日の一を、墨で持って記録する

 終



 はらり、ひらりと。桜が舞う。


 陽光に薄白く輝く、柔らかな花弁だ。

 無数に落ちるそれらは、まるで雨のように、しかしそれとは全く異なる不規則な軌道を描き、縦横無尽に空を踊る。


 告呂においての満開の時期は既に過ぎ、ここ最近は葉桜ばかり見ていた『花子さん』にとって、窓から見えるその景色は少しばかり鮮烈なものと映った。


『……見事なもんだ。随分と遅咲きだったみたいだね』


「…………」


 その独り言のような呟きに、彼女の前を歩く少女がチラリと目を向けた。


 桜の髪飾りをつけた、和装の少女――華宮灯桜だ。


 趣のある木造りの屋内。

 深い漆塗りの廊下を歩く彼女は、形の良い顎に指を添えほんの少し悩み、やがて溜息を一つ。

 そして横道に逸れるよう進路を変えると、一つの襖を……中庭へと続くそれを引き開けた。


『……、これは――』


 その先に広がっていたのは、今までとは比べ物にならない程に絢爛と舞う桜の嵐。

 そして――その中心に聳え立つ、一本の古大樹であった。


『は……はっは、凄いね。なんとも』


「御霊華、と言います。この華宮の家に代々伝わる象徴と言うべき神聖な櫻樹であり、一年を通して決して散る事の無い、我らの不屈の証です」


 太く、光を伴い脈動する幹に、枝先に集う桜の雲。溢れ出るのは、ただ純粋で静謐な霊力

 霊魂という存在だからこそよりよく分かる、魂の根底から吹き飛ばされそうになる程の存在感だ。


『花子さん』は無い筈の汗腺から冷や汗が垂れる錯覚を覚えつつ、引きつった笑みを浮かべた。


 ――『花子さん』は今、己にとっての敵地たる華宮の本家に連れて来られていた。


 少年とポンコツな手帳は無く、一人きり。

 何時燃やされるかも分からない、恐怖と不安の付きまとう訪問であったが――しかし、怯える事はない。

 何故ならば、これは必要な事なのだ。

 己が見守りたいと願う少年にとって、手帳にとって。そして何より、自分にとっても。


《……だから、もうちっと頑張れって。アタシよ》


 胸裏でそう呟き、もうする意味のない深呼吸を一つ。

 何時ものように気怠げに腕を組み、こちらを見定める灯桜に対して小馬鹿にした表情を取り繕う。

 情けない姿を見せる生徒は、彼が最後と決めていた。


『この前、火種に使ってた押し花の栞。あれ、もしかしてこの花弁かい?』


「……ええ。桜の字を持つ私にとって、御霊華ほど相性の良いものもありませんので」


 そしてその態度は、この賢しい少女の御眼鏡に何かしら適ったようだ。

『花子さん』へと薄く微笑み、元来た道先へと戻っていく。先程よりも少しだけ、歩みの速度を遅くして。


「……ここです。貴女に言うべき事では無いのでしょうが、どうか失礼のないように」


 灯桜はやがてとある襖の手前で止まり、『花子さん』をその先へと促した。


『ああ。ありがとうね、こんな機会くれて』


「いえ。……そうした方が私達にとって善いと、判断したまでですから」


『だからさ。本当に、ありがとう』


 本心からの礼を受け、灯桜は僅かに頬を染め……それを察知される事を嫌ったのか、手早く一礼すると身を翻し去って行く。

 そんな可愛げのある様子に『花子さん』は口の端を上げ――数瞬の躊躇いの後、静かに襖を引き開けた。


『――……』


 煙草の香りが僅かに残る、広い和室。その中央には、一つの影が座している。

 灯桜とよく似た顔と、勝ち気な目つき。

 記憶にあった姿よりも幾分年は重ねていたが、ああ、忘れる筈が無い。二度も忘れてなるものか。


 ――呼ぶべきその名を隠す黒は、既に拭い払われているのだから。



『……久しぶり。随分と擦れたね、明梅』


「はは。湯ヶ谷先生も、酷い顔してるよ」



 華宮明梅と、『花子さん』――湯ヶ谷響子。

 かつての教師と教え子は、互いに泣きそうな顔で、笑った。





「なぁ、お前放課後暇か?」


 五月。

 春も半ばを過ぎ、梅雨の足音が聞こえる季節。


 教室で読書を楽しんでいた僕は、後ろから投げかけられた声により物語の世界から引き戻された。

 若干の苛立ちを感じつつ振り返ると、目に飛び込むのは茶髪とピアス。

 校則をこれでもかと言うくらいに無視をした、クラスメイトの星野君だった。


「……えっと、何かあるの?」


「や、今日学校終わったらさぁ、まーた皆でカラオケ行こうかなって話になったんよ。今日こそ行こうぜ、お前も」


 ニカっと屈託ない笑みで指差す先には、クラスメイト達が楽しそうに駄弁っていた。あの輪に僕も加われと言う事らしい。


「……カラオケって、大通りの?」


「おー、いやあそこ使い勝手良いわ。綺麗だし店員さん美人だし、あと持ち込みもある程度許してくれるしな」


「へぇ」


 気のない返事をしながら、思案する素振りをする。

 まぁ答えは既に決まっている。会話を楽しむ気も無い為、引き伸ばしはしない。


「悪いけど、遠慮しとくよ。今日は放課後にちょっと人と会う約束があってさ」


「そーなん? じゃあ仕方ねーか……って何か前もそんな事言わなかったか?」


「言ったよ。約束のある日に限って誘ってくる君が悪い」


 訝しむ様子の星野君にそう返すと、彼は面食らった様子で目を丸くして――やがて吹き出し、誠意の欠片も無い謝罪をした。


「ハハ、わりーわりー。んじゃまぁしゃーねーからまた今度誘うわ。ちっと番号教えろよ」


「…………」


 携帯電話。番号。

 ズキリと心が痛み、目元がヒクつく。


「……どした?」


「いや、何でも。携帯電話なら一応持ってるけど、つい数日前買ったばかりだから操作の仕方が分からないんだよね」


「ジジババかって。ちっくら貸してみ……うわ、三件しか登録されてねぇ」


 うるせぇ悪いか。

 星野君はひったくるように携帯電話を奪うと、何かしら操作を施しすぐに返却した。

 画面を見ると彼の番号らしき文字列が表示されている。


 よくあんな速度で操作出来るものだ。

 尊敬にも似た感心をする内に、彼は座っていた机から離れ歩き出す。


「ま、そんじゃ戻るわ。またなぁ」


「うん。番号ありがとう」


 ひらひらと手を振る彼の後ろ姿を、こちらも手を振って見送った。


「…………」


 ……彼が一歩足を進める度に、腰元からまろび出たシャツの裾が動物の尻尾の様に揺れている。

 今すぐ駆け寄ってズボンの中に突っ込んでやりたい衝動に駆られたが、勿論実行に移すなんて事はしない。

 しない、けれども。


「――そうだ、星野君。シャツは入れた方がもっと格好良くなると思うよ」


 ……何気ない、指摘の言葉。

 星野君は一瞬きょとんとした後、理解が及んだのか頷きながら、思いの外素直に身支度を正した。

 そしてきっちりベルトまで締め直し、何やらシャッキーンとでも擬音が付きそうなポーズを決めて僕を見る。


 ――どうよ?


 ――うん、イケメン。


 お互い無言のままに通じ合い、笑みと共にどちらからとも無くサムズアップ。

 隣席の十さんがそんな僕らを見て、生暖かい笑顔を浮かべていた。





 ――私の一存では決めかねます。数日、家の方と相談させて下さい。


 今となっては数日前。

 命を懸けた鬼ごっこを繰り広げたあの日に少女から下った判決は、そんな曖昧な物だった。


「ああ、ご学業お疲れ様です。いやはやこうして見ると絵に描いたような優等生ですねぇ、君」


「……どうも」


 本日の授業を終え、迎えた放課後。

 学校の校門から出た僕を待っていたのは、スーツ姿の胡散臭い笑顔だった。


 水端冬樹。

 例のあの日、共に全力の追いかけっこを楽しんだキツネ目の男である。


 僕の監視任務も請け負っているのか、ここ数日ストーキングされている。

 最も、僕ごときがそうと分かっているという事は、監視よりも抑止力の意味合いが大きのかもしれないけれど。


「部活、やってないんですか? この学校って何かで全国行ってましたよね?」


「いや、そういうの興味ないんで……」


「あらそうなんですか、お若いのに勿体無い」


 何がおかしいのか、ヘラリと笑う。

 どうも僕はこの人が苦手だ。

 同族嫌悪と言うべきか、自分の大人となった姿を見ているような気がして何となく落ち着かない。

 そっと目を逸らしつつ、本題を促した。


「……あの、わざわざ待ってたって事は、結果か何かが出たって事ですか」


「お話が早いですネェ。華宮家の方でとりあえず一先ずの結論が出たという事なんで、その案内に参りました。行ってくれますか、怪談師どの?」


「やめてくれませんか、その呼び方」


「本職の方々とは多少趣が異なりますが、なかなかピッタリだと思うんですがねぇ。ま、こっちでーす」


 バカにしとんのかこいつは。軽く苛つきつつ、その背に従い道を行く。

 このまま華宮の家に向かうのかとも思ったが、僕のような存在を迎え入れるのは絶対に避けたいそうで、近所の公園を使う心積もりらしい。

 僕としても敵地の真ん中に突っ込む勇気は無かったので、ありがたくはあった。


(……大丈夫、だよな)


 ちらり。右手首に貼り付けられた栞を見る。

 礼のあの日の最後に投げつけられたそれは、華宮の結論が出るまでの数日間、僕がめいこさんを使わないように戒める封印具の様なものだ。


 何でも霊力を封じると同時、華宮の意思一つで僕の右手は焼け落ちるそうな。

 華宮がめいこさんを所持できず、また彼女自身が僕から離れたがらなかった為に仕方のない措置ではあるが、おっかない話である。


(……今手首が燃えてないって事は、少しは良い結果になったのかな)


 そうであって欲しいと願いつつ、ポケットの中のめいこさんに指を這わせる。


 ――ごめんなさい。

 そんな声が右眼に響いた気がして、別にいいよと口の中で呟いた。





『お、来た来た。アタシが居なくても元気してたかい?』


 公園には、少女の他に花子さんが待っていた。

 念には念を入れてめいこさんを使用不可にしたいという事で、彼女は華宮が管理するという形をとっていたのだ。

 連れて行かれた時は不安だったが、特に何をされた様子は無いようだ。

 それ所か何故か憂鬱が晴れたかのような爽やかさを伴っていて、こっそり安堵の息を吐く。

 ……大分重くなってるな、僕。


「どうも、大凡三日ぶりと言った所でしょうか」


 それはともかく、件の少女。

 歌倉女学院の制服を身に纏った彼女は、相変わらずお硬い雰囲気を湛えつつ静かにそこに佇んでいた。

 常に和服でいるイメージがあり分からなかったが、こうして見ると歳相応の幼さがあると分かる。

 そのギャップにやられ、ほんの一瞬目を奪われた。


「思えば、まだ自己紹介もしていませんでしたね。奉納六家が一、華宮の灯桜と申します。以後、よろしくお願い致します」


 ……専門用語を使われても、上手く耳に入って来ないんだけどな。

 鼻白みつつ軽く頭を下げると――こちらもまた己の名を口にした。


「――……日墨、録一」


 彼女は僕より年上だと思うのだが、何故か敬語を使う気にはなれなかった。

 まぁこれまでもそうだったのだし、本人も冬樹さんも咎めてこないのだから別に良いのだろう。多分。


「……日の一を、墨を持って記録する。成程、怪異法録にお似合いの名と言える」


「褒めてんのかな、それ……、っと?」


 その時、丁度ポケットでめいこさんが揺れ、その存在を主張した。

 とりあえず引っ張りだして見てみれば。


『あなたのなまえ、わたしとお似合い。きろくしました、であります。えへへ』


「…………」


 無言で閉じた。さておき。


「では早速ですが、貴方の処遇についてお話させて頂きます」


「……うん」


 髪飾りの少女――灯桜は澄ました顔で咳払いすると、改めて居住まいを正しこちらを見る。

 鬼が出るか蛇が出るか……とはちょっと違うか。めいこさんを胸に抱き、緊張に耐える。

 ……肩に置かれる花子さんの手が、少しだけありがたかった。


「――家が出した結論としましては、貴方と花子様、そして怪異法録の全ては、私達が保護するという形になりました。

 貴方の求め通りとは行きませんが、概ねそちらの意志に沿う物となったのではないでしょうか」


「――……っ」


 それを聞いた瞬間、全身から力が抜けそうになった。

 しかし崩れそうになる膝を必死に支え、持ち堪える。

 まだだ。まだ、完全に安心する事は出来ない。


「……概ね、っていうのは?」


「どうしても貴方の要求に反してしまう事が二つあります。まず、記憶の消去に関する事」


「!」


 咄嗟に身構え逃走姿勢を取ったが、剣呑な雰囲気は無い事に気づき、ゆっくりと姿勢を戻す。

 アンタは野生の仔リスかい、背後でそんな声が聞こえた。


「貴方の事ではありません。貴方に関わりのある一部の者――桜田竜之進及び、山原浩史と井川健介の家族に対し、私達は記憶の処理を行いました」


「……え?」


「桜田竜之進に対しては、あの夜から遡り貴方に関する記憶を消去。被害者家族に対しては子が行方不明という事実を心の奥底まで刷り込み、それを矛盾なく認識させた……という事です」


 それはつまり、リュウ君や藤史さんに贖罪する機会が失われたと同義であった。

 呆気にとられる僕の間抜け面を見て、灯桜が静かに目を伏せる。


「……子を愛する親の想い。行方不明という扱いでは絶対に得心が行かず、深い執念で原因となった怪異の存在へと辿り着いてしまうかもしれない」


「この場合は怪談師くんですね。そして怪異を知った親が、その力に縋り復讐する……これ結構ポピュラーな話で、ほっとくと二次被害が出るんですよ」


 だからこそ記憶を弄り遺族達を無理矢理納得させ、その芽を摘んだという。

 言いようのない感情が渦巻くが、彼女達の判断ならば何も言う資格なんて無い。


(……ッ)


 ――これで藤史さんに告解せずに済む。

 リュウ君との縁が切れた事より、遺族達の悲しみの事より、何よりも先にそう安心してしまった自分が、吐き気を催すほどに醜い。


「よって、貴方には今後一切、山原・井川両家への接触を禁じます。術も絶対の物ではありませんので、無駄な刺激は控えた方が良いでしょうから」


「……リュウ君の、方は?」


「人質に取ったという事実を思い出されたいのならば止めはしませんが、今行っても不審者扱いされるだけではないでしょうか」


 罪悪感と安堵がぐるぐると回り、どうしようもなくなった。

 うまく者が考えられなくなって、気付けば地面を見つめていた。



「そして次は、もう一つの怪異法録の説に関する事」


「……うん」


 来た。下がった首を持ち上げる。

 思い悩むのは、全部終わってからでいい。


「貴方が話してくれた情報と推察は破綻が少なく、何よりこの地における覚り妖怪討伐の記録もしっかり残っていた為、一定の説得力のあるものでした。おかげで家の者達が揉めに揉め……」


『ああ、隔離されてた部屋からも怒鳴り声が聞こえてきたよ。相当やり合ってたみたいだね』


「……けほけほ」


 灯桜が咳払いで誤魔化した。

 何やら火種を投げ込んでしまったようで、ちょっと気まずい。


「ともかくこれでは埒が明かないと見ましたので、貴方の別の発言を頼る事にしました」


「えっと……何だっけ」


「貴方が見たという夢の話と、引きずり込まれた森中にあったという地下室の扉――査山と関連があると思しき、あの場所です」


「ああ……」


 あの日灯桜達との決着が付いてから、僕は知っている情報を洗いざらい吐かされた。

 思い出せば、確かにそれらの事も話した気がする。


「いやぁ、苦労したみたいですよ。何せ私達、君と違ってあの森から嫌われてまして、入ったら即アウトですから」


「しかし、ごく短時間であれば、僅かに呪いを弾く事も可能です。そして貴方の示した場所に、地下室への入り口を確認しました」


 何でも草むらに僕の吐瀉物の付いた石扉が打ち捨てられており、その近くの地面にぽっかりと穴が開いていたそうだ。

 そうして彼女達はその中に入り、時間の許す限りの調査をしたそうで――。


「……?」


 むくりと、胸中に疑問が湧き上がる。

 気の所為だろうか、僕の記憶が正しければ、その地下室は。


「……おかしいな。僕、扉開けてない……」


「――なんですって?」


 独り言のようにそう呟いた瞬間、灯桜から苛烈な視線を向けられ、思わず一、二歩たじろいだ。


「え……な、何だよ、いきなり」


「答えて下さい。貴方はあの地下室に足を踏み入れていない――本当に、間違いなく?」


「う、うん。あの時は色々ありすぎて自棄っぱちみたくなってて、リュウ君を人質に取る作戦を思い付いた後、すぐ行動に移したから……」


 彼女は探るような視線で僕を射抜いていたが、やがて信じてくれたのか静かに目を閉じる。

 そして眉間に深い溝を作りつつ、大きく息を吐いた。


「あの、何か問題あったの?」


「……私達が調べた地下室は、酷い有様でした。大半が風化していたとはいえ、部屋の中央にある祭壇を中心に血痕らしきものが広く飛び散り、カビと埃も混じってそれはもう……」


(……夢と、同じか)


 やはり、夢の記憶で見た部屋はあそこだったのだろう。


 その場所で老人は死体の少女を切り刻み、めいこさんを――怪異法録の雛形を作り上げたのだ。

 あの凄惨な光景が脳裏をよぎり、咄嗟に口元を抑える。


「しかしそのような中で妙な痕跡がありました。ある床の一部分だけが、妙な空白を晒していたのです」


「……血が飛び散った後、何かが持ち去られた、って?」


「ええ。それも、あまり遠くない時期に」


 それを聞いて、先程の視線の意味を察した。

 何かを持ち去っていたのは僕ではないかと疑っていたのだ、彼女は。


「い、いや、待って。信じられないかもしれないけど僕じゃない。大体、あんな重そうな扉がこの枯れ枝みたいな腕でどうにかなるとでも……!」


「ええ、それは今確信しました。何か悪意や後ろめたい事があれば、その手首の栞が反応している筈ですから」


 つまり僕の右手が燃えていたらアウトだったと。恐ろしい話だと右手を擦る。


 ……では、それなら一体誰が持ち去ったのか。

 それだけじゃない、そもそも僕をあの場所まで引きずったのは誰か、あの時見た白い物は何だったのか――。


「――…………」


 ゆっくりと。公園の外にある雑木林を見る。


 僕の健常な左眼に見えるのは、何の変哲も無い木々の群れ。

 青い葉が、風に吹かれて揺れていた。


「ともかく、その場所からは査山鉄斎が記したと思われる多くの資料も見つかり、貴方の話は大筋において真実の可能性が高いと証明されたのです。けれど……」


「まぁ、分かるよ。それが新しい疑いとなったんだろ」


「……はい。持ち去られた何かは、空白のサイズから察するに、押収した資料と同じ、大判書籍ほどの物であると予想できました。家の中ではそれこそが本物の怪異法録であり、貴方がこちらを出し抜く為に隠したのだという意見もあります」


「大体押収した資料も子供の落書きみたいにぐちゃぐちゃな文字で、まだ殆ど解読できてませんからネ。誠と示すモノは幾らでも、されど疑わしきも幾らでも、と」


「……そんなんでよく保護なんて結論出せたね」


 当然といえば当然の疑惑。

 何故僕の要望が概ね聞き届けられたのか、不思議でならない。


「その辺りは私の母の意向です。何でも、過去の清算の一つなのだとか」


『…………』


 灯桜はそこで静かに目を瞑っている花子さんを一瞥する。

 どうして――と思いかけ、気付く。そういえば、彼女と灯桜の母親は、確か。


(……なるほど)


 この妙にこちらに配慮された処遇や、花子さんのどこか吹っ切れた表情の理由。

 その裏を僅かながらに察し、頭を下げた。


 灯桜はそんな僕を他所に胸元から小包を取り出し、中から薄い何かを摘み取る。

 それはとても綺麗な桜の花弁、少々時期の外れた春の象徴であった。


「とはいえ、やはり疑いのある貴方を首輪も無く放つ訳には行かず……保護扱いにするに当たり、これを呑んで頂く事が条件として課せられました」


「それは?」


「御霊華の欠片。これを取り込む事で私の霊力が貴方の魂へ同調し、私の意思一つで何時でも貴方の処分が可能となります」


「…………」


 花弁を呑むという行為。

 思い出すのは夢の光景。喜々として花弁を呑み込み、そして死んだ少女の……生きていた頃のめいこさんの姿。


 ……そうして恐る恐ると灯桜を見る僕の視線は、どれ程情けない物であっただろう。

 それを受けた彼女も、流石に困ったように眉を下げた。


「あの……誤解はしないで欲しいのですが、貴方の保護という結論は本当です。しかし……」


「……わかってるよ。疑ってる奴を警戒するのは当たり前だ、それがあんたらにとっての宿敵なら、尚更」


 震える声を押し殺し、花弁を受け取ろうとするも、中々手が伸びない。

 当たり前だ、自分を殺す可能性を迷いなく手に取れる奴なんて居るものか。

 それは理屈云々ではなく、生存本能から来る忌避感だ。けれど。


『――――』


 かさりと、胸の中でめいこさんが揺れる。

 それは僕の背を押しているようにも、手を抑え首を振っているようにも感じられた。


 いや。それだけじゃない。

 花子さんも、灯桜も、水端も――そして『彼』も。皆が皆、僕の選択を注視しているのだ。


(……上等だ)


 罠だろうが何だろうが、そうなった時はその時だ。

 僕は静かに花弁を摘むと、一思いに口内へと放り込む。

 香りや味は無く、すぐに舌を滑り喉奥へと張り付いた。


 途端、走馬灯のように幾百幾千の記憶が蘇る。

 辛かった事や嬉しかった事、数多の過去が僕の裡を流れ――最後に、一つの疑問が浮き上がった。



 ――これで、良かったのか?



「――……」


 見る。

 先ほど目を向けた雑木林。


 そこに立つ、何か――そう、『大判書籍のような物』を携えた一人の老人。


 灯桜や花子さんも彼に気付かず、だからこそ何も言えなかった。

 もしかしたら、本当に幻覚なのかもしれない。


 僕の右眼だけに映る老獪は、深い傷跡の残る禿頭を皺で歪め、激情の陰影を刻んでいる。

 それは憤怒、或いは狂喜。どちらとも判別の付かない、おぞましい物だ。



「   ――  ……ぃ    あぁ、  」



 いつか聞いた筈のその言葉は、やはり聞き取れなかった。


 僕が華宮に下った事を責めているかとも思ったけれど、そうじゃない。

 きっと全ては些末事なのだ。

 彼にとって大切なのは、怪異法録の―ーめいこさんの存続だけ。


 僕のような木っ端や、もしかしたら華宮達だって。

 誰が何をしようとも、彼の心は微塵も揺れないのだろう。


 ……だけど。


(――あんたは、僕を助けてくれた)


 冬樹さんから逃げていた時、森に引っ張り手助けをしてくれたのは、おそらく彼だ。

 それは、少なからず老人の望む道を進んでいるという事なのか?

 僕の行動は、選択は。彼の目的に――めいこさんを存在させ続けるという結果に繋がっている、という事なのか?


(…………)


 見る。

 白衣姿の老人は狂った表情のまま霞と消えた。後にはもう、何も無い。


 結局何一つとして伝えてくれはしなかったけど――間違っているともまた、言わなかったのだ。


(……やる、やるよ。これで良いのなら、良い、僕がやってやる……)


 心中で呟いたその返答は独り善がりで、きっと的外れな物だろう。

 だけど新たな約束を得た事で、先の疑問は肯定へと変わった。

 最後の躊躇を捨て去って。大きく喉を鳴らし、喉に張り付いた花弁を嚥下する。


 ――華炎と、情動。胸の奥から昇る熱は、果たしてどちらによる物か。


 僕は強く目を瞑り、抱く彼女に力を込めた。

                                                           


 了

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