろう。まあ、どうでもいいけど。

「春菜は長谷部くんと同じ小学校じゃなかったっけ」

急に話を振られて戸惑った。うちは名実ともなわぬ国立の中学校なので、出身小学校がかぶることは珍しい。一拍おいて、過去に数多の長谷部ファンから詰問されまくって辟易しているその質問に、同様の答えをかえした。

「あたし、小学校のときは下級生の長谷部くんとコンタクトなかったし」

「そっかあ、残念」

「何が残念?」

「いや、もし春菜が長谷部くんと親しいんだったら、こんな奇行に走る原因を本人の口から直接問いただしてくれるかなって思ったんだけど」

生徒会長に立候補することは奇行なのか。あたしは鏡に向かって唇に透明グロスを塗りながら心の中で呆れた。あたしの肩越しに左右逆にうつる友人たちは、がっくりとうなだれて絶望している。

友人たちは一生懸命、あの不良長谷部がどういった経緯をもって生徒会長なんていうトップクラスの真面目、グレイテスト真面目のふかふか椅子を狙うようになったのか、その事情について噂だけの好き勝手な考察をしている。噂だけでここまで盛りあがれるんだから女は単純だ。その女の一人であるあたしですら自嘲気味になってしまう。女はいくつになっても女で、幼児雑誌の付録のちゃちいプラスチックのアクセサリーを身につけるようになれば、それがトイレに集合する噂好きの女の原点だ。

鉄琴の上を野球ボールが跳ねていくようなチャイムが鳴る。あたしたちは一斉にくしやグロスやあぶら取り紙をポーチに投げ入れて、きゃあきゃあ騒ぎながら競うようにトイレを走って出ていく。こういうとき、教室に入るのが一番遅かった女の子が先生の小言を聞く生贄になってしまうのは言うまでもない。

教室に駆けこみ、どっかりと自分の席に座る。鞄に化粧ポーチを投げ入れた時、ジッパーと何かがぶつかりあって中でカチンと音がした。昨日、夜の繁華街の路地裏でオコジョみたいな男に押しつけられた小瓶。まだ鞄に放りこんだままだった。

どうしようか一瞬迷った末、学校のダストシュートにでも捨てておこう、と思った。それと同時に先生が入ってきて、うるさい教室が少し静かになった。

あたしは天井を見上げた。



「やだ、髪巻く時間ないじゃん!」

アラームを止めたのは、予定の時間よりもかなり遅かった。十時。やばすぎる。携帯をひらいて思わず絶叫した。朝の肌寒さなんてもうどうだっていい。

慌てて顔を洗って化粧水をつけまくり、キッチンに入ってトーストを焼く。冷蔵庫に作り置きしてあるアイスコーヒーをコップに注ぎ、ミルクを足す。なんていう流れで朝の準備をしていると、シンクを挟んだリヴィングの向こう側から姉が叫んだ。

「なに、春菜。今日はデートじゃなかったっけ? めっちゃのんびりじゃん」

「分かってるよ、二度寝したんだよ!」

「そりゃご苦労さん。普通に遅刻だね。走れ走れー。ふりむくな君は美しい戦いに敗れても」

うっせえ敗れるって最初から決めんじゃねえよ。ソファにふんぞり返ってファッション雑誌をくっている高校生の姉に嫌味を言われてムカつき、ジャムをべたべたに塗ったトーストに力いっぱいかぶりついた。焦げた部分が苦かったので、アイスコーヒーを一気に流し込む。髪が起きぬけのままのあたしを見て、彼女がふうっとため息をつく。

「明良くんとは、何時に約束」

「十一時に駅前」

「そりゃ、髪巻く暇ないわな」姉は自分の髪を指先に巻きつけた。完全に他人事、妹事である。「朝から騒々しいこった」

「聞いてたの。だったらあたしが化粧してる間に巻いてよ。コテ貸すし」

「やだ。いっそ朝ごはん抜いたらいいのに」

「食べるもん食べないと、不健康に体重が減る。あたしはね、お姉ちゃんと違って多少は体調に気をつかってるんだよ。朝食をきちんと食べる今どき珍しい健全な若者。あたしってば超えらーい」

ぱくぱくとトーストを平らげると、コーヒーを飲みながらあたたかい電気カーペットの上で手早く身じまいを整えた。姉は気にすることなく隣で雑誌を読んでいる。白いニットとトレンチコート、ふわふわのミニスカート。ゴールドのアクセ。ニーハイのソックス。あたしは残りのコーヒーを飲み干し、自分の部屋に戻って化粧をした。ダッシュで着替えはできても、こればかりは手が抜けない。

二組の小林明良とはようやくつきあい四ヶ月目に入る。中学生でこれだけ長持ちすれば上出来だ。これまでひとりとしかつきあったことのないあたしはまだまだ恋愛経験が乏しいけれど、明良とはうまくいってる。喧嘩もあまりしないし、話も合う。姉には内緒だけど、キスも、エッチもした。週末にはかならずデートに行く。中学を卒業したら同じ高校に行って、高校を卒業したら結婚しよう、なんていう話もしている。

純愛、という言葉の濁流にのみこまれていた。ピュア、一途、切ない恋、とりあえずこんな感じの言葉がオビに書いてあればどんなに陳腐な恋愛漫画でも女子中学生に売れてしまう。そんな文字列を見るだけで、雑でありきたりな恋愛でも美しく見えてしまうし、そんな商法にすっかり踊らされている私もまた、今自分が明良とつきあっていることは純愛であり、小説や映画にしてもいいぐらい、すてきな恋をしてると自分で思ってる。溶けかけたマシュマロの海にずぶずぶもぐっていくよう。

手抜きまじりに化粧を済ませたころ、時計が出発時間のカウントダウンを刻んでいた。光速で髪を簡単にピンどめする。毎朝、一分一秒を争う時間帯にやっていることだから、慣れている。リズリサの新しいピンクのバッグをひっつかんでそのまま家を飛びだした。

自転車をじゃこじゃこ飛ばして駅前に行くと、すでに改札口前で明良が待っていた。彼はワックスで無造作に逆立てた髪を揺らして、こっちに手をふる。

「春菜、おせえぞ!」

うるさい、分かってる。騒ぐな叫ぶな声がでかい。

近くのコンビニの駐輪場に自転車を停めて二重ロックする。手をふって待っている明良に飛びつき、彼の腕に抱きついた。やめろよ、とさりげなくふりはらわれてしまったが。

通行人の目が痛い。でも別に気にしない。あたしたちはこんなに仲のいい彼氏彼女なんだから、誰にどう思われようと構わない。恋人のいない心の寂しいやつらににらまれたって、やっかみだと分かってるからむしろ誇らしい。もっと妬め妬め。さあさあ。

明良はちょっとルーズな、雑誌にいそうな男の子と同じ格好をしているけれど。精一杯背伸びして高校生っぽく見せようとしているあたしとは違って、どこか中学生らしさが抜けていない。多少の不満はあるけれど、ほんとは三浦春馬みたいなのがいいと思うけど、楽しいから言わない。嫌われたくないから。

電車で五駅、うるさい都心部のどまんなかで降りたあたしたちは、ゲーセン、カラオケ、ブランドショップと思いつくかぎりあちこちを放浪した。四ヶ月も一緒にいるからか会話の内容が陳腐になりつつあるが、ただふたりでいるだけで楽しいのだ。あたしは。

流れに身をまかせてただ、たんたん、たんたんと死んでいく日常の傍に立ちすくんでいるだけのあたし。命綱すらも拒み、他人の優しい手を払いのけて、聞こえのいい言葉がたっぷり盛りこまれた音楽が公害のように溢れるなかを自由にただよっている。時代はまさにアドバンス、しかし景気は絶賛後ろ向き中。電力供給が途切れればあっさり消えてしまうような、きらきらかがやく街のネオンはむなしいだけ。

「なんかー、野球中継延長されて、ドラマちゃんと録画されてなかったんだよねー。なんか三十分遅れぐらいで、ラストが入ってなかったし。マジありえんし」

「お前の友達、誰か録画してねえのかよ。貸してもらえばいいじゃん」

「そんなの、とっくにメールしまくって聞いたよ。でもみんなリアルタイムで見てるから録画の必要なし。こんな時に限って。いいよもう、ネットにアップされてるの見るから」

「多少は画質落ちるけどな」

「しょうがないじゃん。あたしの自業自得。てゆうかヒロくんが見れればそれでいいし」

がちゃがちゃ騒々しいマックの二階席で、すいていた喫煙席四人分をふたりで陣どり、当たりさわりのない会話を明良とかわしながら目の前のエビフィレオにかぶりついた。明良は当然のように煙草を吸っている。けむたい、などと文句を言うと一気に場が冷めるので言わない。なるべく煙を吸わないように顔をそむけるだけ。

天の岩戸をぶち壊すだけの気力もなければ勇気もなく、ぴんと張ったテグス糸が切れないように、必死になって均衡を保っているだけのつきあい。だんだんと、あたしと明良の関係はそんな感じになってきて、嫌われるまでの時間を稼ぐようになった。劣化してきて弱々しいテグスがぷつりと切れる瞬間までのカウントダウンを潰しているだけに過ぎない。

一抹の不安を必死で消し去る。見ないふり。見ない、フリ。

てゆうかさ、ゆるんでる糸は切れないけど、ぴんとひっぱってたら切れたとき、互いがすっころぶんじゃね?

まあ、どうでもいいけど。周辺で同じようにハンバーガーを食べながら雑談を交わしたり本を読んだり携帯をいじっていたりする見知らぬ連中は、喫煙席でたまに思いついたように会話をかわすだけの中学生カップルなんて見てやしない。明良もきっと、明日になったら忘れてしまう。

会話の途中で携帯をひらいたり閉じたりする明良。パチン、パコッ、パチン、パコッ、パチン、パコッ。耳ざわりな音。あたしは頬杖をついたまま、メールでも待ってんの? と聞いてみた。

「ん、まあ、そんな感じ」

「誰から」

「春菜の知らねえやつだよ」

ふーん、とそっけなくかわしてみた。詮索は嫌いだ。

「そういやさあ」あたしは今日何度目かの、そういやさあ、をくりかえした。「今度の修学旅行、五人一組じゃん。あたしと明良と、あとの三人はどうする?」

そこまで言うと、明良は面喰らったような顔をしてケータイを閉じた。

「俺とお前が組むこと前提?」

「うん。そりゃそうじゃん。あたしは最初から明良と組むつもりだったけど」

「マジかよ、聞いてねえし」

「聞くもなにも、明良もそうするつもりだと思ってた」

「俺はそんなこと、一言も言ってない。もう他の男子に声かけてるし」

今度はあたしが面喰らってアホ面さらす番だ。トレイの上にぶちまけられたポテトをつまんで真ん中で噛みちぎった。

「つきあってんだったら、そんぐらい普通じゃね?」

ちょっとイラついたような口調になってしまった。それを過敏に感じとってしまったらしい明良は、怒りをこらえるようなため息をついた。その場の空気が一瞬で氷結してしまったようなため息。あ、しまった、と直感で思った。切れる。

「普通ってなんだよ。恋人同士だったら常に一緒にいなきゃいけないっていうルールでもあんの? んなめんどくさいもんじゃないだろ、フツー。俺はお前のシークレットサービスでも執事でもねえし」

隣の席に高校生のギャルが三人座った。げらげらと低い声で笑うのがひどくうるさい。アクセが反射して光る。あたしは無言だった。明良は再び携帯をひらき、そして何も言わずに席を立って階段付近で電話をはじめた。あたしはしばらく黙ってトレイに敷かれたスタッフ募集のチラシを見つめ、そしてヤケになって紙コップの中のジンジャーエールをずずずっと一気に啜り、バッグを両手でかかえて立ち上がった。階段をかけおりるとき、明良の声が背後から聞こえた。ゴミ片づけねえのかよ、とかそんな感じのことをわめいていたが、無視した。外では小雨が降っていた。

あたしの「普通」はあんたの「フツー」と違うのか。マジ、イミフだし。


何度人とぶつかりそうになったろうか。あたしは気がつけば薄暗い町を走って走って走って、走りつづけていた。あたりはすでに夕刻になってしまい、明日は月曜日だというのにアリの群れか何かのように人がごったがえしている。ネオンがまぶしい繁華街。行きかう人々の声も異国の言葉に聞こえてしまう。誰も、街を疾走していく女子中学生なんて見向きもしない。

あたしは無意識に、道を曲がって細い路地裏に入っていった。こんなところに女が一人で入っていくのはヤってくださいと言わんばかりだが、そんなことをいちいち考える余裕はなかった。あたしはただ、ポリバケツや近くの居酒屋のゴミ袋を避けながら、奥へ奥へと走っていった。胸にしっかりとバッグを抱えたまま。雨が当たらないように。雨が染みたら、ケータイ、壊れるし。

小汚い路地が急に丁字路になり、あたしはいったん足をとめて、右側を見た。

やっぱり、いる。オコジョみたいな白髪のパンク男。

そいつは以前のように汚い地面に座りこみ、傘もささずにビルの壁に背をもたせ、のんきにiPodで音楽を聴いていた。あたしの視線に気づくと顔をあげ、イヤホンをはずしながら、やあ、と笑った。

「こんばんは。何日かぶりだね」

タレ目を細めて人なつっこく笑う青年は、はたから見ればイケメンの類なんだろうが、何しろかもしだしているぽややんとした雰囲気のせいで形容しがたい近よりがたさを感じる。まして服装はパンクだ。ギャップに苦しむ。身につけるものは光りかがやいているのに、小学生のように無邪気なそいつ自身になじんでいなかった。真っ白な髪からのぞく大きな漆黒の目が、よけいにオコジョに見えてしまう。

あたしはふうとため息をつき、無表情のままで「おす」と片手をあげて挨拶をした。

男は外したはずしたイヤホンをふたつまとめて片手で持ち、もう片手でiPodのダイヤルをくるくるまわして音量を最大まで上げた。シャカシャカと曲が聴こえる。ダンスミュージックっぽいドラムス。

「久石譲だよ。“風の通り道”って知らない?」

知ってるに決まってるし、と私は吠えた。「となりのトトロ」で、メイとさつきがトトロたちと一緒に、庭に埋めたどんぐりの木をぐんぐん伸ばしていく場面の音楽。ディスコ風にアレンジされていて、かっこいい。

男は笑ってiPodの電源を落としてしまった。あっ、と思った時にはもう遅い。あと少し聞いていたかったのに。彼はいたずらっぽく笑って、充電が少ないから、と言った。

「また君に会えてうれしいよ」

彼はiPodをジャケットの胸ポケットにしまいながら笑った。あたしは胸にかかえたあたたかいバッグをぎゅっと強く抱きしめ、唇をひきむすんだ。どうしてここまで走ってきたのかよく分からない。明良をおいてきてまで、どうして。

「どうして?」

男が小首をかしげた。あたしは、何が、とそっけなく答えた。

「君がここに来た理由だよ。前に君が来たときは、もう顔も見たくない、って感じの態度で帰っていったのに。しかも今日は私服かあ。って、当然か、日曜日だし」

相変わらずの笑顔。あたしは答えられずにうつむいた。都会の喧騒が遠くから聞こえてくる。光の届かない、路地裏。あたしはもしかしたら、こいつのように、ここでじっと音楽を聴いて誰かが迷い込んでくるのを待つような立場が合っているのかも知れない。どんぐりを何度も落っことしながらも懸命に中トトロのズクを追いかける小トトロのミンのよう。おいていかれる、もしくは、おいていかれた、その笑顔。

あたしは一瞬ためらい、そしてこじ開けるように唇をひらいた。

「あんた、つきあってる女とかいんの?」

前髪からぽたりと滴が落ちた。そのむこうで、男は少し驚いたような顔であたしを見ていた。しばらくして、彼はにやりと面白そうに笑う。

「俺を狙ってるの?」

「まっさかあ」けらけらと笑う。「てゆうか、あたし、カレシいるし」

「そうなんだ。俺は女の子とつきあったことはあるけど、今はフリーかな。募集もしてない。かったるい」

男は片膝を立て、もう片足は地面にすっと伸ばした。思ったより長い。彼は両手をだらんと垂らし、何かを思い出すように天をあおいでいた。こまかな水滴が遊ぶように落ちてくるだけで、誰も、あたしたちを見ていない。男はぐっと目を細めて、薄暗い雲のむこうを見つめていた。

そいつは今にも、のぞんで消えてしまいそうだった。

「彼女ってさあ」うつろな目でも、声はいつもと変わらない。「分からないんだよね。つきあっても、求めるものに限界があってどっちも得られるものがなくなった。相手の幸せを願うよりも己の不安をぶちまけることに従事しちゃったら、互いを信じることなんか絶対にできない。幻とか外部から与えられた『こうあるべき』に酔ってたんだろうね。恋人同士って、家族とかよりもろいものなんだよ」

彼はそう言って寂しげに笑う。別に泣くわけじゃない。ただ男がそこにいて、地面に座って、ぼけっと空を見ているだけで、実はベッドの上には大量にぬいぐるみがあるんじゃないかと想像してしまうほど大量の寂しさを受信してしまう。どうでもいいけど。

あたしは男のとなりに座りたい衝動をおさえた。別に何をするわけじゃないが。

そのかわり、立ったまま、ぽつぽつと話し始める。

「あたしね、カレシいんだけど、なんか最近よく分かんなくなってきてさ。何のためにつきあってんのかとか、意味不明なことばっか考える。恋愛に憧れてカレシ作ったはずなのに、不良とかかっこいいって思っちゃう。今となってはカレシ持ちのステータスを崩さないために、相手の顔色うかがいながらつきあってる的な感じでさあ。もうマジ、わけわかんねー」

ははっ、と笑って前髪をかきあげた。視線を男からそらし、打ちっぱなしの壁を意味なく見つめた。そこにある染みすら明良に見えてしまって笑っちゃう。

あたしは唇をぎゅっとむすんだ。自嘲。こんなこと、赤の他人であるオコジョ男に言ってもしょうがないのに。もう何がなんだか。

かみあっていない。気づかないほどのズレが少しずつおおごとになってきて、限界を感じた歯車がパチンとはじけて壊れる感じ。

男はふうっとため息をつき、いつもの笑顔をとり戻した。すっと優しく細められた目には、憂いも悲しさも怒りも呆れもいっしょくたになってたたきこめられている気がした。

「俺ね、きれいごとが嫌いなんだ」

人差し指をすっと立てて男は言った。

「特に嫌いなのが、思いやり。こんなもの、わざわざ口に出して言うもんじゃないよ。思いやりとか、絆とか、運命の相手とか。人は誰かのために必死になれるなんてことを言っていても、それはただ恩着せがましいだけの保身だ。いったい誰のために必死なんだか」

そいつは、あたしと同じような笑いかたをした。立てた膝に肘を乗せ、手のひらに頬を乗せ。優しいけれど、いろんなものを足元からぶっとばしてゆく、そんな笑顔。

「なに、それ」

意味わかんね、と言いかけたが、しばらく呼吸のしかたを忘れた。電線が、鳴る。小雨が、あたしを責める。急にこの路地裏の暗さを実感した。瞳が痙攣する。

ざあっと音を立てて体温が下がるような錯覚を感じて、とっさに口元を覆った。廃棄物が口からドロリと溢れてきそうな気がした。

「それでもね」ずいぶんと時間が経ってから、あたしはそう言って喉の奥でくつくつと笑った。「それでもあたしは」

言葉は風に舞い、弧を描いてブーメランのように戻ってくる。その風の中で、あたしと男の髪が同時にふわりと揺れた。

あたしはゆっくりと目を閉じた。明良は今ごろ何をしているのだろう。

急に涙が出かかって、閉じた目をさらにきつく瞑った。

男はそんなあたしを見て優しく笑い、ポケットから何かを取り出して見せた。

「これは、不思議なMDでね」

いや、見た目は何の変哲もない水色のMDだった。ケースに小雨が少しついて、つーっと伝ってゆく。小瓶の次はMDか、とあたしはため息をついて両手を腰にあてる。

「あのさ、あたしはあんたから物をもらうためにここに来たんじゃないし」

だからって、ここに来た理由なんてないんだけど。

「そうなの? でも、君はきっとこのMDを受け取ってくれると思うよ」にこにこ笑顔。「俺はもう、何も受け取らないけどね。でも君は優しい女の子だから、こんな断片でもひとつずつ、ていねいに拾い集めてくれるような気がするんだ。俺はここにいるしかないからね」

一体どこでどうやってあたしが優しいという方程式ができあがってしまったのだろうか。どうでもいいけど。

男が指先でつまんで見せているMDを、あたしはそっと手を伸ばして受け取った。本当に、なんら変わったところのないただのMDだった。生なのか録音済みなのかは分からない。インデックスも抜きとられてしまっている。

「何が入ってるの?」あたしはたずねた。

「よかったら聞いてみればいい」男はあたしの質問の答えとも、一方的な会話とも解釈できることを言った。「それもまた断片のひとつだ」

あたしが反論しようと口をひらくと、それすら許さないように続けて男は言った。

「安心しなよ。どんなに君が人との絆の希薄さに苦しんでも、どうせ時間の流れの中ですべてが腐って淘汰されてゆく。響きが甘くてかっこいいだけの言葉を適当に唱えていれば、とりあえず安心した気になれるけど。流行歌が豪語してアイコン化するほど、ひととひととのかかわりをつなげるのは簡単じゃない。それが怖いなら、またおいで。俺はいつでもここで君を待っているよ」

彼はそれ以上、何も言わなかった。またiPodを取り出して音楽を聴き始める。最大ボリュームにしたままだったのか、突然、あたしにも聞こえるような大音量で「風のとおり道」が響いた。彼は一度びくんと跳ねて、あははびっくりしたー、と笑いながら慌てて音量を下げる。

トトロの、サツキのセリフを思い出した――メイのバカ、すぐ迷子になるくせに!

あたしは眉をひそめ、しばらく考えたあと、MDを大切にバッグの中にしまった。前に来たときは粗雑に鞄へ投げ入れてしまったが、今はこれを捨ててしまうことが後ろめたくなった。

彼に一瞥もくれず、黙って路地裏を立ち去った。小雨がやんで、世界が無言のまま壊死をはじめていた。

音声を切ったテレビで兵隊の銃撃戦を見ても、あたしは銃声がどういうものか知っている。



私は家に帰って、学校の鞄の中に入れっぱなしだった小瓶を取り出した。軽くて薄くてちいさな瓶。最初に見たときとまったく同じ姿勢で内部に鎮座する紙を、あたしは部屋の電灯に透かしてみた。

何かが書いてある。気がした。だけどあたしは瓶をあけなかった。

瓶とMDをそれぞれ手に持ち、焦げつくほどじっくり見つめた。ポケモンのゲームをやっていると町の人からアイテムを思いがけずもらったりするが、あのときはためらいなくずうずうしくもらってすぐに消費していた。百万円の自転車をタダでもらった、というほどでもないが、しかし、タダでもらうには何か自分の想像の範疇をおおいに越える意志や怨念がこもっていそうで、どうにも瓶をあけたり、MDをプレイヤーにかけてみたりすることははばかられた。アイテムのモンスターボールだと思って拾ったらビリリダマだった、なんていう建物もあったからだ。

あたしは瓶とMDを、雑多なものでぐっちゃになっている机の上に置いてみた。誰かにもらったどこかのお土産の怪しい置物と辞書にはさまれた空間に、存外にきれいにおさまる。プラスチックの表面を電灯が撫でる。子供のころの落書きがそのまま残っている古い机に、なぜかそれらは気さくな転校生のようになじんでいた。

飽きるほど見つめたあと、疲れた目尻をひっぱった。あーがりめ、さーがりめ、くるっとまわってあたしのめ。一階から「春菜、ごはんよ!」という母親の叫び声が聴こえて、私は机につっぷしながら「声でけえっつの」とつぶやいた。



 学校に行くとクラス内は異様な雰囲気に包まれていた。修学旅行のグループをどう分けるか。我がクラスは二十五人と少人数なので、五人一組、五組で行動する。たかだかUSJにグループ行動なんていらないと思うのだが、どうして教師という生き物は教室内の生徒全員が仲良く輪になって青春を謳歌することを理想とするのだろう。どう考えたってみんな仲良しになれるわけがないし、どこのグループにも入れてもらえないハブられてる子や、根暗、オタク、調子こき、ぶりっ子が必ずあぶれるというのに、協調性をやたらに重視しやがる。理想は、具現化してしまったら「現実」という既視感アリアリの陳腐なものになってしまうのに。

あたしが席について鞄からペンケースやポーチを出していると、仲良しのえっことジュリーが喜々として話しかけてきた。

「ねえねえ、春菜は明良と組むんでしょ? あとの三人のところがあいてたら、うちらが入ってもいい?」

あたしの机に手をついて乗り出してくるふたり。あたしはおもに彼女たちと三人でいつもつるんでいる。休み時間にくっちゃべったり、お弁当を一緒に食べたり、一緒に帰宅したり、という程度だが。大した友情で固められてはいないけれど、無意味におそろのストラップを持っていたりして、パッと見はわりと、しっかりしている。

絵津子は響きから「えっこ」、樹里杏はポニョ体型から「ジュリー」と、それぞれそんな感じで思いつき同然のあだ名がついていた。あたしには、ない。どうでもいいけど。

えっこもジュリーも最初から誘うつもりだったので遠慮なくどーぞなのだが、彼女らの口から出てきた明良の名前をあたしは手をふって否定した。

「あいつはダメ。修旅になってまであたしとぐだぐだするより、仲のいい男友達と騒ぐほうを選びました」

あながち間違ってない。文句は言わせない。

「はー、シケてんな。カノジョいんのに何してんだよ」

「明良、絶対春菜と一緒にいると思ったのに」

ふたりがそろって残念そうな顔をする。ほら、やっぱりみんな、カップルは修旅のグループ組みで一緒になるもんだって既成概念ができあがってるじゃないか。王道にしたがえ王道に。ざまーみろ、明良。

ふんっと鼻を鳴らしてふてくされたふりをしていると、ジュリーがまあまあと肩をたたいた。

「男ってそういうもんだよ。恋愛に対して冷めてるというか、なんというか」

彼氏歴ゼロの人に言われてもあまり納得がいかないが、もちろん直接そんなことは言わない。だよねー、なんててきとうに相槌を打って話題を流す。

「それよりさあ、あとふたりはどうするの。うちらだけで組んだら足りないし、かといって他のところもほとんどグループ組んじゃってるっぽくない? ふたり引き抜かせてこっちにドラフト入団させるってのも強引だし」

「そのうち、多いねーどうしようかーなんて話おっぱじめるとこが出てくるよ。そこにうちらが加わっていけば、上手くいけば十人つるみでUSJまわれんじゃね?」

「あ、それいい案かも」

「別にグループ人数だけでいないといけないって先生言ってないし」

とんとん拍子で話が進み、あたしたちは他のグループの配分を調べに他のクラスメートの女子たちに次々話しかけた。が、どこもかしこも完璧な五人グループが完成されていた。飽和状態のグループなど、ない。ちょっとキツい感じの女子と男子のグループと、地味めだけど明るい女子たちのグループ。女子は十二人しかいないから、この時点ですでにあたしたちを含めて十人が徒党を組んでしまった。「マジかよ」とえっこが舌うちをする。

さて残りのふたりは、と視線をめぐらせると、彼女らはそれぞれおのおのの席についていた。ひとりはおとなしくてあまり話したことのない、机に座って何をするとでもなくフランス人形のように固まっている清楚な子。もうひとりは机の上に少年ジャンプを広げて熱心に読んでいる、ガチガチのキモオタで腐女子。ああまさにどこのグループにも入れてもらえなさそうなハブられタイプ。多少彼女らに同情はするが、自分のグループが人材不足だという状況をふまえれば彼女たちが余っていることは不運としか言えない。

戦慄した。

「ちょっと、どうすんだよ、春菜あ」

ジュリーが耳打ちしてきたが、あたしにも返答のしようがなかった。うーむ、と意味のない呻き声をあげて顎に手を添える。コナンくんの真似。

人選ミスは二泊三日の地獄を意味する。同じ部屋にされるところは耐えても、一緒に行動なんて無理すぎる。絶対こいつら置いて三人でまわる。ひとりぼっちにさせるな? 知るかそんなもんこっちだって困ってんだ。一緒にいて楽しくないやつらが混じれば全体の空気が悪くなるじゃん。気遣われてやたら話しかけられるのも嫌だし。人間のヒエラルキーごった煮の教室社会で徒党を組むのは一種の陣地取り争いに近い。

昨日、オコジョ男が言っていたことを思い出した。

普通に考えれば、あたしはオタク女は即却下だった。見ているだけで癒されるようなかわいい子を選びたいけれど彼女は本当に口数が少ないから話があわないし、乗ってくれない。よって、場の空気が冷めることがよくある。しかしここは消去法だ。マシなほうを選ぶべし、とあたしはずんずん歩み、机に座って何もしていない清楚少女、美里ちゃんとアクセスすべく前に立った。

「ねえねえ、美里ちゃん、もしまだどこのグループにも入ってないんだったら、あたしらのところに来ない? えっことジュリーもいるよ」

人数足りないからさあ、という言葉を一瞬飲み込んだ。こんなことを言えば数あわせだって分かるし、ちっちゃくて細くてすぐに傷つきそうな純粋な美里ちゃんにホイホイ言うほどあたしも無神経じゃない。彼女、かわいいし。

美里ちゃんは不思議でしょうがないし不安だし怖いしどうしようって迷ってるのが顔に出ていて、くりっとした目を見ひらいて硬直していた。肌が陶器みたいに真っ白でつやつや。あたしとはえらく違う。悔しい。彼女は視線を最小限に泳がせて迷っていたようだったが、やがて細くてきれいな髪を揺らして、こくんとかわいらしく頷いた。

「来てくれるの? ありがとおーっ」あたしはびくんとこわばった美里ちゃんの肩をつかんで喜んだ。「修旅、楽しもうね。美里ちゃんいてくれてよかったあ」

百パーセント本心ではないけど、嘘でもない。彼女がハブられていたからあたしたちが人材不足に悩まされずにすんだ。少し遠くからはオタク女が漫画から少しだけ視線をこちらにむけていたような気がしたが、無視した。かまって欲しいのかよ、キモすぎ。

あたしは美里ちゃんの了解を得てすっかり上機嫌になり、さあ、ジュリーとえっこに報告せねば、とふりむいた瞬間、彼女たちに挟まれるかたちでなぜか男子の内倉英介がいるのを見た。ずんとでかい、体育会系男子。ぴしっ、とあたしはさしずめ液体窒素をくらったターミネーターのように動きを止めた。

えっこがうれしそうにあたしの名前を叫んでいる。あたしは三人のもとへ駆け寄り、「なんで内倉が?」と開口一番尋ねた。そりゃ、オタク女が却下となればもう女子はいないし、あと一人は男子で埋めるべきなんだろうけど。

「内倉さあ、六人になっちゃったグループでジャンケンして、つまはじきにされちゃったらしいよ。だから、こっち来ないかって誘ったんだけど」

「ごめん、峰岸さん」内倉はそのばかでかい図体であたしを上から照れくさそうに見おろした。「絵津子が来ないかって言ってくれたから、ありがたく移籍してきたんだけど、迷惑だった?」

あたしはあわてて首をふった。くそでかいスポーツマンの体躯で、申しわけなさそうに眉をハの字にして頬を指で掻く仕草は、臆病なドーベルマンのように見えてしまう。

「ううん、全然。むしろ内倉でオッケーだし。大丈夫。ようこそいらっしゃいませ」

へらへら笑いながら彼を歓迎したが、あたしの意見を介さずに内倉をひきいれたえっことジュリーにちょっと不信感を抱いてしまった。そりゃ、あたしは美里ちゃんを勧誘してたけど。こういう余計な感情は関係や空気を壊しかねないから、絶対に口にしない。

えっこは去年から内倉に片思いしている。いつもふたりで仲良くしているし、えっこが上目づかいをしたりいい匂いのする髪を揺らしたり内倉の服の裾をちょっとひっぱったりかわいい声を出したりしてばんばん放つ「彼にふりむいてもらうためにアピってます」オーラは強烈だし、そんな紋切り型のアプローチでもこの修学旅行をきっかけにくっついてしまえば、と内心思った。そういう意味で学校行事は貴重な場だ。修学旅行や遠足ではどこかでかならずカップルが成立して帰還してくるのが常套である。

美里ちゃんからも許可をもらって、最終的にあたし、えっこ、ジュリー、美里ちゃん、内倉のグループになった。プリントに全員の名前を書き、決定。あとはこれを次のホームルームの時に担任の先生に提出してしまえば、無駄な陣地取り争いは終了する。あたしのまわりは。香と銀と桂に守られた玉の気分。

内倉は他の男子との雑談に加わり、美里ちゃんは自分の席で本を読みはじめた。縦書きで難しそう。ケータイ小説ならあたしも読むんだけど。残されたえっことジュリーとあたしはいつもと変わらず他愛もないおしゃべりで盛りあがっていたけれど、休み時間が終わる数分前、ちょっとトイレ行ってくる、と言ってジュリーが席を立った。彼女は他の女の子とつるんでトイレに行くタイプじゃない。

あたしは無意識に明良の姿を探した。彼は他のチャラい男子に交じって、机に座ってげらげら笑っている。さほど遠くないはずなのに、机ニ十個分は離れてしまっているような錯覚を覚えて、そっと目を伏せた。

彼女が教室を出ていってすぐ、えっこが少しだけ声のトーンを下げて、不満そうな、嘲笑うような笑顔を浮かべて言った。

「さっきジュリーがさあ、男ってそういうもんだよーとか、なんか自分どんだけ恋愛経験豊富なんだみたいな言い方してたけど、彼氏作ったことないくせによく言うよね」

まあね、とあたしは無感動に返事をした。

ホームルームの時間が終わる。チャイムの音に背中を追いかけられるように、廊下で遊んでいたやつとか、トイレにいた女子たちとかが教室になだれこんでくる。あ、そういえば一時間目の数学、あてられる。そう思ったが気がつけば右手が、小学生のときに覚えたペン回しをおっぱじめていた。くるくるくるくるくるくる。シザースピン。ダブルリバース。落ちた。腹立つ。飽きた。逆回転、いまだに難しい。


えっこが内倉をグループにひきいれた理由をたずねてみたらば、やはりあたしの推察そのまんまで、女の思惑ってなんて単純なのかと呆れてしまった。

休み時間にジュリーとえっこと三人で、あたしの席でセブンティーンをひらいて人気の男性俳優のインタビューページをあれこれ口出ししながら読んでいると、机の中に友達から借りっぱなしの本があることに気がついた。少女漫画。あまり面白くなかったけど、とりあえず最後まで読んだ。感想を聞かれた時、対応できるように。

「ちょっとごめん、借りてた漫画返しに行ってくる」

いてらー、とよく分かんないことを言って手をふるふたりに背をむけ、五人ほどで固まっている他のグループのところに割りこみに行った。

そこにいた子たちは、なんとなく、険悪な雰囲気だった。

かかとを潰している上靴をきゅっ、と鳴らしてあたしは足を止めた。机を四つくっつけて、みんなが少しだけ顔を寄せぎみにして、いつもと変わらない笑顔で、いつもより汚い言葉で何かを毒づいている。三メートル弱は離れているけれど、気配でそれが分かった。これに気づかなかったら、たぶん、あたしはKY決定なんだろう。

話が一区切りついたあたりを狙って、ちょっとごめーん、とあたしは笑顔で友達の肩を叩いた。

「これ、借りてた漫画。すっかり返すの忘れてた」

「ああ、いつでもよかったのに」友達は手をふりながら笑って漫画を受け取った。「どうだった? 鳴海くん、かっこよかったでしょ」

「うん、おもろかったよ。切ないしめっちゃ泣ける」

ああ、なんか無難にも無難すぎる答えだったかな。面接で「趣味は?」って聞かれて「読書です」って答えてるみたいだ。けれど友達は何も気にしていないように笑った。

「ねえ、どうする? 結局」

同じグループにいた、ななめ向かいに座っていたギャル系の女の子が、友達に吐き捨てた。あたしは、「何があったの?」と聞いてみた。特に理由はないけれど、この場にいて「じゃあね」とスルーしてしまうのも気がひける。

「春菜もさ、もう綾音のことシカトしといたほうがいいよ」

趣旨をかっ飛ばして、そのギャルがイラついた口調であたしに言う。

「だから、なんでそうなるの」

「綾音さあ」今度はすぐ隣にいた別の女の子が口をとがらせながら言う。「ちょっと前からあたしたちのグループに入るって決めてたんだけど、本格的にメンバー決めちゃおうっていう今日に限って、あっちの方に人事異動したんだよ」

その子は男子がたむろって無駄話をしている教室の隅を、ふりむかず親指でさした。そこにはなるほど、あたしの友達でもある綾音が何人かの男子と話をしている。その中には、明良もいた。というか、イケメンぞろいだ。そういえば男子のところも、ルックスのいいやつらばかりでグループを組んでいたっけ。

女子の中ではかわいい部類に入る、髪をふわふわに巻いた綾音がじつに楽しそうに明良たちと雑談をかわすところを、呆然と馬鹿面さげて見ていた。かわいいから、余計にイケメン男子たちの輪で映える。

「男子のとこで四人しかいないグループがいて、ひきいれられたらしいよ。しかも見てのとおり、かっこいい男子ばっかりのグループにさ。先にあたしたちと約束してたってのに、ドタキャンされて、男子に誘われたからってホイホイついていって」

「そうそう、先約を優先しろっつの。空気読めてねえし」

「てか、いっつもあんな感じだよね。自分超かわいーとか思ってんでしょ。ホントにかわいい子はあんな風に男子に色目使わないし」

「男と一緒にいるときだけ、声がワントーン上がるしねー」

「キモいっつうか、いつか友達なくすよね絶対。マジ調子こいてんじゃねえよ」

「なんか完璧、純粋っ子演じてるってゆうか、あからさますぎて逆にかわいそうになるわ。どんだけ自分大好きなんですかって感じ」

「同情とかいらないいらない。女の絆よりも男子からモテることを優先するような女。恋の炎は友情の灰を残すってゆうじゃん。オバサンになって賞味期限切れないうちに好き放題やらせときなって」

そんなにみんなも男子にちやほやされたいのか、と言いたい衝動を必死におさえてむずがゆかった。背中と腹を同時にバリバリと掻きむしりそうになる。

脱力。見下ろす四人の女の子たちは、もろくてつまらない安易な口約束をやぶったという事実を強調して、この満足いかない場面で裁判官になりたいだけなんだ。

「春菜、そういうわけだから、綾音のことは今後無視ね。うちらの味方でしょ? ほっとこほっとこ」

友達が返したばかりの漫画をひらひらさせながら言った。ううん、というイエスともノーともとれる微妙なうめき声をあげて、「そんじゃ戻るね」と笑ってその場を立ち去った。息苦しい。あの繁華街と同じように、密閉された圧縮空間。喉を産業廃棄物がドロリとはいあがってくる。

少しだけ振り向くと、女の子たちの意地悪い声が聞こえてきた。

「とりあえずさー、埋め合わせの一人は京子ってことにしとこうよ、書類上」

「えー、あのオタク? まあ名前だけってならいいけどさー」

「うん、じゃあもう綾音のところは消しとくか。もうあっちで決まっちゃったみたいだし。けってーい」

あたしに背をむけている子が、プリントのメンバー名記入欄のところから綾音の名前を消す。消しゴムで、乱雑に。力を入れすぎて紙がぐしゃりとやられていたが誰も気にしていない。あたしはセブンティーンのアイドル写真に見惚れているえっことジュリーところへ歩きだした。

もう一度、明良たちと綾音をふりかえった。明良は、あたしも滅多に見ないような楽しそうな笑顔で、綾音に「それマジやべえー」なんて言っていた。綾音が笑う。あたしはケータイをひらく。アドレス帳から明良を探そうとして、やめた。



「やあ、こんばんは」

昨日と同じような所作でiPodのイヤホンを耳からはずしながら、青年はふわふわの綿毛みたいな笑顔を向けた。よく晴れた夜空の下、いつもと同じ小汚い路地裏の奥のさらに奥。同じ場所で、同じように、打ちっぱなしのビルの壁に背をあずけ、地面に座っている。汚いと思わないのだろうか。そりゃあたしも、コンビニの駐車場のパーキングストッパーに座って友達としゃべっていたことはあるけれど、地面に直ってことはなかった。

どうしてだか、あたしは学校帰りに、家の二つ手前の駅で降りて繁華街を一目散に駆け抜け、路地裏に吸いこまれるように入った。道中、自分がどこにむかっているのかという自覚はあったけれど、策もないのに万策尽きた感じで何も考えていなかった。どうやって走る力をしぼりだしたのかも疑問だった。

だから路地裏にたどり着いたとき、我にかえって呆然としてしまった。「え、なんであたしこんなとこにいるの」なんて言いそうになった。そんなあたしの心境など知らず男は「また会えてうれしいよ」と笑う。

ソックタッチがずれて片足の靴下だけくるぶしまで落ちていた。それをひきのばして、汚い路地裏に似あわない、新品の電化製品のように生活感のなさを感じる男をながめた。たった今世界に産みおとされたと言われても納得がいくかも知れない。それほど浮いていて、めだって、ともすればKYだった。嫌いじゃないけれど、好きにもなれない。ちょっとウザい。

けれど、結局ここまでたどり着くんだ。

「今日もはっちゃけてるね」

「……はっちゃけてなんかないし」

むしろ暗雲がたちこめていて上手に呼吸ができずにいた。昼間のことがあってあれこれと気分が悪くなっていたし。しかもダブルパンチ。友達のことを悪く言うのは、えっこじゃあるまいし気がひけるけど、全くの赤の他人であるこいつには抵抗なく言えるような気がした。

「あんたの言ったとおりだった」

ため息まじりに言った。「つまんない」

「おお、そうかそうか」男は立てた膝に両手で頬杖をついて、さもうれしそうに笑った。「それはよかった。お役に立てて何より」

「あんまし役には立ってないんですけど」

「そうなの? あれでしょ、思いやりなんて恩着せがましいってやつ」

「うーん、それとはちょっと違うんだけど」あたしはこの雰囲気にも段々慣れてきて、あごの下に手をおいて視線を上にそらした。「なんか難しいな」

「そうだね、単純ではないだろうね」

あたしを楽しそうに見ていた彼はふふっと女よろしく妖艶に笑い、簡単なもんだったら誰だって楽に生きてるよ、と言った。あたしを見上げる目が優しい。

「なんか、こども電話相談室みたいになってるなあ」

「そうなるよう仕向けてんのは自分じゃね?」

今度はけらけら笑う、オコジョ。どこまでも小動物を連想させてしまう。体格はでかいし、パンクだし、口ピなんてちょっと怖い感じすらするのに、どうして彼の目を見るだけで小動物に見えてしまうのだろうか。やっぱり、彼のベッドには大量にぬいぐるみがあるのかも知れない。それらに埋もれながら丸くなって眠る彼の姿が容易に想像できた。

「何、なんか悩みでもあるの?」

本当にこども電話相談室のノリだ。

あたしの親か仲のいい親戚のおじさんのように優しい笑顔を向けられると、ひけない。なんのためにここに来たのか分からなかったが、少しずつ、おぼろげな輪郭があらわになっていくような気がした。確信するのは今日ではないが、早かった。意識しなくても心臓は勝手に動いてるんだと気づくように、気づいた。

「その恩着せがましい友情だの恋愛だのっていうのを」あたしは心臓がエイトビートを刻むのを感じた。「あんたは信じてるの」

己の国語力のなさを憂う。国語、いつも寝てるけど。

男は軽くううむとうなったあと、昼間のあたしと同じように顎に手を添えて答えた。

「信じてない、わけじゃない」淡々とした言葉だった。「俺だって人間だよ。群を抜くわけでもなくその他大勢の一部、凡庸、凡人、通行人Aみたいな普通の生き方をしてる。だから、恋もしてたし、学校にも行くし、友達もいるし、家族もいる」

ちょっと意外。

「それなのに、思いやりは恩着せがましいなんて言うんだ」

「うん。痛い目にはたくさん遭ってるからね」また男は自嘲気味に笑う。「信じたほうが負け、好いたほうが負け。夢のない話だけどね。こんなこと言えば反感買うだろうけど、真実の愛だの永遠の絆だの、そういうのは人の夢の中に存在する幻であって、リアルに具現化されてないんだよ。俺がこう言ってることに文句言いたくなるやつは、汚い世界でそういった紋切り型かつ手軽なきれいごとに守られて生きてきたってことだ。だから、踏みださないわけにはいかない現実にいずれ一歩踏みだす年齢になったとき、守ってくれるものがなくなってあっさり傷つく。理想は理想だから理想っていうのにね」

 あたしが考えていたこととまったく同じ。肩をすくめて笑った。

「あー、なんか納得いくね。カクテルパーティー効果とか言うんだっけ? 気持ち悪いことは響きのいい言葉で上手く隠して、自分に都合のいいことしか聞こえないようにしてるってイメージがある」

「カクテルパーティー効果の意味がちょっと違うけど、まあいいや。特に君ぐらいの年齢だとね、テレビに洗脳されやすいし」

反論すべきか一瞬迷った。大人だってそうじゃないのか、と聞きたかったがはばかられた。無意識に、はばかられた。

あたしは後ろ髪をざっとかきあげて、鞄を地面に投げ飛ばした。男がもたれている壁と地面が接しているあたりにちょうど直撃し、はねかえらなかった。

そして、自由になった両手を胸の前で組む。

「あたしはね」思い切って言う。「嫌なんだよ、うわっつらだけの関係ってやつ。つまんないことで壊れる友情とか、時間が経つごとに愛が薄れる恋とか。てゆうか、本当の絆って、そんなものじゃ壊れないはずっしょ?」

「ほら、絆っていう言葉を使った」男はあたしを指さし、してやったり顔で笑う。「本当のなんとか、なんていう言葉こそまさにきれい事だよ。それでも探してるの?」

言葉につまったが、反論は辞さない。「もちろん。世の中には、本当にかけがえのない友達やすてきな恋人を持っている人もいるでしょ」

彼はふわりと優しく笑って、けれど刺々しいことを言った。――モノゴトに本当も贋作もありゃしない。あるのはただ純粋なその存在ひとつだけ。いいものも悪いものも、幻だって、言葉だけでもそこに“ある”ことは真実なんだ。サンタクロースは嘘だけど、そのお話は世界に強く深く根づいてるでしょ? 問題はその重さだよ。

男はニヤリと笑った。不思議と不気味さは感じられない笑顔だった。

妙な形で言いまかされた悔しさよりも、男の意見が妥当だと一瞬思ってしまった妙なぬめったらしい感触と、爽快感の方が強かった。セックスとよく似てる。

えっこは、ジュリーがいないところで彼女の悪口を言っていた。あたしも、あたしがいないところで誰かに悪口を叩かれているのかも知れない。内なる渦は消せっこない。

男は無邪気に笑った。

「今思いだした。ジョン・レノンが歌ってたよ。目をつぶっていれば生きるのは簡単だけど、それは同時にすべてのものを誤解することなんだって」

「なんなのそれー」

のけぞって笑う。もうやけくそだ。

彼があたしと一緒に笑う。形容しがたい瞬間だった。泣きそうになる。――失いそうになる。

「でもみんな、ガチなんだって」あたしはそれでも主張した。自分の意見を変えるつもりはなかった。

――影で愚痴ってても、卒業したらバイバイすること分かってても、手紙をすぐ失くしても、それでもちゃちくてスカった親友の言葉にだまされてないと、あたしらさあ、

そこまで言って、とうとう泣いてしまった。つっ立ったまま、バカみたいに。

するん、とステンレスの上をすべるように、涙が頬をつたって顎から落ちた。ぎゅっと目を閉じ、制服の袖でぬぐう。バカじゃん、あたし。だって、ホントなんだし、他に方法がないんだから、しかたないじゃん、しかたないじゃん。

男はずっと、優しい笑顔であたしを見あげていた。空の遠くで雷がゴロゴロとうなり声を上げる。それでもあたしは泣いて、男はあたしを見ていた。

卒業が、近い。

忘れられていく記憶の一部分になりたくなくて、本当のなんとかのおぼろげなイメージを真似してるだけ。いつの間にかメルアド変更をしても友達に知らせることを横着するくせに、自分はエラーメールのリターンを恐れている。

しばらく涙をぽろぽろこぼして泣いていたあたしだったが、いつまでもこんなかっこ悪いところは見せてらんねえ、と気合を入れて、目元をハンカチでこすった。マスカラがとれてハンカチが黒くにじむ。ポケットからちいさな鏡を出して目をのぞきこみ、指先でマスカラのカスをふきながら、ごめん、と小さくつぶやいた。

「何が?」

「みっともないから」

……みっともなくないよ? てか、泣くの我慢されるほうが迷惑だし。

ぱちん、と鏡をとじるのと彼がそう言うのは同時だった。なんか、負けた気分。いつ勝負になってどこで勝敗を分けたのかは不明だけど、とーとつにそう思った。そんな気分すら錯覚かも知れないと思いこむことにした。

悔しいな。ごっこ遊びは嫌だったのに。

男は笑顔を崩さないまま、ポケットから何かを取り出し、あたしに放った。あわてて両手でキャッチしたそれは、ストラップだった。紫色の伸縮性のあるヒモの先に、親指ほどのサイズのかわいいウサギの人形がくっついていた。汚れて毛羽だっていたけれど、黒いビーズのくりくりした目がかわいかった。

「何これ、かわいい」

あたしは少し驚いて、口元を手で押さえた。

「でしょ? ちょっと使い古してるけど、君にあげるよ」

「これもまた、不思議なストラップだとか言いだすの」

「そうだね、それは、不思議なストラップだ」

男があたしにくれるものたちにいちいち「不思議な」と付随する意味が分からないけれど、小瓶、MDの次にたどり着いたこのかわいいストラップは、こんな男からもらったものだけど気持ち悪く、ない。汚れているけれど、ウサギのかわいさは健在だ。

こと小動物ものに弱いあたしは瞬惚れした。さっそく携帯を取り出して、ジャラづけしている大量のストラップの中から根本を掘りあて、汚れたウサギストラップを新たに加えた。

ほくほくとストラップの山を眺めて、そこで初めて疑問に思った。迷わずストレートに、くるりとふりかえって訊く。

「てか、あんた、なんであたしに毎回ものをくれんの?」

今、あたしの家には、こいつからもらった手紙入りの小瓶とMDがある。机の上に無造作に放っているだけだが、妙な存在感を感じるから部屋にいてもこの男の残像が頭に残ってしょうがない。ムカつくような、不思議なような。

男はいらえのかわりに目を見ひらき、そして顔をゆがませて笑った。すこし大人っぽい笑顔だった。

「俺も質問。どうして君は毎回俺のところに来るの?」

屈託のない瞳だった。あたしより年上に見えるのに。言葉につまると、男はさらにへらへら笑った。最初はその笑顔がただキモかっただけなのに、今じゃ妙に照れて、照れてしまう。パンクファッションと、小動物系の笑顔。

何か反論しようとしてぐわっと口を開けると、それより一歩早く男が言った。

「昨日、言ったよね。人との結びつきが腐って淘汰されていくのが怖いなら、またおいでって」

ああ、言ったね。

「つまり、そういうことだよ」

「は?」

怖いなら、またおいで。怖いなら、またおいで。怖いなら、またおいで。

昨日の彼の言葉が反芻される。

「まあいいさ。別に人生に影響あるわけじゃないんだし」

最後に男はそう言って、iPodを出して音楽を聴き始めた。かすかに音が漏れている。トトロの曲。今日はもうおしまい、と言いたげに。

あたしは携帯にぶらさがった新しいストラップを見た。新入りなのに、周りのどのストラップよりも汚れている。元持ち主がオコジョみたいなやつだから、こういうふわふわした小動物は妙に似あっている。外見はパンクだけど。

彼は音楽を聴きながら、何も言わずにゴテゴテした指輪が大量にはめられた手を振った。超笑顔。パンクだけど。

また泣きそうになって、あたしは手を振り返さず駈け出した。携帯を握りしめたまま、空で鳴りひびく雷さまの太鼓の音から逃げるように。路地裏を抜けて繁華街に飛び出す頃には、ようやく明るい場所に出られた安心感よりも、まだダメなのか、という落胆の方が大きかった。



「とりあえずさ、入ってすぐにあるスパイダーマンじゃね?」

「えー、絶対混むってそこ。先に無難なバック・ドラフトとか、並びそうにないとこから消化していこうよ」

「それって出だしからテンション上がらなくない? やっぱドパーンとはじけていかなきゃだって。というわけであたしはジュラパ希望」

修学旅行を来週に控えた我らが三年生。浮足立ったふわふわのムードは以前と変わらず、二時間目の公民を先生の好意でひとつつぶしてもらえたあたしたちは、自由行動の話しあいとUSJでのアトラクションの順番決めにかかった。

四つくっつけた机をあたし、えっこ、ジュリー、内倉、美里ちゃんでかこみ、ルーズリーフにUSJのアトラクションをすべて書き、あっちに線ひきこっちに丸つけ、ああでもないこうでもないとディスカッションしていた。アトラクションの順番なんざ、そのときの雰囲気で決めればいいのに。

事件を作った胡乱なメールが携帯に届いたのは、そう思ったときだった。

ヴーヴー、と地味に存在を主張している、スカートのポケットに入れた携帯。私は先生に見つからないように膝の上でそっとひらき、メールをチェックした。

『死ねゃブス

 男好き

ヵレシかゎぃそー

さっさと別れてやれょ』

……知らないアドレス。アドレス帳には入っていない。

小学生の時、つまらないことでクラス中の女子から総スカンを食らい、似たようなメールをもらったことがあった。ズクンと心臓が跳ねる。私は無言で、無表情で携帯をとじ、再びポケットにしまった。そして笑いなおし、USJのアトラクション談義に戻る。

しかし、その日の昼休みに届いた胡乱なメール、その二。

『今から屋上に来て』

差出人は、内倉。

この中学はめずらしく屋上を解放しているが、あまり人はよりつかない。学校の七不思議や飛びおり自殺の過去でもあるのかないのか。あたしはお弁当を広げることも忘れて、えっことジュリーに「ちょっと用事があるから」とことわって教室を飛びだした。

階段を三段飛ばしでかけあがり、屋上のドアを開ける。とたん、ゴウと吹きつける強い風。ピンで軽くとめただけの髪が崩れそうになって、あたしは手で後頭部をおさえた。広く開放された屋上からは町全体が見わたせて、お昼ごはんには誰かお弁当を食べに来てもおかしくないのに生きているモノの匂いがしない。空気がなまぬるい。なまあたたかい。

あたしは屋上のフェンスに身をあずけてこっちに手を上げている内倉に歩みよった。彼の顔を目視できるようになった時、あたしは緊張で息をのんだ。

四メートルほど距離をおいて、あたしは内倉と対峙した。気まずい。相手は優しく笑ってるのに、あたしは不穏な空気を感じてそれ以上近づくことができなかった。

内倉はフェンスから背を離し、ほんの数歩前に進んで話しはじめた。

「峰岸さん、急にごめんな」

「ううん、こんなのよくある話だから」あたしは必死で笑顔を作った。「それより、呼びだしといて本題ゼロってこたないっしょ? なんかあった?」

「おう」

内倉は照れ隠しのように頬を掻いて、少しだけ視線をそらした。気まずい。気まずい。気まずさマックスだ。

「……俺と、つきあってくれねえか?」


胡乱なメール、その三。

午後の授業中に届いた、えっこからの暴言メール。

『春菜さぁ内倉に告られたってマジ?んでふったって?

調子こぃてんぢゃねーょ心友のすきな人からの告白断るとヵどんだけぜいたくだょ

内倉のなにが不満なヮヶ??フリ逃げとヵぁたしにも内倉にも失礼だとぉもゎねーの???

てかそんなんだから明良にもふられんぢゃんまぢ最悪!!!!』

静寂。

あたしは戦慄した。まさかずっと一緒にいた親友のえっこから、こんな罵詈雑言のメールが届くとは考えもしなかったからだ。心臓が一瞬で冷え、携帯を持つ手が小刻みに震えた。あたしは呆然とする頭を必死ではたらかせ、机の下で返信ボタンを押した。

『違うょ 内倉に失礼なコトゆゎれたからそっこーことわったんだょ あたしよりむしろ内倉が悪いし あとでぃちよう話すから』

なんでこんなに刺々しいメールになったんだろう。多少なりとも腹が立っていたし、腑に落ちない部分がたくさんあるけれど、でも、あたしたちはとりあえず親友のはずなのに。もうちょっと優しい言いかたをすればいいのに。

ふりかえるのが怖い。背後でえっこがあたしのメールを、怒りの形相で読んでいるのかと思うと。

えっこからの返信はすぐに来た。

『言ぃゎけ聞きたかなぃ モテ自慢とかまぢキモぃし

タラしの心友なんかぃらないしもぉ絶交!!

ケータイのゥラのプリ剥がしてょ

内倉のコト悪くゆうんだったらアンタもゅるさなぃ

人のキモチ考えろょ裏切り者!!!!!!』

はあそうですか、とため息をついた。最初のメールが来たときは身震いしたけど、二通目を読むとすっかり脱力してしまった。携帯を勢いよく閉じたぱちんという音が、この空間のすべてを凌駕しているような気がする。

あたしは昼休みのことを回顧してみた。

「俺と、つきあってくれねえか?」

内倉からの、唐突な告白。

あのあとたっぷり、互いに二十秒は固まっていたかも知れない。処理が追いつかない。言葉の解読に時間がかかる。いつからナローバンドになったんだ、あたしの頭。つきあってくれねえか。つきあってくれねえか。内倉の言葉が脳内でリピートされてうるさいうるさい。

もう、完全にキョドってて何がなんだか分からなかった。つぶさに会話を想起できるのが悲しいけど。

「いや、あの、ってか、あたし彼氏いるし。知ってるでしょ? 明良」

「え、まだ?」

「は? まだって何、失敬な」

「だって、峰岸さんがまだ明良とつきあってるって、知らなかった」

「ちょ、え、はあああ? 何それ超初耳すぎるんですけど」

「嘘だろ? だって、あんだけ噂になってんのに。峰岸と明良って結構仲良かったし、知らない人いないでしょ。そのふたりが別れたってなれば、そりゃ情報もどんどんまわっていくって」

「ちょっとちょっと待って、どっからそんな情報リークしてきたわけ。あたしは明良と別れたつもりはないし、つーかそんな話すら出てないって」

「でも、昨日あたりから明良が自分でバラしてたぞ。峰岸さんと別れたって。そんで新しい彼女できたんだーってはしゃいでて。だから俺、当人の峰岸さんもそれを受け入れて今に至るんだと思ってたんだけど……」

しかじか。

な、と変な声が口をついて出て、それ以降あたしは何も言えなくなった。明良が、あたしと別れたってみんなに吹聴してまわってんの? しかも、新しい彼女って何者? あたし、明良に別れるなんて言われてないし、言ってもないし、ついこないだまで一緒にデートしてたのに、手もつないだしキスもしたのに、エッチもしたのに、何? 何? わけわかんねえし。意味不明だし。

混乱状態になってるあたしを、内倉は情け容赦なくたたみかけた。

「峰岸さんが、明良と別れたって聞いたからチャンスだと思って。ずっと好きだったけど、ダチの明良から彼女奪うなんてことしたくなかったから、遠くから見てただけだった。ずっと好きだったんだ。明良には新しい彼女ができたらしいけど、特に峰岸さんが別の男とひっついたっていう話は聞かないから、もしよかったら俺とつきあおうって提案したんだけど……」

その瞬間、私は内倉を叩いた。平手。バツンと思いのほかすごい音が鳴って、自分の手にするどい痛みが走った。完全に、全身全霊でキレていた。

「好きな女がフられたことをチャンスとか言うような脳味噌ゆだった男、ソッコーで願い下げだっつーの! キモイから! マジ死ね!」

それ以来、内倉とは目もあわせない。同じ空気も吸いたくない。息、すんじゃねえよ。

あたしは再び携帯をひらき、どうせ読んでもらえないだろうなと思いながらえっこ宛てのメールを書いた。もう授業の内容なんてどうでもいい。今はそれどころじゃないんだ、あたしたちの青春。

『ぃぃょ、話聞く気なぃんだったらもぅ何がぁってもえっこの自己責任だから。ぁとで痛ぃ目みてもぁたしのせぃにしなぃでょ??てかぁんな男、二度とごめんだし。せいぜいがんばったらー?』

携帯の電源を切り、机の横にかけている鞄の中に投げ入れた。

どうせ、もしあたしが内倉の告白を受け入れてたなら、えっこは「心友の好きな人だったら告白されても断るのが普通じゃない?」って言ったに違いない。

こんな疲れることが「人の気持ちを考える」とか「空気を読む」とか「普通」なら、人間やめたほうがマシです。


その日の夜、家に帰るなり自室にひっこんでベッドにつっぷした。

冷たい羽毛布団のカバーの上で深く息を吸って、ゆっくりと時間をかけて吐きだす。肩の荷がおりたはずなのに、肉体的にはよけいに負担が増えたような気がする。

何が悪かったんだろう。どこで道を間違えたんだろう。進路希望のプリントの第一希望に「幼稚園」って本気で書きたい。今から人生やりなおしたらなにもかもうまくいきそうな気がする。

天井をぼんやりと見つめた。まっしろな壁紙に花柄の電灯カバー。ゴチック模様の羽毛布団。ベッドのまわりにはスティッチのぬいぐるみと目覚まし時計。何ひとつ変わっていない部屋。あたしの部屋。

携帯をひらいた。えっこに絶交メールを送ってから電源を切ったまま。家に誰もいなかったことが気になってつい電源を入れると、お母さんからの「今夜はちょっと遅くなるからお父さんと晩御飯食べててね」というメールの前後に、大量の差出人不明のメールが届いていた。

「キモイ」「別れろ」「ビッチ」「デブス」「化粧濃い」「ざまあみろ」「ウザい」「調子のんな」「男好き」「裏切り者」「人の気持ち考えろ」「死ねよまぢで」「死んでください」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」

あー飽きた。だいたいどいつもこいつも似たような内容で、現代女子高生のボキャブラリーのなさに日本人の読解力の未来を憂いて泣けてくる。個性ってもんがないのかねえ、個性主張するわりに同調をのぞむ同年代たちよ。あたしは携帯を操作し、面倒なのでフォルダ内のほかのメールごと一気に消去した。

携帯にぶらさがっているウサギのストラップを見た。もらったときよりさらに少し汚れてきていて、あたしはそいつを指先でつまむ。電灯で逆光になっているウサギ。さびしくなると死んでしまう、なんて言われているいきもの。

大量にぬいぐるみを持っている人はさびしがりやだと雑誌か何かで言っていた。おおいに眉唾な話だが、あのオコジョ男の場合はありうるかも知れない、と思った。そんなイメージがポッと出てくるやつだ。間違いない。

あたしは携帯からウサギをはずすと、手のひらでそっとつつんだ。そしてその手を胸に押しあて、横向きになる。いたたまれなくなって、丸くなる。海老のようにぎゅっと丸くなる。気づいてはいけない、気づいてはいけないのだと誰かが叫んでいた。

だけど、待っていたのはいったいなんだったんだろう、と、ちいさな耳鳴りがした。



それからずっと、いつものようにえっこが「一緒に帰ろう」と話しかけてくることはなかった。ここ最近、数回「キモイ」「別れろ」「死ね」以下略の類の差出人不明のメールが届いたが、あたしが明良に無言でフられたことをまだ知らないのだろうか。

あたしはただ機械の作業のように淡々と鞄に荷物をつめこみ、教室を出て行った。いつの間にかクラスの女子からは総スカンを食らっていて、話しかけても誰も答えてくれなくなった。深く考えれば分かることだ。クラスで数少ない彼氏持ちの女子がフられた挙句に親友の好きな人を叩いたとなれば、十分にイビリの対象になる。誰もあたしを視界に入れようとしない。

ほんとに、面白くないことで盛りあがれるんだなあ。

あたしが内倉をビンタした噂はマッハで学校中をかけめぐり、それは百も千も尾ひれやら背びれやらがついて悪いゴシップとなってあたしの友人たちにまんべんなく行きわたった。気がつけばみんな、あたしが話しかけてもふいと顔をそらし、他の子との会話にまじりに行ってしまう。えっこはもちろん、ジュリーも、内倉も。美里ちゃんぐらいだ、あたしを露骨に避けないのは。文句のひとつでも言ってやろうかと思ったけど、そんなことをしても逆効果だと思うからやめた。

「てかさあ、春菜も春菜だよねー。なんで明良にふられたのか知らないけど、あんだけ毎日毎日、明良が明良がーってノロケてんの聞いてあげてたんだから、いい反省材料になったくない?」

「どうかな。春菜って失恋しても大してショック受けてなさそうな感じするしさあ。真剣につきあってたのかどうかも微妙だし。ただ男欲しかっただけっぽいよね」

「別れてもすぐにふっきれるとか、本当の恋したことないんじゃないの」

「とりま、KYカレシジマン猛々しい春菜をおとなしくさせたんだし、マジ最強みたいな」

聞こえよがしにぎゃはぎゃは笑ってあたしをイビる元友達を、一瞬だけ横目でにらんですぐにそらした。

あたしは携帯の電池パックに貼っていたえっことのプリクラをひっぺがした。粘着剤の跡がくっきり残ってしまって、それだけ長いこと貼ったままだったということがうかがえる。別に、あたしは大量のプリクラを眺めて安心したい友達中毒じゃないから、いいんだ。

靴箱でだらだらとスニーカーに履きかえ、鞄をあさって放課後用のアクセサリーケースを出す。髪を結っていたゴムをピンクのシュシュに変え、スカートを短く折る。誰を惹きたいってわけじゃないけど、どこかへ寄り道したいときはこうする。いつからスカートを折るようになったのか、記憶にないけど。

後味の悪い、鬱々した気分を抱えながら、あたしは靴箱を抜けて校舎の外へ出た。ひゅるり、と風が全身を撫でていく。なまあたたかく、夏の訪れを予感させる風。

……明良を、みた。

校門の近く、散ってまもない桜の下。かつて憧れたはずの背中に、別の女の子のうしろ姿が重なっていた。ふわふわに巻いた彼女の髪が消しゴムでぐしゃりと歪んだ。

下校する生徒で騒々しい校門で、綾音は明良の腕に手をまわし、楽しそうに笑っていた。他人が見ても一発でカップルだと分かるような、キモすぎる光景。誰もバカップルがイチャついてるとこなんか見たくねえし。見せつけんなボケカス。死ね。すみやかに死ね。

あたしは大勢の生徒でごったがえしている中を早足でくぐりぬけ、明良と綾音につづいて校門を出た。若干遅い足取りで談笑しながら帰る二人。無意識に奥歯を噛みしめる。心臓が早鐘を打つ。手のひらが氷を握っているように冷たい。あたしはうつむいて、何も言わず、黙ったまま明良の真うしろを歩いた。

「ねえねえ、明良あ。これからどっか行く? プリとか撮りに行こうよ」

「いいよ、どうせ帰ってもやることないし。どうせだからなんかスイーツでも食いに行こう」

「わーい! 明良だーい好きい! さっそく行こう行こう」

「つーか、いいのかよお前。最近女子にハブられてるっぽいじゃねえか。こんなことしてたら余計にイビられねえ?」

「いいのいいの。あたしが明良といるから嫉妬してるだけだって。明良モテるもんねえー。妬みだって知ってるから痛くもかゆくもないよーん! えへへ」

「立ちなおり早っ。人生楽しんでるなお前」

「てか、まだ春菜と別れてないの? 明良だけ別れたつもりでいても、春菜にちゃんと別れるって言ってなかったら、あの子はまだあんたとつきあってるって勘違いするよ?」

「んー、いつかメールかなんかで言おうと思ってるんだけどさー、春菜も俺のことだいぶ避けてるみたいだし、もう自然消滅でもいっかなって」

「なにそれ、中途じゃなーい? さっさと別れなよ」

「どうせ春菜もあの調子じゃ俺のことなんかとっくにふっきれてるだろうし、ほっときゃ勝手に別れることになるって」

あたしは三叉路で二人と別の方向を歩いた。歩いて、歩いて、駈け出した。


家に着くとすぐに自分の部屋に行き、鞄を床にたたきつけ、プリ帳とプリ缶を出してゴミ箱に捨て、サイン帳を捨て、携帯のアドレス帳にある同クラの女の子たちの名前をすべて削除し、プリ画を消し、写メを消し、えっことおそろのストラップを引きちぎり、ジュリーにもらったコンコルドとピアスをゴミ箱に捨て、クラスの女の子からもらったものを片っぱしから捨て、友情や恋愛を描いた少女漫画やケータイ小説をやぶり、自分のプロフサイトとブログを退会し、友達と授業中に交換した大量の手紙をポーチごと捨て、写真のアルバムを捨て、誕生日プレゼントに明良にもらったぬいぐるみをハサミで切り裂き、明良にもらったネックレスをちぎり、明良と一緒に撮った写真をフォトスタンドごと床に叩きつけて割り、左手の薬指にはめられた明良とのペアリングを無理やりはずしてあけっぱなしの窓から豪快なスローイングで外界へ投げ捨てた。

打ちました! 打球は伸びていく伸びていくライト下がる下がる、ポール際どうだっ、入ったあ! サヨナラホームラン! 今シーズン第一号がサヨナラホームランとなりました峰岸選手!

あたしはベッドに突っ伏して、自分でも信じられないほど大きな声で泣き叫んだ。泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだと言い聞かせても無駄だった。どうしてこんなに悲しいんだろう。最初から上っ面だけの友情で心友心友って連呼して、漫画や小説の真似をして、つよいきずなでむすばれたゆうじょうとかせつなくていちずなしんじつのじゅんあいとか、幻想でしかないものだって分かってたのに、今になってどうして泣いてしまうんだろう。急になくしたものを求めて指先が虚空を掻いた。手持ち無沙汰。なくしてからはじめてそれが大切だと気づくものなんて、本当に大切だったのかな。

あたしはどこにいたいんだろう。人工の光と見知らぬ通行人だらけの街と、冷えきった暗い路地裏。あたしは夕方になるまで泣き続けた。かつて空間を凌駕していた、あたたかい、ひだまり。



定期が改札機からぴょこんと飛び出すと、あたしはほんの一瞬だけそれを取るのをためらった。後ろがつっかえていたのですぐにそれを取って定期入れに戻す。

駅前は相変わらず赤みがかったネオンでギラギラとまぶしくて、電気代だけで総額どれぐらいだろう、なんてどうでもいいことを考えてしまった。この光がいつか、あたしをずぶずぶと奈落の底へひきずりこむのかと考えると、全身の毛が逆だった。

あたしはゆっくりと歩き出した。繁華街のどまんなかを、大勢の人ごみにまぎれて。今までみたいに目も耳もふさいで駆け抜けていくことはしなかった。突き刺すような光。周囲からあたしを取りまく笑い声。煙草の匂い。酒の匂い。目を閉じたかったけど、我慢した。これがこの狭い世界の中心なんだと考えれば、ゲロを吐かずにすむような気がする。

ただ、歩いた。ゲーセンのうるさい音や、カラオケの勧誘の人の声、マックの強烈な匂い、酔ったおっさんたちの笑い声、便器の臭い。じゅぷん、と一歩ずつ足がぬかるみにはまっていくよう。夜空だけが透きとおっていた。まっ暗で深い海底の色をした空の下、黄土色の光がふきだまりのように密集している繁華街。居酒屋とゲーセンとカラオケと。人ごみと人ごみと人ごみと。あたし、あたし、あたし。

――だって、あたしはもう、どこに行けばいいのか分かんないし。

胃が水で満たされているような息苦しさと閉塞感。あたしはグロスがかわきはじめた唇を強く噛んだ。ぴっ、とちいさく唇に亀裂が走る。決して顔をあげずに、歩きながらポケットからリップを取り出して唇に塗りたくった。早足に、うつむきながら、ただひたすら歩いた。

どこまで行けば、あたしは自由になれるんだろう。

目印にしている打ちっぱなしのビルが見えた。ちゃんと見たことがなかったので、半地下になっているライブハウスに気づかなかった。くだり階段の入口にイーゼルに立てかけられたちいさな黒板があり、今日の出演バンドと営業時間がチョークで書かれてある。上を見上げるとおしゃれな形の窓が続き、美容院や日本料理店が入っている。

ライトアップされていないので少し薄暗く、黒く見えるそのビルと隣のまぶしいケータイショップの隙間に入った。数秒も歩けばもう光は届かない。散乱するゴミ袋とポリバケツと、誰かがたむろっていた跡の煙草の吸殻が転がっているだけ。空を見上げれば、夜空よりも手前に電線が立ちはだかる。あたしは無意識に「バックストリーツ・バック」を鼻歌で歌っていた。

少しずつ、少しずつ、深海にもぐるように暗くなっていく。母親の胎内にいるような安心感と未知の世界へ踏み出す恐怖とが同居していて、怖かった。けれど、ここを抜けないとあいつに会えない。

あいつに、会えない。

誰も入らない小さな道。踏みいれられない小さな道。あたしはここにいるから、人の目に触れずにいられることに安心感を覚えるのだろうけど、光が届かないことに不安を感じてもいた。

ずんずん進んで、もう繁華街の光などひとすじも届かないほど奥まった場所まで来てしまった。そしてふと思い出す。どうして一番はじめに、あたしはこんなところに来たんだろうか。ふらふらと歩いて、歩いて、歩いた挙句たどりついたのがたまたまこの路地裏だったってことなのかな。

……そう、そこに「いる」んだ。

丁字路でくるりと曲がると、そこに、いるんだ。確かに。

ゴツい指輪やアクセサリーをジャラジャラとつけていて、純白の髪で、パンクファッションで、小動物のようなくりっとした目をしている男。その細く華奢な指で今日もiPodをくるくるとあやつり、音楽を食いあさる。大口をあけて、がぶりがぶりと。飢えた子どものように。

打ちっぱなしのコンクリの壁に身をあずけ、地面に足を伸ばして座っているオコジョの青年。イヤホンを耳に突っとんで、目を閉じて音楽に没頭している。ピアスのついた唇がきゅっとすぼめられ、今にもメロディーを奏でんとしている。あいかわずのどぎついパンクで、全身アクセサリーだらけ。真っ白にブリーチした前髪からのぞく長いまつ毛。

あたしに気づいたようすはない。イヤホンからはかすかにシャカシャカと音楽が漏れていて、相当な音量で聴いているのが分かる。聞こえない。聞こえていない。あたしの声が聞こえていない。気づいていない。すうっと意識が空中に溶けて核融合されそうな感じがする。いっそ原子力レベルで世界ごとドカンと一発ぶっとんでしまえばいいのに。バックミュージックはエアロスミスとかで。

音楽を聴き続ける青年に――叫びそうになった。

ここにいるんだよ、と。

「子ども電話相談室みたいなことは、趣味じゃないんだけどね」

あたしよりも先に、男が叫んだ。本当に、叫んだ。少し大きめのヴォリュームをもって叫んだ。

男は静かにイヤホンをはずし、私を見あげて笑い「やあ、こんばんは」と言った。左手でiPodをとめて、シャコシャコうるさいイヤホンを黙らせる。

「いきなり叫んでごめんね。結構でかい音で音楽聞いてたから、無意識に大声になっちゃった」

えへへ、なんて子供みたいに笑ってひらりひらりと手を振る。あたしはつっ立ったまま彼をじっと見おろしていた。

彼はiPodをそそくさとポケットにしまい、またいつものように笑ったが、その口は何かを語ろうとしてひらかれ、静止した。徐々にやわらかな笑顔がゆっくりと溶けるように消え、冷静に困惑している、という感じの不思議な表情に変わった。あたしは一瞬、硬直したまますくみあがってしまった。この男が無表情になることはあるけれど、悲哀や温情がなみなみ溜めこまれた目で見つめられたのは初めてだった。

そして気づく。こいつははじめから、こんな目であたしを見ていたんだ、と。あたしが魯鈍だったから気づかなかったんだと。

やだ。

蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、その前に彼が言った。

「どうして泣いてるの?」

 ……何か、悲しいことでもあった?

しゅるり、とスカーフか何かが首元に巻きつけられたような感覚。再び冷却される心臓。無垢でまんまるな瞳を向けられると、拒否したくなる。親の優しさと同じぐらい、こいつの視線がウザい。

あたしはとっさに目元に手をやった。涙なんて流れていない。泣いてなんかいない。あたしは彼が言ってることが理解できず、何言ってんの? と口走りそうになった。が、その前に、彼がふわりとマシュマロのように笑う。

「泣くほど困惑する前に、君のその性格の悪さを露呈して、いっそ全部捨てちゃえばいいのに」

笑ったまま、そんなことを言った。無邪気だった。

残酷なこと、口走るなよ。

「あんたねえええ」あたしはとうとう叫んだ。「捨てられるなら最初から苦労しねえよ! バカ!」

「苦労? いったいなんのこと?」

「そりゃ説明してないから分からないだろうけどさ、あたしはあたしなりにあれこれ考えてどうにか現状をいいものにしようと躍起んなってんのに、こんな腐った狭い世界でどれが本物でどれが嘘かも分かんないし、それでいて信じることが大事だとか誰かを思いやるとか気休め言われてもぜーぜん納得いかねえんだよ! どうやったらあたしらに確かな幸せが約束されるのかとか、いつになれば本当に心から信じれる人やものが出てくんのかとか、そういうの攻略本みたいなのがあればいいのにってガチで思うし、ってかそれでも人生思いっきりバカやって楽しみたいっていう気持ちもあるし、もうわっけわかんねえ! 嘘とか幻とかそういうの分かってたって、現実にはないオトギバナシの世界なんだって分かってたって、心友とか純愛とかにひたってないと何を信じていけばいいのか分かんなくなるじゃん! 上辺だけの人間関係が嫌だけどそれが今のあたしたちにとって世界のぜんぶだし、すぐ壊れるようなもろい絆や理想でも信じていかなきゃあたしが壊れんだよ! 矛盾してんだよ! さびしいんだよ! 悪いかバーカ! 死ねよマジ! 消えろ!」

あたしはただ、アメリカ人のオーバーリアクションのように両手をばたつかせて、足が震えて倒れそうになりながらひと息に訴えた。結局何が言いたいのか、自分でも分からない。分からない。分からない。

えっこ。ジュリー。内倉。美里ちゃん。綾音。明良。波打ち際に作った砂の城のように、打ちよせる海水に徐々にけずりとられて崩れてゆく。最初からこうなることは分かってて砂の城を作ったのに、これまでは波が小さかったから不覚にも、錯覚していたのかも知れない。自分で言いながら、あたし自身、手軽な夢におぼれていたのかも知れない。

だからって、どうして、あたしは、こんなワケの分かんないオコジョ男に文句ぶちまけてんだ、マジで。ああああ意味不明だし。何が怖いんだか何が大事なんだか何がどうでもいいんだか。一体あたしは何を信じて、何を見捨てればいいんだ。分からなさすぎる。

ぽろり、と涙がこぼれた。ぽろり。ぽろり。あとからどんどん頬をつたう涙の雫に、あたしはやけくそ交じりに手の甲で乱暴に拭った。カッコ悪い。なんであたし、泣いてんの。ほんと、どんだけ。

ひっ、としゃくりあげると同時に、男がおもむろに立ち上がった。そして、目元をこすっていたあたしの手を片手でつかみ、もう片手であたしの目元を指先でそっとなぞった。ひんやりと伝わる、彼の指の感触。

いつも地面に座っているからか、彼が立っているのを見るのは初めてだった。想像していたより背が高い。相変わらず鼻をすすりあげて泣くあたしを、男はやわらかい瞳で見おろしていた。そんな目が嫌いだっていうのに、彼は視線を一瞬たりともそらさない。

ふうっ、と彼がため息をついた。ミントのガムの匂いがした。

「君はまだ、生きてるって感じがする」

優しい瞳のまま、彼は言った。――消えてしまうのが嫌なのは、俺も同じだよ。怖くなって世界から逃げだして、こんな暗い場所に好きこのんで居座っていながら、本当は君みたいに誰かが迷い込んできてくれることを、ね。

見あげながら話を聞くあたしの頭をぽんぽんと優しく叩く。涙はまだ止まらなかったけど、可燃物を見つけては燃え続けて絶えなかった火が、酸素を失ってゆっくりとその存在を忘れられようとしている。廃墟が、大きな川の流れに身を任せるようにすべって看過されてゆく。あとには、何も残らない。

――自分が嫌い。

ただ楽しければいい。今が幸せならそれでいい。そんな言葉が大好きな自分が嫌い。

サツキのセリフが何度も繰り返される。

……メイのバカ、すぐ迷子になるくせに!

メイのバカ、すぐ迷子になるくせに!

あたしはまた泣きだしそうになるのを必死でこらえた。彼の大きな両手があたしの頬をつつみ、親指で頬を流れる涙を何度もぬぐってくれる。ちいさいころ、嫌なことがあって泣きじゃくるあたしの涙を、お母さんが手で拭いてくれたように。たくさんの指輪の冷たさですら、あたたかかった。余計に涙があふれた。彼はほほえみをたたえて、全部ぬぐってくれた。

長いことそうしていたかも知れない。あたしはそっと男の手から逃れ、指で目元をふいた。落ちたマスカラやアイラインが指の腹を黒く染める。多分、あたしの顔もひどいことになっているんだろう。

男はいつものにこにこ顔を取り戻し、「君に会えてうれしかった」と言った。

「誰も来てくれないと思ってたよ。一生このままかと」

彼はふたたび地面に腰をおろし、ビルの壁にもたれかかった。静かに目を伏せたその表情は、穏やかだった。

「大事なものなんてね、誰にも分かるわけないんだよ。けど、本気になれたらどんな結末を迎えようと後悔はしないし、誇れるよ。だから仲良くしたい恋人やお友達には、素直に好きだって伝えたらいい。性格悪いなりに、自分が信じられるやりかたで生きてごらん。それでなくしたものは最初からなくすべきものだったんだ。大丈夫だよ、人間は神様が、笑っている人たちをたくさん見たいって思って作ったいきものなんだから」

iPodを取り出しながらそう語って、男は「以上、おっさんのありがたーい説教でございました」と締めくくった。イヤホンを耳に突っ込み、iPodの電源を入れる。会話、終了のサイン。あたしはそんな彼の動作をひとつひとつ見つめながら、立ちつくしていた。

まだ、分からないことがたくさんある。知らないことがたくさんある。納得いかないことがたくさんある。ありすぎて、ありすぎて、つぶれそうだよ、ねえちょっと。ふたたび涙がこみあげてくるのを我慢して、あたしは震える唇でゆっくりと問いかけた。

「あんたには、大切なものがあるの」

男はiPodの画面をくるくるスクロールしていた手を止めた。オアシスのアルバムのところでカーソルが静止する。

彼はしばらく無言で微動だにせず、そしてあたしの方を向いているイヤホンを片方はずそうとして、やめた。彼の口元が少しだけゆるんだような気がした。あたしは鞄の持ち手をぎゅっとつかんだ。飛行機が上空を通過してゆく。小さくてはかない黄色い光が、かすかに点滅しながら暗い空を滑空してゆく。大きなエンジン音がここまで聞こえてきて、あたしの鼓膜を優しく、残酷に犯す。

「……帰るね」

イヤホンをはずそうとしない男にしびれをきらし、そうつぶやいて半歩後ろにさがった。

この場所が死んでゆく。路地裏ごと死んでゆく。いつかあたしの知らない土地で生まれ変わって、また別の女の子を受け入れるのだろう。そうなる前にひきさがらないと、巻きこまれてしまう。そんなわけの分からない恐怖にさいなまれ、再び半歩、さがる。

そのとき、男は顔をあげてあたしにいつもの笑顔を向けた。ふわっ、と。その一瞬、こいつがようやく人間らしく見えてしまった。

彼は手をふりながら言った。

「しあわせになろう」




 おらおら走れ走れー、という先生の声にやばいと気づき、あたしはひるがえるスカートもかまわず全力疾走した。チャイムの音がきれる寸前に校門にすべりこむ。門をしめるあいさつ担当の先生に「どうしたんだ」とたずねられた。朝のさわやかな空気に似あわない、ねばっこくてねちっこくて、あんまりいい気分にはなれない声。

「峰岸が遅刻しかけるなんてめずらしい」

「いや、ちょい、寝不足気味で」

 しどろもどろになりながら答えて下駄箱のほうへ歩いた。ずるずると足をひきずるように。靴をはきかえて、教室に入る。ドアをあけた瞬間、公害級にうるさい雑談がほんの少しだけ静かになったような気がしたが、ふたたび雪崩のような騒ぎ声に上書きされて分からなかった。あたしは自分の席に座って、全力疾走で崩れた化粧をなおす。

 結局何も変わらない。クラスの女子の誰もが私をシカトするし、えっことジュリーとは絶交したっきりだし、明良は綾音とイチャついてるし。明良に近づかなくなったら、中傷メールもとだえた。だけど自分自身をふりかえってみればゆるせたし、ゆるしてもらいたいと思わなくなった。自分の最悪な性格は分かってるから。

 願わくばここには戻ってきたくなかったけれど、これでいいんだと思えたら荷が軽くなった。

 あたしの携帯には今、ほとんどデータが入っていない。写メは消したし、アドレス帳には家族関係しか残っていない。ウサギのストラップとストーンでデコった携帯ただひとつだけになった。すべてが驚きの白さに戻ってしまった今、まっさらな紙を前にあたらしいペンを買ってきて、またあたらしい絵を描くことができる。あたしは周囲の雑音や景色やありふれた日常のありふれた言葉たちを、紙のようにぐしゃぐしゃに丸めてポイしたんだとかんがえて、頬をパチンとたたいた。

 変わってしまった。だけど、変わらないものもあった。

ホームルームのあいだ、あたしは右手でくるくるとペンをまわしながら、窓の外を見た。空を見あげるなんてひさしぶりすぎて、あまりにもあっけなくスコンとぬけた青空を見るにつけ、笑顔がこぼれた。「何笑ってんだ峰岸」「なんでもございましぇーん」先生とまぬけなやりとりをする。その瞬間、ペンがくるりと、ダブルリバース。

なんでもございましぇーん。

春菜がおかしくなった、なんていう噂がたつのはそのすぐあとで、それは最大瞬間風速的にフロアじゅうにゆきわたって変人峰岸の名を欲しいままにすることになった。だけどそれによって仲よくなった人もいて、なんだかちゃんちゃらおかしくて、笑っちゃいそうになって。楽しいことがあると、笑っちゃう。

世界はそんなに単純じゃないけれど、単純なことも実はちょっとあって、それごと「単純じゃない」の図式でぜんぶまとめちゃってたことが心底おもしろくなくて。ろくなことがあったもんじゃねえなと自嘲する。

「峰岸さんって派手だし、近よりがたい感じがしてたのに。修学旅行からこっち、すごく優しい人なんだって分かった。いじめられたり無視されたりしてるみたいだけど、つらかったら言ってね。話してね。できること、なんでもするから」

高貴なフランス人形のように自分の席で硬直するだけだった美里ちゃんが、あたしの制服の裾を少しひっぱってお上品に笑う。かわいい。あきらかに違う世界の子だったけれど。彼女の頭をいいこいいこと撫でてやると、やわらかくてきれいな髪が手のひらに吸いついた。優しくなんかねえよ、まじで。そう言うと、うっそだあ、と彼女に笑われた。



六回。

あたしはその後も、あの路地裏に足を運んだ。

メアドぐらい交換しておけばよかったと後悔することはなかった。そんなツールを使って連絡がとれるような相手に見えなかったからだ。なぜか。文明とはかけはなれた場所で生きてるようなやつだったから。それどころか、今にもネコバスに乗ってどこかへ行ってしまいそうなやつだったから。

繁華街の裏手、いつもの打ちっぱなしのビルとケータイショップの間の路地裏にかけこんで、彼の姿を探した。けれど、場所ごと死んでしまったようにそこには生の気配がなくて、当然、彼もいなかった。まるでモノクロの写真を見ているかのように静止したままの路地裏。光の届かない、路地裏。

あたしのことなんだから、あたしなら何かを思い出せるはず。けれど、その時のあたしは、あたしのことを何も思い出せなかった。

夜の闇が町をつつむころ、あたしは彼の姿を見つけられずひきかえした。確かにあたしは困惑してあれこれ迷って視界が涙でにじんでいたはずだったのに、自分の見ていた景色の輪郭がはっきりしてきて、視界がクリアになった。そこにあるのはただ、自分と、それ以外。

真っ暗で汚い路地裏を歩いてゆくと、繁華街の光が少しずつ見えてきた。あたしが蹴った空き缶がまだ地面に転がっていた。壁と壁の間から少しだけ見える人の波をじっと見つめ、一瞬、進むのをためらった。黄色い光がわずかに差しこむ、ぼんやりと明るい無秩序なバックストリート。

もしかしたらあたしはここが一番呼吸しやすい場所なのかも、と思う。

あいつはいつもここにいた。ここにいて、真っ白な髪とパンクな服装で、うつろな瞳でさびしげに笑いながら、久石譲の音楽を聴いていた。そして迷いこんだあたしに向かって「やあ、こんばんは。また会えてうれしいよ」とほほ笑んでいた。

卒業が、近い。

あたしはデータがからっぽの携帯を取り出し、ウサギのストラップをさぐりあてた。ウサギの耳を指先で優しく撫でて、小さいおなかをふにふにと押す。雑踏が近くなる。けれど、音がモノクロで聞こえる。あたしの部屋の勉強机には、手紙の入った小瓶と中身の分からないMDが放り出してある。いつか埃をかぶってしまうような小瓶やMDやウサギを手に取ってしまえばそれは、確かに、あたしが知っているものになるんだ。今はそれを確信している。

あたしはここにいるから、人の目に触れずにいられることに安心するのだろうけど、ここにも光が届いていることに気づかなかった。

雑居ビルの間で汚いウサギのストラップをいとおしそうにつつくあたしを見て、通行人がクスクス笑っている。けれどあたしは気にしなかった。携帯を鞄の中に放りこんで、あたしはまぶしくて目がくらんでしまいそうな繁華街のどまんなかに、目を閉じてワンステップで飛びこんだ。

世界が、逆流をはじめていた。

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記憶の底に確かあったはず。 真朝 一 @marthamydear

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