珈琲は月の下で

新巻へもん

I love you.

「若。こちらでよろしいので?」

「ああ」

「少々お寒くはございませんか」

「まあな」


 丘の中腹に建つ洋館のテラスからは変貌目まぐるしい神戸港が一望できた。夜半を過ぎたというのに居留地にはまだ明かりが灯っている。赤松平四郎が振り返ると頭に白い物が混じり始めた初老の男が一分の隙も無い姿で一礼した。黒のズボンに白いシャツ、黒のベスト姿で佇立している。再び手すりに寄りかかった平四郎は感嘆の声を上げた。


「見ろよ。鉄心。これだけ厚く雲が出て月を隠しているのになんと眩しいことか。これが文明開化というやつなんだろうな。これからは夜の闇に怯えることもなくなるだろう。素晴らしいことではないか」

 すぐ側までやってきた鉄心は薄く笑って一礼する。


「若。海の彼方からやってくるものは良いものばかりではないでしょう」

「ああ。そうだな」

「時はまさに神無月。いにしえの神々の居ぬ間に不埒な真似をする輩も出てまいりましょう」


 平四郎は夜空を見上げる。

「まあ、この分では大丈夫かな。あいにくと満月は楽しめぬがそれも……」

「ミス・クリステアは今宵は晴れると仰っておられたと存じますが?」

「ふむ。まあ、支度だけは頼む」

「畏まりました」


 鉄心が一礼して館の中に消えた後も、平四郎は和田岬の灯台からの光が明滅する様を飽きもせず見ていた。気配を感じて振り返れば、館から洩れる光の中に金髪碧眼の美女が立っている。ソフィア・クリステアだった。体の線も露わな騎乗服の腰の左右には細身の剣と拳銃を下げている。


「ハロー」

 ブーツの音をさせながら、美女は平四郎の側に寄った。

「ミスターアークマック。待たせたな。でかけよう」

 ソフィアはアカマツと発音できないのでアークマックと呼んでいた。


「それほど急がなくても、珈琲を1杯飲む時間ぐらいあるだろう? 今夜は寒い」

「気遣いは無用だ。それよりも嫌な予感がする。早く出かけたい」

 平四郎はやれやれという表情をすると屋敷内の鉄心に合図を送り身支度をした。ソフィアはテラスに面した木戸のところまで行き、そこで振り返るとイライラとした表情を見せる。


 少し離れたところまで歩いていくとつないでおいた2頭の馬のうちの1頭にソフィアはひらりとまたがる。平四郎ももう1頭の鞍の上に収まった。ソフィアは手綱さばきも見事に馬を走らせ始める。厚く覆っていた雲が晴れて、大きな満月が出ていた。湊川の支流にそって半刻ほど走ると下谷村に出る。


 下谷村近辺ではこの1年ばかりの間に村人や杣人が惨殺される事件が相次いでいた。事件が起きるのは決まって満月の夜。今ではこの近隣の住民は怯えてしまって固く戸締りをして外に出なくなってしまっている。


 平四郎は禰宜の家に生まれたにも関わらず、尊王攘夷の思想に触れて、倒幕活動にのめり込んだ変わり者。鳥羽伏見の戦いにも参加し、明治維新後は神戸の高台に居を構えて悠々自適の生活を送っている。その平四郎のもとをソフィアが訪ねてきたのは半年ほど前のことだった。


 ソフィアは兵庫県知事からの紹介状を示し助力を頼んできたのだった。頼みの内容は兄の敵である怪物を倒すのに手を貸して欲しいというもの。

「ミスターアークマックはシビルウォーの英雄で、この国のモンスターにも詳しいと聞く。ぜひ協力してほしい」


 誘い出された居留地のキャフェで真剣な表情で頭を下げるソフィアへ平四郎は快諾した。あまりに簡単に承諾したことに拍子抜けしたソフィアが怪訝そうな顔をすると平四郎は条件を出した。

「ここの珈琲は実に深い。いくらか豆を融通頂けるだろうか?」

 すっかり西洋の文物に魅了されていた平四郎は、身の回りの世話をする鉄心に命じて珈琲の淹れ方を学ばせていたのだった。


 ソフィアが言うには怪物は満月の夜に出て、野山をさまよい歩き人を襲うという。倒すには銀の武器で傷つける必要があった。1月おきに夜になると出かける回数が増えていくにつれて、平四郎とソフィアは急速に親密になっていく。もっともそれは強敵に立ち向かう僚友のものであるはずだった。


 街道を外れて杣道を駆け上っていく。不意に前方で狼を思わせる遠吠えが響き渡る。

「奴だ。気を抜くなよ」

 2人が葉を落とした木々の中を駆けて行くと木の陰からさっと何かが躍り出て、ソフィアの乗った馬に飛びかかる。


 ブシャッと辺り一面に血がまき散らされた。馬の首から上が無くなっている。脚を跳ね上げもがきながら馬は地面に倒れた。その上に仁王立ちした何かが再び咆哮をあげる。身の丈6尺あまりもあろうかという全身を毛におおわれた大男だった。普通の男と異なるのは首から上が狼になっている。


 とっさに馬から飛び降りて難をかわしたソフィアが地面から起き上がった。落ちた時に足をひねったのか少し片足を引きずっている。平四郎も馬から飛び降りると影のように走った。ソフィアに狙いを定めて跳躍しようとしていた怪物は突っ込んできた平四郎に向かって目にもとまらぬ速さで駆け寄る。


 さっと突き出した腕の大きな爪が平四郎の腹を貫いた。

「マック!」

 ソフィアの悲鳴があがったとたんに平四郎の姿はかき消えて、白い人型の紙が残される。怪物は爪を紙から引き抜くと怒りにまかせてバラバラに引き裂いた。


 血走った目が消えた獲物を求めて周囲を見回す。背後の地面にうずくまった平四郎が月明かりでできた怪物の影を手にした小刀で刺した。

「今だ。撃て!」

 平四郎の声にソフィアはウェブリーを構えると引き金を引く。


 怪物は跳んで避けようとしたが足が地面に縫い付けられたように動かない。弾は怪物の腹に命中した。怒りの叫びをあげる怪物の目の前を無数の蛾が飛び回る。怒りの叫び声をあげる怪物が両腕を振り回すとポトリポトリと落ちた蛾は白い紙に戻った。蛾に気を取られる背後にソフィアが回り、引き抜いたレイピアを折れよとばかりに筋骨たくましい怪物の背中に突き刺す。


 細い刃が体を貫き左胸から飛び出す。ガアアッと叫び声をあげた怪物は急速に動きが遅くなりやがてばたりと地面に倒れた。立ち上がった平四郎と荒い息をするソフィアの前で怪物は姿を変えていき、1人の男の姿をとる。2・3度けいれんすると男は動かなくなった。


 枯れ葉を集めてきた平四郎が男と馬の亡骸に火を点け、祝詞をあげて哀れな魂を送り出す。火が消えると生き残った馬を呼び寄せた。ソフィアだけを騎乗させようとしたが、帰りが遅くなるよりはいいと勧めるので、平四郎はソフィアの後ろに座る。長い金髪が月明かりに揺れて平四郎を幻惑した。


 ソフィアは平四郎の不思議な技についていくつもの質問をする。いつもに比べると饒舌だった。故郷を離れて5年。敵を追い求めて地球を半周してきたソフィアは目的を達することができ高揚していた。しかし、馬を進めるうちにその興奮も冷めてくる。


 館の前に馬を止め、飛び降りた平四郎はソフィアに手を差し伸べた。ためらいを見せたソフィアに平四郎は言う。

「私のところにいる者は医術の心得がある。大事にならないよう足首を診させよう」

 ソフィアは平四郎の手を取るとふわっと着地した。


 鉄心が診察し軽いねん挫ということが分かる。赤松家秘伝の膏薬を張ると平四郎はソフィアを誘った。

「本懐を遂げたのだ。お祝いに熱い珈琲を馳走したい」

 テラスに置かれた卓子にソフィアを座らせる。


 だいぶ傾いたものの満月が冴え冴えとテラスを照らしていた。鉄心が2人分の珈琲を運んでくると館の中に消える。2人は無言でその香気と温もりを楽しんだ。

「ミス・クリステア。その……。敵はとられたわけだが、故郷に帰られるのか?」

 先ほどまでの颯爽とした姿は消え、平四郎は拙い英語で問いかける。


 ソフィアは月明かりに照らされる瀬戸内海の景色を眺めていたが、視線を平四郎に戻した。

「ここは美しいところですね」

 質問に答えるわけでもなく、ゆっくりと息を吐く。


「ミスター・アークマックのお陰で、兄の敵の狼男を倒すことができ感謝している。故郷を離れるときは一生かけて敵を追うつもりだった。その後のことは何も考えていなかったので正直に言うと戸惑っている」

 そこでソフィアはニコリと笑った。狼男と対峙していたときの姿からは想像もできない可愛らしい笑みに平四郎の心臓は鼓動を早くする。


「私の家族は今はスコットランドにいるけれど、元々は東欧の出身なの。黒く深い森が広がるその場所では、このように言われているわ」

 言葉を切ったソフィアの目がいたずらっぽい光を称える。

「月光の下で珈琲を誘うのは求愛の言葉なのよ。ご存じだった?」


 顔を赤らめた平四郎がおずおずとソフィアの手を取る姿を見ているのは、夜空の星と丸い月だけだった。

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