十頁 墨と華



『……え……?』


 カサリ、と。

 手元で揺れた手帳に、小さな声が記された。


「……どういう事ですか。その手帳が、偽物だとでも……?」


「ある意味ではそう……なのかな。完全に纏まってる訳じゃないんだ、僕も」


 確証は無い。

 しかし例の夢や調べた情報、これまでに見知った全てを合わせると、そうとしか思えないのもまた事実。


「あんたらは知らないだろうが、めいこさんには過去の所有者の軌跡……その全てが記載されてない。それは人間で言えば、記憶を失っているとも表現できる」


 今なら分かる。

 以前彼女がよく言っていた『その情報は本書に記載されておりません』という一文。

 あれは仕様や不親切さから来る物では無く、記憶喪失であるという自己申告でもあったのだ。


「多分、めいこさんと花子さんに起きた事は根本的に同じなんだ。どっちも過去にあんたらが言う所の浄化ってやつで燃やされて、けれど解放されないまま、記憶だけを失い復元され続けている……」


「……確かに要素だけを見ればそうでしょう。ですが書物は書物、人ではない」


「じゃあ、人間なんだよ。めいこさんは」


 少女達が訝しげな表情を浮かべるが、残念ながらその事実は証明する手立てが今は無かった。

 故に、努めて無視するしか無く。


「そもそも彼女に限っては、何回も焼かれて復活する所か存在からしておかしいんだ。怪異法録の怪談はめいこさんの中に記載されてないんだから、再現される条件も何も無い筈なのに、ここにある」


「いいえ、呪いや怨念というのはそういう物です。理屈や道理など無視し、ただ強い執念により発生する」


「めいこさんはしっかり手順を踏んで僕の下に来たんだ。オカルトなんて時点で大概に滅茶苦茶だけど、それでも前提の理屈と道理は守ってる。それが矛盾を示しているにもかかわらずさ」


 思い出すのは、かつて見た花子さんと保険医の記憶。

 その中で彼は生前の彼女の抵抗に遭い、血飛沫を己の情念を綴ったノートに飛び散らせていた。

 そして直後に一線を越え、ノートは怪異法録へと生まれ変わった……。


 おそらく、それが怪異法録という怪談の再現条件だったのだ。


 文章にするならば、『己の濃い念を綴った書物に、血液を垂らす』とでも言ったところか。

 そうとするならば、道理だけは通る。

 僕もまた、元の手帳に鼻血を垂らす事で確かにそれを満たしているのだから。


「……僕はこれまで、怨念に塗れた幽霊を二人見たよ。どっちも黒い泥を吐いて、僕を殺そうとして、狂ってるって表現がピッタリの有様だった」


 視界の端で、花子さんが小さく俯く。


「でも、めいこさんはそれとはまるで違う。現れた当初から今に至るまで……まぁ、色々変わっちゃったけど、怨念なんて言葉とは全く無縁だ」


 触れ合えば、霊力から来る寒気は奔る。でも、悪意を感じた事は一度だって無い。

 僕は赤い革表紙を一撫でし、中身を見せつけるように少女へと開く。


『え、ええっと。わたしは、本書ではない? ではわたしは、なにものなので、あっ、にせもの? いやそんなばかな、むーん、わけがわからない、およよ』


「……何時もこんなだよ。コイツ」


「…………」


 ユルユルで能天気な文章を見た少女は、ついっと静かに視線を外した。

 彼女も、怨念だの執念だのは無理があると思ったらしい。


「怨念を持たないのならば、他に要因がある筈だ。彼女が現実にここにあるのなら、それを成す為の理屈と道理が、絶対に」


「……それが、もう一つの怪異法録だと?」


「ああ、そう考えれば全部纏まる。めいこさんに自身の記憶が無い事も、何度焼かれても復活する理由も。僕が見たあの記憶の理由だって、全部……!」


 熱に浮かされたように舌がよく回り、記憶の奔流が脳裏を灼いた。

 それは少し前にも見た、色あせた老人の記憶。


 彼が幼い少女を拾った日。

 彼女と暮らす穏やかな日々。

 彼女を失い、その焦げ粕を胸に抱いての慟哭。

 憎しみに狂い果て、その死体を分解し書物へ作り変える惨劇。



 そして――怪異法録と書かれた書物に血が飛び散った、あの一瞬。



 老人の怨念を含んだ死体がめいこさんの雛形となり、怪談の、怪異の呼び水として完成したあの瞬間。

 同じ時間、同じ場所で、正に条件を満たした可能性を持つ書物があったではないか。

 そう、それだ。それこそが、きっと設計図。



「――この街には、あと一つ。めいこさんとは別に、『怪異法録』という怪談を記した、最初の怪異法録があるんだ……!」



 ――そしてその怪談には、ある妖怪の欠片が封入されている筈だ。


 騙され焼かれ、何も分からぬまま殺された覚り妖怪の霊魂。その焦げ粕。

 怪談の再現という能力は副次的効果に過ぎない。それに伴い行われる魂の復元という現象こそが本命。


 花子さんが焼かれた記憶を、失った霊魂としての存在を取り戻したように。

 このシステムを作った者は、幾度も繰り返される『怪異法録』の再現の中で、長い永い……それこそ気が遠くなるような時間をかけて、愛しき彼女の霊魂が完全に復元される時を待っている――。


「…………」


「…………」


 痛いほどの静寂。

 単なる素人の妄言と言えばそれまでであり、すぐに火か反論が飛んでくるとも思っていた。

 しかしそれも無く、ただ虫の鳴き声が微かに響き続けるのみ。

 そうして嫌な緊張感に耐えていると、やがて少女が静かに口を開いた。


「……率直に、言って」


「……?」


「貴方の言う事を全て信じる事は……出来ません。もう一冊の怪異法録など、与太話にすぎる」


 ……まぁ、当然だろう。僕だって逆の立場であれば必死に穴を探している。

 彼女を見据え、首肯を一つ。


「でも、全部がデタラメだとも思ってないんだろ。ちゃんと反論しないのは、そういう事なんだ」


「それはっ……甚だ遺憾ではありますが、認めます。ですがやはり、私は……」


 少女は眉を顰め、深く深く思考する。

 きっとその胸中には、僕の及びもつかない様々な物が渦巻いているのだろう。


 お硬いな、と彼女を責める事は出来ない。

 実際世間にとってめいこさん――怪異法録とは害以外の何物でもなく、関わった者はその多くが取り返しのつかない事になっている。

 僕も、めいこさんも、花子さんも。本当ならここに立っている事すらおこがましい。


(……だったら……)


 全力で逃げ、全力で立ち向かい、全力で説き伏せた。

 倫理観や良心を殺し、優等生で居る事に必要な殆どの事をぶん投げ、ただ華宮達を凌ぐ事だけを考えていた。


 だったら今更躊躇する事も無い。

 僕はすぐさま地面に膝を付き――心中で暴れるプライドを下唇ごと噛み切って、勢い良く額を接地させる。



 ――土下座。世にも情けない負けの姿勢を、負けない為に取ったのだ。



「……貴方は……」


「――頼むよ。最初に言った贖罪したいって言葉、あれは誤魔化しでも何でもない本心なんだ」


 少女が困惑した声を上げるが、顔は見えない。目に映るのは地面の黒だけだ。

 ……土下座なんて、山原にだってした事無かったのに。

 手酷い敗北感が去来し、心に隙間風が差し込んでくる気さえする。


「服役しろって言うならするし、罰が下るならそれも受ける。怪談に囚われた霊魂を全部解放したいのなら、全面的に協力もする。だから、僕達を僕達のままで居させてくれ……!」


『……アタシからも、頼む。許してやってくれとは言わない、ただ、謝らせてやっておくれよ』


『えっ、あ、わ、わたしも。わたしからも、お願い、しますっ』


「…………」


 すぐ隣で花子さんが頭を下げる気配がした。

 同時に握ったままのめいこさんもカサカサと自己主張していたが、決して顔は上げない。


「僕はこのまま、犯罪者のままで終わるのは嫌だ。ちゃんとやった事を覚えて、贖罪と約束を果たしたい。そうじゃないと、顔向け出来ないから」


「……誰に対して、ですか」


「花子さん、めいこさん、殺した二人、優等生の僕と……そして――」


 ……その先は、声に出なかった。

 思い出すのは、小さい頃から僕を褒めてくれていた温かい声。

 今の僕の芯ともなっている、たった一言。



 ――ろくちゃんは、良い子だねぇ……。



「……顔を、上げてください」


 はぁ、と。溜息を吐く音が聞こえた。

 恐る恐る顔を上げれば、見えたのは厳しさのある双眸。よくよく見れば迷いの光が揺らめいており、僕の心を不安で炙った。


「…………」


 しかしそれもすぐに消え、少女は静かにこちらへと歩み寄る。

 僕として生きるか、それとも死ぬか。今が判決の時だ。


 緊張に身が震え、取り繕った仮面がボロボロと剥がれ落ちていく。

 息苦しい。動機が荒い。

 そんな一杯一杯の僕の眼前に立った彼女は、袖口から栞を一枚取り出して、


 ――そして一瞬の躊躇の後、僕めがけ、それを投げ放った。


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